契約書は婚姻届

そうだ、温泉へ行こう! 01

 自分は水越響子ではなく浅生響子だという事実を、彼女が社員達の前で宣言してから約一ヶ月が経過した。
「うわあ、如何にも老舗って感じの旅館ですね」
 響子は、自分と大樹を出迎えるように佇む温泉旅館の外観を見上げ、感嘆の声を上げる。
「本当だね。あんまり大きくない所だけど、昔から続いてるっ話だし、温泉やサービスはとても良いみたいだよ」
 初めて訪れた温泉旅館に感動する妻の姿を嬉しそうに眺めながら、大樹は運転席を降り、後ろのトランクへ向かうと荷物の入ったバッグを取り出し始めた。



『今度のお正月休み、二人でどこか旅行でも行こうか』
 響子が会社を辞め、専業主婦として生活を始めてから約二週間程経ったある日、大樹が突然旅行へ行こうと言い出した事が始まりだった。
 話を聞けば、既に会社内でクリスマスや正月休みの計画話がチラホラと出始めているらしく、大樹は年末年始を温泉で過ごすという部下の話を聞いたと言っていた。
 その話を聞き、自分も行ってみたくなったと、まるで子供の様に話す夫の姿に、響子は一切嫌な顔をせず頷いた。
 会社を辞める前から、大樹とどこか旅行に出掛けてみたいと思っていた響子。
 海外旅行に行きたいなんて贅沢な事は言わない。家以外の場所、初めて訪れる地で、大樹と二人、ゆっくりした時間を過ごしたかった。
 そんな願いがこんなにも早く叶うなんて。そんな驚きを感じた彼女だったが、すぐに響子の心は嬉しさ、そして大樹と旅行出来る事に対する期待で満たされた。
 その後、夫に許可を取り彼のノートパソコンを拝借した響子は、家事の合間に時間を見つけ、インターネット上で目的地となる温泉旅館を探した。
 しかし、いざ調べてみるとこれがまた大変だった。
 美肌に効果抜群と謳われた温泉を見つけたり、露天風呂から絶景が見られるという温泉を見つけたり、その土地の名産品として紹介されている食べ物が魅力的だったり。
 調べれば調べる程、行ってみたい場所が増える一方で、旅行先の候補地を一つに絞る事など彼女には出来なかった。
『今日ね、営業部の部長からいい温泉があるって教えてもらったんだ。その人温泉大好きで、今まで色んな所行ってるんだって』
 そんなある日、会社で大量の仕事を押し付けられた方が楽じゃないかと頭を悩ませていた響子に、大樹はいい温泉情報をゲットしたと嬉しそうに報告してきた。
『意外と近場なんですね』
『うん、これなら車で行けるね』
 夕食後、リビングにあるローテーブルの上に置いたノートパソコンで、教えられたという旅館のホームページを二人で眺めた。
『大樹さん、年末年始の道路状況ナメてません? 毎年テレビでやってるじゃないですか、渋滞情報』
『ナメてないナメてない。だってさ、新幹線で行く程の距離でも無いし……そもそも、今からじゃ新幹線のチケット絶対取れないと思うから。電車乗り継げば行けない事も無いけど……電車、まだ乗りたくないでしょ?』
『……っ』
 まるで子供を抱く親の様に、響子の背後を陣取って床の上に座り、スッと両腕を前へ回せば愛しい妻を抱きしめられる体勢を取っていた大樹。
 時折目の前にある妻の頭や肩の上に自分の顎を乗せ、彼はじゃれつきながらパソコンを弄っていた。
 そんな彼が不意に発した問いに、響子は反射的に肩を揺らす。
『いやいやー、離せって言われて大人しく離す馬鹿はいないって』
『……泣いていい、思いっきり。……誰も、居ないから』
 大樹と結婚し、このマンションへ来てまだ間もない頃の出来事を思い出す。電車内で痴漢の被害に遭った響子。そんな彼女を助けてくれたのは、夫である大樹だった。
 あれから約二年が経過しているが、響子はあの一件以来一度も電車に乗れていない。
 あれはただの偶然。ほんの少し身体を触られただけ、あんな事は滅多に起きる事じゃない。そう何度も自分に言い聞かせ、休日に電車へ乗ろうと何度も挑戦してきた。
 しかし、本人の気付かない所で、あの事件は彼女の心に確実な傷を残していたらしく、毎度響子の両足をホームへ張りつけた。
