契約書は婚姻届

12.年賀状事件勃発

 大樹が響子を痴漢から助けた日から、二人の関係は少しばかり変化し始めた。
「おはよう……ふぁー」
「おはようございます」
 キッチンで朝食の準備をしていた響子の背後に、大欠伸をしながら近付いてくる大樹。響子はその事に驚く様子は無く、料理を作りながら朝の挨拶を夫と交わす。
 あの日以来、二人は一緒に食事をするようになった。
 響子は色々と助けてもらった礼に、大樹の好きな物をプレゼントしようと考えていた。
『欲しい物って言われても……特に無いんだよね』
 しかし、夜になり大樹の体調も落ち着いた頃を見計らって尋ねた結果がこれだ。特に欲しい物は無いと言われてしまっては、プレゼントのしようが無い。
『……ご飯、食べます?』
 どうしたものかと考えていれば、自身の空腹に気付き、どうせならと彼女は大樹を誘った。その誘いに夫が頷いたのを見た響子は、彼の体調も考え、消化の良い月見うどんを二人分作った。
『やっぱり美味いねー。響子ちゃんの料理』
 この家に来て初めて自分以外の誰かと一緒に食べる食事。その事に少しばかり緊張していた響子だったが、夫の言動に彼女の緊張はすぐ消えてしまった。
 今まで広いダイニングルームで一人食事をし、虚しさを感じていた。しかし、今目の前に人が居る。
 誰かと一緒に食事をする事が、こんなにも嬉しい事だったのかと響子は感じていた。
 彼女が嬉しさを感じた事は、それだけでは無い。大樹が発した『やっぱり美味い』という言葉も、彼女にとっては喜びだった。
 やっぱりと言うからには、大樹は響子の料理を食べた事があるという事だろう。
 響子がこの家に来てから、自分用の食事、そして大樹用の食事を作った。
 朝料理を作っておけば、会社から帰宅する頃には、料理が乗っていた皿が綺麗に洗われている。
 それは大樹が料理を食べたという事だとは思っていたが、実際彼の口から言葉を聞くと、より実感できた。
 この人は料理を食べてくれていた。しかも、美味しいと言ってくれる。その事がとても嬉しい。
 大樹に対し不満点はたくさんあるが、一日彼と接し、ほんの僅かだが響子の考えは変わった。
 少しくらいは、こちらから歩み寄っても良いのかもしれない。そう思った彼女は、大樹に今後一緒に食事をする事を提案した。
「今日の味噌汁は……豆腐とわかめか。ふむ、定番だね」
 調理を続行する響子の横で、火にかけていた鍋の蓋を開け大樹は中身を確認する。
「変わった物が入ったお味噌汁が飲みたいなら、ご自分で作ってください」
 定番という彼の言葉に他意は無いのだろう。しかし、響子は素直になれず突っ掛ってしまう。
「俺が作った味噌汁ねー。……まったく想像出来ない。それに俺、果物とか入った味噌汁飲みたいわけじゃないしさ」
「……っ!? ……く、果物をお味噌汁に入れる人なんて居ませんよ」
 大樹が発した言葉に驚いたせいで手が滑ってしまい、響子は手に持っていた杓文字を流し台の中へ落としてしまった。
 落とした杓文字を拾い、水道の蛇口をひねると慌てて洗い直す。
 まさか変わった味噌汁から、いきなり果物入りの味噌汁を想像するとは思いもしなかった様だ。
 今包丁を握っていたら、確実に怪我をしていただろう。手に持っていたのが杓文字だった事に、彼女は心底安堵した。
 あの日以来、大樹は時折響子の予想外の発言をする事に彼女は少々手を焼いていた。
 ふざけているような発言を、ポロッと何気ない会話に混ぜてくるため、その度に響子は困惑している。
 大樹がふざけてそんな発言をしているのか、それとも違うのか、その謎が更に彼女を悩ませる。
 一人きりだった時に感じた寂しさが消えたかわりに、彼女を待っていたのは旦那に翻弄される日々なのかもしれない。



 今年もあと数日で終わろうとしているある日の夜。響子はリビングで一人ローテーブルの上に置かれた物を見て悩んでいた。
「どうしよっかな……これ」
