契約書は婚姻届

5.友人への報告

志保しほ、あの……さ」
「何、どうかした?」
 浅生家へ引っ越した週末が明け、響子は会社の同僚であり友人でもある伊藤いとう志保しほと一緒に、会社近くの食堂で昼食を食べていた。
 注文した煮魚定食を食べつつも、彼女の視線は、先程から目の前に居る友人と自分が食べている定食の間を行ったり来たり。
 視線を彷徨わせながら、響子は引っ越した日に交わした大樹との会話を思い出していた。
『婚姻届は、メールにも書いた通りもう出しちゃったから。だから俺と君は正式な夫婦という事で。正式な夫婦なんだけど……正直、あまり公にしたくない』
『公にって……どういう事ですか?』
 眉間に皺を寄せ、困り顔で頬を掻く大樹の言動の意味が理解出来ず、響子は首を傾げた。
『んー、何と言うか……俺達が結婚してる事は秘密って事で隠して欲しい。君だって、仕事は続けたいだろうし、その方がいいと思う』
『確かに仕事は続けるつもりでしたけど……結婚を隠す理由がわかりません』
 結婚した事を秘密にして欲しい。そう口にする目の前の男を見つめ、響子の中で疑問が更に増えていく。
『それは俺達の結婚を公にするメリットが無いからさ。例えば君が会社で結婚した事を言えば、相手は誰だ、どういう経緯で結婚しただの質問責めにされるのは必至。家の借金を返すために初対面の男と結婚した、なんて馬鹿正直に話せるわけもない。かと言って、誤魔化すのも限界がくる』
 大樹の言葉に彼女は頷くしかなかった。確かにその通りだ。普通の結婚なら喜ばしいものだが、自分達の結婚はそうでは無い。
 彼の言う通り、真実を正直に話す事など出来るはずも無く、借金返済のために結婚など響子が今まで生きてきた人生の中で最大の恥だ。いや、自分だけではない。両親のためにもこの事は秘密にしたかった。
「本当にどうしたの。今日の響子変だよ?」
 いつもと明らかに違う友人の様子に、志保は心配そうに目の前に座る響子の顔を覗き込む。
「だから……その、ね」
 近付いた友人の顔に響子は思わず後ろに仰け反ってしまう。どうやって話を切り出そうか悩み続けていた時、また大樹との会話を思い出した。
『理由は解りました。確かに面倒なことになりそうなので、この事は隠すようにします。あ、でも』
『ん?』
『一人だけ、言ってもいいですか。会社の友人に。その子とは、仲良くさせてもらっているので』
『んー……まあ、一人くらいなら、大丈夫でしょ。厳重に口止めしておけば』
 大樹は大丈夫だと言っていたが、実際に友人を目の前にすると言いづらいものだ。
 普通の結婚報告なら、もっと軽い気持ちで出来たのだろう。しかし、これからするであろう報告は、普通の結婚とは違うものだ。
「もう、隠してないで白状しなさい!」
 その時、いつまで経ってもはっきりしない友人の態度に志保はキレた。
「ちょ、ちょっと志保声大きいから! あは、あはは……すみません、お会計お願いしまーす」
 志保が大声を上げたからなのか、店内に居た周囲の人々の視線が一斉に二人へと向けられる。
 今日はいつもより食堂が混んでいないせいか、客は少ない。しかし、店内に居る客、そして店員の視線まで自分達へ向けられていると理解すれば自然と顔が熱くなる。
 響子は慌てて会計を済ませ、志保の腕を掴み一目散に食堂から逃げ出した。



