契約書は婚姻届
9.変わり者な旦那様
人気の無い公園で散々泣き続けた響子は、大樹と共に公園近所に見つけたハンバーガーショップへとやってきた。
二人は、注文した物が乗ったトレイを置いたテーブルを挟むように席につく。
先に大樹が通路側の席へ座ったのを見た響子は、空いている窓側の席へ腰かけた。
「……あの。……見苦しい姿をお見せてして……すみません」
「えっ? 何の事? 俺何も見てないけど。……お、これ結構美味いな」
席に座った響子が一番に口にしたのは謝罪の言葉だった。
しかし、彼女の謝罪に不思議そうな顔をしながら、大樹は遅めの昼食にと買った照り焼きバーガーを頬張る。
そんな彼の言動に、響子は唖然とするしかなかった。
この人は一体何をとぼけているのだろう。
『……泣いていい、思いっきり。……誰も、居ないから』
自分が被っていたキャップを無理矢理被せ、あんな事まで言っておいて何故彼はとぼけるのか。
響子の目の前で、美味しそうに照り焼きバーガーを頬張る無精ひげを生やしたオヤジは、現在戸籍上では自分の夫。
出会ってから最低としか思えないような言動しか目にしてこなかったのに、今日の大樹の姿はまるで別人のようだ。
響子はチラリと自分の視界を狭める物体に視線を向ける。それは大樹に無理矢理被らされた黒いキャップ。
思いっきり泣いたせいで、彼女の目元は現在大変な事になっている。それを隠すためにと、響子は今も大樹のキャップを被ったまま。
サイズも合わず服装にも合っていないため、正直早く返したい。
しかし、今の彼女にとって、それ以上に自分の目元を他人に見られる事の方が耐えられなかった。
サイズが合わないお陰で目元が隠れ、先程まで泣いていた酷い目元を人に見られる事は無い。
こうしてキャップを被っていれば、目元を見られる事も無く、誰も自分の正体などわかるはずは無いと、一安心し小さく息を吐く。
「…………」
ようやく落ち着き始めた響子は、席に座ってからずっと食事を続ける目の前の男へ視線を向ける。
痴漢に遭った時、運良く大樹が同じ車両に乗っていたおかげで助かった事は事実。
電車を降りてから、ずっと自分と一緒に居てくれる彼に、ほんの少し申し訳なさを感じる。
『この後……誰かと約束でもしてるの?』
あの時駅の構内で彼が口にした問いかけ。今その言葉を、響子は目の前で食事をする男に言いたい。
彼はどこかに行く目的があって電車に乗っていたのではないか。誰かと待ち合わせをしているのではないか。
そう考え始めると、どんどん大樹に対し、申し訳無い気持ちが膨らんでいく。
「もぐもぐ……。……食べないの?」
「へっ?」
泣いてすっきりしたはずの気持ちが再び下降しそうになった時、突然耳に届いた大樹の声に響子は驚き顔を上げた。
「それ……食べないの?」
フライドポテトをつまみ、大樹はもう片方の手で何かを指差す。
彼の指差す先を見れば、そこには響子が注文したハンバーガーが手付かずのまま残っていた。
「い、今食べようと思ってて」
響子は慌ててハンバーガーを手に取り、包み紙を開ける。
食べると言ってしまったが、正直、あまりお腹は空いていなかった。
店内へ入ってすぐ、大樹が注文する姿を目にし、君も何か頼むかと聞かれ注文したメニュー。
ハンバーガーと一番小さいサイズのウーロン茶が入った紙コップが、目の前のトレイに置かれたままになっている事を彼女はすっかり忘れていた。
包み紙を開いたハンバーガーを口元まで持っていくが、響子はそれを食べる事無く手を止める。
「あの……。どうしてあの時、私を助けてくれたんですか?」
響子はハンバーガーを手に持ったまま、ずっと疑問に思っていた事を口にした。
「ん? はって、ふううはすへすへひょ?」
「……は?」
今、大樹は何と言ったんだ。照り焼きバーガーを頬張りながら口を開いた彼の言葉は、正直何を言っているのかさっぱりわからない。
喋るか食べるか、どちらか片方にしてほしい。
思わず聞き返してしまった響子の姿を見て、ちょっと待ってと言いたげに、大樹は空いている方の手を彼女の前に掌を向けてかざす。
口の中に食べ物を含んだ状態で喋られて、理解しあえる人達は存在するのだろうか。
もしかしたら、親子や、長年連れ添った夫婦なら理解出来るかもしれない。だが、生憎自分達はそのどちらにも当てはまらない。
そんな状況では、今大樹が何を喋ったかなど到底理解出来るはずもなかった。
「ふう……。美味かった」
残っていた照り焼きバーガーを全て食べ終わり、アイスコーヒーを飲み満足そうに呟く大樹。
満足そうな彼の顔を見たら、なんだか不思議と自分まで満腹になった気がする。
響子は手に持っていたハンバーガーを包み直し、テーブルの上にそっと置いた。
「あんな状況見たら、普通助けるでしょ?」
食事を終えた大樹は、改めて響子の質問に答えてくれた。
普通の事だと当たり前のように彼は答えたが、響子にとってそれはすぐに同意出来るものでは無かった。
