契約書は婚姻届

14.静寂に感じる寂しさ

『全国の皆さん、あけましておめでとうございます! 見てください、私の周りには現在たくさんのお客さん達が集まっています。朝早くから多くの皆さんが集まり、とても賑わっていますよ!』
 年が明け、一月一日の午前九時過ぎ。浅生家のリビングには、一人テレビでお正月番組の生中継を見るパジャマ姿の響子の姿があった。
「芸能人は大変だなー、朝からこんなテンション高くて。うわ、外寒そう」
 自分以外誰も居ないリビングで、ポツリと独り言を呟く。まだ目が覚めてからあまり時間が経っていないせいか、彼女のテンションはいつもより低いようだ。
 湯呑みを両手で包むように持ち、温かい緑茶を飲みながらのんびりとした時間を過ごす。
 一人でこんなゆっくりした時間を過ごすなんて、妙に久々な気がしてしまうと思いながら、響子はどうしてそう思うのかと考え始めた。
 この家に引っ越して来て数か月。自分には不釣り合いすぎる高級マンションに住み、まるでそこには自分しか居ないのではという錯覚に陥る日々が続いた。
 結婚の事、借金の事など、自由に人に喋る事もままならず、彼女は自分の中にどんどんストレスを溜め込んでいった。慣れない家や日々のストレスに、響子の精神は少しずつ削られていったのだ。
 そんな日々が続き、限界が近いのではと感じた彼女は、気晴らしにと外へ出掛けた。そして、その日を境に、響子は孤独とストレスから解放された。
『……泣いていい』
 あの日、公園で大樹が口にした一言に、響子は心を救われた気がした。
 痴漢に遭ってしまった妻を慰めるための言葉だったのか。それとも精神的に疲れ果てた妻を労わる言葉だったのか。
 あの時、大樹が口にした言葉が意味する事を理解出来るのは、きっと言った本人だけなのだろう。
 大樹がどういう想いであの言葉を口にしたのかは分からないが、そんな彼の一言をきっかけに、響子の中にあった重い物が一気に無くなったのは事実だ。
 まったく顔を合わせず言葉を交わさなかった二人の関係も、あの日を境に少しずつ変わっていった。
 一般的な新婚夫婦のように甘い生活とは程遠いが、以前に比べたら驚異的な進歩を遂げていると言える。
 未だ夫である大樹に対し、どこか他人行儀な態度を取ってしまう響子。しかし、大樹の方はそんな妻の態度をあまり気にしていない様子だ。
「あの人が居ると……何かと騒がしいからな」
 自分の声とテレビから流れてくる音くらいしか聞こえないリビング。そんな空間ですら静かだと感じてしまうのは、きっと夫のせいだ。そう彼女は感じていた。
 浅生大樹という男が、時には些細な事で大騒ぎをし、最終的に自分を振り回している人物であると認識する響子。色々と気苦労が絶えない事が多いが、そのおかげか、以前のようにこの家で孤独を感じる事は無くなった。
 夫と接する機会が増え、今まで感じていたストレスとはまた別のストレスを最近感じている。そのほとんどの原因は大樹だ。しかし、そのストレスは皆どこかあたたかい気がする。
 響子は今まで手に持っていた湯呑みをローテーブルの上に置くと、ソファーの上で両膝を抱えるように座り直す。
「……いつまで寝てるんだか」
 微かな声で呟いた言葉。彼女がちらりと視線を向けた先にあるのは、リビングと廊下を繋ぐドア。閉っているそのドアを開けて入ってくるであろう人物は、自分がこの場に来てから一向に現れる気配が無い。
 大樹に対しては未だ不満が多いのも事実。しかし、あのボサボサの髪と無精ひげを生やした顔を見ず、そして気の抜けるような声を聞かないと、どこか落ち着かない響子が居た。



「ふぁー。あー、よく寝た」
「…………」
 結局、大樹がリビングに姿を現したのは、あれから一時間程経った頃だった。
 起きてすぐはパジャマ姿だった響子は、流石にそのままの恰好で居るのはどうかと考え、少し前に着替えをしたばかり。
