契約書は婚姻届

17.突撃!お宅訪問

「響子、遅い!」
 友人からの電話を受け、急いでエントランスへ向かった響子だったが、エレベーターの扉が開いた瞬間、友人の口から自身にむけて発せられた言葉に、思わず反応が遅れそうになった。
 エレベーターを出ると、そこには落ち着かない様子の友人志保と、少しずつ会話を交わせるようになってきたコンシェルジュの橋本と西島の姿があった。
 今日の担当はベテランコンビだと認識したのはいいが、響子の意識はすぐ志保の方へ向けられた。落ち着く事が出来ないのか、彼女の視線は時折左右へオロオロと動いている。
「こちらの方が玄関前でお困りの様子でしたので、失礼かとは思いましたが声を掛けさせて頂きました。水越様のご友人という事でしたので」
「はい、そうです。橋本さんありがとうございました。それに西島さんも」
 すぐに志保のもとに駆け寄った響子は、友人を助けてくれたと言う橋本に感謝の言葉を伝え、彼の隣に居る西島にもペコリと頭を下げた。
 響子の様子を見ていた志保も、慌てて彼らに対し頭を下げると、ありがとうございましたとお礼の言葉を述べた。
 そんな二人の様子に、橋本と西島や優しい笑みを浮かべ軽く頭を下げる。
 コンシェルジュ達に挨拶をした響子は、志保の手を引いてそのままエレベーターへ乗り込む。
「はー、緊張した」
 エレベーターの扉が閉まった瞬間、志保は大きな溜息を吐くと、エレベーターの壁面に寄り掛かるように背中を預ける。
「……ごめん、さっきは遅いとか言って。響子に描いてもらったメモ通りに来たと思ったら、いきなりこんな……テレビでしか見ないようなマンションの前に着くし。電話切った後、あの男の人が出てきてさ、何かお困りですかって声を掛けられたの。もう私心臓バックバクで。やっぱり高級なマンションは違うね」
 矢継ぎ早に自分の身に起こった出来事を話す友人の様子に、響子は苦笑しながら相槌を打つ。先程自分が見た落ち着きの無い友人の様子を見れば、彼女が緊張していた事は一目瞭然だった。
 余程緊張していたのだろう。エレベーターに乗っている間、志保は、響子が下に降りてくる数分間で自分の身に何が起こったか、どんな気持ちになったかなど、休まず喋り続けた。
 そんな彼女の話を聞きながら、響子は目の前に居る友人の姿が、このマンションへ引っ越してきた日の自分の姿と重なって見えると感じていた。



「ここが今住んでる家なの」
 志保を連れ自宅の玄関前へ到着した響子は、手に持っていた鍵を使いドアを開ける。そしてそのまま玄関で靴を脱ぎ家の中へ上がると、来客用のスリッパを一足、友人のために用意する。
「お、お邪魔……します」
 初めて入る友人の新居に緊張しているのか、エレベーターの中では口数が多かった志保がすっかり大人しくなってしまった。緊張した面持ちで履いていた靴を脱ぎ、響子が用意したスリッパを履く。
 そして響子は、まずはお茶でも飲んで落ち着いてもらおうと、志保をダイニングルームへ案内した。
「ちょっと待っててね。今お茶淹れるから。緑茶とコーヒーと紅茶があるんだけど。どれがいい?」
「あ、ありがとう。それじゃ、コーヒーをお願いしようかな」
「コーヒーね。了解」
 志保が席に着くと、響子はすぐに隣のキッチンへ向かいお茶の準備を始める。
「それにしても……本当にテレビで見るような家だね。間取りも広そうだし」
 キッチンで作業する響子の姿を眺めながら、志保はテーブルの上に頬杖をつき、作業中の友人へ話し掛けた。
「前のマンションに比べたら、もう本当に凄い広いよ。しかも家具とかも豪華でね。リビングのテレビも、今まで見た事の無いサイズなんだ」
「おー、流石セレブ」
