契約書は婚姻届

そうだ、温泉へ行こう! 03

 大樹達が今回宿泊する事になった場所は、老舗旅館という事もあり、普通の温泉旅館に泊まるより諸々の料金が高めに設定されている。
 ホームページで目にした宿泊料金に、今までごく普通の会社員として働いてきた響子は驚きを隠せなかった。
 友人達と旅行する時、出来るだけ安い宿泊先を探していた彼女にとって、とても衝撃的だった様だ。
 最初は乗り気だった響子も、初めて見る額の宿泊料金に思わず躊躇してしまった。
『いつもは無駄遣いしてないし……せっかくの旅行なんだから、たまには贅沢しても大丈夫だよ』
 そう言って微笑む大樹。そんな夫の言葉に、響子は今回甘える事にしたのだ。
 しかし、旅館の予約は自分がやっておくと言った夫の言葉にまで甘えてしまった事に、響子は心底後悔している。
 まさか大樹が離れを予約しているとは思わなかった。旅館に到着し部屋へ通された後、彼女は何故離れを予約したのかと夫に疑問を投げかけた。
『普通の部屋よりは高いけど……部屋に居る時は静かにのんびりしたいって思ってさ』
 すぐに返ってきた答えに、彼女は何も違和感を感じる事無く、あっさりとその言葉を信じてしまった。
 大樹の策略により、離れに宿泊している本当の理由が判明した今、普通ならこの場でお説教タイムへ突入するのだろう。
 しかし、夫を叱りつける気力など今の響子には残っていなかった。彼女が感じているのは、真実を知ってしまった事による恥ずかしさ、そして大樹によって徐々に引き出されつつある己の熱の二つ。
「……っ、は……ん、ん」
 より一層妻を求めるように、大樹は己の膝の上に座る響子を力いっぱい抱きしめ、その唇を激しく奪った。
 唇に吸い付き、熱くなった舌で彼女の頬の内側、歯の裏側を撫でるように愛撫する。
 まるで自分の熱を分け与えるかのように、戸惑い逃げる響子の舌を絡め取り、クチュクチュと水音を立て、妻の聴覚を刺激する。
「んっ……ん、はぁ……」
 夫からの激しい口付け、ダイレクトに脳へ伝わる水音、そのどれもが響子の身体を更に熱くさせた。
 ようやく満足したとばかりに、大樹がゆっくりと顔を離す。そして次の瞬間、視界に映った妻の姿に、大樹は無意識にゴクリと喉を鳴らした。
 僅かに開きどちらのとも分からぬ唾液で濡れた唇、上気した頬と呼吸を整えようと何度も上下する華奢な肩、激しく抱きしめあったせいか浴衣は乱れ、白く柔らかそうな肩と足が露になっている。
 更に、僅かに潤んだ瞳で自分を見つめる妻。そんな響子の姿に、大樹は激しい興奮を覚えた。
「今日の響子ちゃん、いつもよりエロい気がする」
「そんな事……あっ」
 大樹の言葉を慌てて否定しようとした響子。しかしその言葉は、浴衣の裾が捲れ露になった白い足へ伸びた熱い掌によって遮られてしまう。
 夫の熱くなった手が、何度も身体を撫で上げる。
 テレビを見ていた時とは違い、すっかり熱くなった響子の身体。
 風呂上りのせいなのか、卓球で体を動かしたせいなのか、それとも夫の熱に浮かされたせいなのか。直接の原因など、既に分からなくなっていた。
 妻の小さな唇を何度も啄むように口付けながら、大樹は片手は未だ彼女の身体を撫でまわし、もう片方の手で浴衣の帯を掴む。
「んっ……だい、き……ん、はぁ」
 唇を僅かに離す度響子の甘い吐息が零れ、大樹が肌を撫でる度その身体は僅かに震える。
 初めて自宅以外の場所で妻を求めた事、そして今自分達が居る場所を考えると、恥ずかしがり屋な響子は、きっと自分の求めに応じようとはしないだろう。そう大樹は考えていた。
 しかし、小さな抵抗は見せているが、本気で嫌がらない妻の様子に、大樹の口元は自然と緩んでいた。
 夫の肩を両手で掴み、頬を染め口付けに応えようとする姿が愛おしい。そんな妻に更なる快楽を与えようと、大樹は響子の身体を触る事を一旦止め、ゆっくりと彼女が身につける浴衣の帯を解き始める。
 これからの時間にはもう不要だと、傍にあったリモコンのボタンを押し、テレビの電源を消す事も忘れなかった。
「……ん?」
 その時、帯を掴む手に触れるものを感じ、大樹は己の視線を帯の結び目から自身の手へ向ける。そこには、帯を掴む手に触れる自分のものとは違う手があった。
「今日、は……私が、やります」
 これまでで一番かもしれないと思う程顔を赤くし、夫の手を掴み自分がやると訴える響子の姿に、大樹はただ驚くばかりだった。



 突然の妻の発言に驚いた大樹だったが、その意味を知った彼は更に驚かされる事となった。
