契約書は婚姻届

15.訪問者の正体

 無事初詣を終えて帰宅した二人の目の前に居る眼鏡を掛けた男。親しそうに話す夫とその男の様子に、響子はただ唖然とするばかりだ。
 綺麗な黒髪、そしてフレームの細い眼鏡が印象的な男性だと思った。その服装は両腕部分に二本赤いラインが入ったクリーム色のタートルネックのセーターに、紺色のズボン姿。彼が座っているソファーの背もたれには、防寒用に着てきたと思われる黒のコートが掛けてある。
「毎年来ているのに、何故今日に限ってそんなに文句を言うんだ。俺だって、お前が出掛けていると聞いて驚いた。どうせまだ寝ていると思って来てみれば……。出掛けたと言われた方の身にもなれ。俺もこの家の鍵を持っているのだから、上がり込んだとしても問題無いだろう」
 そう言うと、男はローテーブルの上に置いてあったリモコンを手に取り、ボタンを押してテレビの電源を消す。
 今彼の言った事を整理すると、どうやら彼は毎年元日にこの家へ来ているらしい。そして、未だ家で寝ていると思っていた大樹が出掛けていた事に驚きながらも、自分が持っていた合鍵を使って家に上がり込み、この家の主である大樹の帰りを待っていたと言いたいようだ。
 なんとなく男の言いたい事を理解した響子だったが、流石にこの状況では逃げ出す事も出来ず、かと言って自分から会話に割り込む事も出来ず、ただ黙って事の成り行きを見守る事しか出来ない。
「別にお前が家に入った事を怒ってるわけじゃないって。俺が寝てようが外出してようが、電話の一本くらい入れてから来いっての。いくら知り合いでも、いきなり目の前に居たら誰だってビビるからな」
 先程まで困惑しきっていた大樹だが、今は冷静になる事が出来たらしく、友人の言葉に対し反論する余裕を見せている。しかも、その内容は正論で、響子も大樹の立場だったら電話を入れて欲しいと思ってしまった。
「電話など入れなくても、毎年今日は俺が家に来ると認識しておけば済む話だろう。……ところで、いいのか? 先程から彼女が困っているようだが」
「……っ!」
 僅かにズレた眼鏡の位置を直しながら喋っていた男と目が合ってしまい、響子は思わず息を呑んだ。大樹の背中に隠れていたが、先程リビングの様子を窺うために顔を出したせいか、しっかりと自分の存在がバレている事に困惑する。
 夫の言葉を信じてついて来てしまった自分の行動を酷く後悔しながら、どうやって言い訳をしようかと必死に考える。しかし、混乱した頭では妙案を思いつくはずがなかった。
「あらら、響子ちゃん大丈夫? そんなに心配しなくていいよ」
 友人の言葉に、自分の背後に隠れている妻の方を向いた大樹は、心配しなくていいと暢気な言葉を口にする。
 全然大丈夫ではない。何が心配しなくていいのだ。自分達の結婚が他人にバレたら大変な事になるのに、この男はなんて暢気なんだと響子は大樹を恨めしそうに見上げる。
 こんな事なら、靴を見つけた時点で、最初から家に上がらず、どこかお店にでも行って時間を潰していれば良かった。数分前の自分の選択を後悔している彼女の姿を見て、大樹は再び口を開く。
「こいつね、知ってるから。君と俺が結婚してる事」
「……はい?」
 大樹の口から飛び出した爆弾発言に、響子はポカンと口を開けたまましばし呆然とするしかなかった。



 改めて大樹から説明されたのは、家に居た眼鏡の男は大樹の友人で、大樹側の人間で唯一この結婚の事を知っている人物だという話だった。
「色々と驚かせてしまってようで申し訳ありませんでした。私は、藤原ふじわら誠司せいじという者です。生憎今日は名刺を持っていないのですが。この男とは、何と言えばいいのか……大学からの腐れ縁という感じです」
 リビングへ入り、ソファーへ座った響子に、男は自ら名前を名乗り、大樹を指差しながら腐れ縁だと説明する。
