契約書は婚姻届

1.母からの電話

「それじゃ、私はこれで」
 その日、水越みずこし響子きょうこは三年間付き合った恋人に別れを告げた。二人が別れた原因は男の浮気。
 今までにも、何度か疑わしい出来事に出くわしてきた響子だが、その度に目を瞑っていた。
 しかし、積み重なってきた彼への不満は、既に彼女の限界を超えていたのかもしれない。
 そんな悶々とした日々を過ごしていた響子だったが、数日前、自分以外の女を連れて歩く彼氏の姿を目撃し、即座の別れを決断した。
 喫茶店のテーブル席に座っていた響子は、向かい合うように座る元恋人と視線を合わせようとはしない。
 そしてテーブルの端に置いてあった伝票を手に取り、自分の横に置いてあったチョコ色の皮製ショルダーバッグを持ち一人レジへと向かう。
「千四十円のお会計になります」
 会計を済ませ女性店員からお釣りを受け取ると、響子はそのまま入り口のドアを開け店を出て行く。
 外に出ると、十月ということもあり既に空は暗くなっていた。彼女は自宅へ帰るため人々が行き交う道を歩き始めた。
 バッグの中から携帯電話を取り出し、歩きながら現在の時刻を確認する。
「はあ」
 現在の時刻は六時四十七分。響子は時刻が表示された携帯電話の画面を見つめ溜息を吐く。
 そして一旦足を止め、たった今喫茶店を出て歩いてきた道を振り返る。瞳に映る人々はたくさん居るが、その中に先程まで一緒だった男の姿は無い。
「馬鹿みたい」
 彼女の自嘲的な呟きは、雑踏の中に消えていく。
 自分から別れを告げた事に後悔はしていない。自分から願った結末なのだから、文句なんて一つも無い。
 それなのに、心の何処かで彼が追いかけてきてくれるのでは、と微かな期待を抱いていた。そんな純情な少女の様な事を考えた自分が、響子にはとても可笑しく思えた。
 追いかけてきてくれないという事は、もう彼の中に自分に対する気持ちは残っていないという事なのだろうか。
 自分の方から別れを切り出したはずなのに、まるでこちらが捨てられたみたいだ。
 こんな事を考えるなんて、まだ彼に対して未練がある様ではないか。
 彼女の頭の中でいくつもの負の感情が湧きあがってくる。
「そんな事考えても無駄じゃない」
 そして、そんな自分の中に渦巻くもやもやとした想いを断ち切るように、響子は一人声を発し再び歩き始めた。



 それから三十分程経った後、彼女はマンションの自分の部屋へと帰ってきた。
「……っと」
 履いていた黒のパンプスを脱ぎ、そのままリビングへと向かう。
 そしてショルダーバッグをオフホワイトのソファーの上へ、帰宅途中にコンビニで買った弁当とプリンが入った袋を木製の四角いテーブルの上へと置いた。
 着替えるために羽織っていたトレンチコートを脱ごうとした時、響子はソファー横の棚の上にある電話機のボタンが光っている事に気付いた。
 留守番電話に、何か自分への用件が録音されているようだ。彼女は録音された用件を聴く為、電話機のボタンを押す。
『……用件は一件です』
 響子はコートを脱ぎながら、録音されているであろうメッセージを聴く事にした。
『響子、元気にやってるの?』
「え、お母さん」
 留守番電話に録音されていた人物の声に、彼女は驚きのあまり声を上げてしまった。
『ちょっと話したい事があるの。だから、仕事が終わって帰って来たら連絡ちょうだいね』
 それは響子の母親、尚美なおみからのものだった。
 今年の正月に電話で会話をしたのが互いの声を聞いた最後。それからはずっと、メールでやりとりを続けていたので、両親が元気な事を響子は知っている。
「どうしたんだろ。急に話したい事って」
 突然の母親からのメッセージに首を傾げながら、彼女は脱いだコートを手に、クローゼットへ向かいながら誰も居ない部屋で一人呟いた。
 ルームウェアへ着替えながら、ここ最近の母親とのメールを思い返してみる。
 そんなに頻繁では無いが、月に数回程母親からのメールが届いていた。そのどれもが娘を心配するものばかり。別に不審な点は無かったはず。
 だとしたら、メッセージにあった話したい事とは何だろう。つい三十分程前恋人と別れてきた彼女の頭の中が、今度は母親からのメッセージへの疑問でいっぱいになった。
「……よし」
 響子は通勤用に着ていたベージュ色のスーツから、いつも自宅で着ているライトグリーンのルームウェアに着替えた。
 そして、今まで下ろしていた落ち着いた茶色の髪をヘアゴムで一つに纏め、ブラウスなどの洗濯物を洗濯機のある洗面所へ持っていく。
 洗面台のすぐ横にある白い洗濯機。その隣にはオレンジ色の洗濯籠が置かれている。彼女は持っていた洗濯物を洗濯籠の中へ入れると、再びリビングへ戻っていった。



