契約書は婚姻届

18.三つの約束

「…………」
 ダイニングルーム内で、自分の置かれた状況に対し、響子は妙な緊張感を覚えた。
 隣には友人である志保が座り、そして、自分達の目の前には夫である大樹が座っている。
 志保に貰い物のクッキーを出そうと、それを探し始めたのがきっかけだった。いくら探しても見つけられなかったクッキー入りの缶を、響子に手渡したのはその場に居るはずの無い人物。
 妻の背が低いという事をすっかり忘れ、自分の癖でクッキーが入った缶を高い場所へ置いてしまった大樹。
 それを手に入れようと必死になる妻の姿を目にし、彼はついつい手助けをしてしまった。
 今日この家にやってきた妻の友人から逃げていたにも関わらず、そんな彼の一瞬の行動が結果的に現在の状況を招いてしまったのかもしれない。
「初めまして。響子と同じ、株式会社『With U』に勤めています、伊藤志保と申します」
 先程から自分が置かれた状況に落ち着かない様子の響子とは違い、志保は満面の笑みを浮かべながら、彼女達の目の前に座っている大樹へ挨拶をし、ペコリと頭を下げる。
「あー……これはご丁寧に、どうもどうも。なんかすいませんね、色々と」
 そんな彼女の言葉に、大樹は己の頬をポリポリと掻きながら、同じく頭を下げた。
 夫の様子を見ていた響子は、現状に困惑しているのは自分だけでは無いのだと、少しばかり安心していた。
『……失敗した。こんな所で出てきたら、部屋に行った意味が無いだろうに』
 キッチンで見た彼の様子を思い出せば、この展開は大樹にとっても予想外だったのだろう。
 この状況にプラスの感情を抱いているのは、先程からずっとニコニコしている志保のみだと、響子は小さく溜息を吐いた。
「えっと……そ、それじゃご挨拶も済んだし、俺はそろそろ失礼しようかな。せっかくの友達同士の時間を邪魔するのもあれだしね」
 大樹は少し焦った様子で口を開き、座っていた椅子から立ち上がろうとテーブルに両手をつく。
 あぁ、やっぱり逃げたいんだな。夫の様子を見た響子は、瞬時にそんな結論を出した。友達同士の時間を邪魔したくないと本人は言っているが、大樹はただこの場から早く居なくなりたいのだろう。
「そんな事無いですよ。せっかくですから、大樹さんも一緒にお茶しませんか? ね、響子。いいでしょ?」
 立ち去ろうとする大樹の言葉に、志保は首を横に振ると、三人で一緒にお茶をしようと提案した。
「あ……えっと。私は、別に……構わない、けど」
 自分の方へ期待の視線を向ける友人の問いかけに、いくら気心の知れた仲である響子でも首を横に振る事は出来なかった。
 最初は、大樹が逃げた事を知り、仕方ないと言ってくれた志保だが、目の前に、自分が会いたがっていた人物が現れたとなれば、この機会を逃したくないのだろう。
 せっかく会う事が出来たのだから、大樹ともっと話がしたい。そんな彼女の心の声が聞こえてしまいそうになるくらい、自分に向けられた友人の瞳からは感じるものがあった。
 大樹には本当に申し訳ないと思うが、ここは友人側につく事にしよう。そう響子は心の中で決めた。
『すみません』
 響子は、こっそり大樹の方へ視線を向けると、声を発する事なく口を動かす。そして、顔の前で一瞬両手を合わせ、旦那に対して謝罪をする。
 そんな妻の様子を見た大樹は、一瞬目を見開き驚いた様子を見せるも、すぐに苦笑し小さく口を開いた。
 先程の響子と同じく、声を発する事なく口を動かす。唇の動きだけで、正確に相手の言っている言葉を理解する事はかなり難しいだろう。
『大丈夫』
 しかし響子は、夫が自分を安心させようと、そう言っているのではないかと感じていた。