 しかし、たった今起きてきたばかりと主張する旦那は、相変わらずの恰好だ。と言っても、今日はスウェットではなく、紺色のジャージ姿。
 いつもと少しばかり違う服装にも視線を向けるが、彼を見た瞬間、真っ先に響子の視線が向かったのは彼の頭だった。
 ボサボサとした髪はいつもの事。しかし、今日は寝起きのせいなのか寝癖が酷い。一体どんな寝方をしているのだろう。思わず首を傾げたくなる程、今日の大樹の髪型は酷かった。
「……あれ? どうかした?」
 先程から自分に向けられた妻の視線が気になったのか、眠そうに目を擦りながら大樹は首を傾げる。
「髪が、その……大変な事になってる気が」
 流石の響子も、はっきりと髪型が変だとは言いづらいのか、普段よりも少しばかり小さな声で夫に髪の事を伝える。
「そっか。それじゃ、顔洗ってくるついでに少し直してくるから」
 そう言う彼の言葉に頷いた響子は、再び大きな欠伸をしながらリビングを去っていく旦那を無言で見送る。
 普段から無造作にあちこち跳ねている髪型だとは思っていたが、今日の髪型は今まで見た中で一番強烈的な印象だった。
 ボサボサ髪だと思っていたものは、実は非常に強力なくせっ毛で、天然パーマだったのだろうか。
 試しに、ストレートパーマをかけた髪がサラサラな大樹の姿を想像してみようとしたが、今の髪型の印象が強すぎて想像する事すら難しい。
 この家に引っ越してきた日の大樹を見た時は、彼の髪型、そして服装に酷く驚いた。その記憶は今もしっかりと残っている。
 しかし、人間とは自分の置かれた環境に順応する生き物の様だ。いくら新しいものでも、見続けていれば慣れてくるようで、響子の中で大樹のイメージは、すっかりダメオヤジ姿の彼になってしまった。
 今ここに、普段と違う姿形の夫が現れたとしたら、そちらの方が衝撃的かもしれない。そう思ってしまう程、だらしない姿の夫を見慣れてしまった。
「なんじゃこりゃー!」
「……っ!?」
 その時だった。突然ドアの向こうから聞こえてきた大声に、響子は驚きのあまり大きく肩を震わせる。
 予想外の状況に最初は驚いた彼女だったが、すぐに自分を落ち着かせ、冷静になり考え始める。
 今の声は間違いなく大樹のものだ。酷く驚いた様子の言葉、そして大きな声。そして彼は、先程顔を洗いに洗面所へ向かったはず。
「ぷっ! ……ふふっ」
 間違いない。今の大声は、自分の姿を洗面所にある鏡で見て驚いたために発せられた声だ。
 洗面所とリビングは少しばかり距離がある。しかも、リビングのドアは現在閉っている状態。そんな状況でも、響子の耳に届くくらいの大きな声を大樹は発した様だ。それ程自分の今の姿に驚いたのかもしれない。
 その事に気付いた響子は、可笑しさのあまり自分一人しか居ないリビングで必死に笑いを堪えていた。



 その後、リビングに戻ってきた大樹の髪型はいつも通りのボサボサ頭に戻っていた。
「見苦しいものをお見せしました」
 戻って早々大樹は響子にペコリと頭を下げ、謝罪の言葉を口にする。いつも砕けた口調で話す彼だが、流石に申し訳なかったと思っているのか、口調がいつもより丁寧だ。
「いいえ、そんな。元に戻って良かったです。それにしても……どうして今日はあんなに。いつもは違いますよね」
「どうしてだろ。あ、もしかして……昨日の夜に、風呂から上がって髪乾かさずに寝たからかな」
 響子の疑問に、ボリボリと自身の頭を掻きながら、悲惨な髪型になった原因を探る大樹。そして、昨夜の自身の行動で思い当たる事があったらしく、情けない声を発した。
 彼の言葉に、響子は昨夜の出来事を思い出す。
 昨夜は、歌番組を見終わった後も、日付が変わるまで夫婦二人でテレビ番組を見ていた。日付が変わり、欠伸をした妻を見た大樹が、もう寝た方が良いと響子に寝室へ行くよう促したのだ。
 大樹は寝ないのかと首を傾げる妻の言葉に、自分は風呂に入ってから寝る、続けておやすみと言ってリビングを出て行ったのが、昨夜響子が最後に見た夫の姿だった。