 リビングへ戻ってきた響子は、テーブルの上に置いておいたコンビニの袋から先程買ったのり弁当を取り出す。そしてバッグの中から携帯電話を手に取った。
 その二つを持って彼女はキッチンへ向かい、弁当をキッチンにある電子レンジに入れ温め始めると、手に持っていた携帯電話を操作し母親の尚美へ電話を掛け始める。
『……もしもし、響子?』
 数回のコール音の後、彼女の耳に母親の声が届いた。
「もしもしお母さん。留守電聞いたけど、私に話したい事って何?」
 母親に用件を尋ねた時、電子レンジのタイマー終了を告げる音がキッチンに響いた。
『何、じゃないわよ。まさかまた外で何か買ってきたんじゃないでしょうね? あれ程自炊しなさいって何度も言ってるでしょ』
 電話の向こうから聞こえてくる言葉に、また始まったと響子は内心溜息を吐いた。
 昼食は友人と外でランチを食べる事が多い響子は、朝食と夕食くらいはと、ほとんど自炊の生活をしている。
 しかし、たまには手を抜きたいなんて気分の時は、今日のようにコンビニで夕飯を買ってくる事もあった。
 母親の尚美は、まるでセンサーでもついているかのように、決まって響子が自炊しない日に電話を掛けてくる。
 響子はその事に前から気付き、たまにコンビニ弁当を買ってくると、今日は電話が掛かってくるかもしれないと思うまでになっていた。
 彼氏と別れた日に、自分のために料理を作る気になる女性はきっとあまり存在しないだろう。
 そんな状況も合わさってか、母親の小言がいつも以上に響子をイラつかせる。
「だから、何回も言ってるでしょ。夕飯を買うのは時々だって。今日はご飯作りたくなかったの!」
『っ……きょ、響子』
 彼女は思わず、母親に向かって声を荒げてしまった。突然声を荒げた娘に、尚美も驚きを隠せない様子だ。
 響子は自分の発言をすぐに後悔した。いくら苛立っていたとは言え、お母さんにあんな事を言うなんて。
「……ごめん、言い過ぎた」
 自責の念に駆られた響子は、携帯電話に向かって呟くように謝罪の言葉を口にする。
『いいよ。お母さんこそ、言い過ぎたわ』
「それで……私に話があるって、一体何なの?」
 互いに謝り落ち着きを取り戻した二人。そして響子は再び、母親に同じ質問をぶつけた。
『ああ、その事なんだけどね。今度の日曜日、何か予定あったりする?』
「今度の日曜日? ちょっと待って」
 そう言うと響子は、携帯電話を耳に当てたままリビングへ小走りで戻っていく。
 そして、ソファーの上に置いたバッグを開け、中から四葉のクローバーが四隅にプリントされた、オフホワイトのスケジュール帳を取り出す。
「えっと、今度の日曜日は……特に予定は無いよ」
 指定された日の予定を見ると、スケジュール帳にはその日の予定は何も書かれていなかった。
『それは良かった。ほら、白桜亭はくおうていっていう料亭があるでしょ? そこにね、その日のお昼に来て欲しいの』
「白桜亭!?」
 響子は、母親の口から聞こえてきた店名に驚愕するばかりだった。
 白桜亭とは、響子が住んでいる場所から少し離れた郊外に存在する高級料亭だ。
 テレビなどで見た事はあっても、まさか自分が行く事になるかもしれないなど、彼女は今まで思ってもいなかった。
「お母さん。何馬鹿な事言ってるの? お父さんのお給料と私のお給料を合わせたって、あそこで食事なんて出来るわけないじゃない」
 響子の考えは当然なものだ。響子の父親である水越みずこし栄一えいいちは会社員、母親である尚美は専業主婦。そして響子自身はOL。
 そんな一家が訪れるような所では無いと、普通この話を聞いた誰もが思うだろう。
『大丈夫だから。ね? だから、必ず日曜日はそこに来てちょうだい。お願いよ。……あ、お父さんが呼んでるから、それじゃまたね』
「ちょっと、おかあさ……。嘘でしょー」
 響子が詳しく話を聞く前に、尚美は夫に呼ばれたと言ってさっさと電話を切ってしまった。
 その後、通話が切れた携帯電話を見つめ、響子はあまりに急展開な状況を現実とは受け入れられず、立ち尽くすしかなかった。



 そして、約束の日曜日がやってきた。
 響子はタクシーを降りると、目の前に現れた威厳ある佇まいをしばし呆然と見つめる。
「こんな所、一般人が入るお店じゃないって」
 予想以上に自分には不釣合いな場所ではと、彼女は自分の着てきた服へ視線を向ける。
 高級料亭など無縁だと思っていた響子にとって、まず困ったのは着ていく服だ。
 インターネットで色々調べたりもしたが、結局何を着ていくか決められなかった。
 仕方無いと、家にあったグレーのマーメイドスカートに同じ色のジャケットを着ていく事に決めた。
 落ち着いた色だし、スーツなら着ていても不自然では無いだろうと考えたのだ。
「本当は着物とかの方がいいんだろうけど、仕方無いか」
 母親からの電話があった日は五日前の火曜日だ。レンタルの着物を着ていくという手段も考えたが、毎日仕事で疲れてしまう彼女にそんな予算も余裕も無かった。
 一度深呼吸をし気持ちを落ち着かせようとするが、すぐ落ち着く事は出来ない。そして彼女は、緊張した面持ちのまま白桜亭の敷地内へと足を踏み入れた。
 着物姿が似合う女性従業員に連れられて響子がやってきたのは、目の前に手入れの行き届いた中庭が見える個室だった。
「それでは、どうぞごゆっくりお寛ぎ下さいませ」
 綺麗な所作で響子を個室へ案内した従業員は、室内に居る人々に一礼し、ふすまを閉めてその場から去って行った。
 響子は両手でバッグの取っ手を握り締めたまま、呆然とその場に立ち尽くす事しか出来ない。
「響子、早く座りなさい」
 そう言って、自分の隣に座るようにと促す母親。
「響子久しぶりだな」
 そう言って、娘を笑顔で見つめる父親。
「……ぷはっ、あーやっぱり日本酒は美味いな」
 そして娘の登場に喜ぶ父の隣で、何故か一人日本酒を楽しんでいる無精髭を生やした見知らぬ男。
 数日前の母親からの電話ですら混乱していた響子は、目の前の状況に更に頭を悩ませてた。
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