契約書は婚姻届

8.泣いていい

 響子は現状を把握しつつも、それを信じる事が未だ出来ず、唖然とするばかりだ。
 そんな自分を助けてくれた男性。その人がまさか自分の夫である大樹だとは思わなかった。
 どうして彼がこの場に居るのか、どうして彼が自分を助けてくれたのか。響子の頭の中は混乱するのみ。
「私は何もしていない! それなのに、何故見ず知らずの君に腕を掴まれる必要がある!」
 丁度響子の後ろに居た四十代くらいの男は、依然騒ぎ続けている。
 自分は何もやっていない。そう必死に訴え続ける男の姿に、響子は悩んでいた。
 痴漢に遭った事は間違いない事実だ。しかし、犯人の顔を見ていない彼女にとって、本当に目の前で騒ぐ男性が犯人かどうかの判断は難しい。
「言い訳したって見苦しいだけだってのに……。おっさんさ、自分がたった数分前にしてた事忘れちゃったわけ? そんなボケる歳でも無いでしょうよ」
 ボソリと何か独り言を呟いていた大樹だったが、突然車両内に居る人間全員にでも聞かせるような大きな声を発する。
「き、君は私を侮辱して何が楽しいんだ! 私はただ吊革に掴まって立っていただけだ。それなのにいきなり……」
 大樹の言葉に、腕を掴まれた男は顔を赤くし怒りを露にする。自分はただ車内で普通に立っていただけ、そう男が口にした時だった。
「あ、あの!」
「……っ!」
 突然の第三者の声に驚いた響子は、声のした方向へと反射的に顔を向ける。
 するとそこには、学校指定の運動用ジャージを着た高校生くらいの男子二人組が立っていた。
「お、俺達見ました」
「その人が……えっと、この女の人の事触って……あ、その……」
 先に口を開いたのは、肩にバッグをかけた黒い短髪の男子。
 腕を掴まれた男が響子に触れていたと口にしたのは、リュックサックを背負った、襟足が少し長いサラリとした黒髪の男子だ。
 二人共、周囲に伝わってしまうのではと思う程緊張しているのが分かる。
 大樹が腕を掴んでいる男が響子に触れていた事実を、少しばかり躊躇いながらも勇気を持って伝えてくれた。
 そんな学生達の様子に、大樹は一人小さく口元を緩める。
「何を言ってるんだ。こんなガキの言う事など、誰も聞かな……」
「いい加減にしろよ」
 尚も無実を主張し続けようとする男の言葉を遮るように、大樹は一際低い声を発する。
 その声は今まで響子が聞いた事の無いものだった。まだ彼と直接接したのは数回程度だが、こんな声は初めて聞く。
「まだ言い訳続けるのか? 流石に俺飽きてきたんだけどなー。言い訳すればするほど、みじめになるのはアンタだ。それに見てみな、自分の周り……」
 しかし、彼の口調はすぐに、いつも通りの気の抜けた喋り方に戻っていた。
 そんな大樹の言葉に、腕を掴まれた男は恐る恐る視線を自分の周囲へ動かす。
 響子も、同じく自分の周りに居る人達へ視線を向けた。
 彼女達の周囲、いや彼女達以外の車両内に居る全ての乗客の視線がこちらへ向けられている。
 しかし、それは響子への視線ではなく、乗客達の視線は全て先程から騒いでいる男へのものばかり。
「あの人痴漢したの?」
「いい加減認めろよ……絶対やってるだろ」
 耳を澄ませなくとも、所々から聞こえてくる小さな声。それは、この車両内に男の味方は誰もいない事を示すには十分すぎるものだ。
 響子の耳にも聞こえたのだ、きっとこの声は大樹にも、二人組の男子学生にも聞こえていたはず。もちろん、自分達の目の前に居る男にも。
「…………」
 大樹に捕まっている男は、もう自分に逃げ場が無いと悟ったのか、今までとは打って変わり急に口を閉ざし静かになる。
「ふー、やっと大人しくなったか」
 その姿を確認すると、大樹はあからさまに疲れた表情を浮かべた。
「次は……」
 その時、突然車両内に次の停車駅を知らせるアナウンスが流れる。
「すまんが……次の駅で、降りてもらえるか? 一緒に」
 アナウンスを聞いた大樹は、まるで内緒話でもするように響子に耳打ちする。
 彼女は、その言葉に頷く以外選択肢を見つけられなかった。



「お世話になりました」
「いえ。こちらこそ、ご協力感謝致します」
 痴漢の犯人を次の駅の駅員へ引き渡し、事情を全て話し終えた大樹と響子は、対応してくれた駅員の男性に揃って頭を下げる。
 去っていく駅員の姿をぼんやりと眺め、響子は視線を隣に佇む男へと移した。
