契約書は婚姻届

7.キャップの男

 食費と書かれた一万円入りの封筒を渡されたあの日。
 響子は友人である志保に愚痴を零し、少しは気分が晴れた様だ。
 季節は十二月も半ば。あと少しで今年が終わろうとしている。
 そんなある日曜日、響子は少々迷っていた。
「どうしようかな」
 先程から彼女は、自分の財布片手に自室内をウロウロと歩き回っている。
 財布の中身を確認すれば、そこには二万円程の金が入っていた。
 日頃のストレス解消に、買い物にでも出掛けようかと思ったが、ここでお金を使うのはどうかと響子は悩み続けていた。
 思いっきり好きな物でも買えば、気分も晴れるかもしれない。
 しかし、万が一何かがあった時のために、出来る限り貯金を増やしておいた方が良いのではないだろうか。その二択の結論を、先程から彼女は決められずにいる。
「あー、もう悩んでてもしょうがないか! とりあえず出掛けよう」
 このままでは最終的な結論を出せず一日が終わってしまうかもしれない。そう思った響子は、買い物をするかどうかは決めず、まずは外出する事にした。
 服を着替え、軽くメイクをし、必要な物をバッグに詰めた彼女は、久しぶりの一人っきりの時間を満喫しようと意気込み、外へ出かけた。



 この家に引っ越してから一ヶ月程が経過したが、響子と大樹の関係は相変わらずだった。
 平日の朝、響子は必ず自分の朝食と一緒に大樹の食事を作り、簡単なメッセージを添えて仕事へ向かう。
 仕事から帰ってくれば、いつもと同じ静けさが彼女を待ち構えていた。
 それでも、響子が朝作った料理は綺麗に無くなり、使った食器は綺麗に洗い水切り籠の中に置かれている。
 家の中に居るのかも、外出しているのかも分からない大樹だが、出された食事は綺麗に片付いているのだ。
 そしてもう一つ、響子が最近になって気付いた事がある。
 それは、自分が書いたメッセージの紙がいつも無くなっている事だ。
 最初はゴミ箱にでも捨てられているのだろうと思ったが、家中のゴミ箱を探しても見つからない。
 毎日似たようなメッセージしか書いていない紙が、一体どこへ消えたのだろうと、響子は少し不思議に思っていた。
 不思議に思いながらも、大した事では無いのかもしれないという気持ちも、彼女の中にあったのかもしれない。
 そして食費にと渡された一万円についても、最初は突き返そうかと思っていたが、悩んだ末に有難く使わせてもらった。
 まず最初に響子が買った物は米だ。あの家には米が無かったため、真っ先に購入した。
 そして、あれこれと食材を買っているうちに、手元にあった一万円はすっかり無くなっていた。
 買い込んだ食材を使って毎日料理をし、自分と大樹の食事を作る。
 夕食を自炊し余ってしまった場合は、冷蔵庫に入っているとメモを残す事もある。
『この前は冗談で言ったけどさ。響子、あんたマジで家政婦さん状態だよ。それか、何て言うんだっけ。あ、そうだそうだ。既に家庭内別居状態じゃん』
 志保にはよく浅生家での事を話し、愚痴を聞いてもらっている。そんな状態を知っている彼女が、以前こんな事を言っていた。
 家政婦に家庭内別居。冷静に考えてみれば、本当にその通りなのかもしれない。
 毎日毎日自分は何故ここの居るのか。自身の存在理由を考えてしまう。
 結婚の理由が理由だけに、響子は大樹から無茶な要求をされるのではないかと思っていた。
 しかし、いざ結婚して一緒に住んでいても、一度もそんな要求をされた事は無い。
 大樹から何か暴力を振るわれるわけでも、体を求められるわけでも無い。
 それはとても有難い事だったが、今の二人の関係はもはや夫婦では無い。ただの同居人と言って良いだろう。同居人と言えるかどうかも実際には怪しいかもしれない。
 大樹の存在を全然感じなかったあの家で、響子は少しずつ彼の存在を感じるようになっていた。と言っても、実際に顔を合わせたわけではない。
 正直今でも、大樹が家の中に居るのか、それとも外泊している最中に自宅へ立ち寄っているのかすら分からない。
 そんな状態で大樹の存在を感じる事が出来るのは、準備した食事と、メッセージのメモが無くなる事。そして、たまに増える冷蔵庫内の食糧や、キッチンの籠の中にあるインスタントのカップ麺。
 未だ慣れないモデルルームのような自分に不釣り合いな家。そんな家の中に一人取り残されたような感覚。
 周囲には現状を話せる相手が志保しか居ない。そうは言っても、彼女にばかり愚痴を零すわけにもいかない。
 響子の心の中には、日々微量ながらもストレスが蓄積され続けている。最近響子は一人になると溜息を吐く事が多くなった。
 そしてもう一つ、響子の心に変化が生まれた。
『あんたが満足するまで俺に手を上げれば、借金は綺麗さっぱり無くなるのか?』
 話したくもない、接したくもない相手のはずなのに。
『それじゃ、これからよろしく。俺の奥さん』
 最低な男とずっと思い続けてきたのに。
『あー、うん。いらっしゃい』
 何故かふとした瞬間に思い出すのは、自分の旦那になった浅生大樹の顔だった。



