契約書は婚姻届

21.甘い風邪薬

 大樹は、自身が運転する車を病院近くにあるドラッグストアの駐車場に停めると、後部座席の方を振り向き口を開いた。
「響子ちゃん、ちょっと買い物してくるね。何か欲しい物とか、食べたい物とかある?」
「…………」
 響子は後部座席に横たわり、視線のみを大樹の方へ向けると、何もいらないと言いたげに首を横に振る。
 そんな妻の様子を見た大樹は、すぐ戻ってくるからと言い残し、車から降りて鍵を施錠を確認した後、ドラッグストアへ買い物に出掛けた。
「はぁ……」
 車内で一人になった響子は大きく溜息を吐く。その理由が、マスクをつけているために感じる息苦しさからなのか、それとも現状に対する不満なのかは、本人もよくわかっていない。
『言う事聞かない悪い子を、これより病院へ強制連行しまーす』
 数時間前に大樹が発した言葉通り、響子は夫の手によって無理矢理病院へ連れて行かれた。
 総合病院へ行ったため、待ち時間や診察など時間が掛かってしまったが、無事薬を貰う事が出来、今はその帰り道だ。
「なんか余計に疲れた」
 響子は、大樹の衝撃発言から病院に着くまでの出来事を思い出しながら、再び溜息を吐いた。



『さ、さっきから言ってるじゃないですか! 病院は行かなくていいです』
『駄目だって、強制連行だって言ったでしょ。あ、マスク取ってくるの忘れた。リビングにあったかな……』
 妻の訴えに耳を貸す様子は無く、大樹はさっさと部屋を出て行こうとする。
 そんな夫の姿に、響子はベッドへ戻るための作戦を、思考力が落ちた頭で必死に考えた。しかし、風邪を引いて体調が万全ではない彼女が、男である大樹にいくら抵抗したところで無駄だろう。ただでさえ少ない体力を余分に消費する事になってしまう。
 病院に行った方が良いのは分かっているため、いっその事このまま大樹に連れて行ってもらった方がいいのかもしれない。
 夫の腕の中で今後について考えこんでいた時、響子は、自分を抱えた大樹がもうほとんど部屋を出そうになっている事に気付いた。
『だ、大樹さん! 待って、待ってください!』
 慌てて声を上げた妻に、大樹は慌てて足を止め、何事かと視線を響子の方へ向ける。
『病院に行くのは……わかりました。でも、せめて……着替えをしてから……』
 そう言って、響子は自分が着ている服を見つめる。現在の彼女はパジャマ姿だ。小さい子供ならまだ大丈夫かもしれないが、二十代後半にもなった女性がパジャマ姿で病院に行くのはどうなのかと、彼女は思わず考えてしまった。
 もっと具合が悪い状態なら、自分の服装など気にしないのかもしれない。しかし、今の彼女は、自分の服装が気になって仕方なかった。
 その後、服など気にしなくても大丈夫だと言う夫を説得し、響子は簡単にではあるが着替える事が出来た。彼女が着替えている間、大樹は大人しく廊下で待機していた。
『汗かいてるだろうから、これで拭いてから着替えて。あとこれ新しいマスク』