 それからこの男は、自分で言った通り風呂に入ったらしい。しかし、理由はよくわからないが、風呂から上がった後、濡れた髪を乾かさずに眠ってしまった。それが悲惨な髪型を生み出した原因だと彼は説明する。
「いくら眠くても髪は乾かしてから寝てください。今は冬なんですから、乾かさずに寝て、風邪を引いたら大変ですし」
「うん……ごもっともです。気を付けます」
 響子の言葉に素直に頷き、大樹はがっくりと肩を落とす。その姿はまるで、母親に怒られて落ち込む子供のようだ。
 そんな夫の姿が、妙に可愛く思えてくる。別に自分は怒っていないんだけど、と大樹の様子を見ながら響子は苦笑した。
「そ、そうだ。これから、昨日の残ったお汁でお雑煮を作るんです。大樹さんのには、お餅をいくつ入れればいいですか?」
 落ち込む旦那の姿を見ていられなくなった彼女は、思わず大樹に声を掛ける。すると、その言葉を聞いた彼は一瞬にして顔を上げた。
「餅は二つでよろしく」
 響子の視線の先には、右手でピースサインを作り、真剣な表情で餅の数を指定してくる旦那様の姿。どうやらピースサインは、彼が希望する餅の数を表しているようだ。
 つい数秒前まで落ち込んでいたかと思えば、食べ物の話題を出した途端いつも通りに戻った夫。そんな彼の姿を目にし、響子は呆れた様子で小さく笑うしかなかった。



 その後、大樹のお雑煮には本人の希望通り餅を二つ、そして響子のお雑煮には餅を一つ入れて作り、二人一緒に遅めの朝食としてお雑煮を一杯ずつ食べた。
 食事中、テレビには有名な神社へ初詣をしようと訪れる人々の映像が映し出された。
『そう言えば、響子ちゃんは初詣とか行ったりするの?』
 大樹からの質問に響子は頷いたが、引っ越したためにいつも初詣に行っていた神社が遠くなってしまった事を伝える。
 前のマンションに住んでいた時、響子は近くにある神社へ初詣に訪れていたが、今の自宅からその場所へ行くには少しばかり距離があるのだ。
『ここの近所にも神社あるけど、食べ終わったら行ってみる?』
 毎年参拝していた神社には行きづらく、今年はどうしたものかと考えていた響子にとって、夫の提案は嬉しいものだった。
 そして食事を終えた二人は、大樹の案内でマンションの近くにあるという神社にやってきた。
「結構……人がいますね」
「今日は元日だからねー」
 大樹の言う通り、元日という事もあってか、神社には初詣に来たであろう参拝客でとても賑わっている。
 目の前を行き来する人々の多さに、響子は思わず立ち止まってしまい困惑するばかりだ。そんな彼女とは対照的に、相変わらず暢気な態度を見せる大樹。
「はいはい、とりあえず列に並ぼうか」
 いつまでも動こうとしない響子を呼び、彼は参拝するためにさっさと行列へ並び始める。
「まさか、こんなに人が多いなんて……」
 響子は毎年、三箇日さんがにちの間は家で過ごす事がほとんどだった。そのため、初詣に行っても、今日程の人混みは経験した事が無い。今までの人生で、こんなにも混雑している初詣を経験するのは初めてと言っていいくらいだ。
 いつも行っていた神社は、三箇日以降の参拝客はそこまで多く無かったため、安易に夫の提案を承諾してしまった。しかし今、その事を少しばかり後悔している。
 コートにマフラー、手袋と防寒対策はしてきたが、やはり寒いものは寒い。この寒さの中、長時間の外出は遠慮したい気分だ。しかし、一度列に並んでしまったのだから、お参りをするまで頑張るしかないと響子は自身に言い聞かせる。
「……あれ? 大樹、さん?」
 ふと隣を見れば、彼女はそこに居るはずの人物が居ない事に気付く。つい先程まで自分の隣に居たはずの夫の姿が見当たらない。一体どうしたのだろうかと首を傾げた時だった。
「あちちっ。はい、これ。よかったらどうぞ」
 どこかへ行っていたらしい大樹が、両手に紙コップを持ち戻ってきたのだ。そして、その片方を響子の目の前へ差し出す。