 一度だけ、勢いに任せ電車内へ飛び乗った事があるが、心の奥底から湧き上がる不安に耐え切れず、気付けば響子は次の駅で電車を降りていた。あんな状況では、電車に乗れたとは言い難い。
『ゆっくりでいいから、ね? 出来そうな時にチャレンジしてみて。なんなら、俺が一緒に乗るからさ』
 子供に言い聞かせるように腕の中に座る妻を抱きしめ、まるで振り子のように左右へゆらゆら身体を揺らしながら、大丈夫大丈夫と大樹は言葉を繰り返した。
 夫の言葉に、僅かに感じていた緊張が解けた響子は、揺り籠と化した夫の腕の中で力を抜き、身体をすぐ後ろにある彼の胸へ預ける。
 いつも最上級の優しさをくれる夫。その優しさが自分を駄目にするのではと思う反面、与えられた瞬間自分はとても救われる。
『高速道路と普通の道と……どっちが混んでるんでしょうね』
『どっちだろうね。年末年始どこへ行くにしても、高速は混んでるだろうし……下手したら、普通の道行くより渋滞酷いかも。高速の意味まったく無くなりそう』
『ドライブだと思えばいいですよ。朝に出発して、休憩取りつつ移動して……夕方に着ければ上出来だと思います』
『いいね、それ。途中で美味しい物食べたい。ご当地なご飯!』
『旅館のご飯食べられる程度には、お腹空かせておいてくださいね』
 その後二人は、温泉旅行への期待に心躍らせ、期待で膨らむ会話をしばらく楽しんだ。
 本当にこの人と結婚してよかった。そんな想いを胸に、響子は自分を抱きしめる大樹の手にそっと自分の手を重ねた。



 響子は、今までに何度か友人と国内旅行をした経験はあるが、今回のような老舗と言われる旅館への宿泊は初めてだった。
 そのせいか、旅館へ到着してからの彼女はいつに無くテンションが高い。
「大樹さん、早く、早く行きましょう!」
 トランクから荷物を下ろしていた大樹のもとへ駆け寄った彼女は、手早く自分の荷物を持ち、早く行こうと夫を急かす。そして、そのままパタパタと一足先にその場を駆け出した。
 まるで子供の様にはしゃぐ妻の様子を目にし、大樹は一人嬉しそうに目を細めた。
「よかった。喜んでくれて」
 大樹が旅行へ行きたいと言い出した事がきっかけで決まった今回の旅。しかし、彼は自分の為にでは無く、響子の為を思い今回のプランを提案した。
 妻と旅へ行きたいという気持ちは、もちろん彼の中にあった。
 しかしそれ以上に、これまで様々な面で苦労をかけてしまった響子を癒したい、少しでも楽しいと思える事をしてあげたいと、大樹は以前から考えていた。
 妻のために旅行へ行きたいんだと言っても、きっと彼女は素直に頷かず遠慮するに決まっている。それなら、自分が行きたいと我が侭を言った事にすればいい。
 そんな夫の気持ちなど、響子は今も、きっとこの先も気付く事は無いのだろう。
「大樹さーん」
 駐車場から数メートル離れた所で立ち止まり、早く来いと夫を手招きする響子の姿。
 そんな妻が可愛いと、気を抜けば緩みそうになる頬へ気を配りながら、トランクを閉め鍵を掛けた大樹は、自身の荷物を持ち、妻のもとへ急いだ。



 話し合いを重ねた結果、温泉好きな部長のおすすめという事もあり、大樹が情報を持ってきた温泉旅館へ泊まる事にした二人。
 時期が年末年始という事もあり、残り日数が少ない今宿泊の予約は難しいと思っていたが、運良く部屋を取る事が出来た。
「ご予約頂いていた浅生様ですね。お待ちしておりました」
「お世話になります」
 荷物を持ち駐車場から玄関へ向かうと、着物姿の女性が響子達を出迎えてくれた。どうやら彼女は旅館の従業員らしい。
 二人に深々と頭を下げる従業員の姿に、響子と大樹も反射的にお辞儀をする。
「お部屋にご案内いたします。荷物、お預かりしますね」
 玄関で靴を脱ぎ、響子達がスリッパに履き替えた事を確認した従業員の女性が、一瞬床に置かれた荷物へ目をやり、部屋へ案内すると二人に声を掛けた。
「あ、俺の方の荷物重いと思うんで自分で運びます」
 響子と大樹、二人がそれぞれ自分の着替え等を入れて持ってきた荷物。それぞれの持ち手へ女性が手を伸ばしかけた時、不意に大樹が慌てた声を発する。