 大樹がドアの隙間から差し出した蒸しタオルを有難く使わせてもらい、パジャマを脱いだ後、タオルで体を拭いてから着替えた。そして渡された新品のマスクを装着する。
 妻の様子が気になるのか、大樹は時折ドアの向こうから様子を窺うように声を掛けてきた。その声に返答しながらの着替えは少々時間が掛かってしまった。しかし、夫の予想以上の心配ぶりに対する驚きの方が大きかったかもしれない。
 そして着替えを終えた響子を連れ、大樹は家を出た後エレベーターへ向かった。
 彼の腕の中に響子は居らず、彼女が居たのは夫の背中の上だった。これも、響子の必死の訴えによる結果だ。
 着替えを終えた響子を普通に抱き抱えようとする大樹に、彼女は慌てて首を横に振った。家の中ですら恥ずかしいのに、外でお姫様抱っこなどされたら、恥ずかしさで更に熱が上がるかもしれない。そして、妻の訴えを渋々了承した大樹は、彼女を背負い家を出た。
『あの……一人で歩けます、から』
『えー、だってさっき部屋から出てきた時、響子ちゃんフラフラしてたでしょ。そんな子を一人で歩かせるなんて無理だね』
 響子が譲歩した結果、現在彼女は夫に背負われている状況だ。抱き抱えられるより随分いいが、やはりまだ恥ずかしさは残る。エレベーターの中で、一人で歩けると夫に訴えるも、彼女の意見は即却下された。
『あ、浅生様お出掛けですか……って、水越様っ!?』
 エレベーターが一階へ到着し、エントランスへと出た二人を待っていたのは、コンシェルジュの工藤と橋本だった。
 エントランスにやってきた大樹に声を掛けた工藤だったが、彼の背負われた響子の姿を目にし、驚きの声を上げる。声を上げてはいないが、一緒に居た橋本も驚いた様子だ。
 そんな二人の姿を見た響子は、恥ずかしさからか夫の首元へ顔を埋める。絶対赤くなっているであろう顔を見られたくなかった。見ず知らずの他人にすらこんな恰好を見られたくないのに、知り合いに見られてしまっては余計に恥ずかしくて仕方ない。
『二人共、ちょっとの間響子ちゃんの事お願い出来る? 俺、ここに車回してくるからさ』
『浅生様、もしよろしければ、私が浅生様の車を回してきます。浅生様はどうか、水越様のお傍に』
 自分が車を駐車場からマンション前へ移動させる間、妻の様子を見ていて欲しいと言った大樹に対し、橋本は自分がその役目をすると申し出た。
 いくら親しくしているとは言え、橋本と工藤は現在仕事の真っ最中。そんな事はさせられないと、大樹は最初首を横に振っていた。しかし、自分より年上の橋本に言いくるめられてしまい、大樹は結局自分の車のキーを差し出した。
『今朝お仕事に向かう姿を見てないな、とは思ってたんですけど。水越様顔赤いっすね……。大丈夫ですか?』
『大丈夫ですよ。ゴホッ、ゴホッ……ただの風邪だと思いますし』
『三十八度以上も熱があるのに、大丈夫なわけないでしょうよ。……いでっ!』
 妻と工藤の会話を聞き、溜息を吐いた大樹。夫の言葉に少しばかり苛立ちを覚えた響子は、仕返しにと目の前にある彼の髪を少々強めに引っ張った。