『たまたま乗った電車で妻の姿を見つけたんですけど、まさかの状況に驚いてしまって。思わずパッと犯人の手を掴んでしまったんですよ』
 事情を聞かれていた時、大樹が口にした言葉を思い出す。
 自分が痴漢に遭ったという事実が、電車を降りてから徐々に彼女の心の中で認識されていった。
 自分の体を見ず知らずの男に触られた恐怖や気持ち悪さ。そんな負の感覚が頭に蘇ってしまい、響子は駅員の問いかけに必要最低限の事しか答えられなかった。
 そんな妻を気遣ってなのか、自分が答えられる部分は全て大樹が話をしてくれた。
「……っ」
 二人の会話を思い出し、また恐怖が体を支配する。思わずコートの上から自身の体を抱き締めるように腕を掴むと、あまり寒くも無いのに無意識に腕を擦っていた。
「…………」
 大樹は隣に佇む妻の姿にちらりと視線を向け、ダウンジャケットのポケットに片手を突っ込む。
「この後……誰かと約束でもしてるの?」
「……いえ、特に何も」
 休日で人々が行き交う駅の片隅で、二人は久々に言葉を交わす。約一か月ぶりの会話だ。
 会話と言っても、互いに目を見て話すわけでは無く、大樹は駅の構内を行き交う人々を見つめたまま、響子は俯きながら自分の足元を見てのもの。
「よし。ちょっと一緒に来て」
「えっ。……あの」
 このまましばらく動かないのかと思っていれば、大樹は突然一緒に来て欲しいと言い出した。
 突然すぎる言葉に、響子は戸惑いを隠せない。
「はいはい、そんな所に立ってないで。こっちこっち」
 耳に届く大樹の声がさっきよりほんの少しだけ遠くなる。顔をあげた響子が目にしたのは、少し離れた場所で手招きをする彼の姿。
 突発的過ぎる彼の言動の意味が理解出来ず、首を傾げたくなった。
「早く来て。置いてくよ」
 尚も早く自分の方に来いと急かす夫の姿に、響子は訳も分からずその後を追う事にした。



「あの……一体どこに行くんですか?」
「んー? もうちょっと先」
 何度この会話を繰り返したのだろう。響子は小さく溜息を吐きながら、目の前を歩く大樹の背中を追いかける。
 今日はとんだ厄日だ。
 日々のストレス解消にと出掛けたはずなのに。久しぶりに乗った電車の中で痴漢に遭い、助けてもらったはいいが、救世主はまさかの旦那様。
 そして今、目的地も教えられず、その旦那様にただついて来いと言われ歩き続けている。
 大人しくあのマンションに居た方が良かったのかもしれないと、響子は歩きながらひたすら後悔していた。
 大樹は一体どこに向かって歩いているのかも、さっぱりわからない。
 もう少し先と言い続け歩いてきたが、どこか目的地でもあるのだろうか。
「……っ、いたっ」
 足元ばかりを見て歩いていたせいか、突然頭を何かにぶつけてしまった響子。
「ん? 大丈夫か?」
 ぶつけた所を擦りながら顔を上げれば、すぐ目の前に見えるのは大きな背中、そして後ろを振り返り妻を見下ろす大樹の顔だ。
 どうやら、きちんと前を見て歩いていなかったせいで、立ち止まった大樹の背中にぶつかってしまったらしい。
「……大丈夫、です。あの、ここって……」
 大樹の問いかけに答えながら、響子は周囲を見回す。
 二人が居る場所は人気の無い公園内の一角のようだ。
 判断した材料は、自分達の目の前にある少し古びたブランコ。こんな遊具のある場所は公園以外、そうあまり多くは無いはず。
 それにしても、ここは一体どの辺りなのだろうか。
 響子は周囲を見回すが、公園の敷地内にいるためか番地や看板などは一切見つけられない。
 ずっと下を向いて歩いていたせいで、どんな道を通って来たのかさえも分からない現状。
 季節は十二月という事もあり、公園で遊んでいる子供の声は聞こえない。子供は風の子と言うが、この公園で遊んでいる子は現在居ない様だ。
 冬の人気の無い公園にやってきて、一体この人は何がしたいんだ。
「はい、それじゃここ座って」
 首を傾げていれば、再び耳に届いた大樹の声。
 目の前に居る彼は、ある場所を指差しそこに座れと言ってきた。
「……えっ」
 彼が座れと指定してきた場所に目を向けた響子は、驚きのあまりしばし無言になる。
 大樹が響子に座れと言った場所は、目の前にある古びたブランコ。
 ブランコは本来子供が遊ぶための遊具だ。そこに何故二十歳を過ぎた大人が座らなければいけないのか。
「別に私、疲れて無いんですけど」
「まず、いいから。はい、座って座って」