『だ、大樹さんが……今日は、横になってください』
 互いに浴衣を脱ぎ、一糸纏わぬ姿となった途端、響子が発したこの言葉。
 今まで幾度となく身体を重ねてきた二人だが、響子は毎回翻弄されるまま乱れるばかりで、いつも主導権を握っていたのは大樹だった。
 しかし、今日の響子はいつもと様子が違うらしい。
 布団に横たわる夫の上に跨り、彼の熱く固くなったものをゆっくりと己の中へ迎え入れるように腰を落とす。
「……っ、は、ぁ……ん、あっ」
「響子ちゃ、っ……無理しなくても、いいんだよ?」
 無理をするなと大樹が声をかけるが、響子は無言で首を横に振る。
 夫の少し汗ばんだ腹部に両手をついて身体を支え、響子は尚もゆっくりと腰を落としていく。
 初めての経験に、恥ずかしさのせいか全身が燃えるように熱い。
 しかしそれと同時に、いつも自分の中を激しく突き上げる大樹の熱を、自らのみ込んでいる様なこの状況に少なからず興奮してしまっている自分に気付く。
 まだ半分程しか入っていないにも関わらず、避妊具越しでも分かる程熱さを感じる。大樹も興奮しているのかもしれない。そう思うと、響子は素直に嬉しかった。
 いつも大樹に翻弄されてばかりの彼女だが、その事に関して、嫌だと思った事は一度も無い。しかし、少なからず悔しい気持ちが彼女の中に芽生え蓄積されていった。
 セックスをする時、いつも大樹は妻を気にかけ、自分の快楽を得ると共に、それ以上のものを彼女に与え続けた。
 快感、羞恥、興奮、様々な感情を夫によって引き出される日々。そんな日々を送る中で、いつも心の片隅に不満を感じていた響子。
 たまには大樹の驚き慌てる顔が見てみたい。そんな感情と、温泉旅館という非日常的な場所に居る解放感が、彼女の大胆さを引き出しているのかもしれない。
「……あ、……大樹、さ……っ、ふぁ、あ……あぁっ」
 腰を落とす度に全身を襲う快感に声を震わせながら、響子は夫の名を口にする。身体に力を入れ動く度、大樹の熱が中で擦れ、己の中から溢れる愛液が生み出す卑猥な水音が聞こえてきた。
 ようやく夫の熱をすべてのみ込み、天井を見つめていた視線をゆっくり下ろせば、自分を見上げる夫の顔が目に入る。いつもと違う状況に興奮したのか、響子は無意識に夫の熱を締め付けた。
「……うっ、響子ちゃん、あんまり締めないでっ」
 突如自身の熱を締め付けられた事に顔を歪める大樹。
 額に汗をかき、苦痛に顔を歪める夫の様子を目にした響子は、まるで何かに引っ張られるように、そのまま上半身を倒し大樹の唇に己のそれを重ねる。
「っ、ん……ん、ふ」
 下半身に感じた苦しさに顔を歪める大樹の表情に、彼女は今までに無い程色っぽさを感じた。愛おしそうに両手で大樹の頬を包み込み、何度も口付けを繰り返す。
 繋がったまま夫の上に倒れ込んだせいか、自身の中で存在を主張する熱が新たな快感を引き出していく。時折甘い声を発し、夫の熱を締め付けながら、彼女は夢中になって目の前にある唇を貪った。
 今日は自分が主導権握り、大樹より優位に立った状態で、夫の困惑した表情が見てみたいという気持ちが始まりだった。
 しかし、いざ行為を始めてみれば、感じるのは戸惑いと恥ずかしさばかり。
 今日は自分が動くと言ってしまったため、途中で止める事も出来ず、響子は自身の中にある僅かな知識を引っ張り出し必死に己の体を動かした。
 何度も大樹から無理をするなと言われたが、彼女自身意地になって止めようとはしなかった。
「ん……は、ぁ……大樹さん、きもち、いいですか?」
 唇を離した響子は、大樹の上に横たわったまま、目の前にある夫の顔を見つめ小さく問いかける。その間も、その瞳は愛おしそうに目の前の男を見つめ、ペタペタと赤ん坊のように彼の顔へ触れる。
 最初は意地と羞恥心でいっぱいだった響子の心も、今では溢れ出しそうな程の大樹への想いでいっぱいになっていた。
「ん、気持ちいいよ。途中で何回かイキそうになった」
 妻の問いに答えながら、未だ赤みが残る彼女の頬へ、大樹は唇を寄せる。そして、今も結構我慢してる、と彼は更に言葉を続け苦笑した。
「……今、退きますから。ちょ、ちょっと待ってください」
 苦笑する夫の姿を目にし、響子の中で僅かな理性が戻ってきたらしく、彼女は自分がした今までの大胆な行動の数々が急に恥ずかしくなった。
 慌てて体を起こし夫の上から退こうとするが、腰と背中に太い腕を回され邪魔されてしまう。
「今日は響子ちゃんが頑張ってくれるって言ったじゃない。それなら、最後までしっかりお願いします」