 ペタンとカーペットの上に座り、ローテーブルに両肘をついて悩む事数十分。いくら悩んでも彼女は一向に答えを見つけられずにいる。
 テーブルの上にあるのは、これまで響子宛てに送られてきた年賀状の束。
 今年も残り僅かな状況だと言うのに、彼女は未だに年賀状を一枚も書いていなかった。
 例年は空いた時間を使って年賀状を書き、既にポストに投函し終わっている状況がほとんど。しかし、今年に限って彼女は未だ一枚も年賀状を書いていない。
「住所の部分はどうすればいいの……」
 彼女がずっと悩んでいる理由は、自宅の住所が原因だ。
 以前住んでいたマンションと、今住んでいるマンションの住所はもちろん違う。
 ただ引っ越しただけならば、現在の住所を年賀状に書き、引っ越したことを伝えればいいだろう。
 問題はその住所だ。現在響子が住むこのマンションの住所は、日本に住むほとんどの人間が一度は聞いた事がある場所。一般人の年収では住む事が難しいと思われる場所だ。
 もちろん、OLとして働く響子の収入ではこの地に住む事は難しい。そんな所にあるマンションの住所など書いた日には、絶対友人達から理由を追及されるに違いない。
 実は結婚してるの、と言えればどんなに楽だろう。そんな事を一瞬考えるも、結婚の事は公にしない約束だし、結婚したと言えば言ったで面倒事が増えそうだと溜息を吐きたくなる。
「もうちょっとで今年終わっちゃうじゃない!」
 このままでは年賀状を出せずに年を越してしまのでは、と焦りのあまり響子は頭を抱える。
「何か悩み事?」
「わっ! び、吃驚した。どうしたんですか、いきなり」
 悩むあまり頭がオーバーヒートしそうになったその時、不意に背後から大樹の声が聞こえた。
 自分しか居ないと思っていたリビングに響く第三者の声に驚き、響子は反射的に大樹の方を向く。
 そこには、上下深緑色のスウェット姿で、片手に缶ビールを持った夫が居た。
 響子が引っ越してきた日の恰好といい、今日の恰好といい、自宅で見る大樹の服装はほぼ全てがスウェット姿だ。
 色のバリエーションなど種類はあるようだが、響子から見れば違いがよくわからない。
『だって、スウェットとかジャージって一番楽でしょ。家の中で窮屈な格好したくないじゃん』
 何故スウェットばかり着ているのかと聞いた時、大樹は楽だからと言っていた。今では彼女も、逆にスウェット以外の服を着た夫を見た方が違和感があるくらい馴染んでしまっている。
「あ、驚かしちゃった? ごめんごめん。ちょっとビール取りに来たんだけど。何それ……年賀状?」
 驚いた様子の妻に対し、謝りながら手に持っている缶ビールを見せ、大樹は自分がここに居る理由を口にする。そして彼の視線は、ローテーブルの上に置かれた響子宛ての年賀状へ向けられる。
「あの、少しご相談してもいいですか?」
 このまま一人で悩み続けても解決策が見つからないと考えた響子は、突然自分の前に現れた夫に悩みを相談してみる事にした。
 相談しても無駄になるかもしれないが、このまま悩み続けるよりは何か解決策が見つかるかもしれない。
「相談? 俺で役に立つ事ならいいけど」
 妻の言葉に大樹は頷き、彼女の隣へと腰を下ろすと、持っていた缶ビールをローテーブルの上へ置いた。
「大樹さんは、もう年賀状って出しました?」
 響子は自分の隣に座った夫へ視線を向け、首を傾げながら口を開く。
 大樹に自分の名前を呼ぶ事を許可した日以来、響子も彼の事を『大樹さん』と呼ぶようになった。
 また浅生さんと呼んで大樹の笑いのツボを刺激するわけにもいかず、だからと言って大樹と呼び捨てにする事も出来ず、辿り着いたのがこの呼び方だ。
「ま、一応ね。年賀状って面倒だよねー。年賀状でしかやりとりしてない人に対してとか、何書けばいいかさっぱりわからなくて、毎年悩んじゃったり」
 それでも頑張って出すんだけど、と苦笑する大樹の言葉に、思わず響子は頷きそうになる。彼の言う通りの事を、彼女も毎年経験しているせいだろう。
