契約書は婚姻届

11.シュークリームの行き先

 シュークリームを大量購入し店を出た二人は、再び自宅を目指し歩き出した。
「…………」
 二人の間にやはり会話は無い。
 その変わり、先程から響子の視線は隣を歩く大樹の顔、そして彼が持つシュークリームが入った箱へ交互に見つめる。
『それじゃシュークリーム十個』
 ただでさえケーキが似合わない男が、こんなに大量のシュークリームを買ったのは何故だろう。響子はその事が疑問だった。
 顔に似合わず実は大の甘党で、シュークリームやケーキが大好きなのだろうか。そういう理由なら、あの高級ケーキ店での様子にも納得がいく。
『……もぐもぐ。……あむ。……あー、最高ー!』
 大量のケーキに囲まれ、幸せそうにそれらを頬張る大樹を想像してみる。そして彼女は、その想像をした事を酷く後悔した。
「……ないわー」
 想像した場面があまりにも衝撃的だったのか、響子は頭を抱え独り言を呟く。
 実際にもし大樹が甘党で、ケーキが大好きだったとしても、それはそれで文句を言うつもりは無い。
 しかし、彼がケーキを食べる時、出来るなら同席は遠慮したいと思ってしまう。
「何か落し物でもした?」
 その時、不意に聞こえた声に立ち止まれば、隣を歩いていた旦那が不思議そうに自分の方を見ている。
「え? いえ、別に何も落としてませんけど」
「だって今、無いわって言ったから」
 どうやら大樹は、響子の独り言を何か落し物をしたために出た一言と解釈した様だ。
「あれは、その……ちょっと昔の事思い出しちゃって。ただの独り言なので気にしないでください」
 慌てて何でもないと首を横に振る響子の姿に、大樹はそうかと頷く。今の言葉で納得してくれたらしい。
 貴方がケーキを美味しそうに食べる姿を想像してました、などと言えるわけも無い。響子は夫が納得してくれた事に心底安心する。
「シュークリーム、お好きなんですか?」
 話題転換のためにと、先程買ったシュークリームについて響子は質問をした。その時、ふとこのまま大樹の好きな物も知れるのではと考えた。
 大量のシュークリームの謎も、夫の好きな物も聞ける話題。これは一石二鳥だと、自分で自分を褒めたくなる。
「別に嫌いじゃないけど……あ! もしかして君、このシュークリームを全部俺が食べると思ってるんでしょ?」
 妻の質問に、自分が手に持つ箱を眺めながら答える大樹だったが、響子が考えていた事に気付いたとばかりに問いかける。
「…………」
 図星のせいか否定する事が出来ず、彼女はスッと夫の視線から目を逸らした。
「その顔は……当たりっぽいね」
 その反応を見た大樹は、ニヤニヤと楽しそうな表情でこちらを見つめる。今すぐ顔を引っ叩きたい衝動に駆られる響子だが、なんとか理性で抑え込む。
 この男と接すると、必ず一度は手が出そうになるから困る、と溜息を吐きたくなった。
「あははっ! 流石に十個も食べれないって。これはね、お土産」
「お土産?」
 笑い声の後に聞こえた単語を思わず繰り返す。
 今日はこのまま家に帰る予定のはずだ。それなのに大樹は大量のシュークリームをお土産に買った。日持ちする食べ物では無いから、今日中か遅くても明日中には食べないといけない。
 しかし、お土産を持って急遽どこかへ行くなど彼の口から聞いたわけでも無い。それでは、このお土産のシュークリームの行先は一体どこなのだろう。
「そ、いつもお世話になってるから、あの人達にお土産」
「どなたへのお土産なんですか?」
「もうちょっとすれば、すぐにわかるよ」
 その後、何度お土産を渡す相手について尋ねても、大樹は答えをはぐらかすばかりだった。



 結局、シュークリームの行き先がわからないまま、響子は大樹と共に自宅のあるマンションへと戻ってきた。
「お帰りなさいませ。浅生様、水越様」
 エントランス内に足を踏み入れれば、いつものようにコンシェルジュが出迎えてくれる。
 正確な人数は未だ把握していないが、このマンションで働くコンシェルジュは数人いるようで、響子もここで生活を始め何人かと挨拶を交わした。
 今居るのは、引っ越しの日に対応してくれた女性と、見た目が四十代くらいの男性の二人。
 どうやらこのマンションのコンシェルジュは、常に二人体制で対応している様で、響子が彼らと接する時、その時で人は変わっても二人組という体制が変わった事は無い。
 響子の事を彼らはいつも『水越様』と呼んでいる。その辺は、夫婦だという事がバレ無いように大樹が動いてくれたみたいだ。
「うん、ただいまー。はい、これ皆にお土産。今日はシュークリームにしてみたから」
 自分の少し前を歩いていた大樹が、コンシェルジュの男性にシュークリームの入った箱を手渡そうとする。
 その光景に、響子は驚きを隠せなかった。
 これは誰かへのお土産だと大樹は言っていた。そして、もう少しすれば誰への物か分かるとも。それがまさかコンシェルジュへのお土産だったとは、誰もが予想出来なかっただろう。