 ケトルに水を入れ、それを火にかけながら、楽しそうに女同士の会話を繰り広げる二人。後で家の中を案内して欲しいと言う志保の言葉を快諾しつつ、響子はインスタントコーヒーの粉が入った瓶を手に取り、二人分のコーヒーカップに粉を入れる。
 志保からの要望がコーヒーだったため、自分も同じ物を用意している様だ。
「そういや、大樹さんどっか出掛けてるの?」
「…………」
 今まで楽しく会話をしていた二人だったが、志保の口から夫の名前が出た途端、響子は思わず瓶の蓋を閉める手を止めてしまった。
 志保が家の中へ入ってから、いつかは話題に上がるだろうと思っていた。しかし、こんなにも早く、彼女の口から夫の名前が出てくるとは思わなかった。
 だが、彼女の今日一番の目的は大樹に会う事だ。そう考えればこの話題が出るのは普通かもしれない。
 さて、どうやって夫がこの場に居ない事を誤魔化そうか。響子はすぐに友人に対する言い訳を考え始める。
 まさか、貴女に会いたくないから大樹はさっさと逃げて、自分の部屋に引き籠っている、なんて言えるわけが無い。
 どこかに出掛けていると言うのもおかしな話だ。もし大樹が出掛けたのなら、志保が家に来る前に彼女への連絡を入れていなければならない。何も連絡を入れていない状況で、この言い訳は不自然過ぎる。
 その時、不意にケトルからお湯が沸騰した事を知らせる音が聞こえ、響子の意識は現実に引き戻された。
「あー、その……実は……」
 いくら言い訳を考えたところで、ダイニングルームに居る友人には通じないだろう。そう響子は判断した。
 こうなったら、素直に大樹がこの場に居ない訳を話してしまった方がいい。結論を出した響子は、大樹が自分達から逃げ部屋に引き籠っている事を告げた。
「ありゃりゃ、逃げられちゃったか。仕方ない、今日はお宅拝見って事にして……生大樹さんはまた後日にしようか」
 事情を聞いた志保は、苦笑しながらも気にしないでと言ってくれた。その事を有難く思いながら、響子は二人分のコーヒーカップをお盆に乗せ、ダイニングルームへ戻ってくる。
 テーブルの上にお盆を置き、コーヒーカップが乗ったソーサーを一つ友人の目の前に置くと、もう一つを自分のもとへ置いた。
「本当にごめんね、せっかく来てもらったのに」
「いいのいいの。こっちも、大樹さん見たいから遊びに行くなんて、失礼な話だったわけだし」
 申し訳なさそうな声を出す響子の姿に、志保は慌てて自分の顔の前でパタパタと手を横に振る。
 せっかく友人が遊びに来ているというのに、こんな暗い雰囲気のままではいけない。
 どうにかこの雰囲気を変える事は出来ないかと考えた響子は、ふとある事を思い出した。以前、コンシェルジュの美沙からいつも頂き物をしているお返しにと、確か缶入りのクッキーを貰ったはずだ。
「そ、そうだ。ねぇ志保。良かったらクッキー食べる? この前貰ったやつなんだけど。今持ってくるね」
「あ、うん」
 クッキーを食べるかと問いかけた響子だったが、志保の返事を聞きもせず立ち上がり、さっさとキッチンの方へ向かってしまった。その様子を見た志保は、焦り過ぎだから、と一人苦笑するばかりだった。



「えっと、クッキーの缶。クッキーの缶は……どこに置いたんだっけ」
 一人キッチンへと戻ってきた響子は、美沙から貰った缶入りクッキーを探し始める。しかし、探し始めて数分が経過したにも関わらず、いくら探そうにも目的の物は見つからない。
 いつも大樹がカップ麺や缶詰を入れている籠の中、食器棚の下の収納スペースの中など、心当たりは全て探したが、どうしても見つからなかった。
「響子、別に無理しなくてもいいよ?」
