契約書は婚姻届

6.響子の作戦

 翌朝、響子はまだ眠い目をこすりながらキッチンへやってきた。
「今日もパンでいいかな」
 自分以外誰も居ない場所で一人呟けば、ここ数日で覚えた食パンが置いてある籠へと近付く。
 キッチンの片隅にある籠の中には、食パンの他にもインスタントのカップ麺や、缶詰がいくつか入っている。まさに男の一人暮らしの食事という印象を受ける。
「あとは……目玉焼きと、コーヒー」
 食パンを二枚袋から取り出すと、響子はそれをオーブントースターの中へ並べタイマーを回し焼き始める。
 そして冷蔵庫を開け卵を二つ取り出し、シンク下の収納スペースからフライパンを出すと、それをコンロの上へ置く。
「意外と綺麗好き、なのかな?」
 シンク下の収納スペースには、数こそほとんど無いがフライパンや鍋など必要最低限の調理器具が綺麗に仕舞われている。
 響子は、改めてキッチン内を見回し、少し歩いて隣のダイニングルーム内を観察する。
 ダイニングルームには、四人掛けの食事をするためのテーブル、そしてテーブルとセットになった木製のシンプルな椅子が四脚ある。たったそれだけしかないシンプルな空間だ。
 ブラインド越しに差し込む太陽の光が、テーブルの一部を明るく照らしている。
 その光景を見ながら、響子は引っ越してきた日に見た大樹の姿を思い出していた。
『あー、うん。いらっしゃい』
 やってきた自分を迎え入れた時の彼は、ボサボサの髪に無精ひげを生やし、上下グレーのスウェット姿だった。
 あの時の強烈な大樹の印象と、綺麗すぎる空間にどうしても違和感を感じてしまう。
「掃除は好きなのに、自分の事になると全く無関心、とか?」
 感じた違和感について考えながら、響子は再びコンロの前へ戻り目玉焼きを作り始める。
 自分なりに考えて結論を出してみたが、どうも納得がいかない。何故納得がいかないのだと、新たな疑問が生まれる。
 目玉焼きを作りながら、時々悩むような声を発し、自身の旦那について響子は考え続けた。
「あっ、そうか」
 そして数十秒程経った時、チン、とオーブントースターのタイマーが止まった音が静かなキッチン内に響き渡る。
 その音と共に、響子の中で一つの答えが浮かび上がった。
「モデルルームみたいなんだ、この家」
 辿り着いた答えが自然と口から零れる。彼女の中にあった違和感の答えがようやく分かった。
 大樹本人が綺麗好きなだけかもしれないが、それにしたってこの家は綺麗すぎる。
 キッチンに置いてある籠の中に入ったインスタントのカップ麺や、浴室に置いてあったシャンプーなど、所々に生活感を漂わせる物はある。
 しかし、それが無かったた本当にこの家はモデルルームと同じだ。
「本当にあの人、ここに住んでるのよね?」
 引っ越した日以来、一度も姿を目にしない旦那の姿を思い浮かべる。
 引っ越してきてから今日で数日、出来れば会いたく無いし、会話を交わしたくもない。
 そう思っていても、これだけ姿を見ないと微かに胸の中に不安が生まれる。
 もしかして、引っ越した日から彼はずっと外出でもしているのだろうか。そう思わせるくらい、この家から大樹の気配が消えていた。



