契約書は婚姻届
13.教えて響子先生!
大樹のおかげで、響子は無事年が明ける前に年賀状をポストへ投函する事が出来た。
住所の問題を解決しただけではなく、大樹はその後、年賀状作りまで手伝ってくれたのだ。
毎年響子は、既に裏面にイラストが印刷された年賀はがきを人数分買って年賀状を作成している。
しかし、今年は仕事が忙しく、買えたのは裏面に何も印刷されていない普通の年賀はがきだった。
イラスト入りの物が無かったわけではないが、残っていた物の中に気に入った物が無かったため、彼女は普通の年賀はがきを買う事にした。
年賀はがきを買ったは良いが、住所の事で悩み時間を取られてしまったのは予想外の出来事。
再び頭を抱え、途方に暮れそうな妻を救ったのは、家で寛いでいた夫だった。
『え、まさかこれから年賀状を一から作る気だったの!? それじゃ時間掛かるだろ。ちょっと待ってて』
響子が取り出した裏面が真っ白な年賀はがきを見た大樹は、驚いたかと思った次の瞬間リビングから立ち去った。
そして戻ってきた彼が持っていたのはノートパソコンだった。
『はい、好きなの選んで』
ローテーブルの上に置いたノートパソコンを起動させた大樹は、年賀状作成のソフトを開くと響子に次々と指示を出した。
まさか大樹が年賀状作りまで手伝ってくれると思っていなかった響子は、戸惑いながらも夫の指示に従い年賀状作成を始めた。
年賀状作成のソフトがある事は知っていたが、実際にそれを使うのは彼女にとって初めての事。そのせいなのか響子は、夫婦での年賀状作成をどこか楽しいと感じてしまった。
自身が住んでいた前のマンションの住所を入力したり、年賀状を送る相手の宛名を入力したりと、大変な作業もあった。
『住所入力は大変だけど、一回覚えさせちゃったら後は楽なんだ。毎年宛名を書く手間が省けるよ』
初めての事に興味津々な響子を見て、大樹は一つ一つ丁寧に教えてくれた。
思ったよりも時間が掛かってしまったせいか、最後の一枚を印刷し終えたのは日付が変わるギリギリの時刻。
すべての作業が完了した瞬間、嬉しさのあまり二人でハイタッチをしたが、即響子は冷静さを取り戻すも、恥ずかしさのあまり、しばらく夫の顔が見れなかった。
最初は自分一人で作るはずだったのに、いつのまにか夫が手伝う形になり、その作業は大変ではあったがとても充実したものになった。
翌日、無事作り終わった年賀状を投函した帰りに、響子は手伝ってもらったお礼にと大樹が昨夜飲もうとしていた缶ビールと同じ物を一ケース買って帰った。
それを見た大樹は満面の笑みを浮かべ、ありがとうと感謝の言葉を述べる。お礼を言うのは自分の方なのに、とあまりにも嬉しそうな夫の姿に彼女は苦笑するしか無かった。
最初は最悪の印象しか抱いていなかった男に対し、少しずつではあるが、響子の中で彼の印象は日々変わり続けている。
それから数日が過ぎ、一年の終わりの日である十二月三十一日、大晦日がやってきた。
休日という事もあり、浅生家でも夫婦一緒に過ごす時間が多かった。
朝起きて朝食を済ませた響子は、年末年始の食材を調達するため買い出しに行こうとしていた。
それを知った大樹は、荷物持ちくらいはすると言い、妻にくっついて一緒に出掛けたのだ。
響子としても、自分の好みで全ての料理を作ってしまうより、一緒に買い物をした方が夫の好みも理解出来ると考え頷いた。
大樹が自分の車を出すと言い、彼の運転する車に初めて乗った響子。スーパーに向かう途中、まだ引っ越してきて数か月の妻のためなのか、彼は色んな事を教えてくれた。
目の前にある店は何を扱っているのか。この店のおススメのメニューは何か等。
日々会社と自宅の往復がほとんどだった響子にとって、大樹が教えてくれた情報は興味深いものばかり。
自宅のあるマンションから一番近い大型スーパーへ向かうと、やはり大晦日という事もあり、かなり店内は混雑していた。
人混みの中、目的の食材を探す響子の後を、ショッピングカートを押して大樹はついて行く。
時折、響子は後ろを振り返り、夫に何か欲しい物は無いか、どちらの方が好みかなど問いかける。