 休憩するならもっと他にいい場所があるだろうに。そんな事を思いながら、響子は自分が疲れていない事を告げる。
 しかし、彼女の言葉など聞いていないのか、尚も大樹は、ブランコの腰掛ける部分をポンポンと手で叩きながら座れと言う。
 今までずっと変な人だと思ってきたが、今日も彼の言動には謎が多い。
 このままでは、自分が座るまで催促し続けるかもしれない。そう頭の片隅で感じた響子は、渋々ブランコへ近付く。
 響子が腰掛けると、僅かにブランコが揺れる。響子がブランコの板に腰掛けた事を確認した大樹は、彼女の目の前に向き合う様に立つ。
 突然目の前にやってきた旦那を見上げた響子が目にしたのは、今まで自分が被っていた黒のキャップを外し、パンパンとそれを叩き始める彼の姿。
「……?」
 彼の行動の意図がわからない響子は、目の前に立つ旦那を見上げるだけ。
「毎日ちゃんと髪は洗ってるし……これも汚れたりはしてないと思うから。……ほい」
「えっ!? ちょ、何ですか、いきなり」
 今まで自分の被っていたキャップを叩いていた大樹だったが、口を開いたと思った瞬間、響子の頭に自分のキャップをいきなり被せる。
 予想外すぎる事態に戸惑う響子だが、慌てながらもキャップを取ろうと自分の頭に手を伸ばす。
「あー、取っちゃ駄目だって。そのまま被ってて」
 しかし、響子の意思とは逆に、大樹はキャップを外させまいとつばの部分を持ち、その手を下へ下げる。
 男性用のキャップだからか、響子には大きすぎるらしい。下手をすれば目元まで隠れてしまいそうだ。
「いきなり何なんですか。こんな所に来たり、ブランコに座れって言ったり、帽子なんか無理矢理被らせて」
 気の抜けた声を発し、意味不明な行動を繰り返す大樹に対し、流石に腹が立ってくる。
 響子は、今まで静かだったのが嘘のように、目の前に立つ男へ言葉をぶつけた。
「……ふう」
 彼女の言葉に、大樹は一度大きく息を吐くと、キャップのつばから手は離さずその場にしゃがみ込む。
 急に近付いてきた旦那の気配に、響子の肩がピクリと震える。
「…………」
「…………」
 それからしばしの間、二人の間に静かな時間が流れる。
 大樹の様子を窺う響子だが、肝心の大樹は何か喋るわけでも、何か行動するわけでもない。
「…………。……泣いていい」
「……えっ?」
 不意に頭上から聞こえた小さな声。
 その声に驚き顔を上げようとしたが、大樹がキャップを持つ手を下に下げたせいで、不釣り合いな黒のキャップが頭に押し付けられた。
 上からの力に響子の視線は無理矢理自分の足元へ向けられる。
 今の言葉は一体何だ。この人は今、泣いていいと言ったのか。それとも別の言葉を私が聞き間違ったのか。
「……泣いていい、思いっきり。……誰も、居ないから」
 聞き間違いじゃなかった。確かにこの人は今、泣いていいと言った。
 大樹の言葉に、響子は戸惑うばかりだ。
 電車の中で耳にした低い声とはまるで逆。優しい穏やかな声。
 泣いていいって一体何なの。何でそんな優しい声で言うの。
 混乱する響子だが、大樹と出会ってからの日々、そして今日電車内で起こった記憶が次々溢れ出すのを感じる。
「……あれ?」
 そして彼女は、自分自身に起こったある変化に気付いた。頬が濡れている。今は雨なんて降っていないのに、何故頬が濡れているのだろう。
 自分の頬を触り、触った指を見ればやはり濡れている。もしかして、自分は泣いているのではないか。
 その事実に驚きながらも、何故か彼女の目からは次々と涙が溢れ頬を濡らしていく。
 徐々に響子の中で、混乱の比重より次々に思い出す記憶の比重が大きくなる。
 突然告げられた両親の借金、借金返済のための結婚、一人なのではと錯覚しそうな家での生活、今日電車で遭った痴漢。
「……っ……ぐすっ……」
 目頭が、そして体が熱くなり、いつの間にか涙を止める事が出来なくなっていた。
「…………」
 そんな彼女が被るキャップのつばを持つ手が、クイクイと二回上下に動く。
『……泣いていい』
 大樹にそう言われているのではと思ってしまう。そんな合図だった。
 響子は泣いた。目の前に居る男の事も気にならなくなるくらいに。
 その涙は、まるで彼女の中に溜め込んだものを全て洗い流してくれるようだった。
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