契約書は婚姻届

そうだ、温泉へ行こう! 02

『大樹さん、早く、早く行きましょう!』
 昨日、初めての老舗温泉旅館に興奮し、子供の様にはしゃいでいた響子。
 一晩経った今日も、昼間は大樹と共に外出し、普段は食べる事の無い珍しい料理を食べたり、友人達への土産を買ったりと旅行を満喫していた。
 しかし夜になった今、彼女はすっかりへそを曲げている。
「響子ちゃーん、ほらジュース買ってきたよー」
 大樹は、自動販売機で買った缶ジュースを手に、夫婦で宿泊している離れの部屋へ戻ってきた。そして片手に持ったオレンジジュースを、布団の上に座る妻の前へ差し出す。
「…………」
 そんな夫の行動に、響子はちらりと差し出された缶ジュースへ視線を向けるも、何も答える事無くすぐに視線をまったく別の方へ向けた。
「はあ……一体どうしちゃったの? 勝負は響子ちゃんの勝ちなんだよ?」
 突然不機嫌になってしまった妻を目の前に、大樹はどうしたものかと困り果てていた。
 響子が何故こんなにも夫を無視しているのか。それは、とある出来事が原因だった。
 普段は食べない手の込んだ料理に舌鼓を打ち、天然温泉で今日一日の疲れを癒し、つい数十分前まで二人共満足げな様子だった。
『お、遊技場なんてあるんだ?』
 自分達が宿泊する離れへ戻る途中、大樹は偶然、遊技場と書かれた方向を指示するプレートを発見したのだ。
 少しだけ覗いてみようという夫の言葉に頷き、響子は大樹と共に遊技場へと足をのばした。
 昨夜は長時間の運転で疲れていたため、ゆっくりと旅館の中を見て回る事が出来なかった。明日になれば、自分達はここを離れ住み慣れた家へと帰っていく。
 温泉や料理の質、そして従業員達の接客態度などはどれも一流で、心から旅行を満喫出来るものばかりだった。響子と大樹の間には、既にまた機会を見つけてこの旅館に泊まろうかという話さえ出ている。
 残り時間はあと少し。しばらくは来られなくなる旅館を十分に満喫してから家路につきたいと、言葉を交わさずとも二人は同じ事を思った。
 案内板に従いやってきた遊技場。そこには、ビリヤードや対戦型のゲーム機などが設置されており、子供から大人まで遊べそうな空間になっていた。
 二人以外に宿泊客の姿は見えず、響子は先を歩く大樹の後に続いて室内を入ると、物珍しそうに室内を見回した。
『随分色々あるな……っと、卓球台まであるのか』
 その時、不意に大樹が遊技場奥に設置されている卓球台を見つけた。卓球台をその視界に捉えた彼の口元が、僅かに笑みを浮かべる。
『温泉と言えば、やっぱり卓球でしょう! 響子ちゃん卓球やろう。風呂上りのジュースをかけて勝負しよう!』
 何かのスイッチが入ったように、大樹は目を輝かせ、妻へ卓球勝負を持ち掛けた。
 綺麗に汗を流した風呂上りという状況に加え、二人共今は動きにくい浴衣姿。そして、元々運動が苦手な響子は、一瞬夫の提案に返答を躊躇する。
 ここで自分が首を横に振れば、きっと大樹は無理強いして来ないはずだ。しかし、楽しそうな夫の姿を目にし、響子はいつの間にか首を縦に振っていた。
 その後、一回の勝負は五点先取した方が勝ち、そしてそれを三回、先に十五点勝ち取った方が勝者というルールを決めた二人は、缶ジュースを賭け勝負を始めた。
 最初の五点は大樹が先取したが、その後、響子も徐々に点を取れる場面が増えて行き、最終的な勝者は響子となった。
 負けた方が勝者にジュースを奢る。なんとも子供っぽい勝負だが、実際卓球対決に勝利した響子は、夫の奢りでジュースが飲める。
 普通なら、勝利した事に喜び、嬉しそうに笑みを浮かべる場面なのだが、今大樹の目の前に座る響子は、不貞腐れた子供の様にそっぽを向いている。
 大樹は、今日一日の行動を必死に思い出し、何か妻の気に障るような事をしてしまったかと悩むが、生憎そんな記憶は一切無かった。
「……ですか」
 二人の間にしばし沈黙が続き、その静けさに耐え切れず先に音を上げたのは、妻である響子だった。
「へっ?」
 テーブルの上に置いた買ったばかりの缶ジュースの縁に指を置き、カタカタと揺らしていた大樹は、不意に聞こえた言葉を理解出来ず、思わず首を傾げ聞き返した。
