契約書は婚姻届

16.アニメ鑑賞会

 元日に大樹の友人だという誠司と知り合い、夫の誕生日を知った響子。
 流石に誕生日を知っているにも関わらず、何もプレゼントを贈らないのは失礼になるのではないか。そう考えた響子は、翌日夫に何か欲しい物は無いかと尋ねた。
『え、誕生日プレゼントで欲しいもの? そんな気にしないでいいよ、全然』
 欲しい物を聞けば、何もいらないと首を横に振る大樹。いらないと言われても引き下がる事は出来ず、本当に欲しい物は無いかと響子は食い下がった。
 そんな妻の様子を目にし困った様子の大樹だったが、今度は、年賀状作りを手伝った時にビールをお礼としてもらったから、もう十分だと言い出す始末。
 お礼はお礼、プレゼントはプレゼントでまったくの別物だ。お礼のつもりで渡したビールが誕生日プレゼントだと言い出す夫に、響子は頭を抱えてしまう。
『それじゃ、さ……』
 彼が欲しがるような物が何なのかわかっているのなら、こんな苦労などしなくていいのに。
 このまま大樹自身から欲しい物について情報を聞き出そうとしても、きっと彼は素直に教えてくれないだろう。何か別の方法を考えるしかないのかと響子が諦めかけた時、不意に大樹の声が彼女の耳に届いた。
「はい、ティッシュ」
「……っ、ぐすっ。すびばせん……ぐすっ」
 年が明けて数か月経ち、ようやく春らしい暖かさが戻ってきた四月のある日。
 日曜日で会社が休みの響子は、昼間から夫と共にリビングのソファーに座り、とある作品の映像を見ていた。
 大樹は、隣で号泣する妻にボックスティッシュを渡し、それを受け取った響子は、ボックスからティッシュを数枚取り出すと、零れる寸前の涙を慌てて拭く。
『それじゃ、さ……。せっかく誠司から貰ったし、一緒にオシャトレ見ない? 凄い面白いし感動するよ』
 大樹が提案したのは、二人で一緒に、誠司から貰ったブルーレイディスクのアニメを見ようというものだった。彼曰く、それが誕生日プレゼントという事になるらしい。
 一緒にアニメを見る事が、はたして誕生日プレゼントになるのだろうかと首を傾げる響子だったが、自分が大好きな作品について語る大樹の姿を目にし、そして、プレゼントを貰う本人が望んでいる事ならばと、渋々提案を受け入れた。
 その日から、大樹への誕生日プレゼントという名の、夫婦二人だけのアニメ鑑賞会が始まった。
 アニメを見るなんて子供の時以来だな、と思いながら、響子は夫に付き合い、オーシャンズトレジャーを第一話から見始めた。
 それから、二人の時間が合う時はリビングでアニメ鑑賞会が行われるようになった。
「それにしても……今日も凄い泣きっぷりだな。まぁ、気持ちは凄いわかるけど。俺も少しウルっとしたから」
 丁度ブルーレイディスク一枚に入っている全ての話を見終わったため、次回予告が終わったと同時に大樹はリモコンの停止ボタンを押す。
「だって……だって……この船医さんの過去の話辛すぎませんか。ぐすっ……泣かない方が無理です」
 未だ涙が止まらず、グズグズと鼻をすする妻の姿に、大樹は苦笑いを浮かべる。
 しばらく一緒に見ていれば夫は満足するだろう。そんな軽い気持ちでアニメ鑑賞に付き合っていた響子だったが、今ではすっかり彼女もオーシャンズトレジャーの世界に引き込まれていた。
 強敵に立ち向かい、その度に成長していく主人公達。新たな仲間を迎え入れるまでのエピソードなど、時に笑い、時に涙を流すそのストーリーに、どんどん夢中になっていく。
 以前から、男女問わず幅広い世代にファンがいる作品という事は知っていたが、実際にアニメを見てみるとその魅力がよくわかる。
 見終わったブルーレイディスクをプレイヤーから取り出した大樹は、それを元々入っていたケースにしまい始める。その様子を、ようやく涙が止まった響子が無言で見つめていた。
 オーシャンズトレジャーのアニメ鑑賞に関して、二人の間にはこの数か月で二つ程ルールが出来ていた。
 一つは、どちらかが一人の時に勝手にアニメの続きを見ない事。そしてもう一つは、どんなに続きが見たくても、一日ディスク一枚までしか見てはいけないというものだ。
「響子ちゃん、そんなに見つめられても次のやつセットしないよ?」
 ディスクをケースにしまう作業中、ずっと背後から視線を感じていた大樹は、ニヤリと意地悪な笑みを浮かべながらソファーに座る妻の方を振り返る。
 わかってます、と口を尖らせ拗ねるように視線を逸らす響子だが、実際大樹の言葉は彼女にとって図星だった。
 正月休みの最中は、時間がある時を見つけてはずっとアニメを見ていた。しかし、そのため夜更かしをする事が多くなり、響子も大樹もいつもより睡眠時間を削る事になってしまった。
 このままでは、睡眠不足により仕事に影響が出るという事で、大樹から提案されたのが一日ディスク一枚までという制限だ。