そんな妻の質問に答えつつ、大樹は買い物を終えるまでの間、たまに自分の方から響子に声を掛けた。そのおかげなのか、買い物客が多い店内で二人がはぐれる事は無かった。
ショッピングカートを使い、予定外の物も買ってしまったせいか、終わってみれば荷物は買い物袋二つ分にもなっていた。
レジカウンターで会計を済ませ、商品を買い物袋に詰め終わり、その量を改めて実感した響子はしばし無言になったが、そんな彼女の事など気にせず、大樹は軽々と両手に買い物袋を持つ。
『やっぱり、私も一つ持ちます。そんな大きな袋二つなんて、絶対重いですよ』
『大丈夫だって、さっきから何回言えばわかってくれるのかな。それに、重いとなれば尚更君に持たせられないよ』
流石に彼一人に任せるわけにはいかないと、車へ向かう途中何度も荷物を持たせて欲しいと大樹に訴えたが、結局最後まで響子に買い物袋が渡される事は無かった。
「お蕎麦出来上がりました」
「おっ、ありがとう」
すっかり夜になり、リビングのソファーでテレビを見ながら寛いでいた大樹の元に、響子が二人分の年越しそばをお盆に乗せ運んでくる。
大樹は今まで座っていた位置から少し体をずらし、響子が座るためのスペースを作る。
年越しそばの準備を終えた響子は、一瞬空いたスペースへ視線を向け、そこへ座る事を躊躇してしまった。
思い返せば、いつも大樹と食事をする時、ダイニングルームでテーブルを挟み、向かい合うように座っていた気がする。
現在のこの状況では、年越しそばを食べるためにソファーに座る大樹の隣に行かなければならない。
向かい合って食事をする事には慣れたが、隣同士に座っての食事は初めてだ。
年賀状作りの時も大樹は自分の隣に座っていた。別に意識する事では無い。何回も心の中で自分自身にそう言い聞かせ、響子はソファーの空いたスペースへ座る。
「やっぱりえび天買って正解だったなー。一気に豪華になった」
ふと隣から聞こえてきた声に視線を向ければ、大樹が満足そうに、ローテーブルの上に置いた年越しそばが入ったどんぶりを見つめていた。
大樹の言う通り、今日響子が作った年越しそばの上には、それぞれえびの天ぷらが二本ずつ乗っている。これは、スーパーで買い物をしている途中夫が買いたいと言い出した物だった。
『うわー、天ぷら美味そう。ねぇ、せっかくだからさ、蕎麦にえび天入れない?』
そんな事を言われ買ってきた天ぷらだが、今見てみれば確かに普通の蕎麦が少し豪華に見えるかもしれない。
一人暮らしの最中、一応は年越しそばを作って食べていた響子だったが、自分一人だからと作るのはいつも蕎麦と汁だけの質素な物だった。その反動なのか、天ぷら入りの蕎麦に少しばかりテンションが上がる。
そして、視線を料理から部屋にある壁掛け時計へ向けた響子は、ある事に気付いた。
「あ、あの。チャンネル変えてもいいですか? 見たい番組があって」
「ん? 別にいいよ。特に見たい番組とか無いし。はい、リモコン」
大樹が差し出したリモコンを受け取った彼女は、慌てて目的のチャンネルボタンを押す。するとテレビ画面には、毎年大晦日に放送される音楽番組の映像が流れ始めた。
大御所歌手からアイドルまで様々な歌手が出演し、男女別でそれぞれグループに分かれて対決するこの歌番組を、響子は毎年欠かさず見ている。
料理をしていて間に合うかどうか不安だったが、無事番組放送開始から見始める事が出来、ホッと一息吐く。
「そんじゃ、いただきまーす」
「いただきます」
隣から聞こえてきた声に、反射的に自分も手を合わせ食事前の挨拶をする。
それから二人はソファーに並んで座り、歌番組を見ながら用意した年越しそばを食べ始めた。
歌番組は順調に進行し、次々と歌が披露されていく。
毎年この番組を見る事が定番になっている響子は、初めて聞くアーティストの中で気に入った曲があると、時々そのCDを年明けに買ったりしている。
彼女にとって、知っている歌手のみならず、自分の知らない歌手の曲も聞けるこの番組は、年末年始の楽しみの一つになっていた。
『さぁ、続いてはこのグループです』
続いて紹介されたのは、今国民的人気とも言える女性アイドルグループだ。グループの人数が多く、ファンの投票によって人気に順位が付くという斬新な発想でも話題を集めている。