「ちょっと、腐れ縁って酷くない? それと、人の事指差すの止めてね、子供でも知ってる常識だからね」
「私は、毎年元日にこの家へ来ていまして。もう習慣のようになっているのかもしれません。大樹が留守だとエントランスで聞いたので、預かっていた合鍵で鍵を開け、こうして待っていました。貴女と結婚していた事実を失念し、勝手に家に上がり込んでしまった事に関して、本当に申し訳ないと思っています」
「おーい、誠司さーん。無視しないでねー。一応、ここ俺の家だからねー。一番偉いの俺だから。わかってる? 彼女に謝るのもいいけど、まず俺に謝ってー」
 大樹の発言になど耳を傾けず、説明を続ける誠司。そして自分を無視する友人に懸命に話しかける大樹。誠司からの説明を聞きながら、響子は目の前で繰り広げられる光景に驚きを隠せずにいる。
 絶対聞こえているだろうに、完璧に大樹を無視し続ける誠司と、そんな友人に対し自分の存在をアピールし続ける大樹。その姿は、まるで漫才コンビのようで、少し可笑しいとさえ思えてくる。
「先程から煩いな。俺がここに居る理由を説明しているんだ、少しは静かに出来ないのか」
 一通り説明を終えたためか、誠司は眉間に皺を寄せ、先程から必死にアピールを続けていた大樹の方を見る。彼の表情だけでなく、全身から不機嫌だと主張するその様子に、響子の表情は引き攣るばかりだ。
 誠司の口調、そして眼鏡を掛けた姿は、学生時代に見た、超がつく程真面目な教師を彼女に思い出させた。目の前に居るのは夫の友人だと理解しているが、その言動、そして初対面という今の状況に、響子はリビングの中へ入ってからずっと緊張から解放されずにいる。
「やっぱり聞こえてるじゃんかよ。人の話は黙って聞きましょうって、子供でも知ってる常識だぞ」
「お前が会話に入ってくると、話が脱線しまくって長くなりそうだったからな。手短に用件を伝えた方が彼女も理解しやすいだろう」
 さも当然と言いたそうな口調の誠司の言葉に、大樹は不満そうな視線を向ける。
 この二人が大学生時代からの友人だと聞いた時、正直響子は驚きを隠せなかった。
 会ってまだ数分しか経っていないが、誠司は大樹と正反対の性格だという事は理解出来る。それぞれ相手とは真逆な人間。そんな彼らが、もう何年も友人として関係を続けている。響子にとって、その事が凄く不思議に思えた。
 そんな二人のやり取りを見ていると、自分はまた新たな大樹の一面を見ているのかもしれないと、響子は感じていた。
 夫である大樹は、基本的に誰に対してもフレンドリーに接する事が多い。お店の店員に対しても、マンションで働くコンシェルジュに対しても、そして妻である自分に対しても、その態度はいつも同じような印象だった。
 彼が畏まった態度で話す姿など、響子が記憶する中にはほとんど存在しない。彼が敬語で喋っていたのは、初めて出会ったあの高級料亭に居た時くらいなのでは、と彼女は思った。
 誰とでも親しそうに話す夫を何回も見てきた響子だったが、今目の前で交わされている男二人のやりとりには、そのどれとも違う何かを感じる。
 普段と変わらないように見える夫の姿。しかし、友人と話しているせいなのか、彼の態度はいつもより気楽な印象を受ける。
 やはり、大学時代からの友人という事もあり、二人の間には自分や他の人達との間には無い何かがあるのだろうか。そう考えた瞬間、響子の胸はかすかにチクリと痛んだ。
「……?」
 一瞬感じた痛みに首を傾げ、響子は自身の胸へ視線を向ける。痛みを感じた部分に服の上から手を当てるが、特に変わった様子も無く、既に痛みも消えている。今の痛みは、着ている服の繊維が肌に当たったのかもしれないと、彼女は特に気に留めようとしなかった。
「そうだ。忘れる所だった」