 その時、ふと背後から聞こえた声に振り返ると、今までダイニングルームに居たはずの志保が傍に立っている。どうやら、なかなか戻ってこない響子を心配し、様子を見に来たようだ。
「確かに貰ったのよ。ちょっと待って、今思い出すから」
 収納スペースの中を探していたために、響子は自身がスカートを穿いている事も気にせず四つん這いになっていた。
 慌てて目の前にある扉を閉め、体を起こすと、缶入りクッキーを貰った時の事を思い返した。



『ただいまー。今ね、美沙ちゃんからクッキー貰ってきたんだ。いつものお返しにって。別に気使わなくてもいいのにね』
 あれは確か今から二週間程前。休日で少し外に出てくると言った大樹が帰宅した時の出来事だった。
 夫は、コンシェルジュの美沙からお返しを貰ったと言って、リビングでテレビを見ていた響子の元に紙袋を持ってやってきた。
 二人でソファーに座り、紙袋の中から丁寧に包装紙に包まれた物を取り出す。
 お返しの品を包んでいたその包装紙は、響子でも知っている有名デパートのものだった。初めて実物を見た彼女は目を見開き、しばし言葉が出てこなかった。
 そんな妻の様子にクスリと笑いながら、大樹が丁寧に包装紙のテープを剥がしていくと、中から出てきたのはこれまた有名店の缶入りクッキーだった。
『あの子無理したな……。今度きちんと言っておかなきゃ、こんな高いお菓子買わなくてもいいって』
 お返しを期待して差し入れをしているわけでは無い。
 もしお返しをしてもらえるのなら、自動販売機で買った缶コーヒーや百円ショップで買った飴でも十分だと、お返しの品を確認した大樹は、溜息を吐きながら言っていた。



「確かあの時、大樹さんがいつでも食べていいからって言って。飲み物を取りに行くついでに置いてくるってキッチンに……」
 夫との過去のやり取りを思い出しながら、やはりクッキーが入った缶はキッチンのどこかにあるのだと響子は確信する。
 それなりに大きさのある物なので、見落としている事は絶対に無い。しかし、入っていそうな場所、置いていそうな場所は全て探した。それとも、まだ他に探していない場所があるのだろうか。
「ねぇ、響子。もしかして探してる缶って……あれじゃない?」
「えっ?」
 不意に聞こえた友人の声に反応し、響子は彼女が指差す方向を見上げる。志保が指差す先にあったのは、食器棚の一番上にちょこんと乗った鮮やか青が綺麗な丸い缶。
「あー! あれよ、あれ! あの缶探してたの!」
 目的の物を発見した響子は、その場で立ち上がり、まるで宝物でも見つけたかのように志保と手を取って喜び合う。
 まさか食器棚の上に置いてあるとは予想外だった。ようやく目的の物が見つかり響子は安堵する。しかし、喜んだのも束の間、新たな問題が彼女に襲いかかった。
「それにしても……何であんなところに置いたのよ。取れないじゃない」
 響子は食器棚の前に立つと、目線をぐっと上へ上げ、すぐにでも手を伸ばしたいクッキーの缶を睨みつける。
 目の前にある食器棚は高く、百八十センチ以上の高さはあるだろう。それに比べて、響子の身長は百五十二センチと、大人にしてはかなり小柄だ。
 背の低い事に少しばかりコンプレックスを抱いている響子は、普段外ではヒールが高い靴などを履く事多い。
 しかし、家の中でそんな事が出来るはずもなく、彼女は日々自身の低身長をカバーするために、様々な策を講じてきた。
 引っ越してきてから今まで、食器棚の中にある使用頻度の高い食器は、自分が手に取りやすい位置へ移動させ、手の届かない場所にある食器を出す時には、ダイニングルームにある椅子を使うなど工夫をしてきた。
