契約書は婚姻届

20.強引すぎる旦那様

『……そう。……から、……むわ』
 響子は、どこかから聞こえてくる話し声に気付き、ぼんやりと目を開けた。
「…………」
 目を開けて最初に視界に飛び込んできたのは、ここ最近見慣れてきた天井。どうやら自室に居るようだ。そう彼女は認識した。
「……あれ?」
 現在自分が居る場所に疑問を持ち、響子は一人小さく呟く。先程まで自分はキッチンに居たはずだ。なのに、何故今は自室に居るのだろう。
 理由を考えようとするが、頭の中に霧が掛かっているような、ぼんやりとした感覚に気付く。こんな状況では、思考力も鈍っているに違いない。何かを考える事自体億劫だと思った。
 そして響子は、自分の体に起きた変化に気付く。朝起きてからキッチンで料理を作っている時までは、冬でもないのに寒くて仕方なかったはず。それが今はとても暑い。
 自室にあるエアコンの暖房機能が作動しているとは思えない。だとしたら、これは自分の身体が発している熱なのだろうか。
「…………」
 重い右腕をゆっくりと動かし、響子は自分の額の上に置いてある何かに触れる。乗っていた物を手に取り確認すると、それは、すっかりぬるくなった濡れたタオルだった。
 風邪を引いた時に濡れたタオルを額に乗せる理由など一つしかない。しかし、響子自身まったく身に覚えの無い事だと首を傾げそうになった時、不意に部屋のドアが開く音がした。
「あ、目が覚めた?」
 ドアが開いたと同時に室内に入ってきた人物の声に視線を向ける。その先には、携帯電話を手に持ったまま、妻の方へと近付く大樹の姿があった。
「あの……私、キッチンで……」
 自分はキッチンで料理をしていたはずなのに、何故今は自室に居るのか。額に乗っていたタオル、そして左手を少し動かせば、自分がベッドに寝かされている事など、次々に疑問が湧いてくる。
 現状に戸惑う響子は、答えが欲しいと視線で夫へ訴えかける。
 大樹はそんな彼女が横たわるベッドの横へ腰を下ろし、ベッドサイドテーブルの方へと手を伸ばす。そこには、今朝響子が使った後、置きっぱなしになったままになっていた体温計が置いてあった。
「はい、まず熱計って」
 ケースから体温計を取り出し、自分の方へそれを差し出す夫の姿に、彼女は渋々差し出されたものを受け取る。それと交換だと言わんばかりに、大樹は妻が持っていた濡れタオルを手に取る。
「タオル濡らしてくるから、その間に熱計っておいてね」
 そう言い残し、立ち上がった夫はさっさと部屋から出て行ってしまった。疑問に答えて欲しくて問いかけたのに、体温計を渡し自分の言いたい事を言って立ち去った夫の行動に驚き、しばし呆然とする。
「……何なのよ」
 未だ重い身体を引きずるようにベッドの上で起き上がる。夫が出て行ったドアを睨みつけ、むくれながらも大人しく大樹に言われた通り体温計で熱を測り始めた。



「……三十八度五分、か。はい、それじゃもう一回寝てね」
 部屋に戻ってきた夫に計測し終わった体温計を渡した途端、響子は無理矢理ベッドへ寝かされた。そして、大樹が濡らしてきたらしいタオルが額の上に乗せられる。タオルから感じる冷たさが心地よいくらいだ。
 今朝計った時よりも更に高くなった体温に、響子は内心溜息を吐いた。
「まったく……具合が悪いなら悪いって言わなきゃ。いきなり気失った時は焦ったよ。一瞬救急車呼ぼうと思ったんだから。でも、寝てる感じだったから、少し様子見ようと思って、ここに運んだんだけど」
 大樹は溜息を吐きながら、再び響子が横たわるベッドの傍の床へ腰を下ろした。どうやら響子をこの部屋に運んだ人物は大樹の様だ。
「すみません……ゴホッ、ゴホッ」
 本当に心配を掛けてしまったのだと、夫の言動から察したのか、申し訳ないと思うばかりだ。
 謝罪をするため口を開いた響子は、言葉に続いて出てしまった咳に、慌てて口元を自分の手で覆い隠す。その時、ふと違和感に気付いた。
「あの、マスクはどこですか?」