 その時、不意に誠司はソファーから立ち上がると、そのままリビングの隅へ向かう。そこには、彼の荷物らしき鞄と少し大きな紙袋が置いてあった。紙袋を手に持った彼は、ゆっくりと大樹の元へ近付き、紙袋を持った手を前に突き出す。
「今年……いや、去年の分か。予想以上に金が掛かったから、これから二、三年は何もやらない事にした。その分有難く受け取れ」
「お前も毎年律儀だねー、本当。この歳で誕生日って言われも、そんなに嬉しいもんじゃないんだけど……そんな高い物くれなくたっていいんだぞ?」
 苦笑しながらも、有難く頂きます、と誠司に対しペコリとお辞儀をする大樹。二人のやりとりを見ていた響子は、夫の口から聞こえてきたとある単語に目を見開いた。
「え……あの、大樹さんもしかして誕生日なんですか?」
「ん? 知らなかったんですか。こいつの誕生日は昨日、十二月三十一日の大晦日です。……なんだお前、教えていなかったのか?」
「あー、そう言えばすっかり忘れてたかも」
 驚いた様子の響子に対し、誠司は丁寧に友人の誕生日を教えてくれる。そして首を傾げる誠司の言葉に、本当に忘れていたとばかりに苦笑いを浮かべる大樹。
 まさか昨日が夫の誕生日だったなんて思わなかった。
 そう言えば、婚姻届を書いた時、その用紙はまったくの白紙だった事を響子は思い出した。後で俺の部分も書いてそのまま役所に出しておくから、と言われ、そしてその数日後、婚姻届を役所に提出し受理してもらったというメールが響子の元に届いた。
「なっ!? こ、これは……!」
 突然驚いた様子の大樹の大きな声に、響子の意識は現実へと引き戻される。
 すると、自分のすぐ傍で、先程友人から貰った袋をカーペットの上に置き、中に入っていたであろう誕生日プレゼントを両手に持ち、何故かその場に立ち尽くす夫の姿が目に飛び込んできた。
「お、俺がずっと欲しかったオシャトレのブルーレイディスクのボックス! し、しかも今発売されてるやつ全部か、これ!」
 目を子供のようにキラキラと輝かせ、プレゼントをくれた誠司を見つめる大樹。その姿を見た誠司の口元が僅かに引き攣る。
「心の友よー! 流石親友ー! 誠司ー大好きだぞー!」
「なっ!? こっちに来るな!」
「ぐへっ!」
 手に持っていたプレゼントを袋の中に戻すと、大樹は両腕を大きく広げ、勢いよく誠司に向かって走り出した。しかし、誠司が咄嗟に避けたため、勢いのまま数秒後には見事にリビングの壁に体当たりをしていた。
「だ、大樹さん大丈夫ですか!?」
 勢いのあまり壁に激突した夫の姿に困惑する響子。あんなに勢いよくぶつかったら絶対痛いだろうな、と思いながら、どう行動してよいのかわからず、その場から動けない。
「大丈夫です、あいつは丈夫ですから。あんな事で怪我などしません。それにしても……まさかアニメのブルーレイディスクごときで、ここまで喜ぶとは思っていなかったな」
 最初は夫を心配する響子を安心させようと口を開いた誠司だったが、途中からは予想以上にプレゼントを喜んだ友人に対する独り言を呟いていた。
「プレゼントって……アニメのブルーレイなんですか?」
 壁の前に蹲り、痛いと一人悶えている旦那を心配しつつも、響子は誠司が夫に贈ったプレゼントに興味を持った。
「えぇ、そうです。オーシャンズトレジャーという少年漫画をご存じですか?」
「はい、名前くらいは」
 誠司が口にしたのは、幅広い世代に人気がある少年漫画の作品名だった。正式名称を『Ocean's Treasure』と言い、ファンの間では『オシャトレ』などと呼ばれ親しまれている漫画だ。
 とある架空の世界で世界一の海賊になるべく、主人公の少年が一人海へ出向し、次々と出会う仲間と共に冒険していくという内容の漫画だという事を、響子は作品名と共に薄ら記憶していた。