「結婚したー!?」
「…………」
 食堂を逃げるように出てきた響子達は、二人が勤める会社の駐車場にある響子の車に乗り込んだ。
 そして覚悟を決めた響子は、志保に自分が結婚した事を報告した。
 その報告を聞いた友人の反応は、響子が予想していた通りのものだった。
「ちょっと、あんた一ヶ月くらい前に彼氏と別れたって言ってなかった?」
「あ、うん」
「それなのにどうしていきなり結婚!? まさか、元彼と結婚したわけじゃないでしょ?」
「違うから! それは絶対に有り得ない」
 突然の結婚報告に驚きを隠せないのか、志保は響子の両肩を掴み必要以上に体を揺さぶる。
 以前付き合っていた男と別れた原因を考えれば、そんな人物との結婚など有り得ないと、響子は必死に否定する。
『君が会社で結婚した事を言えば、相手は誰だ、どういう経緯で結婚しただの質問責めにされるのは必至』
 本当にあの人の言った通りになってしまったと、内心溜息を吐くばかりだ。
「それじゃ出会って一ヶ月も経ってないのに結婚したって事? スピード結婚にも程があるって」
 志保は響子の肩から手を離すと、項垂れるように助手席に背を預け呆れた様子を見せる。
 言われてみればスピード結婚なんだと、友人の言葉に響子は妙に納得してしまう。
 改めて思い返してみれば、出会ってから結婚を決めるまでの時間は本当に短かった。料亭で初めて出会い結婚を承諾するまで三十分も掛かっていなかった気がする。
 初対面同士で、相手が自分の運命の人だと思い即結婚を決めたとでも言うのなら、少しはロマンがあったのかもしれない。しかし、現実はそんなに甘くはなかった。
「で、相手はどんな人なの?」
 突然すぎる響子の結婚に驚き呆れていた友人が、今度はその相手に興味を持ち始める。
 ことごとく当たる大樹の予想に、響子は笑いたい気分になった。
「どんなって言われても……変な、おじさん?」
 志保の言葉に、まだ会って間もない大樹の姿、言動を思い返す。そして出てきた言葉がこれだ。
 響子の中ではしっくりくる『変なおじさん』というキーワードも、志保にとっては予想外なものだったらしい。
「へ、変なおじさんって。響子、あんた好きな人に変なおじさんって、流石に無いわ」
 自分でもそれはかなり失礼だと思った。しかし、それは本当に愛する人に対しての感情。愛情なんて一つも湧いてこない相手である大樹にはこの言葉はピッタリだ。
「そうね、好きな人に対して今の言葉は失礼ね」
「だよねー。それじゃ改めて……」
「好きじゃないもの」
 改めて結婚相手について問い詰めようと意気込んだ志保だったが、質問の途中で発せられた友人の言葉に彼女は口を開けたまま数秒目を見開く。
「響子、ごめん。今なんて言った?」
 自分の聞き間違いだと思ったのか、彼女は数回深呼吸し自身を落ち着かせると、新たな質問をぶつける。
「だから、好きな人と結婚したわけじゃないの」
「はいー!?」
 車内に驚きのあまり出てしまった志保の大きな声が響き渡る。
 自分の一つ一つの報告に、初めて見るのではと思う程驚く友人の姿を見た響子は、笑いを堪えきれなかった。