「助けるのはいい事だと思いますし……実際私も助けて頂いて感謝しています。でも、そういう事って、あんまり関わりたくないって思うのが普通なんじゃないですか?」
明らかに面倒事と思える状況に、自ら首を突っ込もうとする人間などごく僅か。ほとんどの人が見て見ぬふりをするだろう。
「ま……そう思うのが普通だよねー。でも俺は助けたいと思った。それじゃダメ?」
「そ、れは……」
小首を傾げる旦那の姿に、響子は言い淀んでしまう。
『あんまり関わりたくないって思うのが普通なんじゃないですか?』
助けてもらったというのに、何故あんな事を言ってしまったんだ。
素直にありがとうと感謝の言葉だけ言えばいいのに、余計な一言がいつの間にか言葉になっていた。
響子は自身の発言をひどく後悔し始める。
「んー……。それじゃ、俺は変わり者って事にしといてよ」
「えっ? 変わり、もの?」
不意に聞こえた大樹の言葉を、思わず繰り返してしまった。
「うん、俺は変わり者。それならいいでしょ?」
変わり者だから響子を痴漢から助けた。そういう事にしてほしいと言った大樹。
そうですね、と頷くなど出来るわけもなく、夫の突然すぎる発言に、響子は困惑するばかりだ。
しかし、ね、と同意を求められては、今更違うと反論しづらくなる。
どんな言葉を発すれば良いのかと悩んでいると、ふと大樹の視線がある一点に注がれている事に気付いた。
視線の先を辿れば、そこにあるのは先程自分が手に持ったハンバーガーが置いてある。
「もしかして、腹減って無かったとか?」
そして、ハンバーガーに向けていた視線を響子へ移し、大樹は口を開いた。
どうやら、いつまで経ってもハンバーガーを食べない響子の姿を見て、お腹が空いていないと思った様だ。
「えっと、その……。はい……」
響子は迷った末に首を縦に振る。
最初は食べようかと思っていたが、大樹のあまりの喰いっぷりにこちらまで満腹になってしまったとは、流石に言えなかった。
「あちゃー。だったら無理して頼まなくても良かったのに。勿体ないし……貰ってもいい?」
「ど、どうぞ」
大樹の言葉に、響子は自分の前に置いてあったハンバーガーを彼の方へと渡す。
渡されたハンバーガーの包み紙を開き、大樹はそれにかぶりつく。
もしかして、意外とよく食べる人だったのだろうか。
食事を再開した彼の姿に、響子は用意する食事の量を増やした方がいいのかと考え始めた。
少し遅めの昼食を終えた二人は、大樹の提案で自宅のあるマンションへ帰る事になった。
『どこか行きたい場所があるなら、タクシーつかまえてくるけど』
食事を終えた大樹の言葉に、響子は首を横に振った。
元々特に予定は無く、気分転換が目的の外出だったため、今日はもう帰る事にすると伝えた。
あんな事があった後のせいか、このままどこか別の場所へ行こうという気分にはなれなかった。
すると大樹は、途中まではやはりタクシーで帰ろうと言い出し、二人は揃ってタクシーの後部座席に乗り込む。
「どちらまで行きましょうか?」
タクシーの運転手が、ミラー越しに二人へ視線を送る。
「んー……そうだな。せっかく外に出たんだから、歩かなきゃいけないし……」
しばらく悩む様子を見せた大樹だったが、彼が運転手に伝えた行先は自宅マンションがある駅の名前だった。
「あの……どこか寄る所があるんですか?」
真っ直ぐ家に帰るものだと思っていた響子は、大樹が自宅の住所と違う場所を運転手に伝えた事に疑問を感じた。
「別に寄る所は無いけど、ちょっと歩いて帰ろうかと思って。外出た時は、少しでも歩くようにしてるんだ。そうしないと……色々ヤバイからな、こことか」
そう言いながら、大樹は自分の腹部を擦る。思わずその手を視線で追ってしまった響子は、自分の行動に恥ずかしさを覚え反射的に目を逸らした。
「だから、君は先に帰ってていいよ。このままタクシーで帰ればいい」
「……いいえ。私も、歩きたいと思っていたので、良ければご一緒させて下さい」
共に歩いて帰ると言う響子の言葉に、大樹はほんの一瞬目を見開く。しかし、すぐに目を細め穏やかな表情でわかった、と頷いてくれた。
響子が大樹と一緒に帰りたいと言い出したのには理由があった。
それは、例えタクシーの運転手だとしても、今は赤の他人、しかも男と二人きりになりたくなかったからだ。
隣に座る彼のお陰でいくらか気持ち的には落ち着いたが、未だ恐怖がすべて消えたわけではない。
見ず知らずの男と二人っきりになるくらいなら、大樹と一緒に帰った方が何倍も安全だと思ってしまう。
それからしばらく、移動を続けるタクシーの中で二人の間に会話は無かった。
響子は一瞬だけ横に座る旦那へ視線を向ける。そんな彼女に気付く様子も無く、大樹は窓の外を流れる景色を眺めていた。
響子が大樹と共に歩いて帰る事を決めた理由はもう一つある。
不思議な事に、今日は彼の傍に居ると、落ち着いた気持ちになれると気付いたからだ。
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