契約書は婚姻届

10.二人の浅生さん

「ありがとうございましたー」
 予定通りマンションがある地域の駅前でタクシーを降りた二人は、自宅へ帰るため並んで歩き出した。
「あっ! あの、これ……ありがとうございました」
 歩き始めてから数分後、響子は思い出したように、今まで自分が被っていた黒のキャップを手に取り、大樹の前へ差し出す。そして感謝の気持ちからか、小さく頭を下げた。
「もういいの? 別に家着くまで被っててもいいのに」
 差し出された物と響子の顔、彼はその二つに視線を交互に向ける。
「大丈夫です。さっきお手洗いでメイクも直してきましたし」
 そう言う響子の目は未だ薄らと赤い。しかし、彼女の言う通り目元のメイクはしっかりしている。
 注意深く見れば彼女の目が赤い事に気付く人は多いだろう。しかし、道行く人々がじっくり自分の顔を見る事は無いと判断し、彼女はキャップを大樹へ返した。
「……そう?」
 あまり納得していない様だが、大樹は差し出されたキャップを受け取り、改めてそれを被った。
「…………」
「…………」
 その後、再び歩き始めた二人の間に会話は無い。
 夫の隣を歩きながら、この無言の空気が気まずくなったのか、響子は何か話題は無いかと考え始める。
「今日は、その……私の事で時間を使わせてしまってすみませんでした」
 考えた結果、口から出てきたのは夫に対する謝罪の言葉だった。
「別に大丈夫だ。どうせ予定なんて無かったし」
「えっ、何か用事があって電車に乗ったんじゃ……」
 妻の謝罪に、大樹は何一つ表情を変える事無く、またあの聞いていると気の抜けるような声を発する。
 どうやら彼にとっては、この気の抜けるような声と口調はいつもの事みたいだ。
 響子は、あの電車に大樹が乗り合わせていた理由を、用事があったからだと勝手に思っていた。しかし、大樹曰く実際は違うらしい。
「気分転換に外に出て、どっかブラブラしようかなーと思ってね。それで、適当な電車に乗ってみたら、君に会ったわけ。偶然って凄いねー」
 歩きながら、うんうんと、一人納得した様子で大樹は数回首を縦に振る。
 確かにあの出来事が偶然なら、本当に凄い確率なのだろう。
 約束をしていたわけでは無い。そんな状況にも関わらず、同じ日の同じ時間、同じ電車の車両に知り合いが乗る、否夫婦が一緒に乗り合わせる確率。
 それは、数学に詳しくない響子が考えても、相当低いものだという事が理解出来る。
 もしあの時、大樹が同じ電車の車両に乗っていなかったら。もしあの時、大樹が響子の異変に気付かなかったら。
 考えれば考える程、響子の胸の中には、大樹に対する感謝の気持ちが溢れてくる。
 いつもはムカつく旦那だが、今日の彼はいつもと違う。
 痴漢に遭った時、駅員に説明する時、公園に連れて行ってもらった時。
 今日はたくさんの場面で彼に助けられた。感謝してもしきれないくらいだ。
 この感謝の気持ちを伝えなければ、自分の気が収まりそうにない。そう思った彼女は再び口を開く。
「浅生さんの好きな物を教えてくれませんか?」
 何か彼の好きな物をプレゼント出来ればと思ったが、生憎響子には大樹の好みがわからない。
 もし選んだ物を気に入って貰えなかったらと考え、ここは素直に、本人に好きな物を聞いてみる事にした。
「へっ? 好きな物? って、浅生さんって俺なわけで。ぷっ……あは、あははは」
 響子の言葉に、大樹は最初戸惑いの表情を見せた。かと思えば、その場に立ち止まり笑い始める。
「えっ!? あの……」
 突然笑い出した夫の姿に驚き、響子は唖然としたままその場に立ち尽くす。
 人通りは多く無いとは言え、道行く人々はそんな二人の姿に不思議な顔で見つめ通り過ぎて行く。
 行き交う人々の視線など気にも留めず、しばらく笑い続けた大樹は、目に薄ら浮かんだ涙を拭いながら響子へ視線を向ける。