 結局大樹の逃亡計画は失敗し、三人でのお茶会はスタートした。
 それぞれの目の前に置かれたカップからは、コーヒーのいい匂いが漂い、テーブル中央には缶に入ったままのクッキーが置かれている。
『あぁ、響子ちゃん。別にこのままでいいって。皿洗うの面倒でしょ?』
 響子が三人分の小皿を用意し、クッキーを何枚かに分けようとした時、大樹はそれを止めさせた。
 確かに彼の言う通り、缶に入ったままそれぞれが好きな物を食べれば、小皿を用意する必要は無くなり、洗い物は少なくなる。
 彼女は旦那の言葉に甘える事にし、志保にもこのままでいいかと尋ねた。志保はもちろんと頷いてくれたので、響子は再び椅子に腰かける。
「大樹さんって、お仕事何されてるんですか?」
 三人でクッキーをつまみ、コーヒーを飲んでいる時、志保が口を開いたと思えば、大樹に対し突然疑問をぶつける。
「んー? 何の仕事してると思う?」
 志保からの問いかけに、大樹はにこりと笑みを浮かべながら首を傾げ、逆に彼女へ質問を返した。
「響子から、仕事はきちんとやってるらしいとは聞いてたんですけど、仕事に出掛けてる様子が無いって話も聞いてて。もしかして大樹さんは仕事してないんじゃないかって、私ずっと思ってたんですよ」
「……っ!? けほっ、けほっ。し、志保……流石にストレートすぎるでしょ!」
 友人のストレートすぎる発言に、驚きのあまり咳き込んでしまった響子。彼女は友人に対し慌てて注意しつつ、夫が怒っていないかと様子を窺うように視線を向ける。
「ぷっ……あははは。あはは! た、確かに、そう思いたくもなるだろうね……あー、苦しい」
 しかし、今の自分達の発言に対し、大樹が怒る様子は無く、それどころか彼は盛大に笑い始めてしまった。
 こんなに盛大に笑っている旦那を見たのは、自分が彼の事を名字で呼んだ時以来だな、と不意に響子は思い出す。
「ちゃんと仕事してますよー。そうじゃなかったら、こんなマンションの家賃払えないでしょ?」
 ようやく笑いが落ち着いた大樹は、テーブルの上に頬杖をつくと、響子と志保へ視線を向けながら、笑みを浮かべ口を開く。
 彼の言う通り、仕事をしていない人間が、こんな高級マンションの家賃を払えるわけがない。
 自分とは不釣り合いすぎる高級マンションの家賃が気になり、響子は以前、一体このマンションの家賃はいくらなのかと大樹に聞いた事がある。最初ははぐらかされてばかりだったが、最終的に夫から聞いた家賃の値段に、彼女は驚きのあまりしばらくその場から動けなかった程だ。
「響子、響子」
 その時、隣に座っている友人が、突然自分の服の裾を引っ張り小声で話し掛けてきた。
「ここの家賃っていくら?」
 まるで内緒話でもするように、志保は響子の耳元へ顔を近づけ、口元を自身の手で隠しながら問いかける。目の前に大樹が座っている状況で、この内緒話は意味があるのだろうかと、響子は思わず苦笑いを浮かべる。
 家賃を気にする友人へ視線を向け、響子は無言で首を横に振った。そんな彼女の様子に、わからないか、と志保は少し残念そうな顔をする。
 家賃の金額がわからないわけではない。わかっているからこそ、その事実を友人には伝えづらいのだと、響子は友人に対し心の中でごめんと謝罪した。
「お仕事してなかったら、どっかのお金持ちの一人息子って可能性も考えてたんですけど……その可能性は低いですよね」
「残念ながら、ごくごく普通の一般家庭の生まれだよ」
 尚も大樹に対する志保の質問は続き、大樹はコーヒーを飲みながらそれに答え続ける。少しばかり彼の表情が楽しそうに見えるのは、きっと気のせいではないだろう。
「そうなると、かなりのお給料が入る仕事って事ですよね。芸能人……では無いですね。テレビで見た事無いですし。まさか……危ない仕事やってたりします?」
 余程大樹の仕事が気になるのか、志保は一人腕組みをし眉間に皺を寄せたまま悩み続ける。
 彼女の口から飛び出した危ない仕事という言葉に、響子は思わずテレビドラマで見るような闇社会の人間を想像してしまう。しかし、想像した人物と目の前に居る夫の雰囲気が違いすぎるのでは、と首を傾げたくなった。
「大丈夫大丈夫、きちんとした仕事だから。そんな怖い人達が仲間に居る仕事はしてないから、安心していいよ」
 冷静に考えれば、志保の口から飛び出す言葉の数々は、大樹にとってあまり気分が良くないものも含まれているだろう。しかし、彼は嫌な顔一つせず、笑いながら丁寧に返答している。
 その様子を見つめながら、これが自分達より年上である男の経験の差というやつなのかもしれない、と響子はぼんやり考えていた。



 その日の夜、自室へ戻ってきた響子は、パジャマに着替えながら今日一日の出来事を振り返っていた。
『実を言うと、あまり家で仕事の話はしたくないんだよね。ほら、プライベートと仕事はきっちり分けたいって言うか、仕事は仕事の時間、プライベートはプライベート、みたいにオンとオフをはっきりさせたいんだ。だから……ね?』
 三人でお茶を飲んでいる時、大樹の仕事に関して志保が何度か尋ねた時、彼は少し困った様子でそう言っていた。
 その言葉と夫の様子を見た志保は、すぐに話題を変え大樹の趣味や好きな物について質問し始めたが、響子は困った様子の大樹の顔が忘れられなかった。
「そう言えばあの時……」
 着替えを終え、ベッドの上に座った響子は、ふと初めて大樹と出会った日の事を思い出す。