 そう言うと大樹は、俺も手伝うからさ、と言葉を続け、腰を僅かに揺らし響子の中を突き上げる。
「ああっ!」
 不意打ちすぎる夫の動きに響子は一際大きく喘ぎ、まるで力が抜けたように再び大樹の胸へ倒れ込んだ。
「……もう、絶対こんな事しない」
「えー、もうしてくれないの? エッチな響子ちゃん凄い色っぽくて可愛いのに……」
 ますます赤くなる頬の熱を感じながら、まるで己に誓うかのように響子はポツリと呟く。そんな妻の言葉に大樹は不満げな様子だ。
 大樹は純粋に自分の想いを伝えただけだろう。しかし、それを聞いた響子の脳内では、先程まで自分がしてきた淫らな言動の数々が蘇っていく。
 いつもなら絶対にしないであろう行動を起こし、いつもなら絶対口にしないであろう言葉を発した。
「…………」
 恥ずかしさに頬を染め、響子は戸惑う視線を改めて大樹の方へ向ける。その先には、目を細め自分を見つめる夫の顔があった。
 二人の視線があった瞬間、響子は繋がったままの夫の熱を締め付け、大樹は、己の熱が一際強く脈打つのを感じる。
「……こんな、私は……嫌、ですか?」
「嫌なわけ無いでしょ。いつもの響子ちゃんも、エッチな響子ちゃんも……全部大好きだよ」
 こんなはしたない姿を見られてしまったら、嫌われてしまうかもしれない。そんな不安に弱々しい声で問いかける響子。
 不安げな妻の声に、自らの想いを乗せ大樹は優しく目の前にある小さな唇を奪った。
 心の中にあった不安を一掃する夫の言葉に、響子は嬉しそうに目を細め、大樹の口付けを受け入れる。
 そのまま夢中になって口付けを交わし、二人は互いを激しく求め合った。
 口端からは溢れ出た唾液が流れ落ち、舌を絡める度、室内には水音が響き渡る。
「あぁっ、はっ……だい、き……んっ! 大樹さ……好きっ、すき、です……ん、ふっ」
「う、くっ……は、ぁ……俺も、だよ……愛してるよ……っ」
 始めは響子が大樹の上に跨っている状態だったが、いつの間にか体勢は逆転し、響子は大樹に押し倒される形で夫の熱い熱を身体全体で感じていた。
 互いの耳元で愛の言葉を紡ぎ、激しい口付けを交わしながら、二人は夜更けまで互いを求め合った。



 翌日の夕方、響子達が住むマンションのエントランスでは、橋本と西島がいつものように仕事をしていた。
「あ、お帰りなさいませ。浅生様……えっ?」
「お帰りな……響子様! だ、大丈夫ですか!?」
 数時間前、今日は大樹と響子が旅行から帰ってくる日だと話していた二人。エントランスのドアが開き、見知った顔が視界に入った彼らは出迎えの挨拶をしようと口を開いた。
 しかし、二人は最後まで出迎えの挨拶を口にする事無く、その表情はすぐに驚きのものへと変わった。
 何故橋本と西島が驚いているのか。その理由は、旅行から帰ってきた大樹の背に、響子が背負われている状態を目にしたからだ。
「どこか怪我を? 具合が悪いなら、すぐに病院へ行かれた方が」
 自分達が親しくしているという事もあり、夫に背負われた響子の姿を目にし、コンシェルジュ達は酷く驚いた様子だ。
「あー、大丈夫大丈夫。病気とかじゃないから。ちょっと慣れない事して筋肉痛になっただけ……っだあ!」
 心配そうに傍へ駆け寄ってきた橋本達の姿に、大樹は苦笑しながら心配いらないと答えた。
 すると次の瞬間、大樹は突如後頭部に感じた痛みに声を上げる。かなりの痛みだったのか、少しばかり涙目になっていた。
 大樹が突如後頭部に感じた痛みの原因。それは、響子が咄嗟に夫の後頭部に頭突きをし、妻の醜態をペラペラと喋りそうになった大樹を黙らせたからだ。
「…………」
「…………」
 その様子をバッチリ目撃してしまった橋本達は、浅生夫婦にかける言葉が見つからず、唖然としたままその場に佇むしかない。
「こ、こっちだって痛いんです。早く行ってください」
「……はい」
 夫に背負われ、その首元に赤くなった顔を埋めたままボソボソと歩きだせと指示をする響子。そんな妻の言葉に、大樹は大人しく従い、エレベーターへ向かい歩き出す。
 ボタンを押すとすぐに扉が開き、響子達を乗せたエレベーターはゆっくりと上の階へ上がっていった。
「旅行、楽しかったようですね」
「は、はぁ……そう、です……ね?」
 浅生夫婦が乗り込んだエレベーターを見つめ、橋本は良かった良かったと一人納得した様子で頷く。そんな彼の隣で、西島は僅かに口元を引き攣らせ、曖昧な返事を返すのだった。
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