契約書は婚姻届

19.旦那様はご立腹?

 六月になり、梅雨の時期に突入したせいか、連日雨が降り続いていたある日の事だった。
「……んー」
 現在の時刻は午前六時。響子の自室にて、昨夜セットしておいた目覚まし時計のアラームが鳴り響く。
 起床時刻を告げる目覚まし時計を止めようと、彼女はベッドサイドテーブルの上に置いてあるそれに手を伸ばす。アラームを解除するためのボタンを押す事に成功したのか、すぐに室内に響いていた音は鳴り止んだ。
 いつもだったら、このままベッドの中から出たくないと思いながらも、仕事があるからと、響子は頑張ってベッドから抜け出し、すっきりと目を覚ますため、顔を洗おうと洗面所へ向かう。
 しかし、何故か今日はいつもと様子が違う気がする。
 週末が明け、昨日からまた出勤する日々が始まった。今日は火曜日だという事は理解出来る。起きて身支度を整え、自分と夫の朝食を作り出勤するという、いつもの行動を実行しなければいけない。
 頭では理解出来ているし、早く行動を起こさなければ大樹が起きてきてしまうと、心の中にいる自分が急かし始める。
 すべてを理解しているのに、身体がまったく動かない。いや、動きたくない。響子はベッドの中で、いつも感じる事の無い身体のだるさを感じていた。
「どうしたんだろ。それにしても……寒い」
 寒気を感じ、思わず掛布団を首元まで掛け直す。昨夜見た天気予報で言っていた今日の最低気温はそんなに低いものだったろうかと、響子は自分の中の記憶を呼び起こす。
「……ゴホッ、ゴホッ」
 あぁ、そういう事か。突然出た咳に、響子は自分の現状を理解した。いつもは感じない倦怠感と寒気、そして突如出始めた咳。間違いない、きっとこれは風邪だ。
 体調に関してはそれなりに気を遣っていたため、最後に風邪を引いたのは二年程前だろうか。そんな事をぼんやりと考えながら、響子は無理矢理体を動かしベッドから起き上がった。



「ゴホッ、……ゴホゴホッ」
 切っていた人参に風邪の菌が付着しないようにと、響子は慌てて後ろを向き、ゴホゴホと咳をする。
『三十七度九分か』
 ベッドから起き上がった響子は、自室に置いてあった体温計を使い熱を計った。体温計が示した現在の響子の体温は三十七度九分。
 身体を動かしても変わらない寒気と、現在の体温に、これから熱が上がらなければいいがと思わず苦笑いを浮かべる。
 会社に出勤するかどうか悩みたいところだが、それよりまずやらなければいけない事がある。それは大樹の食事の支度だ。
 あまり食欲が無いため、自分の食事は簡単にヨーグルトか何かをお腹に入れれば良いだろう。しかし、元気な夫の食事は用意しなければいけない。
 まず自分の事より夫の食事の用意だと、いつもは着替えをしてからエプロンをつけキッチンに立つ響子が、今日はパジャマ姿のままキッチンで料理をしている。
 あまり効果は無いかもしれないと思いながらも、マスクを二枚重ねて装着し、手洗いとうがいを念入りに行ってから、彼女は料理を作り始めた。
 大樹一人分の朝食を作ってしまえば、あとは勝手に食べてくれるだろう。適当な理由をつけて、大樹が食事をしている時は自室に籠り、終わった頃を見計らって行動を開始しよう。
 そう頭の中でこれからの事を計画する。まず第一の目標は、大樹が起きてくる前に料理を完成させる事だ。こんな姿で料理をしていたら、何を言われるかわかったものじゃない。
「響子ちゃん、おはよう」
「…………」
 響子は、突然背後から聞こえてきた夫の声に、思わず怒りを感じてしまった。何故今日に限って早く起きるのだ。いつもなら、あと数十分は起きてこないくせに。
 包丁を握る手がわずかに震えた。怒りのままに包丁の柄を持つ手に力が入る。
「おはようございます。あと少しで出来ますから、座って待っていてください」
 マスクをつけている姿など見せるわけにはいかないと、響子はまな板の上に置いてある人参へ視線を向けたまま口を開く。
「……? 急がなくていいからね」
 いつもと違う妻の様子に首を傾げながらも、大樹は言われた通りリビングルームへ向かおうした時だった。
「……ゴホッ、ゴホッ」
 夫が姿を現してから我慢していたが、喉元に感じるムズムズとした感覚に、思わず響子は咳をしてしまう。そして、料理中ずっとそうやっていたせいか、咳をする瞬間顔を後ろへ向けてしまった。
「…………」
「…………」
 響子と大樹は、互いの顔を無言で数秒間見つめ合う。
 そんな状況に、彼女の頭の中はすぐパニック状態になってしまった。自分が風邪を引いている事を、夫に気付かれたくはなかった。しかしその想いは、今の行動ですべて水の泡となったに違いない。
 思わず床へと向けた視線を少しだけ上げ、大樹の様子を窺う。自分を見つめる夫に驚いた様子は無い。それどころか、表情がまったく読み取れない。今の彼の表情は、完璧な無と言っていいだろう。
 その時、無表情の夫が自分の方へゆっくりと近付いてくる事に気付いた響子は、思わず前進して距離を取ろうとする。しかし、立っている場所が場所だけに、まったくと言っていい程その行動の効果は無かった。
 後ろを向いたままなせいか、わずかに首に疲れを感じる。そんな事を気にする余裕は無く、徐々に近づいてくる夫から視線を外す事が出来ない。
 無表情の夫に感じるかすかな恐怖に、響子は自身の顔が引き攣るのを感じていた。