「ありがとうございます。……温かい。これは何ですか?」
 紙コップを受け取った響子は、手袋越しに感じる温かさに気付き、寒さが少しばかり和らぐのを感じた。
「甘酒だって。あっちで売ってたんだ。他にもいくつか屋台が出てたよ」
 そう言って自分が歩いてきた方向を指差す彼の指先へ視線を向けるが、残念な事に人が多いせいか、彼が言う屋台の姿はよく見えない。
 そう言えば、去年まで初詣に行っていた神社や、小さい頃家族で行った神社にも、お正月には屋台が出店されているのを見かけた。どこの神社もそういう所は同じなのだろうか。
 いただきます、と一言大樹に断りを入れた響子は、甘酒の入った紙コップを両手で包むように持ち、数回その中へ息を吹きかける。そして紙コップの縁に口をつけ、甘酒を一口飲んだ。
 口の中に甘酒独特の風味と温かさが広がる。たった一口しか飲んでいないのに、何故か彼女は自分の体だけではなく、心まで温まるような気がした。
 隣へちらりと視線を向ければ、自分と同じように甘酒入りの紙コップを持った旦那の姿。自分が思っていたよりも甘酒が熱かったのか、必死に冷まそうとする彼に、響子の口元には薄らと笑みが浮かんだ。



 無事初詣を終えた二人は、外の寒さから逃げるようにマンションへと戻ってきた。
「お帰りなさいませ。浅生様、水越様」
 エントランス内に入れば、コンシェルジュ達が二人を出迎えてくれる。今日の担当は二人共男性のようだが、響子は生憎、まだ彼らの名前を覚えていない。初詣へ向かう時にも、見送ってくれる彼らにペコリと頭を下げるのが精一杯だった。
「浅生様、少々よろしいでしょうか」
「ん? どうかした?」
 このままエレベーターへ向かおうとした時、不意に大樹を呼び止める声が聞こえる。大樹に声を掛けてきたのは、以前シュークリームを押し付けた橋本さんと年齢が近そうな見た目をした男性だ。
 男性は大樹の傍へ近付くと、何やらコソコソと耳打ちをしている。あまり聞いてはいけない話なのだろうと、響子は二人から少し離れた場所に佇み、話が終わるのを待つ事にした。
「初詣は如何でしたか?」
 その時、一人になった響子の姿を見たもう一人のコンシェルジュの男性が声を掛けてきた。大樹達の話が終わるまで待とうとする彼女を退屈させないためだろうか。
 マンションを出る時、大樹は彼らにこれから初詣に行ってくると伝えていたためか、早速その話題が出てきた様だ。
「人が多くて大変でしたけど、結構楽しかったです」
「それは良かったです。やっぱり、元日だと初詣に行く人も多いみたいですね」
 響子に話しかけてくれた男性は、橋本さんや今大樹と会話中の男性より言葉遣いが少し砕けているため、話しやすそうだという印象を受けた。
「本当にその通りでした。それにしても、お正月まで仕事なんて大変ですね」
 彼女の言葉に男性は苦笑する。ここで働くコンシェルジュ達は仕事熱心だと響子は常々思っていたが、まさか正月まで彼らが働いているとは思わず、朝エントランスに彼らが居た事に対し、正直驚きを隠せなかった。
「私も最初は驚きました。こういう仕事は初めてなんで、他の所はどういう感じなのかわからないんですけど。ここでは、正月に予定無い人が交代で入るんですよ」
「……工藤くどう君。余計な事は喋らなくていいですから」
「げっ、先輩!」
 響子に仕事の裏側事情を教える男性だったが、大樹と話していた先輩コンシェルジュに背後から肩を叩かれ酷く慌てている。
 普通は話さなくていい事をベラベラと喋ってしまい、その事で先輩に睨まれてしまっては、慌てない方が無理というものだろう。
 そんな彼を横目に、先程大樹と話をしていた男性は、響子に対しすみませんと頭を下げる。突然謝られてしまったためか、大丈夫ですからと、響子まで慌て始める。
「そんな怒らないでくださいって、西島にしじまさん。そうだよね、お正月なんか仕事したくないよね。そんな頑張っている豊君ゆたかのために、今度君の大好きなお団子をたくさん買ってきてあげるから」