 家を出た響子は、電車に乗るため駅へやってきた。
 いつも買い物をする場所では無く、普段行かない場所にでも行けば、新たにお気に入りの店を発見出来るかもしれないと思ったからだ。
 普段は行かないような場所を選び切符を買った響子は、無事電車に乗り込む事が出来た。
「ふー……やっぱり多いな」
 響子は乗り込んだ車両で空いている座席を探すが、良さそうな場所は見つからない。仕方なく近くにあった吊革に掴まる事にする。
 普段通勤には車を使う事が多いため、電車に乗るのは久しぶりだ。
 休日という事で、親子連れや学生同士仲良さそうに会話をする人達も居る。
 普段は味わう事の出来ない雰囲気に彼女は目を細めた。
 窓の外に見える景色を眺めていれば、次の駅へと到着する。
 電車のドアが開き人々が一斉に出入りを始める。電車を降りる人数より乗車した人数が多かったようで、車両内は少々窮屈になった。
 邪魔になってはいけないと、響子は持っていたショルダーバッグを、吊革を掴んでいない方の手で自分の胸の辺りに押し付けるように持つ。
 次の駅ではもう少し車両内の人数が減り、もし可能ならば座席に座りたい。そんな事を考えている時だった。
「……っ!」
 響子は突然自分の身体に妙な違和感を感じた。お尻の辺りに感じる奇妙な感覚。
 最初は、混んでいるのだから誰かの手や荷物が当たっただけかと思った。
 しかし、そうではない。一瞬だけなら何かが当たったのだとも思えたが、響子が違和感に気付いてからずっと続いている。
 明らかに誰かに触られていると確信出来た。
 まさか自分が痴漢というものに遭うなんて考えてもいなかった。
「…………」
 ここで勇気を出して叫べば、誰か他の乗客が助けてくれるだろうか。
 吊革、そしてバッグをそれぞれ掴んでいるため、犯人の手を掴む事も出来ない。
 恐怖がじわりじわりと響子の心を侵食していく。
 犯人は自分の傍に居る人間で間違い無いはずだ。しかし、その人物を特定する事が出来ない。
 混雑のため、響子の周りには吊革に掴まっている人が何人も居る。
 声を上げただけでは犯人に逃げられるかもしれない。
 必死に対策を考えようとしても、未だ感じる違和感に恐怖が増し気持ちが焦ってしまう。
「……っ」
 俯きながら歯を食いしばり、恐怖のあまり力いっぱい目を瞑る。もうこうなったら恥も外聞も気にせず大声を上げるしかない。
「な、なんだ君はっ! いで、いででで!」
 その時だった。突然車両内の男の声が響き渡る。響子は突然自分の背後から聞こえた、男性の焦る声に驚き慌てて目を開き顔を上げた。
「いや、何だって言われても。あんたの腕掴んでるんだって。はあ……こんな日曜に何やってんの、おっさん。自分がやってる事、わかってんの?」
 すぐ傍から聞こえてきた別の男性の声。何だろう、この声をどこかで聞いた事があるような気がする。
「え……っ!?」
 気の抜けるような聞き覚えのある声に、響子は慌てて後ろを振り返る。そして、自分が目にした光景に彼女は言葉を失った。
「何を言って……私が何をしたって言うんだ! とにかく手を離しなさい」
「いやいやー、離せって言われて大人しく離す馬鹿はいないって。それに、俺がこの手離したら、おっさん絶対逃げるんだからさ。だから、手離すのは無理だなー」
 響子が目にしたのは、腕を掴まれ慌てふためく四十代くらいの男と、その男の腕を掴むもう一人の男。
 腕を掴んでいる男は黒のキャップを被っている。しかし、顎から生える無精ひげ、そしてこの声。間違い無い。
「大丈夫?」
 自分を心配し、こちらへ視線を向け声を掛けてくるキャップの男。痴漢を捕まえた人物は、間違いなく響子の旦那、浅生大樹だった。
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