 しかし、今回目的の物があるのは、いつもより更に高い場所。その場所にある目標物を見ているだけで、思わず溜息が出てしまう。
「んーっ! んーっ! はぁ……やっぱり取れない」
 食器棚に近付き、精一杯背伸びをしクッキーの缶へ手を伸ばそうとするが、指先はかすかに缶に触れる事が出来る程度だ。到底缶を掴んで下ろす事は出来そうに無い。
 このまま必死に背伸びをしても時間の無駄だと考えた響子は、次の行動に移ろうと決めた。
「仕方ない。志保、ちょっと待っててね。今ダイニングルームの椅子持ってきて……」
「はい、これ」
 友人の方を振り返り、椅子を持ってくると告げようとした瞬間、何故か響子の目の前に、今自分が取ろうとしていたクッキーの入った缶が差し出される。
 数秒前まで食器棚の上にあったはずの物が、何故今自分の目の前に差し出されているのだろう。そんな疑問を感じながら、頭上から聞こえた声に、彼女は反射的に顔を上げた。
「ごめんね。あんな所に置いちゃって。ついついいつもの癖で、日持ちしそうな物は上の方に置いちゃうんだ。これからは気を付けないと」
 そこに居たのは、クッキーが入った缶を自分へ差し出し、苦笑しながら頬を掻く大樹だった。予想外の人物の登場に、響子は困惑するばかりだ。
「えっ、なんでここに? あの……部屋に居たんじゃないんですか?」
「うん、部屋に居たよ。でも喉渇いちゃって。何か飲み物でも飲もうかなーと思って取りに来たら、響子ちゃんが一生懸命背伸びしてたから」
 再度、ごめんね、と眉を下げる夫の姿に、彼女は大丈夫です、と答えるのが精一杯だった。そんな彼女へ、大樹は自分が持っていた缶を手渡す。
 自分が困っている姿を見兼ねてなのか、目の前に居る男は手助けをしてくれたらしい。
 確かに、大樹の身長はパッと見ただけでも百七十後半くらいあるはずだ。それを考えれば、食器棚の上にある物を上げ下げするくらい簡単だろう。
 響子の友人にあまり会いたく無さそうだった夫が、自分が困っている姿を見て手を貸してくれた。
 ふとした瞬間に感じる彼の優しさが、響子の心をほんわりとあたためる。大樹と頻繁に接するようになり、このように何気なく助けてくれる彼の行動を、響子は心のどこかで嬉しいと感じていた。
「あのー……いい雰囲気の所大変申し訳ないんですけど」
「えっ?」
「へっ?」
 その時だった。突然傍から聞こえた女性の声に、大樹も響子も驚いた様子で、反射的に声が聞こえた方を振り向く。
 そこには、ニコニコと満面の笑みを浮かべ、自分達を見つめる志保が立っていた。
「……失敗した。こんな所で出てきたら、部屋に行った意味が無いだろうに」
 いくら困っていた妻を助けるためとは言え、会わないようにしていた人物の前へ、自ら出て行ってしまった事に気付いた大樹は、一人ぶつぶつと独り言を呟きながら落ち込み始める。
「し、志保っ。いい雰囲気なんて、そんな事無いからね」
 友人の口から飛び出した言葉に、どんどん頬が熱くなる。
 突然の大樹の登場に気を取られ、すっかり友人が傍にいる事を忘れていた。
 志保の言葉を響子は必死に否定する。そんな夫婦の様子に、志保は未だ笑みを浮かべながら、うんうんと頷いている。
「うんうん、わかったから。わかったからまず落ち着こうね。それにしても……これが、生大樹さんなのか」
 真っ赤な顔の友人の両肩に手を置き、彼女を落ち着かせようとする志保だが、その視線はチラチラと違う方を向いている。
 志保の視線の先では、未だにガックリと肩を落とし、俺の馬鹿、と一人、自身の行動を後悔する大樹の姿があった。
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