 彼らの間に入ってきた大樹は、西島という先輩を宥め、工藤という男性を労う言葉を掛ける。大樹が呼んだ豊君という名前は、どうやら工藤という男性の下の名前のようだ。
「マジっすか、浅生様!」
「工藤っ!」
 自分の好物を買ってきてくれるという大樹の言葉に、すっかり敬語が抜け、目をキラキラと輝かせる工藤。しかし、そんな後輩の言動に、怒りの限界に達した西島の鉄拳が飛んだ。



「工藤さん、大丈夫かな」
 エレベーターに乗り自宅がある階へ到着した時、響子は先程の出来事を思い出したのか、思わず下の階へ視線を向けながら呟く。
「まぁ、今頃は凄く怒られるんだろうねー。西島さん、結構仕事に対して厳しい人だから。一番ここで長い間働いてるのは橋本さんだけど、一番仕事に対して厳しいのは西島さんなんだってさ」
 前に教えてもらったんだ、と苦笑する夫の言葉に、響子の中でますます不安が大きくなっていく。エレベーターに乗る前、西島と工藤に何度も頭を下げられたせいか、こちらの方が申し訳なく思ってしまった。
「今度謝らないと……」
「それじゃ、今度豊君の好きなお団子買って謝りに行く?」
 首を傾げながらクスリと笑い、妻を見つめる大樹。そんな夫の態度に、自分は真剣に悩んでいるのにと響子は文句を言いたくなった。
 しかし、文句を言おうにもすぐに家の前に到着してしまったため、彼女は喉まで出かかった言葉を飲み込む。その間に、大樹は持っていた玄関の鍵を鍵穴に差し込み、さっさとドアの鍵を開錠してしまう。
「うわー、西島さんの言ってた事本当だ」
 先に玄関へ足を踏み入れた夫の言葉が気になり、彼の背後から玄関の中を覗き込む。すると、玄関には自分の物でも大樹の物でもない、見覚えの無い靴が綺麗に一足置かれている事に響子は気付いた。
 この家に住んでいるのは、自分と大樹の二人だけ。見覚えの無い靴があるという事は、誰か来客なのだろうか。再度靴を確認すると、どうやら男物のスニーカーみたいだ。
 自分の知り合いにいる男の中で、この家で生活している事を知っているのは、父である栄一のみ。しかし、今日彼が遊びに来るという連絡は貰っていない。という事は、この靴の持ち主は間違いなく大樹の知り合いだ。
「あの、私外で時間潰してきます。なのでお話が終わったら携帯に電話を……」
「ん? なんで? 別に居てもいいよ」
 外で時間を潰すと言い、玄関から外へ出ようとする響子。しかし、一歩足を踏み出した瞬間、背後から聞こえてきたのは予想外の言葉だった。
 入って入って、と靴を脱ぎ手招きをする大樹の姿に、響子は戸惑いながらも、彼の言う通り履いていた靴を脱いで下駄箱へ仕舞い夫の後について行く。
 自分達の結婚は極秘のはずだ。それなのに、知り合いに私の姿を見られても良いのだろうか。
 悩みながら大樹の背中を追いかけていると、彼はリビングのドアの前で立ち止まり、勢い良くドアを開けた。
「やっと帰ってきたのか。随分と遅かったな」
「いやいや。まず俺に電話して家に居るかどうか確かめろよ。しかも何勝手に家の中入っちゃってんの。それに、何リビングでテレビ見ながら寛いじゃってるの!?」
 目の前に立つ大樹の背中に隠れてよくは見えないが、どうやらリビングには自分と夫以外の第三者が居るらしい。声から察するに、やはり来客は男性のようだ。
 いつも自分を翻弄する大樹が、砕けた口調で話すだけではなく、少しばかり困惑している気がする。そんな夫の姿を見て、響子はリビングで寛いでいるという謎の人物に興味が湧いた。
 そっと大樹の背後から顔を覗かせ、リビングの中を観察する。
 するとそこには、ここ数日、毎日のように響子と大樹が座っていたソファーに腰掛け、寛いでいる眼鏡を掛けた男の姿があった。
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