「ヤバいな、俺。どの子も同じ顔に見える」
「っ!? ……っ、ごほっ……ごほっ」
響子が、最近の若い子達は皆可愛いな、なんて思いながら蕎麦をすすっている時、不意に隣から聞こえた大樹の言葉に衝撃を受けた。
「あぁ! 大丈夫? ほら、お茶飲んで」
咳き込む響子の様子を目にした瞬間、慌てふためく大樹だったが、すぐに冷静になり、ローテーブルの上に置いてあったウーロン茶が入ったグラスを彼女の口元へ近付ける。
「……っ。はぁ……び、吃驚した……」
咄嗟に蕎麦が入ったどんぶりをローテーブルの上に置いた響子は、大樹が差し出すグラスを手に取ってウーロン茶を飲み干すと、ようやく落ち着きを取り戻した。
「いやいや、吃驚したのはこっちだからね」
ふと響子が零した独り言に、大樹は即言葉を返す。しかし、彼の言葉を聞いた瞬間、響子は無言で夫の顔を見つめた。
「……な、何かな?」
これには大樹も何かを感じ取ったのか、若干顔の筋肉が引き攣る。
それを見た響子は、次の瞬間ビシッと目の前にあるテレビを指差した。
「本当に、どの子も同じ顔に見えますか?」
響子が指差したテレビには、未だ曲を歌い続ける女性アイドル達の姿が次々と映し出されている。
大樹は彼女の指先へ視線を向け、顎に手を当てしばし考え込んだ。
「やっぱりどの子も同じような顔に見え……あっ! この子はわかるぞ。さっき司会者の人からインタビューされてたね。人気投票で一番になったって」
「違います! この子はグループのリーダーです。あっ、今映ってる子! この子が一位になった子ですよ」
このグループの大ファンというわけでは無い響子も、頻繁にテレビ出演しているメンバーの顔と名前は少しばかり覚えている。
流石にグループ全員の顔と名前を一致させろと言われたら無理だが、それでも大樹よりは自分の方が芸能界の知識は有りそうだと感じていた。
「どこが違うんだ。髪の色同じで、似たような髪型の子ばっかりで」
降参と言いたそうに、ソファーの背に体を預け、ボリボリと頭を掻き始めた夫の姿に、やっぱりこの人はおじさんなんだ、と苦笑するしかない。
「大樹さんは、バラエティとか音楽番組は見ないんですか?」
「全然見ないねー。だからさ、最近どんな歌が流行ってるとか、どんな芸能人が人気とかさっぱりわからないんだ。あっ! この人、この人なら分かる! ニュース番組でキャスターしてるよね。えっと、名前は……さ、さ、桜城君、だっけ?」
そう言って、大樹は何故か興奮気味にテレビ画面に映る人物を指差す。そこに映っているのは、司会を務める男性アイドルグループの一人だ。彼の言う通り、名前も合っていればニュース番組でキャスターをしているという情報も合っている。
男性アイドルばかりの大手事務所に所属し、こちらも国民的人気と言えるアイドルグループ。そんな彼らは、ここ何年もこの大晦日の音楽番組で司会という大役を任されている。そんなグループの一員をどうやら知っていたらしい。
これは当たってるでしょ、と言いたそうに、自信満々の顔で横に座る妻を見つめる大樹。そんな夫に対し、何も言わず両手の指先をくっつけ頭上に丸を作り、正解だと教える響子。
そんな響子の反応を見た大樹は、大袈裟にガッツポーズをしこれでもかと喜んだ。
「あれ? ねぇ、この番組って同じ人が二回歌っていいの? さっきも出てなかった? この女の子達」
「出てませんから!」
その後、番組が終わるまでの間、響子による大樹に対しての芸能人講座は続いた。
やはり若いアイドルグループは、男であろうと女であろうと、同性同士は皆似たような顔に見えると言い出したり。初めて出てきたアーティストを、さっきも見たと言い出したり。
音楽番組が終わる頃には、響子は運動などしていないにも関わらず、何故か酷い疲れを感じていた。
それとは逆に、大樹は普段まったく見ない音楽番組をじっくり見たせいか、妙に楽しそうな様子だ。
この日、二人の間にまた一つ大きな差がある事が明らかになった。芸能界についての知識を大樹に教え込むには、並大抵の努力では難しいと、響子は頭を抱えたくなった。
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