契約書は婚姻届

3.契約成立

「あんたが俺の妻になる事だ。そしたら、金は出してやる」
 突然提示された条件は、響子が目の前に居る見ず知らずの男と結婚するというものだった。
 たった今まで、自分に出来る事なら何でも受け入れようと思っていた彼女だったが、予想外過ぎる男の申し出に唖然とするばかり。
 私がこの人の妻になったら借金は全て無くなる。
「何なのよ、その馬鹿げた条件は!」
 大樹の提示した条件の意味を理解した響子は、目の前にある高級感溢れる木製のテーブルに勢いよく手をついて立ち上がり、息も荒々しく一目散に個室を出て行く。
「なっ! 響子待ちなさい!」
「響子!」
 突然怒りを露にし部屋を出て行ってしまった娘の行動に、栄一と尚美は困惑するしかなかった。
「まあまあ、お二人はここに。そろそろ料理が運ばれてくるはずですから、それでも食いながら待っててくださいって」
 娘の後を追いかけようとする栄一達を宥めると、大樹はよっこらせ、と声を出して立ち上がる。そして、ゆっくりとした足取りで一人個室から出て行った。



 部屋を飛び出した響子は、料亭の中庭にある木の前で一人佇んでいた。
「一体何がどうなってるの」
 突然の両親からの呼び出し。呼び出された場所は高級料亭。約束を守って来てみれば、そこには見ず知らずの男。
 父が借金の保証人になったせいで多額の借金を背負ってしまった。
 そして、初めて出会った名前しか知らない男は、結婚を条件に借金を肩代わりしてくれると言い出す始末。
 予想外過ぎる展開に、響子は混乱するばかりだ。
「こんな所に居たのか」
「……っ!」
 その時、背後から聞こえた男の声に響子は肩を強張らせる。
 声が聞こえた方を振り向けば、たった数分前まで自分に結婚を迫っていた男がそこに立っていた。
 大樹は、身体を強張らせる響子の顔を何も言わず見つめる。
 大樹の顔を見た瞬間、響子は自分が置かれている立場を改めて認識するしかなかった。即座に大樹から顔を逸らし彼に背を向ける。
「一人に、してください」
 借金の肩代わりを理由に結婚を迫る男の顔など見たくない。微かに震える彼女の声が、秋晴れの空へ消えていく。
 早く一人になりたい。一人になって、胸の中にある感情を全て吐き出してしまいたい。
 響子は必死にその場から大樹が消えてくれる事を願った。
 しかし、そんな響子の想いとは裏腹に、大樹が立ち去る足音は一向に聞こえてこない。
「……今日はいい天気だな」
 響子の想いなど露知らず、大樹は晴れ渡った空を見上げ暢気な声を発した。
「……っ!」
 その態度に響子の感情は爆発する。彼女は振り返ると同時に、平手で大樹の頬を力いっぱい引っ叩いた。



「……ってー」
 頬を引っ叩かれた大樹は痛みを堪えようとするも、我慢出来ず声を発する。
「帰ってください!」
 そんな彼などお構いなしに、響子はまるで感情のストッパーが外れたかの様に涙声で目の前に居る男を怒鳴りつける。
 掌に残る大樹の頬を打った時の微かな痛みが、余計に彼女を苛立たせた。
「俺がこのまま帰ってもいいのか? 借金はどうする」
 感情を露にする響子とは対照的に、大樹は冷静な口調で彼女へ問いかけた。
 中庭には二人しか居らず、声以外に聞こえてくるのは自然の音だけ。まるで、二人だけが別空間に居るのではという錯覚を起こしてしまいそうだ。
 自分はこんなにも混乱しているのに、何故彼は冷静なのだろう。今の自分より何倍も余裕に見える大樹の姿が憎らしくさえ思えてくる。
「私が働いて返します」
 目の前に再度突きつけられた三千万の借金という現実に、反射的に響子は自分が返済すると答えていた。
 先程までの涙声では無い、はっきりとした意志の感じられる声。彼女は真っ直ぐ、目の前に居る大樹の顔を睨むように見つめる。
「はあ……」
 その言動に呆れたのか、大樹はあからさまな溜息を吐いた。
「三千万なんて、普通に仕事してたらとても返せないだろ。水商売って手もあるが……あんたじゃ難しいだろうな」
 大樹はまるで品定めでもするかのように、響子の身体に上から下まで何度も視線を這わす。
 侮辱的な言動に、再び響子の中で怒りの感情が一気に高まっていく。
 彼女はまるで茹蛸のように顔を真っ赤に染め、右手を振り上げると大樹の頬に向かってそれを振り下ろそうとした。
 しかし、その手が大樹の頬を打つことは無く、あっさりと細い腕は彼に掴まれてしまう。
「あんたが満足するまで俺に手を上げれば、借金は綺麗さっぱり無くなるのか?」
 大樹の言葉に響子は何も言い返せない。
 確かに言う通りだ。この人を叩いたからって、借金が無くなるわけじゃない。
「っ、離して!」
 大樹の手から逃れようと、掴まれた腕に無我夢中で力を入れるが、そこは男と女の差。大樹が掴んだ手を離す事は無い。
 今自分達が居る場所は高級料亭の中庭という事など、彼女の頭の中からは既に消えていた。
 自分の中に渦巻くいくつもの感情に押しつぶされそうになる。再び熱いものがこみ上げてくるのを、響子は必死に我慢した。
 絶対こんな男の前で涙なんて見せたくない。そんな彼女の精一杯の意地も、他人から見れば既に意味をなしていない様なものだ。
 今にも泣き出しそうな顔で声を荒げる響子の姿を目にしても、大樹は何も言わず黙ったまま。
 その後二人の間に会話は無く、しばしの沈黙が訪れた。