 自分の手が口元に触れる感触。大樹に風邪を移さないためにと、二重にして装着していたはずのマスクが無い。慌てて周囲を見回すが、それらしき物はどこにも見当たらなかった。
「あー、あれね、捨てたから」
「は? 捨てたって……そ、それじゃ新しいのを」
 人がせっかく感染を広げないためにつけていた物を捨てたとは、なんという男だろう。室内に置いてあったマスクはまだ在庫があっただろうかと考えながら、響子はベッドから起き上がろうとする。
「はいはい、病人は大人しく寝ててくださいね」
 上半身を起こそうとするも、大樹が再びそっと妻の両肩を押したため、ベッドの中へ戻される。
「マスクくらいさせてください! 大樹さんにうつったら大変じゃ……っ!」
 マスクの重要性をアピールするために思わず声を張った響子だったが、自分の声が頭に響いたせいで急に頭が痛くなった。思わず痛みを感じた部分に手で触れる。
「あー、もう。そんな大声出さないの。心配してくれてありがとう。でもさ、マスクしてると息苦しいでしょ? だから取った方がいいかな、と思ってね。俺なら大丈夫だから、元気元気」
 へらりといつもの暢気な笑みを浮かべ妻を宥めようとする大樹。そんな姿を見た響子は、呆れるという感情を通り越し黙り込んでしまった。
 誰だって他人から風邪を移されるのは嫌なはずだ。風邪を引いて嬉しがる人間なんていない。
 もし仮に、風邪を引いている人が、自分の親しい人や家族だとしたら、今の大樹のように心配しているのも理解出来る。しかし、響子と大樹の関係はそうじゃない。
 戸籍上では夫婦だが、互いに愛情なんてものを持っているわけではない。そんな相手に対し、ここまで世話を焼く旦那の姿を、響子は不思議そうに見つめる。
「……ゴホッ……ケホッ」
 マスクがつけられないのならばと、響子は、大樹が掛けてくれた掛布団を口元まで引き揚げ口元を隠そうとする。そんな妻の姿に、大樹は苦笑いを浮かべた。そして、響子が体を起こした時にずり落ちたタオルを、再び彼女の額の上へ乗せる。
 こんな状況では、今日は大人しく寝ているしか無いだろう。熱もあり、咳も出ている状態で会社に行った所で、ただ迷惑をかけるだけだ。
「……? っ、い、今何時ですか!」
 会社は休んだ方が良い。そう考えた響子は、今の自分の結論に何か引っかかりを感じた。それが会社という単語だと気付き、そして休む事を上司に連絡していなかった事を思い出す。
「ちょ、いきなりどうしたの? えーっと……九時五分だね」
 突然、酷く慌てた様子で現在の時刻を尋ねてくる妻の姿に驚きながらも、大樹は手に持っていた携帯電話を開き、ディスプレイに表示された時刻を知らせる。夫から告げられた現在の時刻を聞き、響子はただでさえ酷い頭痛が更に酷くなった気がした。
 既に九時を過ぎているのに、会社に一言も連絡を入れず休んでしまった。これでは無断欠勤ではないか。とりあえず、今からでも上司に連絡を入れておこう。そう思い、響子は大樹の方へ顔を向ける。
「すみません……、ケホッ。私の携帯、取ってもらえませんか? 会社に連絡を……」
「あぁ、それなら心配いらないよ」
 会社に休むと連絡したいから携帯電話を取って欲しい。そう伝えようとする妻の言葉を途中で遮り、大樹は軽く手を左右に振り、心配いらないと言い出した。
「少し前にね、響子ちゃんの携帯をちょっと借りたんだ。それで、志保ちゃんに電話して、風邪引いたみたいだから会社休めるかなーって聞いたんだよ。そしたら、上司の人には上手く言っておくから、安心して寝てなさいって、志保ちゃんからの伝言」
 その電話以外はどこも携帯弄ってないからね、と笑みを浮かべる大樹の姿に、響子は目を見開いた。この男は、甲斐甲斐しく妻の世話を焼くだけでは無く、自分達の事情を知っている志保に連絡し、今日響子が会社を休んでも大丈夫なようにしてしまった。
 普段は暢気な言動ばかりで、子供っぽい印象を妻に与えているのに、響子が困っている時には必ず助けてくれる。しかもその問題を、響子より先に解決してしまうのが大樹だ。