「いやー、悪い悪い。さっき君の言った事が変にツボに入っちゃってさ……。あー、久しぶりに笑った」
 気を抜けば再び爆笑しそうな大樹の姿に、響子は首を傾げる。
『浅生さんの好きな物を教えてくれませんか?』
 先程自分が言った言葉を思い出す。別にどこも変な箇所など無い普通の質問のはず。
 普通の質問のはずなのに、何故彼は笑っていたのか。響子の中で更に疑問が大きくなっていく。
「私、何か可笑しな事言いましたか?」
「可笑しな事って……ぷっ」
 爆笑する理由が解らず首を傾げる妻の姿に、大樹はまた笑いそうになるのが、必死に堪えている様だ。
「だってさ、君も今浅生じゃん?」
「えっ?」
 笑いを堪えながら大樹が言った言葉の意味を、響子はすぐに理解出来なかった。
「だから、君と俺は今夫婦。だから君の名字も今は浅生なの。わかる?」
「……そのくらい知ってますけど」
 まるで馬鹿にされているような気分になった響子は、自分を見つめる大樹の視線から顔を背ける。
「それなのに……くっ……俺の事浅生さんって……あははは」
 我慢の限界だったのか、彼は再び盛大に笑い始める。
 彼の笑い声を聞きながら、響子はようやく目の前に居る男が笑った理由に気付いた。彼が笑った理由。それは、響子が大樹の事を『浅生さん』と呼んだかららしい。
 彼女自身も戸籍上では名字が変わり、現在は浅生響子になっている。そんな状況で大樹の事を名字で呼んだ事が、彼にとってはツボだった様だ。
「……っ」
 言われてみれば確かにそうだと気付いたのか、響子の頬はどんどん赤くなっていった。



「ねぇ、まだ怒ってる?」
「…………」
「さっき笑った事謝るからさー。悪かったって」
「…………」
 あれから二人は、こんなやりとりをずっと続けている。やりとりと言っても、大樹が一方的に謝るばかりだ。
 響子は無視を決め込み、帰宅するための道を無言で歩き続けている。
 こんな事、二十代半ばにもなった大人として恥ずかしいと、彼女は充分理解していた。
 まるで拗ねた小さな子供みたいな対応など、すぐに止めてしまえばいい。しかし、それが簡単に出来ない事が問題だった。
 大樹との結婚について公にしないという約束があるため、響子は今も会社では旧姓の水越を名乗っている。
 そのせいなのか、自分は浅生響子ではなく、二十年以上慣れ親しんだ水越響子と未だに認識している事が多い。
 それに、病院などプライベートで名前を呼ばれるような場所にしばらく行っていないため、自分の名字が浅生に変わった事などすっかり忘れていた。
「んー……どうしたもんか」
 ずっと無視され続けているせいなのか、大樹は響子のすぐ後ろを歩きながら何やらボソボソと独り言を呟く。
「おっ? ね、ちょっとちょっと」
「……?」
 突然背後から聞こえた自分を呼び止める声に、思わず立ち止まってしまった響子は、何事かと後ろを振り返る。
「ちょっとここ寄っていこう」
 そう言って大樹が指差した先にあるのは、上品な雰囲気が漂う外観のお店。看板に店名らしき言葉が書いてあるものの、響子にはその読み方がわからない。
「いらっしゃいませ」
「…………」
 大樹に誘われるまま店内に入った響子は、目の前に広がる光景に驚きを隠せなかった。
 落ち着いてた内装の店内には、数名の女性スタッフとお客さんの姿。
 そして、響子の視線を惹きつけて離さないのは、入り口から入って正面に設置されている様々な種類のケーキが並んだショーケースだ。
「いらっしゃいませ、浅生様」
「どうも」
「えっ……」
 そして響子は、自分の耳に飛び込んできた会話に思わず大樹の方を向く。
 するとそこには、この店の女性スタッフと親しげに話す旦那の姿。
 上品な雰囲気の外観、落ち着いた店内の雰囲気から察するに、ここは高級と言われる部類に入るケーキ店のはず。
