契約書は婚姻届

2.突然すぎる求婚

母親に促されるまま、響子は強制的に空いている席へと座らされた。
 隣にいる母も斜め向かいにいる父も、久しぶりに見る娘の姿に笑顔を浮かべている。
 響子にとってそれは特に問題視する事では無い。それどころか、久しぶりの両親との再会に加え、二人の元気な姿を見れてホッとしている。
 目下の問題は、自分の目の前に居る男について。
 一目見て感じた響子の彼に対する印象は、だらしないオジサンだった。
 黒い髪は櫛を通していないらしく、毛先が無造作に色んな方向へ跳ね、顎には無精ひげが生えている。どう見てもこの場の雰囲気に合わない人だ。
 そんな男でも、自分の居る場所が高級料亭と理解しているらしい。
 白いシャツの上にグレーのストライプ柄が入ったスーツ姿。そして、その胸元には紺色のネクタイをしている。
 そのミスマッチさ、そして今も尚お猪口片手に酒を飲み続けている彼の様子に、響子の疑問はどんどん増えていく。
「ちょっと、お母さん。一体どういう事か説明してよ」
 響子は母の耳元に顔を近づけ、こそこそと耳打ちする。しかし、静けさに包まれた室内では全く意味をなさなかった。
「それはね、その……」
 響子の母尚美は、娘の言葉に何故か視線を逸らし口ごもる。
「それは俺から話そう」
 その時、今まで一人酒を飲み続けていた男が突然口を開いた。
 響子は反射的に目の前に居る彼の顔を凝視する。自分よりかなり年上に見える見た目に比例し、少し低めの落ち着いた声が彼女の耳に届いた。
「まずは自己紹介か。俺の名前は浅生あそう大樹だいき。浅いに生と書いてアソウ。大樹は大きいに樹木の難しい方のキだな」
 親切丁寧に自分の名前の漢字まで教えてくれた男――浅生大樹の顔を響子は無言で見つめる。
「水越響子さん」
「はい」
 自分の名前を呼ばれ響子は大樹を見つめたまま返事をする。この時、初めて二人は言葉を交わした。
「今日ここに来てもらったのは、俺があんたに用事があったからだ」
 そう言うと大樹は、自分の傍に置いてあった鞄を膝の上に乗せ、何やらごそごそと探し始める。
「俺からあんたへの用件は一つ。……この書類に、サインして欲しい」
 そう言って大樹がテーブルの上に一枚の紙を置く。
 響子は、テーブルの上に置かれた紙に書いてある文字を目にし息を呑んだ。
 何故彼女がそこまで驚いたのか。その理由は、大樹が響子へ差し出した紙が白紙の婚姻届だからだった。