「え、まったく会ってないの?」
「うん、まったく」
 その日も、響子は友人である志保と一緒に会社近くの店で昼食を食べていた。
 今日来ているのは、イタリアン専門店でパスタが美味しいと評判の店だ。
 注文したパスタを二人で少しずつ交換し、食事をしながら話をしていれば、話題は自然と大樹の事へ移り変わる。
 あの家に越してきて今日で五日目。もう五日も経ったと言うのに、響子は相変わらず大樹と接していなかった。
「嘘でしょ。有り得ないって、いくら何でも。えっと……名前、大樹さん、だっけ?」
 唖然としながら首を傾げ問いかけてくる友人の言葉に、響子はパスタを頬張りながら頷く。
「お互い家の中に居るのに、一回も会わない事なんてあるのかな。すれ違ったりも無いの?」
「全然。グレーのスウェット着てペットボトルのお茶一気飲みしてるのが一番新しい記憶」
「ぷっ……スウェットでお茶一気飲みって……ヤバイ、想像したら笑える」
 友人の言葉に、志保はスウェット姿でお茶を一気飲みしている男の姿を想像してしまったのか、必死に笑いを堪えている。
 笑ってしまうような状況を目の当たりにした本人にとっては、可笑しさよりも怒りの感情の方が上回っていた。笑えたらどんなに良かったのだろう、と響子は小さく溜息を吐く。
「まさかとは思うけど……どっか出掛けてるとか? 泊りがけで」
「そんな話はあの時言ってなかったと思うけど、可能性がゼロってわけじゃないのよね」
 響子の返答に、志保はテーブルに肘をつき、フォークを持った手をクルクルと回しながらどうしたものかと悩み始める。
「どうにかして確認出来たらいいんだけどね。大樹さんの安否」
「安否って、いくら何でも大袈裟よ」
 友人の口から出てきた予想外の単語に、今度は響子が笑いを堪える。まさか安否という単語が飛び出すとは思わなかった。しかし、それが冗談だと言い切れるような現状では無い事も事実。
「一応ね、今朝家を出る時にして来た事があるの」
「何々? 何してきたの?」
 響子の言葉に、志保は即座に反応し興味津々で目の前に座る友人を見つめる。
 目の前に座る彼女が、自分の話す話題を半分面白がって聞いている事に、響子はなんとなく気付いていた。しかし半分は好奇心でも、もう半分は真面目に聞いてくれていると信じ話を続ける。
「作って置いてきたの。……スクランブルエッグ」
 しかし、自分の考えた作戦をいざ言葉にしてみると、単純すぎたのではないか、と後悔と恥ずかしさが押し寄せる。
 発する声はだんだんと小さくなり、視線も目を伏せ下を向く。
「はあ……スクランブルエッグを作って、ね。それはまた何で?」 
 流石に今の説明だけでは、志保には理解出来なかった様子だ。響子は下を向いたまま、手に持っていたフォークを一旦皿の上に置き、傍に置いてあったグラスに入った水を飲む。
「だから、えっと。テーブルの上に置いておいて、もし私が帰ってお皿が空だったら居るって事でしょ。家の中に」
 響子の考えた作戦は実に単純なものだ。料理を作って置いておき、それを自分の留守中に大樹が口にすれば、彼が家の中に居る事が証明される。
 そう考えた彼女は、今朝自分の朝食と共に、スクランブルエッグを作りそれにラップをかけダイニングルームのテーブルの上に置いてきた。
『もし良かったら食べてください。 響子』
 簡単なメッセージを書いたメモも皿の傍に添えてある。
 大樹が家の中に居るかどうかを確認する事が最大の目的である作戦だ。しかしスクランブルエッグを作っている時、ほんの少しだけ響子は違う事を考えていた。
 それは大樹に対する申し訳無さ。
 何故あの男が自分と結婚したのかは未だ謎。何故大樹は自分なんかと結婚したのだろう。借金を肩代わりし、三千万という大金まで払って。
 自分はどこかの大企業のお嬢様でもないし、綺麗な芸能人でもない。普通の会社員だ。
 三千万の借金を肩代わりしてくれ、しかも響子の年収では絶対住めないようなマンションに迎え入れてくれた。
 何度大樹の頬を引っ叩きたくなったかはわからない。しかし、そんな言動を繰り返す男から、自分は与えられっぱなしだと響子はここ数日悩んでいた。
 もちろん会いたくないし会話もしたくない。この気持ちは変わっていないが、彼女もそこまで子供では無かった。
 今朝作ったスクランブルエッグは、響子なりのささやかなお礼の気持ちだったのかもしれない。



 夕方、帰宅した響子は玄関のドアの前に立ち、緊張で激しく脈打つ鼓動を落ち着かせようと必死だった。
 今日は残業も無く、定時に仕事を終える事ができた。志保からの誘いも無く、真っ直ぐ家に帰ってきたのだ。
 未だ慣れないコンシェルジュと挨拶を交わし、エレベーターに乗って家の前までやってきたまでは良かったのだが、ここからが彼女にとって今日一番の闘いと言っても良いだろう。
 バッグから家の鍵を取り出し、恐る恐る鍵穴に差し込み一気に回す。すると、カチャリと開錠した音が耳に届く。
 どうやら家の鍵は掛かっていたようだ。自分が出て行った状態のままなのか、それとも大樹が改めて施錠したのかはわからない。
 そっとドアを開け、まるで敵地へ忍び込むスパイのように慎重に家の中へ入る。
 玄関、そして廊下の電気は消えているためか薄暗い。すぐに玄関に脱いだ靴が無いか確認するが、それも見当たらない。
「やっぱり……どこか出掛けてるの?」
 独り言を呟きながら、玄関の鍵を内側から掛け靴を脱ぎ揃える。やはり今日も、今までと変わった様子は無さそうだ。
 しかし、まだ結論を出すには早い。今朝響子が作った料理が、今現在どのような状態になっているのか。それを見るまではわからない。
「…………」
 尚も慎重に息をひそめ響子はダイニングルームへ向かった。
 この家は今自分の家とも言っていい場所なのに、何故かこそこそ動いてしまう。まだ浅生家に馴染んでいない事に加え、今回の作戦も理由になるのかもしれない。
 ダイニングルームの前まで辿り着いた響子は、自身を落ち着かせるために深呼吸を数回繰り返す。
 そして目の前にあるドアノブを掴み、一気にドアを開け傍にある電灯のスイッチを手探りで探し灯りをつけた。
「……は?」 
 響子はじっくりと灯りがついた室内を確認する。そして彼女は、テーブルの上に置いてあるものを目にし、しばし呆然と立ち尽くした。