 そんなお店に大樹が来る事自体驚く事なのに、更にこの男はお店の女性スタッフと親しく話す仲らしい。
 普通ケーキを買いに来た人の名前を、お店のスタッフが覚えているものなのか。そんな疑問が響子の頭を過る。
 このお店は、お客さんの名前を覚える決まりだと言われればそれまでだが、普通は店員が客の名前など覚えるわけは無い。
 しかも、あんなに親しげに話しているという事は、大樹は何度かこのお店に来ているという事。
 あの外見とケーキという相反する二つの存在が、まったくと言っていい程頭の中で結びつかない。
「そんな所に突っ立ってないで、こっちに来れば?」
 今まで店員と話していた大樹が、突然自分の方を向き手招きしてくる。彼の言葉に、自分が店の入り口傍に立っていると気付き、響子は慌てて大樹の近くへ向かった。
「浅生様、本日はどのような商品をお求めでしょうか?」
「うーん……そうだな。今日はシュークリームにするか。それじゃシュークリーム十個と……何か食べたいのある?」
 店員の言葉に、ショーケースに並んだケーキを眺め悩んでいた大樹だったが、シュークリームを大量に買うと言い出したかと思いきや、いきなり傍に居る響子に声を掛けてきた。
「わ、私ですか?」
「うん、だって君しかいないでしょ」
「……ふふっ」
 突然どのケーキを食べたいかと聞かれ、まさかその問いが自分に向けられたものだと思っていなかった響子は驚きを隠せなかった。
 君以外誰に聞くの、とばかりに大樹は不思議そうに妻を見つめる。
 そんな二人のやりとりを見た女性店員が、微笑ましそうにクスリと笑った。
 大樹とのやりとりを笑われてしまったせいか、響子の頬はわずかに熱を帯びる。
 恥ずかしい。今すぐにでも逃げたい。
 今彼女の中には、この二つの言葉しか無い。しかし、実際にこの場から逃げ出せるわけも無い。
 こうなったら、さっさとケーキを買って大樹と共に店の外へ出よう。
 そう決意した響子は、改めてショーケースに並ぶケーキへ視線を向けた。
「…………」
 しかし、ショーケースに並ぶケーキの値段を見た彼女は無言で固まってしまった。
 予想はしていたが、ケーキ一つに払う値段が高すぎる。
 一人暮らしを始めてから、時々自分へのご褒美としてケーキを買った事は何度かある。
 その時に買っていたケーキの倍近くの値段表示が、次々と彼女の目に飛び込んでくる。
 あのケーキは見た目が可愛い。あのケーキはどんな味がするんだろう。値段など気にしなければ、食べたみたいケーキはいくつもある。
 そう思ってはいても、実際に買うとなればまた話は別だ。
「私は……今日は遠慮しておきます」
「そう? ここのケーキどれも美味しいよ?」
 こんな高いケーキが不味いわけが無いでしょ、と心の中で大樹にツッコミを入れ、女性店員へ視線を向ける。
「また今度、買いに来ますので」
 少々ぎこちない笑みを浮かべながら店員に向かい小さく頭を下げる。
 ショーケースに並ぶケーキを全て食べてみたい、と思う反面、もう二度とこの店には来ないんだろうな、と響子は思ってしまった。
「そんじゃ、今日はシュークリームお願いね」
「はい、シュークリームを十個ですね。少々お待ちくださいませ」
 女性店員は二人に軽く頭を下げると、作業スペースへ向かい、商品を持ち帰るための箱を組み立て始める。
 その様子を眺めながら、響子の視線は時折ショーケースに並ぶケーキへ向けられる。
 やっぱりどれも美味しそうだな。食べてみたいけど、やっぱり高いし。
 ケーキを選ばなかった事を後悔しつつも、やはり値段の事を気にしてしまう。
 響子は会計が終わるまでの間、店に並ぶケーキを忘れないように目に焼き付けていた。
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