 制限されてしまうと、早く続きが見たくてしょうがない。しかし、このアニメを見る時は二人一緒にというルールもあるため、響子は渋々我慢している。
 どうしても続きが見たくなり、以前夫に対し、原作を知っているのなら自分が先にアニメを見ても問題無いのでは、と聞いた事がある。
『一緒に見た方が楽しいから。それに、見た後に感想とか言い合えるでしょ?』
 自分の問いかけに笑顔で返ってきたこの言葉に、響子は何も言えなくなってしまった。確かに大樹の言う通り、見終わった後、二人でアニメの内容やキャラについて語るのは有意義な時間だ。
「今日はお休みだから、もう一枚くらいいいじゃないですか」
 ソファーに座った自身の足元を見つめながら、小さく呟いた言葉。
 平日の夜ならば、翌日仕事があるからと諦める事が出来る。しかし、今日は日曜日。しかもまだ昼間だ。夜までにはまだ時間があるため、もう少しアニメを見ても許されるのではないか。そう響子は考えていた。
 何より、たった今見終わったラストの話は、主人公達に新たな仲間が加わり、これから新たな冒険に出発するというものだった。次回予告を見れば、また楽しそうな展開が始まるらしくワクワクする。
 続きが気になる次回予告を見てしまったら、早く次の話を見たいと思ってしまうのは、アニメだろうとドラマだろうと関係無いらしい。
「君がそんなにこのアニメにハマってくれたのは凄い嬉しい。嬉しいけど……駄目なものは駄目なんだなー。それじゃ約束の意味無くなっちゃうよ」
 にっこりと笑みを浮かべながらも、妻の願い受け入れようとしない夫。そんな彼の姿に、ガックリと肩を落とす響子だった。



「……で、貴重な休日にも関わらず、あんたは旦那とアニメ見てた、と」
「……うん」
 翌日、いつも通り出社した響子は、午前中の仕事を片付け、友人である志保と共にランチを楽しんでいた。
 志保には、時々浅生家で起こった出来事を報告しているため、最近のランチで話す話題は専ら大樹に関する事が多くなっていた。
 流石に夫婦一緒にアニメを見ていた事が少し恥ずかしかったのか、響子は赤くなった頬を隠すため俯いたまま注文した定食を食べ続ける。
「最初は家庭内別居状態だったのに、今では一緒にアニメ見てるって。私的には驚きの展開なんだよね」
「大丈夫、私もそう思うから」
 友人の言葉に同意しつつ、響子は引っ越してきた当初の事を思い出す。本当に自分でも驚きだ。まさかあの男と、一緒にアニメを見る仲になるなんて、自分自身も想像していなかった展開に違いない。
 もし引っ越してきた日の自分が、浅生家の現状を見たらどう思うのだろう。自分の目に異常があるのか、それともこれは夢なのかと、目の前の光景をまず信じることはないはずだ。
 あと数か月したら、貴女もあの旦那とこういう風になるのだと言っても、絶対に信じない。いや、考えようともしないだろう。
 響子自身、数か月前の状況と現状の違いには驚きを感じている。しかし、やはり大樹との関係が変わったのは、あの痴漢事件があった日からなのではないか。薄らとではあるが、彼女はそう感じていた。
「響子、今度の週末って大樹さん家に居る?」
「えっ? 多分、居るん……じゃないかな? どうしたの、急に」
 志保からの唐突な問いかけに響子は首を傾げる。
 最近大樹は、響子が自宅に居る時に自身が外へ出掛ける場合、その事を彼女に伝えるようになっていた。と言っても、ほとんどが近所のコンビニエンスストアに行くというもので、今のところ響子の休日に夫が長時間家を留守にする事は無い。
「それじゃあさ、私、響子が住んでるマンションに行ってみたい。生大樹さん見たい!」
 何故彼女が大樹の予定を気にする必要があるのだろう。そう思った矢先、矢継ぎ早に発せられた友人の言葉に、響子は開いた口が塞がらなかった。
 別に友人が遊びに来る事が嫌なわけではない。むしろ大歓迎だ。しかし、自分の夫を見たいと言う志保の言葉に響子は戸惑いを隠せない。
「べ、別に……楽しい事は無いと思うんだけど」
 こんな事を思っては夫である大樹に失礼だとわかっていても、響子は何故志保が大樹に興味津々なのか理解出来なかった。
「あんたの話を聞いてて、前からずっと会ってみたいと思ってたんだよね。あ、別に好きになったとかじゃないから安心して」
 ひらひらと手を振る友人の言葉に苦笑いを浮かべる。自分の友人である志保が、そんな事をする人では無いとわかっている。それに、もし万が一に志保が大樹の事を好きになったとしても、自分達夫婦の間に恋愛感情は無いのだから特に問題は無いだろう。
「とりあえず、本人に後で聞いておくから」
 自分の言葉に、ますます楽しみだと笑みを浮かべる志保の様子を眺めながら、響子はグラスに入った水を一口飲んだ。



 志保が浅生家を訪問したいと言い出してから数日後の土曜日。朝からずっと落ち着かない様子でそわそわし続ける響子は、今日何度目かわからない程見た自身の携帯電話へ再び視線を向ける。