「それで、何をそんなに悩んでたの?」
「実は……住所の事でちょっと」
 改めて響子は、自分が今悩んでいる事を夫に説明するため、頭の中で整理し始める。
「普通は、裏面に自分の家の住所を書きますよね」
「そうだね。表の左側に書いたりもするし」
 妻の言葉に大樹は数回頷き、この人みたいに、とローテーブルの上に置かれた響子宛ての年賀状を一枚手に取って彼女へ見せる。
「ここの住所を書いちゃうと、引っ越した事がわかっちゃうと思うんです。でも私一人のお給料じゃ絶対にこんな所住めませんから、どうしてって友達に聞かれたら面倒な事になりそうで」
 悩んでいた理由を夫に説明しながら、これが普通の結婚だったらどんなに楽だったんだろう、と頭の片隅で考えてしまう。
 友人や知り合いから祝福され、住所一つで悩む事など無く、愛する人と幸せに暮らせたらどんなに楽しかっただろうか。
 愛する人との幸せな結婚生活を想像した瞬間、何故か目の前に座る大樹の顔が思い浮かび、咄嗟に妄想の世界へ旅立とうとしていた意識を現実へと引き戻す。
 何故愛する人という想像で大樹の顔を思い浮かべてしまったのか、響子はそんな想像をしてしまった自分の足を軽く抓り、その痛みで自分の妄想を否定した。
「なるほどね。俺達の結婚は秘密だし、でもここの住所書くしか。うーん」
 響子の悩みを聞いた大樹は、何か解決策は無いかと両腕を組み悩み始める。
 抓った部分を軽くさすりながら、そんな夫の様子を眺め、どうせ何も出てこないんだろう、と彼女は思った。
 一人で悩んでいても解決しないからと、夫を頼ったのは自分自身だが、だからと言ってすぐに解決策が出るとは思わない。
 大樹の考えた案はあまり期待しない方がいいかもしれない。そう思い、再度何か名案は無いかと考え始めた時だった。
「響子ちゃんさ、郵便局で手続きした? 前の住所宛に届いた郵便とかをこっちに送ってくれるってやつ」
「え? はい、手続きしましたけど」
 大樹が言ったのは、引っ越した際、前の住所宛に届いた郵便物などを一年間無料で新しい住所宛に送ってくれるという転送サービスの事のようだ。
「それじゃ、それに頼っちゃうのは? だから、前の住所のまま年賀状を出しちゃえばいいと思うんだけど」
「えっ!? いや、それは駄目じゃないですか。わざと前の住所書いちゃうなんて」
 予想外過ぎる夫の提案に、響子は慌てて首を横に振る。すぐに頷く事の出来ない発言をされ、それを受け入れようとしない妻の姿に、まず聞いて、と大樹は苦笑する。
「今夜年賀状を書くとなると、早くても投函するのは明日の朝だ。明日の朝投函された年賀状は、元日には相手の手元には届かない。君の書いた年賀状を見て、慌てて年賀状を書く人も居るだろうけど、ほとんどの人は君が前に出した年賀状の住所宛に送ってくる。そうなると、どっちにしろ前の住所宛に届くはずだった年賀状はこっちに転送されてくると思うよ? 君が今から書く年賀状を見て、慌てて返事を書いた人からの年賀状については……郵便局の人達の手を余計に煩わす事になるかもしれないけど」
「…………」
 大樹の説明を聞いた響子は、何も反論する事が出来ず呆然と彼を見つめる事しか出来なかった。
 確かに彼の言う通り、自分が引っ越した事は両親と友人である志保しか知らない。他の友人達は、年賀状を送る時、当然以前住んでいたマンションの住所を書いて葉書を投函するだろう。
 自分が今住んでいる住所を書くにしろ、前の住所を書くにしろ、響子宛てに送られる年賀状はほとんどが転送扱いになる。
「前の住所を書く事にします」
 このまま悩んでいては、年賀状を出す前に年が明けてしまう。今年中に年賀状をポストへ投函するためと、少々納得いかない所が残るものの、響子は大樹の提案を受け入れる事にした。
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