 ダイニングルームに向かっていた時の行動が嘘のように、響子は足早に自室へとやってきた。
 室内に入った瞬間、勢い良く扉を閉めバッグの中へ乱暴に腕を突っ込む。そして携帯電話を手にすると、ある人物へ電話を掛け始めた。
『もしもし? どうだった、響子。大樹さん生きてたー?』
 彼女が電話を掛けた相手は友人の志保だ。志保は昼間話題になった作戦の結果報告だと思っているのか、軽い調子で電話に出る。
「……て、……に?」
『え? 何、聞こえない』
「食費って何!?」
 今まで溜め込んでいたものが爆発したかのように、響子は携帯電話片手に声を荒げた。
『ちょっと響子落ち着いて! というか……何、食費がどうしたの?』
 突然食費が何だと問いかけられた志保は、混乱しながらも電話の向こうに居る友人を落ち着かせようと必死だ。
「落ち着いてられない状況なんだって!」
 しかし、そんな友人の言葉など聞く耳持たないとばかりに、響子は声を荒げる。
 理由は不明だが、電話越しに話す志保にまで響子が怒っているという現状だけは伝わっている様だ。
『わかった。わかったから! とりあえず落ち着いて深呼吸。状況話してくれないと、こっちはわかんないでしょ』
 響子は、友人の言葉に少し冷静さを取り戻した様で、何度か深呼吸を繰り返し、呼吸と気持ちを落ち着ける。
『落ち着いた? はい、それじゃ響子が体験した事を順番に話していって』
 友人の言葉に、自分がこの家に帰ってきてからの事をゆっくり思い出しながら口を開く。
「家の鍵は掛かってたから鍵を使って中に入ったの。玄関にある靴はゼロ。明かりも点いてなかったし、いつもと同じ感じだったわ。それでダイニングに行ったら」
 自分が体験した事を一つ一つ友人に報告していた響子だったが、ふとした瞬間無言になる。そして彼女の視線は、携帯電話を持っていない方の手に握られた物へ向けられた。
『ダイニングに行ったらどうだったの。料理、やっぱり残ってた?』
 無言になった友人を心配しながらも、志保は先の言葉を促す。その彼女の言葉に、響子の中で再び怒りが湧き始めた。
「料理は無かった。キッチンの洗い籠の中にお皿は洗って置いてあったから、多分食べたんだと思う。だけど……だけど! 料理が置いてあった場所に、一万円入りの食費って書かれた封筒が置いてあるってどういう事!?」
 怒りに声を震わせる響子が手に持っている物。それは、自分が今朝置いていった料理があった場所に置いてあったものだ。
 少々不格好な字で食費と書かれた真新しい茶封筒。そしてその中には一万円札が入っていた。
 大樹はどういうつもりでこの封筒をテーブルに置いたのか、怒りに満ち溢れた今の響子に理解する事は難しいだろう。
『一万円入りの封筒……しかも食費。ぷっ……じ、実は大樹さんって、面白い人なのかな?』
 説明を聞いた友人が笑いを堪えてると分かり、響子の中で更に怒りが増していく。笑い事では無い。こちらは真剣に怒っているのだ。
 そんな響子の気持ちになど気付かず、志保はまだ笑いを堪え声を微かに震わせている。
『そ、それにしてもさ』
「何よ?」
 声を震わせたままの志保に、響子は素っ気なく言葉を返した。
『家の中で全く会わないで、食費を封筒で渡されるって……響子、何だが家政婦さんみたいだね』
 この友人の何気ない一言に、響子の怒りは限界を突破した。そして、その後一時間、志保は友人の愚痴に付き合わされたのだった。
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