『へっ? 本当に俺に会いたいって言ったの? 君の友達が』
 あの日の夜、二人で夕食を食べている最中、響子は昼間の事を大樹に教えた。
 自分達の結婚を知っている数少ない人物がこの家に来たいと言っている。しかも、旦那である大樹に会いたがっていると伝えると、響子の目の前に座る男は驚愕するばかりだった。
『家に来るのは全然構わないんだけど。俺に会いたいって……。こんなおっさんに会っても、楽しくもないだろうに』
 一人ブツブツと独り言を口にする彼を見ながら、自分がおっさんだという認識はあったんだ、と響子は思わず笑いそうになってしまい、必死に我慢した。
 昼間自分が友人に言った言葉と似たような事を言う夫に驚きつつも、一先ず友人の来訪を許可してもらえた事に響子は安堵する。
 翌日、夫の許可が取れた事を志保に報告し、今度の土曜日に彼女がマンションへ遊びに来る事が決定した。
「はぁ……」
 今日がその土曜日というわけだが、響子は携帯電話を見て溜息を吐く。
 昼頃、志保から午後二時くらいに行くというメールをもらった響子は、ダイニングルームで共に昼食を食べていた大樹にその事を告げた。
『そっかそっか。お友達とゆっくりすればいいよ。俺は部屋でちょっとやらなきゃいけない事あるから。……あむ。……御馳走様でした』
 昼食用に作ったカレーの最後の一口を綺麗に食べ終わった大樹は、両手を合わせ食後の挨拶をすると、使い終わった食器をキッチンへ片付けその場からすぐ立ち去った。
「絶対逃げたな、あの人」
 ダイニングルームにあるテーブルの上で頬杖をつき、一時間以上前に交わした夫との会話を思い出すと溜息が出てくる。
 元々志保が自分に会いたがっている事に関し、ずっと納得していない様子だった夫。そんな友人があと数時間でやってくるとわかったからか、少し慌てた様子で彼はダイニングルームから立ち去った。その様子を見て、逃げたと思う以外何を考えれば良いのだろう。
 逃げた大樹を追いかけ、友人に会って欲しいと頼みこむ事も一瞬考えたが、いくら志保のためとは言え、何故自分がそこまでやらなくてはいけないのだろうと思ってしまい、大樹の元へ行く事は出来なかった。
 食事が終わってから既に一時間以上が経過している。一瞬大樹は逃げるために外出でもしたのかと考えたが、玄関の方から物音は聞こえてこなかった。
 それに、最近の夫は、外出時、響子に外に行ってくると伝える事がほとんどだったため、未だ彼はこの家の中に居ると彼女は考えていた。
 家の中に居るとなると、大樹が居そうな場所は一つしか思いつかない。この家へ引っ越してきた日、ここにだけは入るなと言われた部屋だ。あの部屋は一体何の部屋なのだろうという謎は未だ残っているが、響子は深く追求しない方が良いと考え、あの部屋は大樹の寝室なのだと自分の中で決めつけている。
 ダイニングルームに一人取り残され、どうやって志保に夫が逃げてしまった事の言い訳しようかと悩んでいた時、突然、テーブルの上に置いてあった携帯電話の着信音が室内に響いた。
「……ついに来たか。……もしもし」
 携帯電話の画面に表示された友人の名前を目にし、今まで重かった気持ちが更に重くなるのを感じた響子だったが、意を決して通話ボタンを押し電話に出る。
『響子……私、間違って違う場所に来ちゃったかな』
「えっ? 何、どうしたの?」
 電話越しに聞こえたのは、少し震えているような友人の声。何か大変な事でも起こったのかと心配になり、響子は慌てて電話の向こうに居る志保へ話しかける。
『今さ……教えてもらった地図見ながら歩いてきたんだけど、目の前にあるマンションが色んな意味で衝撃的で。本当にここで合ってんの? あんたの家』
 響子は事前に、自宅のあるマンションまでの道のりや、周辺の地図などを描いたメモを志保に渡していた。志保はそのメモを頼りにやってきた様だが、自分の目の前にある建物が本当に目的地であるマンションなのか半信半疑の様だ。
 その後、周囲に見える建物や店は何かと友人に尋ね、彼女から情報をから聞き出した響子は、友人の居る場所は間違いなく自分と大樹が住むマンション前だと確信した。
「とにかく、今下に降りて迎えに行くから。ちょっと待ってて」
 響子はそう言って、携帯電話のボタンを押し、志保との通話を終えた。そして、携帯電話を持ったまま玄関へ向かう。靴を履いて、念のためにとマンションの鍵を持ち、玄関のドアを開け通路へ出た。
 そして用心のためにと玄関の鍵を閉め、引っ越してきたあの日、初めてこのマンションの外観を見た時の自分と同じ状態であろう友人の事を思いながら、彼女は急いでエレベーターへ向かい走り出した。
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