 いつも自分が困っている時には、必ず現れて助けてくれる存在。その優しさが、度々響子を戸惑わせている。
『それじゃ、俺は変わり者って事にしといてよ』
 以前、痴漢から助けてもらった日に、一緒に入ったハンバーガーショップで言っていた彼の一言。
 互いに恋愛感情が無い者同士、そんな関係の妻に優しくして一体彼に何の得があると言うのだろう。あの時言っていたように、本当に彼は変わり者なのかもしれない。そんな事を思ってしまう程、響子にとって目の前の男の言動は不思議なものだった。



 会社を休み、今日は家で大人しくしている事が正式に決定した。このまま寝ていれば風邪も治るだろう。そう考えていた響子だったが、そんな彼女の考えを目の前に居る男は許さなかった。
「だから、病院行こうってば」
「大丈夫です。安静にしていれば治ります」
 先程から、二人はこのやりとりをずっと繰り返している。大樹は断固として妻を病院へ連れて行こうとし、響子は断固として寝ていると夫の言葉に首を横に振る。
 そんなやり取りを始めて既に数分が経過しているが、二人の意見はまったくと言って良い程相容れない状態だ。
 響子自身も、今の自分の体調は十分理解している。病院に行って薬を貰ってきた方が、黙っているより治りが早い事も十分わかっていた。
 そんな状態にも関わらず、夫の言葉に同意しない理由はベッドから出たくないからだ。熱が上がってきたせいなのか、妙にテンションが高くなり、現在彼女の意識ははっきりしている。しかし、身体は重く動くのが億劫な状態のため、ベッドから出たくは無い。
 少し動けるような状態になってから病院に行けばいい。だから、今は放っておいてほしかった。夫と言い合いを続けながら、響子は申し訳ないと思いながらも、大樹に出て行って欲しいと願ってしまう。
「…………」
 次の瞬間、今まで主張を続けていた大樹の口がピタリと止まり、室内が急に静かになった。突然黙り込んだ夫の姿に、一体どうしたのかと響子は首を傾げる。
「……ちょっと待ってて」
 そう一言言い残すと、大樹はさっさと部屋を出て行ってしまった。待っていろと言われたが、夫は何を考えているのだろう。不思議に思いながら、響子の視線は夫が出て行ったドアへ向けられる。
 それから数分後、部屋のドアが開いたと思えば、何故か着替えを済ませた大樹が姿を現した。
 先程までは、いつものように動きやすいスウェット姿だったはずなのに、今はジーンズにパーカー姿だ。家では基本的にジャージかスウェットを着用している夫が着替えたという事は、どこかに出掛けるのだろうか。
 響子が不思議そうにその様子を見つめていると、部屋に入ってきた大樹が、無言でどんどんベッドの方へ近付いてくる。そして、ベッドの真横へやってくると、妻の体に掛けてあった掛布団をさっさと剥いでしまった。
 そして彼女の額の上に乗せていた濡れタオルも取り上げ、それをベッドサイドテーブルの上へ置く。今まで自分の体に掛かっていた布団をいきなり剥ぎ取られ、ギョッとする響子。そんな妻の様子などお構いなしに、大樹は彼女の背中と膝裏に腕を通し、スッとその体を抱き抱えた。
「えっ!? な、何ですか、いきなり!」
 突然の事に響子の頭の中は瞬時にパニックを起こす。理由も聞かされず、俗にいうお姫様抱っこというものをされれば、きっと誰もが混乱するだろう。響子の顔は、熱と現状に対する恥ずかしさからなのか、どんどん赤くなっていく。
 己の腕の中で混乱する妻を落とさないようにと、大樹は改めて響子をしっかりと抱え直した。そして、顔を真っ赤に染める妻を見つめ、彼はにっこりと微笑み口を開いた。
「言う事聞かない悪い子を、これより病院へ強制連行しまーす」
 夫のこの一言に、頭痛が更に酷くなったのではと、響子は頭を抱えたくなった。
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