『あぁ、そうだ。結婚するにあたって、いくつか約束して欲しい事がある』
 料亭の中庭で握手を交わし、個室に戻った響子は、両親へ結婚する事を決めたと伝えた。
 その後、その場で婚姻届にサインをして欲しいと言う大樹の言葉に従い、わからない部分は母である尚美に教えてもらいながら婚姻届を書いていた彼女に向かって、大樹は口を開いた。
『まず一つ目。結婚してるのに別居っていうのも変な話だから、俺が今住んでいるマンションに一緒に住む事。二つ目。俺は仕事とプライベートを分けたいと思っている。だから、家で仕事の話はしたくない。あんたにもその事はわかってもらいたいんだ。三つ目。一緒に住むと言っても、タダで住まわせるわけにはいかない。毎月決まった額を払ってもらう』
 そう言って、彼は響子に対し三つの約束事を守って欲しいと告げた。
 響子は持っていたボールペンを置き、これからは一緒に暮らせ、そして家では仕事の話をするな、毎月金を払えと言う大樹の顔を正面から見つめる。
 ただでさえ借金返済のために初対面の男といきなり結婚するという、まるでテレビドラマのような展開に戸惑っている響子にとって、男の言葉は、約束してくれと言いつつ、命令しているようにしか思えなかった。
 怒りで血圧が上がりそうになるのを必死に抑える。
 ここで嫌だと言ってしまえば、結婚が白紙に戻ってしまうかもしれない。結婚そのものが無くなる事に関してはとても嬉しいが、それに伴い借金返済を断られる事だけは絶対にあってはならない。
 響子は数回深呼吸をし、これも三千万円のため、両親のため、借金返済のためと何度も自分自身へ言い聞かせる。
 この人に、私達の代わりに借金を返してもらうんだ。だから逆らってはいけない。借金を返済するために、この男の命令を聞いた方が得策なんだと、響子は無理矢理自分を納得させるしかなかった。
 一つ目は自分が我慢すればいい。二つ目は、基本的にこんな男と口も利きたく無いため、自分から話しかけるなど絶対にしないから大丈夫。三つ目はこの男に払ってもらった借金を返済している、あるいはマンションの家賃を払っていると思えば大丈夫。
 なんとか自分の感情を押し込んだ響子は、大樹が出した三つの約束を守ると頷いたのだった。



「徹底してるというか、なんというか……」
 料亭で大樹と交わした三つの約束を思い出しながら、響子は溜息を吐く。
 昼間、大樹は楽しそうに話しているようだったが、志保に対し、やんわりとこれ以上仕事の事に触れるなと言っているようにも見えた。
 自分と交わした約束といい、昼間の志保に対する態度といい、大樹は、家で仕事の話はしたくないという考えを徹底して守っているように思える。
 世の中にはたくさんの人がいるし、人それぞれ別の考え方を持っている。大樹のように、仕事とプライベートを完全に分けたいと思っている人間がいても、特に不思議ではない。
 結婚して既に半年程、大樹と最初に交わした約束は三つとも全て守っている。
 しかし、最初は我慢だと思っていた事が、だんだんと自分にとって当たり前の事になってきているのではないかと感じてしまう。
 一緒に暮らす事、仕事に関する話題を出さない事、毎月決まった額のお金を渡す事。どれも今の響子にとっては当たり前の事になってしまった。最初の頃はあんなに嫌だった事なのに、今ではそう思わなくなっている。
「…………」
 脳裏に大樹の顔を思い浮かべながら、響子は今まで自分が知った大樹についての情報を思い出してみる。
 両親が代理人になったばっかりに背負う事になってしまった借金を返済してくれた人。
 年齢は三十六歳。料亭で会った日、父が聞いていたのを覚えている。しかし、大晦日が誕生日と誠司が言っていたし、今は三十七歳になっているはずだ。
 甘い物が好きで、ビールも好きで、アニメや漫画も好きな人。特に一番好きな作品はオーシャンズトレジャーだ。
「私、何も知らないんじゃない」
 ポツリと独り言を呟き、自嘲的な笑みを浮かべる。
 自分が夫について本当に知っている事は、ごくごく普通のものばかりだ。
「あぁ、違う違う」
 他にも知っている事はある。基本的に楽な服装を好み、響子の事をからかってはいつも振り回す人。誰とでも親しくし接し、それとなく気遣いが出来る人。響子が困っている時に、何事も無かったように現れ、いつも彼女を助けてくれる。時々子供のようにはしゃぐ事もある。以前誠司が言っていたが、まるでその姿は大きな子供の様だ。
 そして、隣に居るだけで、何故かとても安心出来る人。
「……もっと、知りたい」
 もっと大樹の事が知りたい。座っていたベッドの上へ体を横たえながら、響子は他に誰も居ない部屋で一人呟いた。
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