「……浅生様。お気持ちは大変嬉しいのですが……何度も申し上げています通り、私達はこのような物を受け取る事は出来ません」
 そう言って、男性は申し訳なさそうに頭を下げる。何度も申し上げているという事は、もしかして同じような事をいつもしているという事だろうか。
 コンシェルジュという仕事を響子はよく知らない。そんな彼女でも、目の前に居る人々が、このマンションの住人に関する様々な仕事をしているという事くらいは、理解出来る。
 嫌な思いもするかもしれない。大変な事もたくさんあるのかもしれない。
 そんな仕事をしている人達に、自分の夫はシュークリームをお土産に買ってきた。
 もし自分がコンシェルジュの立場だったら、喜んで受け取ってしまうはず。そう響子は思っていた。
 しかし、彼女の目の前で働く彼らは違った。大樹がお土産にと買ってきた物を受け取ろうとする様子は無いらしい。
「うんうん、その台詞は毎回聞いてるから。それに、いらないって言われても……俺と彼女、二人でこの量を食べきれないから。はい、それじゃよろしく!」
 シュークリームの入った箱を男性が大樹へ返そうとした時だった。大樹は、それを無理矢理男性に押し付けるように渡すと、一目散にエレベーターへ向かって駆け出す。
「あ、浅生様っ!」
 シュークリームを押し付けられた男性は、困惑しながら大樹の名を呼ぶ。
 その時、ボタンを押したせいかのか、なんともタイミング良くエレベーターの扉が開く。そしてすぐに大樹はその中へ逃げ込んだ。
「響子ちゃん、早くこっち!」
「へっ? あ、はい!」
 エレベーターの中に駆け込んだ彼は、妻の名を呼び急かすように手招きをする。その様子に、響子は反射的に返事をし、自分も夫が待つエレベーターの中へ駆け込んだ。
「ふー、今回もギリギリセーフ」
 目的階のボタンを押し、扉が閉まったのを確認すれば、大樹が大きく息を吐く。
 今回もという事は、まさか毎回今のように無理矢理お土産を押し付けているのだろうか。
「……あの、渡しちゃって良かったんですか? 迷惑だったんじゃ」
 先程の男性と大樹のやりとりを思い出し心配になったのか、響子は隣に佇む大樹を見上げる。
「いいのいいの。お土産買ってきて渡すのはいつもの事だから。それに、困るって言ってたけど、実は皆毎回喜んでくれてるんだよ。美味しかったって言ってくれるし」
 悪戯が成功した子供のように笑みを浮かべる大樹の表情に思わずドキッと胸が高鳴る。響子は徐々に熱を帯びる頬を隠そうと、少しばかり俯いた。
「あ、別に賄賂とかじゃないよ? お菓子をあげて他の住人より待遇を良くしてもらおうとかは全く考えて無いから」
 俯いた響子の姿に何を思ったのか、大樹は少々慌てた様子で言葉を続ける。
「たださー、あの人達の仕事って絶対大変じゃん。来客の対応したり、住人からのクレームにも応えなきゃいけないし。絶対ストレス溜まってる。甘い物くらい差し入れても、バチは当たんないって」
「そう……ですよね、十人でシフトを組んでるとは言え、やっぱり大変そうだし」
 大樹の言葉に響子は頷くしかなかった。あの仕事は、肉体的というより、どちらかと言えば精神的な面でかなり負担が大きい仕事だと思う。
 そんな彼らを労い、差し入れを渡すくらいの事はしてもいいはずだ。それに、貰った本人達も喜んでいるとなれば、悪い事をしているわけでは無いのだろう。
「十人もいないよ、ここで働いてる人」
「えっ? だって、シュークリームは十個買いましたよね?」
 買ったシュークリームの数から、ここで働く人々は十人と響子は思っていたが、それをあっさりと否定された事に困惑する。
 ケーキ店での注文を聞き間違ったとは考えにくい。確かにあの時、隣に居るこの男はシュークリームを十個注文していた。
「そうか、だから十人って。あれはね、さっきの男の人……橋本はしもとさんって言うんだけど、彼の奥さんと子供達の分。それにその隣に居た女の人、美沙みさちゃんの彼氏の分も入ってるの。働いてる人、家族、彼氏、全員で十人分なんだよ」
「…………」
 大樹から説明された内容に、響子は唖然とするばかりだ。ここで働く人達への差し入れだけではなく、彼らの家族や恋人の分まで計算し、買い物をしていたとは驚かされる。
 いくらシュークリームと言え、あの高級店で買った物。普通の店で買った物とは味も値段も大違いだろう。隣に立つ男は、それを何の下心も無く渡した。
 ケーキ店の女性店員も、コンシェルジュの二人も、大樹と接する時の雰囲気がほんの少し柔らかかった気がする。響子はその理由について、彼のこのような行動にあるのだろうかと考えた。



「あー!」
 目的階に到着し、自宅へと続く通路を歩いている時の事だった。突然、大樹が大きな声を上げ立ち止まる。