 すると、今までそっぽを向いていたはずの響子が、何故か顔を伏せ、モジモジと居心地が悪そうに座っている姿が目に入る。
 妻の声がよく聞こえるようにと、大樹は缶ジュースから手を離し、両手を床につき数十センチの距離を這って彼女の目の前へと移動する。
「……って」
 布団の上に居る妻のもとへ移動し、顔を上げようとした次の瞬間、大樹は頭上から降ってきた何かに頭を叩かれたような軽い痛みを感じた。
 一体何だと、下を向いていた視線を恐る恐る上へ上げれば、そこには真っ赤な顔で夫を見つめ、右手を彼の方へ伸ばしている妻の姿があった。
 赤くなり、右手を自分の方へ伸ばす妻の態度の意味を理解出来ず、どういう事だろうと、彼は更に首を傾げる。
 その時、再び頭に感じた痛み。その直前、妻の右腕が上下に動いた様子を目にし、大樹はこの時、自分がようやく響子に頭を叩かれているのだと理解した。
「ズルいんですよ、大樹さんばっかり」
 耳を澄ませていないと聞き逃してしまいそうな程小さな声。
 響子は顔を赤くしたまま下を向き、尚もペシペシと大樹の頭を叩きながら、まるで独り言でも言うように、自分が不機嫌になった原因を呟き始めた。
「えっと……ズルいって言われても、俺……何かしたっけ?」
 ズルいと言われるような事など一切無かったはずだと、大樹は不思議そうに俯く妻を見つめる。
「さっきの卓球。わざと負けたくせに」
 響子は自分を見つめる大樹の顔へ一瞬だけ視線を向けるが、すぐにまた視線を布団へと戻し、自分の中にあったモヤモヤとした気持ちを言葉で吐き出す。
 妻の確信めいた言葉に、大樹は黙ったまま何も答えようとしない。そんな彼の態度が、この発言を肯定するものだと響子は理解した。
 缶ジュースを賭けた卓球勝負を大樹が思い付いたのは、本当に偶然だった。偶然目にした卓球台。温泉と言えば卓球だろうという、なんとも安直すぎる理由からだ。
 せっかく温泉旅館に来たからには、卓球をしなければ勿体ないと思ったのかもしれない。
 そんな単純な思いつきから、彼は妻に卓球勝負を申し込んだ。
『さっきの卓球。わざと負けたくせに』
 先程響子が呟いた言葉。その言葉に図星を突かれた大樹は、何も言い返す事が出来ず黙る事しか出来ない。
 自分から勝負を持ち掛けたというのに、大樹は初めから勝つつもりなど無かった。
 始めは普通に勝負をしていたが、このままだと自分が勝ってしまうと思った大樹は、響子にバレないように手を抜き、時折彼女が打ちやすい場所へ打ち返していた。
 自分が勝った事を純粋に喜んでくれるものとばかり思っていたが、どうやら彼は、自分の妻に対する考えを改めなければいけないらしい。
 うちの会社に勤めてたんだもんな、と妻の頭の回転が速い事を改めて認識し、彼は白旗を上げる事にした。
「わざと負けてごめんなさい」
 大樹は改めて、目の前に座る響子に対し、わざと負けた事を謝罪し頭を下げる。すると、今までずっと頭を叩いていた彼女の手が止まった。
 その事に疑問を感じ、ゆっくりと顔を上げた大樹が目にしたのは、未だ不満げな顔をした妻の姿。
「運動嫌いだって言うくせに運動そこそこ出来るし……通訳出来るくらい英語話せるし……もう、何なんですか、一体」
 そう言って、響子はぷっくりとその柔らかな頬を膨らます。
 卓球勝負でわざと大樹が負けた事に対し、そんな夫の態度が面白くないと不機嫌になったのはもちろんだが、彼女を怒らせている最大の原因は、改めて見せつけられた自分と大樹の差だった。
 大樹と出会って今まで、幾度となく見せつけられた二人の差。その度に彼女は、本当にこの場に居るのが自分でいいのだろうかと、心のどこかで考えてしまう。
 見た目に反して何でも出来る大樹と、それとは正反対に何も出来ない自分。その現実を突きつけられる事が、響子の心を不安にさせていた。
「……クスッ。俺にだって出来ない事あるよ」
 不貞腐れる妻の様子を目にした大樹は、響子が不機嫌になってしまった理由を察したらしい。思わず小さな笑いを零すと、彼は腕を伸ばしすっぽりと妻の小さな身体を包み込むように抱きしめる。
「まず、料理は出来ないでしょー。レンジでチンとか、カップ麺……精々頑張って、目玉焼きとかお好み焼きとか。基本やる事少なくて、尚且つ簡単なやつしか出来ない。その点響子ちゃんは、難しい料理出来るから羨ましいよ。響子ちゃんが家に来た頃、凄かったでしょ? カップ麺のストック」
