契約書は婚姻届

4.オヤジと新居

 響子は呆然としたまま、目の前に建つ建物を見上げるばかり。
「嘘だって言ってよ」
 彼女の小さな呟きは行き交う車の騒音の中へ消えていく。かわりに、周囲に響くのではと錯覚するような盛大な溜息が聞こえた。
『それじゃ、これからよろしく。俺の奥さん』
『こちらこそよろしく。旦那様』
 あの料亭で握手を交わした後、二人は響子の両親が待つ個室へと戻ると、響子は父親と母親に大樹との結婚を承諾した事を告げた。
 両親達は最初驚いた様子だった。きっと娘が頷く事は無いと思っていたのだろう。
 しかし、数分もすればようやく彼女の言葉を理解出来たらしく、今にも泣きそうな顔で娘に対し感謝の言葉を口にしていた。
 三千万円という多額の借金が、自分の結婚一つで無くなる。
 大樹から提示された条件は、自分が一言イエスと言えば何もかも全てが解決するもの。
 借金返済と結婚。頷くだけで簡単に決まってしまった二つの出来事。
 響子はこの時、まるで映画を見ている観客のような気分だった。理解していたのは、これで両親がもう困る事は無いという事だけ。
 そして、一ヶ月程経った週末のある日。響子はこれから自分が住むことになる家の前へとやってきた。
 今まで住んでいたマンションを出るための手続きや引っ越し準備など、会社勤めをしながらの作業に意外と時間が掛かってしまった。
 教えられた住所を書いたメモを頼りにやってきた響子だったが、彼女は今目の前の光景に開いた口が塞がらない。
 目の前にある高層マンションの名前は、確かに自分が持つメモに書かれている住所にあるものと一致している。
 何度も確認するが、間違ってはいない様だ。
「そりゃそうよね……三千万なんて大金出せる人なんだし」
 響子は再度溜息を吐きながら無理矢理現状に納得するしか無かった。
 自分には不釣り合いすぎる高層マンション。その一室にこれから自分の夫となる人物は住んでいるそうだ。
 自分が今まで住んでいたマンションとは明らかに違う目の前の建物に住み、自分達家族が背負う事になってしまった借金を返済してくれる。
 一般人なら入店する事すら難しい高級料亭で出会った男。それが浅生大樹だ。お金には余裕があるらしい。
 響子はバッグに入れていた携帯電話を取り出し、一番最新の受信メール画面を開く。
 大樹とはあの日、互いに連絡を取るためにと携帯電話のメールアドレスと電話番号を交換しあった。
 それから数回連絡を取り合ってはいるが、どれもメールのみ。それも必要最低限の事だけ。
『一日家に居るから、好きな時に来てもらって構わない』
 今朝送られてきたメールを再度確認する。装飾が全くない用件だけのメールだ。
 響子の中にある大樹に対するイメージは、未だに決して良いものとは言い難いだろう。
 そんな状態でのこのメールは、更に彼女の中にある大樹のイメージを下げている気がする。
「行くしか無いわね」
 いつまでもマンションの前で立ち尽くしているわけにもいかず、響子は心の中で気合を入れマンションの中へ向かい足を進めた。



「あー、うん。いらっしゃい」
 響子は、たった今扉を開け、顔を出した男の頬を引っ叩いてやりたいと思う気持ちを押さえつけるのに必死だ。
 あの後、マンションのエントランスに足を踏み入れた響子は、初めての経験に戸惑いを隠せないでいた。
 マンションに一歩足を踏み入れた彼女がまず目にしたものは、このマンションのコンシェルジュ。
 自分は間違ってホテルのフロントにでも来てしまったのでは無いか。そんな考えが一瞬頭の中に過った。
 動揺を隠しきれない彼女にも、コンシェルジュの女性は丁寧に対応してくれた。
 浅生大樹にここに来るよう言われたと伝えると、すぐに水越様でいらっしゃいますねと名前を確認された事に驚いた。
 どうやら自分が今日来る事をあらかじめ知らせておいたのかもしれない。
 別れ際に女性がお辞儀する姿に、慌てて自分も深々とお辞儀をしてしまった事をエレベーター内で思い出し、恥ずかしさのあまり響子は頬を熱くした。
 目的地である部屋の前に到着し、何度も部屋番号を確認した。
 改めて気合を入れインターフォンを押せば、出てきた男は料亭で会った時以上にだらしなさ全開だ。
 相変わらず髪はボサボサ、顎には無精ひげを生やしている。そして今の大樹の服装は上下グレーのスウェットというラフすぎる恰好。
 正直目の前に居る人物を長時間直視するのは遠慮したい。
 今の大樹を一言で言い表すなら、休日に家でだらだら過ごしている父親という言葉がピッタリだと響子は思った。
「ま、とりあえず上がって」
 そう言うと大樹は響子を家の中へ招き入れる。
「お邪魔、します」
 彼女は恐る恐る家の中へと入っていく。
 これから自分の帰る場所になろうとしている家に入るのに、お邪魔しますと言うのは不自然すぎると自分の発言に少し可笑しさを覚える。
 しかし、彼女の中でこの家をまだ自分の家と認識する事が出来ずにいた。
 今の響子にとって自分の置かれている現状は、見知らぬ人の家に招待されたような感覚に近いものだった。