「……少し熱い、か」
 響子の目の前までやってきた大樹は、妻に断りを入れること無く、無言で彼女の額に己の手で触れる。
 突然の夫の行動を避ける事が出来なかったせいか、響子は額に手を当てる夫を見上げる事しか出来ない。
 額に触れる大樹の手が少し冷たい気がする。それが気持ち良いと思ってしまい、額から離れる夫の手を名残惜しそうに見つめた。
「いつから?」
「へっ?」
 突然問いかけられた夫からの質問の意味が理解出来ず、響子は思わず首を傾げてしまう。
「具合悪くなったの、いつから?」
 身長差があるせいか、響子は夫を見上げ、大樹は妻を見下ろす状態で会話を続ける。
 いつもの気の抜けるような口調で喋らず、無表情で自分を見下ろし口を開く夫の姿に、かすかに感じる恐怖が消える事は無さそうだ。
「今朝から、です」
 夫の視線、そして口調に嘘を吐く事が出来ず、響子は素直な答えを呟く。そんな彼女の言葉を聞いた大樹は溜息を吐いた。
 具合が悪い状態で料理を作っていた妻に呆れているのだろうか。こんな事になるのなら、最初から具合が悪いと報告すれば良かったのかもしれない。
 今自分の目の前に居る男が、どんな感情を抱いているのか正確にはわからない。彼の感情を知る事は出来ないが、不機嫌なのは確かだろう。
 そんな感情を抱かせてしまったのは間違いなく自分だ。自分の行動が、結果的に夫を不機嫌にしている。その事が少しだけ悲しく思えた。
「熱計ったの?」
「はい。でも、熱は無かったので大丈夫ですよ」
 夫の問いかけに、小さく笑みを浮かべ首を横に振る響子。
 熱が無いなんて嘘だ。首を横に振りながら、自室で見た体温計の数値を思い出す。
 いい加減後ろを向き続ける事に疲れを感じ、響子は正面を向くと、今まで握っていた包丁をまな板の上へ置いた。
 今朝計った体温を正直に伝えても、きっとますます彼の機嫌は悪くなる。そう思って熱は無いと嘘をついてしまった。これが嘘だとバレたら、どっちにしろ怒られるかな、とマスクで隠れた口元が自嘲的な笑みを浮かべる。
「…………」
 気分が落ち込むと、それに連動して具合が悪くなるのだろうか。響子は、再び感じた寒気に、思わず自分の体を抱きしめるように両腕を擦る。
「全然大丈夫じゃないだろ」
「大丈夫です……っ!」
 背後から溜息と共に聞こえた言葉に反論しようと、勢いよく後ろに振り返った響子。しかし勢いよく振り返ったのが原因なのか、突然眩暈に襲われ身体が自分の意志に反し傾くのを感じた。
「危ないっ!」
 酷く焦った夫の声が聞こえる。
 本能的に危ないと感じ、身体に力を入れようとするが上手くいかない。このままではどこかに体をぶつけてしまうかもしれない。
 そう思った次の瞬間、響子の体は力強い腕の中にあった。自分の腰に回された誰かの腕、そして頬に感じる温かくも固い何か。
 自分の身に起こっている事がいまいち理解出来ず、響子はちらりと視線を上げる。するとそこには、今までの無表情とは違い、眉間に皺を寄せ怒りを露にした大樹の顔があった。
 自分が今居るのは大樹の腕の中。腰に回され自分を支えてくれている腕、そして頬に感じる温かく固いものは胸板、そのどちらもが大樹のものだと認識した途端、今まで寒気を感じていたにも関わらず、急に頬が熱くなるのを感じる。
「いい加減にしないと……いくら俺でも怒るよ」
 もう十分怒っているじゃない。頭上から聞こえた夫の声に心の中で反論する。
 どうやら、自室で風邪だと認識した時より、自分の体調は悪化しているみたいだ。
 瞼が重い。気を抜けば、このまま目を閉じて眠ってしまいそうになる。
 ご飯まだ出来てないのに、大樹さんお腹空いただろうな。こんな状態じゃ会社には行けそうにない。休むと連絡を入れなければ。
 響子は大樹の腕の中で、閉じそうになる瞼を必死に開けながら、様々な事を考え始めた。
 やらなければならない事がたくさんある。でも、もう少し、もう少しだけ、心地良いこの腕の中に居たいな。
 夫の腕の中で感じるぬくもりが嬉しくなり、響子は大樹の胸に自分の頬を少しだけ押し付けながら、ゆっくりと意識を手放した。
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