 そんな沈黙を破り、響子が震える唇を開いた。
「……とに……の?」
「ん?」
 その声が小さかったせいで言葉を聞き取れなかったのか、大樹は怪訝な顔をする。
「本当に……それだけで、いいの?」
「…………」
 響子の問いかけに大樹は何も答えようとしない。
「私が……。私が、貴方と結婚すれば……借金は、なくなるの?」
 今にも溢れだしそうな涙を必死に堪え、大樹をじっと見つめ再度響子は問いかけた。
 いつまで我慢が出来るかわからない。本当は、今すぐにでも何も気にする事なく泣きたい気分だ。
 目の前に居る男の前で泣きたくなかった。自分にとって敵といっても過言では無い、名前しか知らない男の前で泣き顔なんて晒したくない。
 響子にとってやせ我慢に近いものだが、己のプライドと彼女は必死に闘い続ける。
「ああ、そうだ。俺と結婚すれば、全部借金は無くなる」
 彼女の問いかけに、大樹は大きく頷き返答する。
 彼の言葉を聞いた響子は、不意に俯くと力いっぱい両目を閉じた。そのせいか、今まで目元に溜まっていた涙がスッと両頬に筋を作る。
「手、離してください」
 そして再び顔を上げた彼女は、つい先程までの涙声では無く、まるで仕事相手と向き合うかのように少々堅い口調で口を開いた。
 彼女の言葉に、今まで何を言っても聞き入れなかった大樹が、即座に掴んでいた腕から己の手を離す。
 大樹と対峙する今の響子の顔には、先程までの不安な気持ちなど一切現れていない。
 ただ真っ直ぐに目の前に居る男を見つめている。その表情は、これから戦にでも出陣するかのような迫力が感じられた。
「解りました。私……貴方と結婚します」
 はっきりと、そして力強い声で響子は己の意思、決意を大樹へと伝える。
「ふっ……」
 そんな彼女の様子に、大樹はクスリと小さな笑いを零す。
「それじゃ、これからよろしく。俺の奥さん」
 まるでこちらを挑発でもするように、大樹は口元にニヤリと笑みを浮かべ手を差し出してきた。
 目の前に居る男は、どうしてこうも人を苛立たせるのが上手いのだろう。
 彼の言動一つ一つに激しく嫌悪し苛立ちが募る。
 しかし、ここで怒ってしまっては全てお終いになる。やっぱり結婚話は無かった事にするなんて言われたら、困ってしまうのはこちらだ。
「こちらこそよろしく。旦那様」
 響子は目の前に差し出された手を握り返すと、自分の中にある感情を全てぶつけるように大樹を睨みつける。
 そして、握り返した自分より大きくて骨張った手に渾身の力を込めた。
「こりゃ随分気の強い奥さんだな」
 渾身の力を込めて握り返しているというのに、大樹は痛みなど一切感じていない様だ。
 未だ口元に笑みを浮かべたまま、表情を変える事無く再び響子の怒りを増幅させる大樹。
「ごめんなさいね、可愛げのない女で」
 怒りのあまり、どこか顔の血管がプツリと切れてしまうのでは、などと頭の片隅で薄らと考える。
 そして引き攣った笑みを浮かべながら、響子は握手を交わしている手に更に力を加えた。
 借金返済のためにと決断した響子。そして、そんな響子の両親の借金を肩代わりすると言った大樹。
 二人の間に愛情なんて言葉は存在しない。云わばこれは契約だ。
 婚姻届という名の紙の上で契約を交わした二人は、晴れて正式な夫婦となる。
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