 大樹に家の中へ招かれた彼女が通されたのはリビングだった。
 自分の家にあった液晶テレビの二倍近くあるのではと思う程の大きなテレビ、そしてその正面にはテーブルとソファーが配置されていた。
 革張りの見るからに高級そうなソファーに、ちょこんと行儀良く座っていれば、目の前のテーブルにお茶の入ったコップが置かれる。
 ガラス製なのではと思える程透明で汚れ一つ無いテーブルに置かれたコップ。それを置いた人物は一人しか居ない。
 顔を上げ、自分にお茶を出してくれた人物へと視線を向けた響子だったが、自分の目に映った大樹の姿に唖然としてしまった。
 大樹は立ったままペットボトルに入ったお茶を飲んでいた。コップなどを使わず、ペットボトルの口から直接喉へとお茶を流し込んでいる。
 もしかして自分の目の前にあるコップに注がれているのは、あのペットボトルのお茶なのではないか。そんな考えが響子の脳内を過る。
 ペットボトルから注いだお茶だとしても、自分の家を訪れた人物に飲み物を出す礼儀は知っているのか、と今まで悪い事ばかりで底辺だった大樹への印象が僅かに上昇するはずだった。
 しかし、その残りを今目の前で彼は飲んでいる。来客であり、女性である響子の目の前で。しかも立ったままゴクゴクと。
 上昇するはずだった大樹に対する印象のバロメーターの数値は、そんな彼の行動により上昇するはずもなく響子の中で大樹に対する印象はまったく変化しなかった。
 その後、響子はコップに入ったお茶で時折喉を潤し、落ち着き無く室内をうろうろと歩き回る大樹を観察していた。
「んー。よし、家の中案内するから」
 しかし、互いに何も喋らない事に耐えきれないとばかりに、彼は家の中でも案内しようと提案してきた。
「あ……。はい」
 これから自分も住む事になる家の間取りを知るのは大切だと、その提案を受け入れ、響子は素直に大樹の後についていった。



 案内が始まってからの大樹の印象は、本当にあの日自分と結婚しろと言い出した人物と同じなのかと、彼女は首を傾げずにいられなかった。
「ここがキッチン。と言っても、ほとんど俺は使った事が無いんだが。そこら辺は君に任すから。自分の食べたい物があれば好きに作っていいし、自分の好きな道具を揃えたければ揃えていいから。あと食べ物とか飲み物もご自由に」
「……はあ」
 響子は大樹の案内で家の中を見て回っているが、自分の中で感じていた戸惑いがますます大きくなっている事を内心無視出来ずにいる。
 簡潔に説明をしながら次の場所へと進む彼の後ろ姿を見ながら、彼女は初めて大樹に出会ったあの日を思い出していた。
『三千万なんて、普通に仕事してたらとても返せないだろ。水商売って手もあるが……あんたじゃ難しいだろうな』
 あの日は、予想外の展開が次々と起こったせいか、正直今より自分の置かれている状況を理解していなかったのは確かだった。
『それじゃ、これからよろしく。俺の奥さん』
 彼の発言は、自分を嘲笑っているかのように聞こえ、怒りの感情が心を全部支配していた。
 彼の言動一つ一つに怒りを覚え、目の前に居る人物の頬を力いっぱい叩いてしまった事は今でもしっかり覚えている。
 あの日白桜亭に居た浅生大樹と、今自分の目の前に居る浅生大樹。その二人から感じる印象の違いが、どうも自分の中で一致しない。
 白桜亭で会った大樹から感じた印象は、突然借金を背負わされた自分達一家を嘲笑っているようにしか見えなかった。
 結婚で借金が無くなるという美味しい餌をチラつかせ、その餌に手を伸ばそうか伸ばすまいか悩んでいる私を見て楽しんでいるような印象だった。
 しかし、それからの彼の態度はあの日とは全く違っていた。
 必要最低限のみの連絡、家の中を案内すると言ってもどこか事務的な印象を受ける。
 別に優しくして欲しい気持ちや、今も結婚という餌に飛びついた自分を嘲笑って欲しいという気持ちは無い。
 あまりにも違う大樹の態度に、すぐ納得し頷ける程心の中の情報処理がうまくいかない。
「……から、そこは頼む。って、聞いてたか?」
「えっ?」
 不意に耳に届いた大樹の声で我に返り、響子は慌てて顔を上げた。そこには、首を傾げる浅生大樹の姿があった。
「はあ……。だから、この部屋には入らないようにしてほしいんだ。他の場所はどこでも使っていいし入っていいけど、ここだけは遠慮して欲しい」
 響子が話を聞いていなかった事に気付いたのか、彼は溜息を吐き目の前にある扉をノックするように右手で何度か叩き再度説明をする。
「わかりました。ここには近づかないようにします」
 そう言って、響子は目の前にある扉を見つめる。
 他の場所は出入りや使用を許可しているのに、唯一それを許されない部屋が今自分の目の前にある。
 自分が近付いてはいけない部屋。その室内には何があるのだろう。人並みにある好奇心からなのか、響子は心の片隅で一瞬そんな事を思った。
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