「……っ! ど、どうかしました!?」
 突然すぎる大声に驚き、響子の肩が大きく上下する。彼女は慌てて大樹の顔を見上げ声を掛けた。
「あー……さっき、さ。焦ってたからなんだけど、名前……咄嗟に呼んじゃって、ごめんね?」
「へっ?」
 自身の頬をポリポリと掻きながら、申し訳なさそうな視線を妻へ向ける夫。そんな彼の言葉に、響子は思わず固まってしまった。
 何か大変な事でも起こったのかと焦ったが、夫の口から発せられた言葉を冷静に思い出した途端、一気に体中の力が抜ける。
『名前……咄嗟に呼んじゃって、ごめんね?』
 彼の言葉を聞いて思い出したのは、マンションに帰ってきた時の出来事だった。
『響子ちゃん、早くこっち!』
 そう言えばあの時、確かに大樹の口から自分の名前を聞いた気がする。しかし、まさかそんな事を謝られるなど夢にも思っていなかった。
「いいですよ……名前くらい呼んだって。はぁ……何かもっと大変な事が起きたのかと思ったのに。焦って損した」
 体中の緊張が解け、体を支えるため響子はドアとドアの間にある壁に背中を預ける。
 まさか名前を呼んだ事くらいで、この人はあんなに焦っていたのだろうか。そう思うと呆れるしかない。
 思い返してみれば、ちゃん付けで名前を呼ばれたのは何年ぶりだろう。もしかしたら小学生の時以来かもしれない。
 中学校へ進学してからは、名字や名前の呼び捨てがほとんどだった。たまにあだ名などもつけられたが、それもあまり多くは無い。
「……あれ?」
 その時、不意に響子はある事に気付いた。もしかしたら、大樹に名前を呼ばれたのは初めてかもしれない。
 彼と出会ってから接した記憶は数える程。その時、彼の口から自分の名前を聞いた事は無い。
「それじゃ、これから名前呼んでいい?」
 不意に耳に届いた問いかけに視線を向ければ、こちらを見つめる夫の姿。響子がいいですよ、と頷けば大樹は口元に微かな笑みを浮かべる。
 それに気付く事無く、響子は寄りかかっていた壁から離れ再び歩き出す。そんな彼女の後に大樹も続いた。
 そして歩く事数メートル、自宅到着した響子は、持っていたバッグの中から玄関の鍵を取り出しドアを開ける。
「ただいまー」
 玄関に入ると、背後から大樹がただいまと言い、靴を脱いだかと思えば、一人でさっさと家の中へ入って行く。
『ただいまー』
 つい数秒前に自分の背後で聞こえた声を、響子は玄関に佇んだまま何度も思い出していた。
 今まで何度も、この家には自分一人しか居ないのでは、と考えてしまう事があった。
 一人暮らしをしている間、家に帰ってきて『ただいま』などと言った事は無い。もちろん、この家に来てからもだ。
 大樹が何気なく発したであろう『ただいま』という言葉に、何故かじわりと胸が温かくなる。
 自分は一人では無いと言われているような感覚。この家に住んでいるのは自分と大樹の二人なのだと、不思議な実感が湧いてくる。
 たった一言の挨拶。しかしそれが、響子にとっては嬉しいものだった。
 玄関で温かい気持ちに浸っていると、何やら廊下の奥からガタガタと騒がしい音が聞こえてくる。
「……なんの音?」
 何かを探しているような、酷く焦った音に響子は首を傾げる。
 何事かと思い慌てて履いていた靴を脱ぎ、急ぎ足で廊下を進む。
 そしてリビングに辿り着いた彼女が目にしたのは、いくつもの引出しを開け、何かを必死に探している旦那の姿だった。
 引出しを開けては中を探り、また違う引出しを開けては中を探る。目的の物が見つからないのか、大樹の顔にだんだんと焦りの色が見え始める。
「あの……何か探し物ですか?」
 そのあまりの必死さに一瞬躊躇するも、思い切って声を掛けてみる。
 すると、妻の声に気付いた大樹が顔を上げ、片手で自身の腹部を触る。
「えっとさ……胃薬なんて、持ってない……よね?」
「い、胃薬ですか? 多分……無かったと思いますけど」
 突然胃薬を持っているかと聞かれ戸惑うも、響子は自分が持っている薬を思い出す。現在ある薬を思い出すが、何度考えても胃薬は切らしていたような気がする。
「何でこんな時に限って切らしてるんだ。この歳でバーガー二個はきつかったかな……」
 大樹の言葉に、響子はハンバーガーショップでの出来事を思い出す。
 大樹は、自分が注文した照り焼きバーガーだけでは無く、響子が残したハンバーガーも食べていた。確かフライドポテトまでつまんでいた気がする。
 要するに、大量にジャンクフードを食べすぎたせいで彼は今胃もたれを起こしているのだろう。
「私、すぐに買ってきます!」
 大樹の現状を理解した響子は、胃薬を買ってくると言いそのまま家を飛び出した。
 この日、今まで最低としか思っていなかった大樹に対する印象が、響子の中でほんの少しばかり変わり始めた。
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