 大樹の腕の中にすっぽりとおさまった響子は、頭上から聞こえてくる彼の言葉に、ぼんやりと結婚当初の事を思い出す。
 確かに、初めて見た浅生家のキッチンは、目につく食材が食パンと大量のカップ麺しか無かった。キッチンもほとんど使われた形跡が無かったような気がする。
「響子ちゃんが居なかったら、俺今後一生まともな飯食えない気がする」
 自信満々に言いきってしまうその声に、響子は思わず呆れ、大樹の胸にくっつけていた額を離し夫の顔を見上げる。
「そんな事堂々と言ってどうするんですか。自慢する事じゃないですよ」
「だって本当の事だもん。響子ちゃんが居なきゃ、俺絶対生きていけない」
 明らかに呆れた様子を見せる妻の様子に、大樹は臆する事無く、自分の意見をはっきりと言いきってしまう。
 本当にこの人は、何故時々聞いている方が恥ずかしくなるような台詞をサラッと口にするのだろう。
 今自分達が居る場所が離れの部屋で良かったと、響子はホッと息を吐きながら、僅かに赤くなった頬を隠すように再び夫の胸へ己の顔を押し付けた。



 ご機嫌斜めだった響子も、夫の妻第一という性格を、これからはしっかりと受け止め対応していかなければいけないと自分に言い聞かせ怒りをおさめた。
 最後に、今後また何かを賭けて勝負をする時、絶対に手を抜かない事を大樹に約束させ、この件は一件落着という事で終わりとなった。
 少しぬるくなってしまった缶ジュースを飲みながら、部屋に設置されたテレビを見ていた二人。
 既に中身はすべて飲み干してしまったのか、今はテーブルの上に空き缶が二つ仲良く並んでいる。
「…………」
 のんびりとテレビを見ていたはずの響子の意識は、現在テレビ画面に流れている番組ではなく、何故か自分の背後へ向けられていた。
 自宅のリビングで寛いでいるかのように、ちゃっかり己の足の間に妻を座らせ、背後から抱きしめた状態で上機嫌にテレビを見ていた大樹。
 旅先に来てまでこの体勢かと響子は驚いたが、先程の一件があるためあまり強く言えず、大樹の好きにさせようと大人しく夫の腕の中でテレビを見ていた。
 しばらくすれば、テレビから流れるバラエティ番組に夢中になり、椅子の背もたれ代わりと言わんばかりに夫の胸に寄り掛かりながら夜の穏やかな一時を味わっていた響子。
 そんな響子が不意に感じた違和感。最初は気のせいかとも思っていたが、それは徐々に確信に変わり、今ではテレビより背後へ意識を集中してしまう。
「……っ。……んっ」
 不意に首筋へ感じたぬめりとした感覚に、思わず声が漏れ身体が震える。
 数分、否十数分前からかもしれない。響子は時折、首に何かが触れる感覚を感じ始めた。
 家のリビングでテレビを見ている時、大樹はテレビに飽きてしまうと、子供の様に響子へちょっかいを出す事が度々あった。
 最初はその度に注意をしていた響子も、いちいち注意するのが面倒になり、今では夫の好きにさせる事がほとんどだ。
 そのちょっかいは、妻の頭や肩の上に己の顎を軽く乗せてみたり、妻の手を取って己の手と繋いでみたりと、まるで小学生の子供が母親に甘えている様なものばかり。
 以前、大樹の事をよく知る誠司から、大きな子供だと思えばいいと言われた事があるが、本当にその通りだと響子は激しく同意したくなった。
 本当に母親になった気分になる事も多いが、大樹に甘えられる事は響子にとってまったく苦痛では無かった。それどころか、少しばかり恥ずかしさはあるものの、嬉しいとさえ感じていたのだ。
 今日もいつものように、テレビ番組に飽きた大樹が、自分にちょっかいを出してきたのだとばかり思っていたが、何かが違う事に響子はようやく気付いた。
 いつもは下ろしている髪を、風呂上りで結い上げているため、露になった首筋。今日の夫は、何故かそこばかりを狙っている気がする。
 指で突かれたり、息を吹きかけたりと、またいつものが始まったと思っていた響子。
 しかし、たった今感じた感覚は、明らかにいつもの悪戯とは違う。あれは、夫が自分の舌で妻の体を舐める時の感覚だと彼女はすぐに気付いた。