 正確な年齢まではわからないが、大樹は目の前に居る従業員を自分より年上だと思ったらしく、重い荷物を持たせられないと反射的に声を上げた様だ。
「あははは、大丈夫ですよ。ちょっと重いくらいなんてへっちゃらです」
 すると、従業員は一瞬驚いた様子で大樹を見つめたが、すぐにケラケラと笑い出す。
「大樹さん、こういう時は自分で運ぶなんて言っちゃ駄目です。この人のお仕事なんですから」
 響子は慌てて隣に立つ大樹の脇を小突き、従業員の仕事を取るなと小声で注意した。
「あー……またやっちゃった。女の人に重い物持たせるの、なんか申し訳なく思っちゃって。……出張の度に誠司に散々注意されてるんだけど」
 妻に注意された事で、自分の失言に気付いたのか、苦笑しながらやってしまったと大樹は呟く。
 夫婦で買い物へ行く度、大樹はいつも買った物をすべて持ってくれている。
 響子は、そんな彼の行動を、自分達が夫婦だからなのかと思っていたが、実際には違ったらしい。
 元々他人に優しい所がある大樹は、相手が妻であろうと他人であろうと、女性に重い荷物を持たせるという行為をあまり良く思っていない様だ。
 これまで社会人生活を送り、友人誠司と共に会社のために働いてきた。当然出張などもたくさんあったはずだ。
 どうやらその度に、大樹は今の様な事をやらかしているらしく、毎回誠司がそんな彼の行動を咎めるというやりとりが定番化しているらしい。
 その光景が容易に想像出来てしまう自分が怖いと、響子は僅かに苦笑する。
「それにしても……二泊の旅行で荷物が重くなるって……一体何入れてきたんですか」
 先程、大樹がかなり慌てていた事を思い出し、響子は一体何を持ってきたのだと彼に尋ねる。
「……お盆の事があったからさ、今回も念のためにパソコン持って行けって誠司が煩かったんだよ」
 そんな妻の問いに、大樹は不満そうに口を尖らせ、荷物が重くなった経緯について、簡潔に答えを返した。
「あー……」
 返ってきた答えを聞き、響子は妙に納得した気分になる。どうやら今回は、お盆の一件もあり、夫は大人しく誠司の言う事を聞いたらしい。
 実際に仕事をしているわけでは無いが、仕事に必用なノートパソコンを常に持ち歩かされての旅行という事で、彼は少々ご立腹な様だ。
「コホン。それでは、改めてお部屋にご案内しますね」
 場の空気を変えるように、従業員の女性が軽く咳払いをし、にこりと笑みを浮かべ、今度こそ響子達の荷物を持ち上げる。
 そんな彼女の姿に慌てた響子は、すみませんと頭を下げ、大樹も妻に続き、申し訳なさそうな顔ですみませんと声を発した。



 響子達は、部屋へ案内すると言う従業員の後に続き歩き出す。
 歩きながら周囲を見回せば、他の客に対応している従業員や、電話で何か話をしている従業員の姿も目に入った。
 やはり評判の良い旅館なんだろうと響子は感心し、行儀が悪いと知りながら、思わずキョロキョロと周囲へ視線を走らせる。
「おーい、君江きみえ
 その時、女性の名を呼ぶ男性の声が聞こえ、不意に響子達の前を歩いていた女性の足が止まった。
 突然目の前で立ち止まった彼女にぶつからない様にと、響子と大樹も慌てて歩みを止める。一体どうしたのだと、二人は互いの顔を見合い首を傾げた。
 すると次の瞬間、受付の方から男性が一人走ってくる姿が見えた。旅館の名前が入った半纏を身につけた、少々頭の寂しさを感じてしまう五十代くらいの男性だ。
「ちょっとあんた。お客さん居るんだから、大きな声で名前呼ばないでよ」
 突如自分の前にやってきた男性に驚いた様子を見せるも、荷物を持った女性従業員はすぐに男の行動を咎める。
 彼女の反応を見た響子は、この従業員は君江さんという名前なのかと理解した。
「へっ? ああ、お客様。すみません、急に」
 女性を君江と呼び近付いてきた半纏姿の男は、彼女の発言でようやく大樹達の存在に気付いたらしく、申し訳なさそうに何度も頭を下げた。
「大丈夫ですよ。何か用件があるんでしたら言ってあげてください」
 恐縮する男の姿に嫌な顔一つ見せず、大樹は、用事があるなら自分達に構う事は無いと言った。夫の言葉に同意するように、響子も笑顔を浮かべ頷く。