「はあ……疲れた」
 自宅の玄関に辿り着いた響子は、薄暗い中ヒールを脱ぎ一人溜息を吐いた。
 あの後、自分の報告に驚き続けていた友人に再度問い詰められそうになったが、あと少しで会社の昼休みが終わってしまう事に気付いた響子はその場で無理矢理話を中断させた。
 そんな状態に志保は満足するはずも無く、仕事を終えてから、つい一時間程前まで根掘り葉掘りと結婚までの経緯を全て吐かされたばかりだ。
「お酒飲んでないだけ、マシ……だったのかな」
 酒が入った志保はかなりしつこい。その上やたらと絡んでくるため、響子は毎回二人で酒を飲みながら友人の相手をした後普段以上に疲れを感じている。
 今日は二人共車を運転して帰らなければならないという事でアルコールは飲まず、ソフトドリンクを飲みながら居酒屋で話をしていた。
 一瞬アルコールを飲んでも代行サービスを使えば問題無いとも考えたが、志保はお金が勿体ないと言ったため酒類は一切頼まなかった。
 今日の話題はもちろん響子の結婚について。中途半端に説明しても友人は納得しないだろう。そう思い覚悟を決めた響子は結婚までの経緯を全て志保に話した。
 突然背負う事になった借金の事。借金を返済を条件に結婚を迫られた事など全てだ。
 昼休みは矢継ぎ早に質問をぶつけ騒いでいた志保も、居酒屋では響子の話を黙って真剣に耳を傾けてくれた。
『困った事とか、悩み事とかあったら何でも言いなよ。あと愚痴にはいつでも付き合うから』
 話し終えると、響子の両肩に手を置き何度も頷きながらそう言ってくれた志保。そのあまりの真剣さに思わず笑ってしまったが、友人のその言葉は響子にとって嬉しいものだった。
 廊下を進み、自室へと向かった響子は、室内に入るとベッドの上に座り込み、すぐ傍にバッグを放り投げる。
 アルコールは飲まなかったものの、話の内容が内容だっただけに今日はいつも志保と飲む時以上に疲れた気がする。
 それに、車に乗り込み自宅へ帰ってくるまで時間が掛かり過ぎた事も疲れの原因の一つかもしれない。
 自宅への帰り道、響子は無意識にいつもの癖で以前住んでいたマンションへ続く道を走っていた。その途中で間違いに気付き、慌てて新しい自宅へと帰ってきたが、まだ慣れていない道のため帰宅するのが遅くなってしまった。
「はあ……」
 再び口から溜息を吐き、座っていたベッドへ倒れ込むように横たわり、そのまま仰向けになる。
 照明が明るい天井から、室内へ視線を向ける。そこには、馴染みの無い家具が並んでいる。
 この家へ引っ越してくる時、家具などは全部家にあるから持ってこなくても大丈夫だと大樹に言われ、衣類やお気に入りの食器など必要な物だけを引っ越し業者に頼み運んでもらった。
 初めてこの家にやってきた二日前の事を思い出す。
『この部屋は君の部屋だから』
 そう言って案内されたのが、今響子が居る部屋だった。
 今まで住んでいた部屋よりも広い自室にはまだ慣れず、落ち着いて過ごす事は難しい。
 選び抜いて持ってきた衣服を全部入れても、まだたくさんスペースのあるクローゼット。
 リビングにある物程では無いが、自分が以前使用していた物より大きなテレビ。自分が使っていた物より大きなベッド。
 綺麗な家具に囲まれ、悪い気分はしないがやはり落ち着かない。
「…………」
 ベッドの上で起き上がり、バッグの中から携帯電話を取り出しメール機能を呼び出す。
 志保と居酒屋に行く事が決まった時、迷いながらも大樹に帰宅が遅くなるとメールを送った。そしてしばらくして返ってきたメールは了解の二文字のみ。
 自分の旦那である人物から送られてきたメールを見ながら、ふとある事に気付く。
「そう言えば……あの人って家にいるのかな」
 自分の感じた疑問を口にしながら、響子は帰宅した時の玄関の様子を思い出す。
 ドアに鍵は掛かっていた。玄関に靴の類は無かった気がする。これでは、大樹が外出しているのか、それとも今家の中に居るのか見当もつかない。
「一応帰ってきた事報告した方がいいのかしら。でも……」
 帰宅した事を旦那に伝えた方が良いのではと考えたが、すぐに彼女は口を噤む。
 あの人にわざわざ帰宅を報告する義務が自分にはあるのだろうか。いや、それは全く無い。
 だったら別にこのまま何も言わなくても大丈夫では無いだろうか。それに、玄関には今脱いだばかりのヒールがある。それを見れば自分が帰宅したかどうかなど、すぐに分かるはずだ。
「うん、気にしない気にしない。話さないで済むなら話したく無いし」
 まるで自分に言い訳でもするように、一人しか居ない空間で彼女は口を開く。
 そしてすぐ立ち上がると、クローゼットへ近付き部屋着に着替え始めた。



 この結婚は、両親が背負わされた借金を返すための結婚だ。もちろん響子は大樹への愛情など一切感じていないし、これからも愛情が生まれる事など無いだろう。
 大樹にあまり良い印象を抱いていない響子は、出来る事なら彼と会話したくないとまで考えていた。
 しかし、浅生大樹という男は自分との結婚を条件に、三千万円という普通なら返済が難しい金額の金を出してくれると言う。
 その事を響子は眠りにつくまで、何度も何度も頭の中で考えていた。
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