「大樹さん、何して……ひゃっ」
 悪戯でも流石にやりすぎだ。背後に居る夫へ声を掛け響子が振り返ろうとした次の瞬間、今度は彼女の耳朶に大樹の舌が伸びた。
「もう、何やって……ん、っ」
 大樹の舌は耳朶から上へと移動し、舌先が妻の耳の輪郭をなぞる様に這っていく。
 その感覚に、響子はくすぐったいとその場から逃げようとするが、しっかりとお腹に回った夫の腕のせいで逃げる事は出来ない。
 夫の舌が耳を這う度、クチュクチュと水音がダイレクトに聞こえ、響子の脳を刺激する。そして彼女は不意に、自分のお尻に感じる違和感に気付いた。
 大樹に抱きしめられ、身体を密着させた状態の今、夫の体温を感じる事は何も不思議では無い。しかし、尻の辺りがいつもと違う熱を感じてしまう。
「響子ちゃん……ダメ?」
「っ!」
 耳元で囁かれた夫の声に、響子は反射的に身体を振わせる。
 いつもより僅かに掠れた声、そして熱を含んだ吐息。それは、大樹が妻を求めている何よりの証拠。
 今まで幾度となく大樹に抱かれてきた響子は、すぐに夫が自分を求めていると理解した。
「ここ、家じゃないんですから……っ、ダメ、で……あっ」
 恥ずかしさに顔を熱くさせながら、響子は駄目だと必死に首を横に振る。しかし、彼女の身体は既に夫の熱に浮かされ、その身を熱くさせていた。
 今まで響子の腹部へ回されていた大樹の片手は、いつの間にか彼女の胸へ移動し、浴衣越しにゆっくりと柔らかな乳房を揉み始める。
 風呂上りのためブラジャーをつけていない乳房が大樹の手によって形を変えていく。その度、先端の突起が浴衣に擦れ、徐々にその存在を主張し始めた。
 大樹から与えられる刺激に声を発してしまった響子は、反射的に己の手で口を覆った。
 ここはいつも自分達が暮らしている家では無い。
 あのマンションなら、防音対策がしてあるため、多少大きな声を出しても平気だが、今自分達が居る場所で恥ずかしい声など出せるわけが無い。
「……ふ……っ、ん」
 しかし、いくらしっかり口を手で覆っても、妻の体に触れる夫の手が止まる事は無い。何度も繰り返される愛撫に、我慢しようにも僅かに声が漏れてしまう。
「響子ちゃんの感じてる声、聞きたいな。ほら、手取って……」
 妻が必死に声を我慢しようとする姿に、大樹の口元は僅かな笑みを浮かべる。そして彼女の腹部に回していたもう一方の手を外し、声を我慢する響子の口元へと向かわせる。
 そのまま小さな妻の手に己の手を被せ、口元を覆うそれを外させようとするが、響子は真っ赤な顔で嫌だ嫌だと何度も首を横に振る。
 もし自分の恥ずかしい声を、他の旅行客や従業員に聞かれてしまったら。そんな羞恥心が響子を頑なにさせていた。
 本人は頑なに拒絶していても、身体は正直なようで、大樹によって自由になった響子の口からは、僅かに荒くなった吐息が零れる。
「……声、聞かれちゃ……っ」
 夫の愛撫によって、彼が欲しいという本能が徐々に顔を出し始める中、僅かに残った理性が弱々しい声となって響子の口から言葉を紡ぐ。
 背後に居る夫の方へ僅かに顔を向けた響子は、自分を見つめる熱の籠った大樹の視線に更に顔を赤くした。
「大丈夫、ここ離れだから。ちゃんと窓も扉も閉めてるし……ね、いいでしょ? っ」
「んっ」
 大樹は再度響子に確認を取ろうとするが、その答えなど端から聞く気は無いと、小さな彼女の唇を塞いでしまう。
 突然の口付けにピクリと肩を震わせた響子だが、もうこれは抵抗しても無駄だと分かったらしく、窮屈な体勢をなんとかしようと、大樹の足の間でモゾモゾと身体を動かす。
 それに気付いた大樹は、すぐに手助けをし、自分と向き合う形で響子を自分の膝の上に座らせた。
「……旅館の予約、大樹さんが取っておくって言ってたの。……まさか、このために離れ予約したんですか?」
「……エヘッ」
 目の前にある夫の浴衣を掴み、響子はボソボソと不意に湧いた疑問を投げかけた。
 チラリと視線だけを上げ、視界に映った夫のヘラヘラした笑みに、今まで以上に顔を赤くした彼女は、大樹の胸元へ熱くなった顔を押し付けるしかなかった。
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