「本当にすみません。すぐに済みますので」
 二人の反応に男はペコペコと頭を下げ、改めて君江の方へ顔を向けた。
「田中がどこにいるか知ってるか? さっきから探してるんだが、どこにも見当たらなくて」
 男は眉間に皺を寄せながら、田中という人物を探していると彼女に伝える。彼の口振りから察するに、田中という人物はこの旅館の関係者の様だ。
「お客様が欲しがってた煙草が無かったから、田中君外へ買いに出てるわよ」
「本当か!? なんでこうタイミングが悪いんだ」
 自身の疑問に対する返答を聞き、男は額に手を当て溜息を吐いた。
「田中君がどうしたのよ」
「今あっちで、外国の方がお見えになってるんだが……今日来てる奴らの中で英語話せるのって田中だけだろ? 俺達じゃわかんねーんだよ、何言ってるか」
 そう言って男は、後方のとある場所を指差す。そして彼が指し示す方向へ、君江、大樹、響子とそれぞれが視線を向けた。
 四人の視線の先には、男性二人の姿が確認出来る。一人は金髪に目鼻立ちがはっきりとした外国人、もう一人はこの場に居る男と同じ、旅館の半纏を身につけた男だ。
 二人は何やら会話をしているみたいだが、その内容が噛み合っていない事は、離れた場所に居る響子達からも一目瞭然だった。
 二人共困り顔で口を開き声を発している。半纏姿の男へ視線を向ければ、身振り手振りで何かを伝えようとしているが、その行動が成功しているかすら分からない。
 英語が話せる従業員『田中』を探しているというのは、あの状況を解決するためかと、響子は納得し現在の状況を理解した。
「あの……良かったら、俺が通訳しましょうか?」
 自分の学生レベルな英語力では、この状況を解決する事は出来ない。そう思い、早く英語が話せる田中さんが戻ってくればいいのにと願っていた響子の耳に、不意に夫の声が聞こえた。
「えっ?」
「はい?」
 その声に、響子は自分の隣に佇む男を思わず見上げ、旅館の従業員二人も不思議そうに大樹の顔を見上げる。
「少しくらいなら英語話せるんで、良かったら俺通訳しますよ」
「で、ですが……お客様にご迷惑では」
「全然迷惑じゃないですって。英語が出来る、えっと……田中君? 彼がいつ帰ってくるかも分かんないですし。ささ、行きましょう行きましょう」
 大樹に迷惑を掛けてしまうという君江の言葉を聞き、顔の前で右手をパタパタと左右に振りながら大丈夫だと言った大樹は、半纏を纏った男を連れ、即座に外国人男性のもとへ向かっていった。
「…………」
 響子は唖然とした表情を浮かべ、ただ黙って離れて行く夫の後ろ姿を見送った。
 大樹が英語を話せるなど今まで知らなかった。本人は少しくらいと言っていたが、自分から通訳を申し出る程だ、響子と同じ学生レベルというわけでは無いだろう。
 駄目オヤジという印象を植え付けられた初対面から時間は確実に過ぎて行き、自分は今まで何度、浅生大樹という男に驚かされたのかわからない。
 見た目とは真逆すぎる大樹のハイスペックさに、これから先も驚かされていくのかと、響子は僅かに頬を引き攣らせる。
「素敵な旦那様ですね」
「へっ?」
 その時、不意に聞こえた女性の声に驚き、響子は慌てて声のするへ振り返る。そこには、先程からずっと自分達の荷物を持ってくれている君江が、ニコニコと笑みを浮かべ響子を見つめていた。
「私、ここで働いて長いんですけど……荷物が重いから自分で持ちます、なんて言われたの初めてですよ。とても気が利いて、優しくて……私の主人にも見習わせたいくらい素敵な旦那様ですね」
「あ、ありがとう……ございます」
 夫に対する直球の褒め言葉に、響子は戸惑いながらも、ありがとうと言葉を返す。
 褒められたのは自分ではなく夫である大樹だ。それを分かっていても、『素敵な旦那様』と自分の夫を褒めてもらった事が嬉しい。
 嬉しさと同時に照れにも似た恥ずかしさを感じ、響子は一人、薄らと赤く頬を染めたのだった。
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