「…………」
 響子は驚きのあまり、自分の目の前にある婚姻届をただ見つめるだけ。
 その様子を見つめる大樹は、再び口を閉ざしてしまった。
 そして婚姻届を見つめる響子の視線は、どんどん鋭いものへと変わっていく。
「見ず知らずの人と結婚なんか出来ません!」
 今にも爆発しそうな感情を必死に抑えつけるも、彼女の声量は少し大きくなっていた。
 きっぱりと自分の意思を伝え、じっと目の前に居る男を見つめる。
 もう二十五歳になり、前から度々結婚について母親から催促されていたので、最初は両親が自分を騙して連れてきたお見合いの席かと考えた。
 今まで一度もお見合いなんてした事が無い。だから、どのように行われるかなどほとんど知らなかった。
 ドラマなどで何度か見た事があるお見合いシーンの知識しか持っていない響子にとっても、この場の雰囲気や流れが、普通のお見合いと違う事はすぐ理解した。
 初対面でよく知らない相手に対し、いきなり婚姻届を突き出してくるなど常識として考えられない。
「俺と結婚しないと、困るのはあんたの親父さんやお袋さんだ」
「えっ」
 これで解放される。そう思っていた響子へ告げられたのは、衝撃的な言葉だった。
 この人と結婚しないと、お父さん達が困るってどういう事なの。
 響子は慌てて両親の方へ視線を向ける。しかし、娘の視線から逃げるように栄一も尚美も顔を伏せていた。
「ね、ねえ……どういう事なの? お父さん、お母さん。どうして私が、この人と結婚しないと困るの?」
 響子は、震える声で両親へ問いかけた。その様子を見た栄一は、今にも泣きだしそうになりながら、ぽつりぽつりとこれまでの経緯を語りだした。
「お前も知ってるだろ。昔から仲が良かった、加藤のおじさんの事は」
「うん。最後に合ったのは、高校に入る前だけど」
 加藤のおじさんという人物は、響子も知っている父の友人の名前だ。小さな工場を夫婦で経営しており、小さい頃は何度か響子も加藤家に遊びに行った事もある。
 響子が高校に進学すると勉強や部活動で忙しくなり、それからは疎遠になってしまっていた。
「何年か前から、工場の経営が苦しくなってるとは聞いていたんだ。そして、絶対に迷惑はかけないからって言われて、父さん保証人になったんだよ。そしたら三ヶ月くらい前に、突然家に借金の取り立てが来てな。……ぐすっ……加藤が逃げたから、……っ、代わりに、三千万払ってくれって」
「…………」
 父からの説明に、響子は彼に掛ける言葉を失った。
 悔しさのあまり涙を流す父が受けた友人からの裏切り。信じていた人から裏切られただけでは無く、三千万円の借金を背負う事になった父親。
 今まで弱音など一切自分に見せたことの無い彼の初めての泣き顔に、響子はただ俯くばかりだった。



 突然背負う事になってしまった、三千万円という高額の借金。予想していなかった事態に響子は未だ混乱していた。
 思い出すのは、最後に会った時に見た加藤おじさんの笑顔。父とあんなに仲が良かった人が、今は借金を残して逃げてしまったなんて未だ信じられない。
 しかし、いつまでも落ち込んでいるわけにはいかないと、響子は思い切って顔をあげた。
「とにかく、少しでも借金を返さなきゃ。私の貯金全部使っていいから……って、五十万円も無いんだけど。あと、これからは毎月仕送りするから」
 社会人になってから、少しずつではあるが貯金していたお金を使えばいい。そして、これからはもっと節約をして毎月借金返済のために仕送りをしよう。
 自分に出来る事は何か、少しでも返済額を少なくするためにはどうすれば良いかなど、響子は必死に考え始めた。
 口に出す言葉は前向きなものばかりだったが、彼女の気持ちはどんどんと暗いものになっていく。
 自分の貯金を使ったって、いくら仕事を頑張って仕送りをしたからって返せるわけがない。三千万なんて借金を返すのに、何年いや何十年かかるのだろう。
 響子は途方にくれていた。まるで自分達家族が、突然ゴールの見えない暗闇に放り出されたような気分になる。
「俺がその借金を返してやってもいい」
 その時、静かにこの状況を静観していた大樹が、突然水越家の会話に入り込んできた。
 何故見ず知らずの人間である大樹が、三千万円の借金を簡単に返してやっても良いと言うのだろう。
 自分達では到底返済など出来ない借金だ。もし本当にこの人が借金を返してくれるなら、これ以上嬉しい事は無い。
 困惑する響子をしりめに、大樹は更に言葉を続ける。
「ただし、条件がひとつだけある」
 借金を返す代わりに自分から条件があると言い出した大樹。それは当然の事だと響子は思った。
 何の見返りも無く他人の借金を肩代わりしてくれる人なんて、そう簡単には見つからないだろう。
 お父さんとお母さんのために、私が出来る事は何でもしよう。響子は、これから提示される条件が理不尽なもので無い限り、受け入れようと覚悟を決めた。
「あんたが俺の妻になる事だ。そしたら、金は出してやる」
 そんな彼女の瞳を見つめながら、大樹は自らの要求を伝えた。改めて響子のすぐ目の前へ差し出した婚姻届と共に。
Copyright 2013 Rin Yukimiya All rights reserved.

inserted by FC2 system