「あいつは、その漫画がとても好きなんです。他にも好きな漫画はいくつかあるようですが、一番大好きな作品はこのオーシャンズトレジャーだと言っていました。私も何度、漫画を貸すから読んでみろと言われたか」
 そう言って溜息を吐く誠司、そしてようやく痛みが治まってきたのか、擦りながら立ち上がる大樹を見つめ、響子はまた夫の新たな一面を知ったと感じていた。



 その後、誠司に対しお茶すら出していない事に気付いた響子は、大樹達に断りを入れキッチンで三人分のお茶の用意を始めた。
 大樹が買い置きしておいたと思われる個別包装された醤油煎餅を数枚、そして温かい緑茶を三人分用意する。
「お待たせしました」
 お盆に用意した物を乗せリビングに戻ってきた響子。そんな彼女の姿を見た誠司は、お気遣いすみません、と小さく頭を下げる。
「あれ?」
 響子はその時、自分がキッチンへ向かった時と今の状況が違う事に気付く。今ソファーに座っているのは誠司のみ。自分が立つ時は居たはずの夫の姿が見当たらない。
「あぁ、大樹なら少し席を外しています。電話が掛かってきたので、終わったら戻ってくると思いますよ」
 響子の様子に気付いた誠司は、すぐに、この場に居ない彼女の夫が今どうしているかを教えてくれた。誠司の言葉に、そうですかと響子は頷き、ローテーブルの上にお盆を置く。
「……あんな奴が旦那で、苦労していませんか?」
「えっ?」
 緑茶の入った湯呑みを誠司の目の前に置いた瞬間、彼が発した言葉に驚き、響子は思わず誠司の方を向く。
「失礼かと思いましたが、貴女が大樹と結婚した理由をあいつから聞きました。あぁ、心配しなくても理由含め結婚の事は他言していませんし、これからもするつもりはありませんので」
 真剣な様子で自分の方を見つめる彼の姿に、響子も思わず誠司の方へ向き直る。
「私は、かれこれ十年以上彼と付き合いがあります。腐れ縁という言葉は大袈裟かもしれませんが、なんだかんだで付き合いは長いと思います。最初の頃は、彼の言動一つ一つに苛立ち、こんな奴と友人になどなれそうも無いと思っていたんですが。大嫌いだったはずなのに、今ではこうして彼の家に来る事もある。大学時代の私にその事を教えたら、心底驚くでしょうね」
 苦笑する誠司の姿を響子は黙って見つめた。この人も最初は自分と似たような印象を大樹に抱いていたとわかり、少しばかり親近感を覚える。
「もちろん、今でも彼の言動に腹が立つ事は多々あります。あいつの相手をする時は、図体がデカい子供を相手にしていると思って接した方が気が楽になりますよ」
 彼の口から飛び出した子供という言葉に、響子は思わず笑ってしまった。そんな彼女の姿に、でもそう思うでしょう、と誠司は問いかける。
 確かに彼の言う通り、今までそれなりに夫と接してきたが、自分が目にしてきた夫の言動は、彼の言った通りのような気がする。
 そうかもしれません、と答えた響子を見て、誠司もつられるように小さく笑った。
「もし何か困った事があったら……いつでも相談に乗りますよ。あいつが何かやらかした時は言ってください、叱っておきますから」
 あいつに対する愚痴でもいいですよ、と笑いながら、彼は響子の事を心配し、声を掛けてくれる。
「わざわざありがとうございます。確かに、怒りたくなる部分も時々あります。でも、最近は……この家に来た時よりは、大樹さんと話せるようにはなったと思っています」
 響子の言葉に、誠司は一瞬目を細め、それはよかった、と呟いた。
 響子はその瞬間、この人は夫の事を本当に大切に思っているのだと、誠司と大樹の間にある自分には無い絆のようなものを感じていた。
Copyright 2013 Rin Yukimiya All rights reserved.

inserted by FC2 system