 気が付くと、響子は自室のベッドの上に居た。確か、病院の帰りにドラッグストアに立ち寄り、そこで大樹を待っていたはずなのに。どうやらその途中に車の中で眠ってしまったらしい。
「…………」
 ゆっくりとベッドの上で起き上がり周囲を見回す。室内には自分一人しか居らず、そこに夫の姿は無かった。起きる前の最後の記憶が車の中という事は、マンションに帰ってきた大樹が、自分を部屋まで運んでくれたという事だろう。
 そして、視線を室内から自分の着ている服へ向ける。外出のために着替えた服のまま眠っていたらしい。これでパジャマになど着替えている状況だったら、とりあえず十回程大樹の頬を引っ叩かなければ気が済まない。
 所々しわが寄った服を見つめながら、後でしっかり洗濯をし、アイロンを掛けなければなんて考えていると、不意にドアが開く音がした。
 部屋の中に入ってきたのは夫である大樹だ。彼は、ベッドの上で起き上がっている響子の姿に一瞬目を細めるも、すぐにいつも通りの表情に戻った。
「少しはゆっくり眠れたかな?」
「はい……あの、今何時ですか?」
 大樹からの問いかけに頷きながら、響子は現在の時刻を彼に尋ねる。病院での診察が終わったのが午後三時過ぎだった事は覚えているが、あれからどのくらい時間が経過しているのか分からない。
「今は午後五時過ぎくらいだね。帰ってきてすぐに薬を飲ませたかったけど、ぐっすり寝てたみたいだから、起こさなかったんだ」
 大樹の言う通りなら、響子は二時間弱程の間眠っていたらしい。そのお陰なのか、まだ咳や頭痛が残っているものの、病院へ出掛ける前よりは少し回復している気がする。
「色々と、ご迷惑をかけてしまってすみません」
 響子は目を伏せると、大樹に向かって小さく頭を下げ謝罪した。今日一日、本当に彼には迷惑ばかり掛けてしまった。その事を申し訳なく思っていると、頭上から溜息が聞こえる。
 慌てて顔を上げれば、すぐ傍に大樹の姿があり、彼はベッド横にしゃがみ込むと、妻である響子と視線を合わせた。
「響子ちゃん、さ。いっつも俺に謝ってばかりだね。いいんだよ、もっと我が侭言ってくれても」
 そして大樹は、優しい声で響子に語りかける。夫の声は、あの公園で聞いた時と同じく、とても穏やかだった。
 我が侭など言えるわけがない。自分達を繋ぐものは、他の夫婦と全く違うものだ。そんな形だけの夫である大樹に、今以上の事を望む事など出来るはずがない。
「そうじゃなくても……具合悪い時くらいは、少し甘えてくれたっていいじゃない。俺じゃ全然頼りないかもしれないけどさ。一応……その……夫婦、だし」
 だんだんと小さくなっていく大樹の声。しかし、夫の声以外ほとんど何も聞こえない静かな室内では、そんな小さな声もしっかりと響子の耳へ届いた。
 照れているのか、妻に向けていたはずの視線は床に向けられ、ポリポリと頬を掻く夫。その頬は薄らと赤みを帯びている。
 自分で言っていて恥ずかしいのなら言わなければいいのに。そう心の中で夫の発言に対する指摘をしながら、響子は自分の頬の赤みを隠すため、慌てて俯き顔を隠した。
「あー……。そ、そうだ。全然ご飯食べてないから腹減ったでしょ。ちょっと待ってて、今準備してくるから!」
 自分の発言のせいで居心地が悪くなったのか、食事を準備してくると言って、大樹はさっさと部屋から出て行ってしまった。
 どうやら夫は、自分に都合が悪い状況になると逃げ出すのが癖のようだ。新たな大樹の一面を発見した響子は、一人ベッドの上でクスリと笑みを浮かべる。
『俺じゃ全然頼りないかもしれないけどさ』
 先程夫が言った言葉を思い出す。今まで大樹が頼りない事など無かった。
 二人の出会いは唐突で衝撃的なものだった。響子が大樹に対し最初に抱いていた印象は最悪なもの。しかし、この家に来てから、それは少しずつ変わっていった。
 始まりは全く知らない赤の他人だったが、この家に住み、少しずつ大樹の事を知っていった。いつも大樹は自分を助けてくれた。それが大きな問題でも、小さな問題でも、彼は真剣に考え接してくれた。
 最近では、大樹に助けられる事に対し、申し訳無いと思う反面、嬉しいと感じている自分に響子は気付いていた。
『一応……その……夫婦、だし』
 いつも暢気に響子をからかってばかりの大樹が照れながら言った言葉。『夫婦』と彼の口から聞いた瞬間、響子の中で言葉では形容しがたい感情が生まれた。冷静になって考えれば、あの感情は嬉しさに近いのかもしれない。
「……私、もしかして」
 響子は、静かに夫が出て行ったドアへ視線を向ける。そして、自分の中に生まれつつある、とある感情に気付いた。もしかして、その後に続く言葉を慌てて呑み込む。まさかと思う反面、その感情を全否定出来ずにいる自分に気付く。
 この感情は絶対誰にも言えないし、知られてはいけない。表に出すわけにはいかない。響子は目を伏せると、自分の中に芽生え始めた感情に、そっと蓋をした。



「はい、おまたせー。大樹さん特製おかゆー、と言う名の、レトルト温めて梅干し乗っけただけのおかゆー」
 響子の部屋へ戻ってきた大樹は、いつも妻が使っているお盆を手に持っていた。その上には、お粥が入ったお椀とレンゲ、水の入ったコップと病院から出された薬が乗っている。
「……ぷっ。大樹さん、笑わせないでください」
 以前から全く料理が出来ないと言っていた夫が、突然レトルトのおかゆを自分特製だと言い出した事が可笑しくて、響子は思わず笑ってしまった。突然笑い出した妻に、大樹は不満そうな顔をする。
「本当はね、卵とじのおかゆとか作ってあげたいよ。でも俺料理出来ないから、温めるしか出来なくて……グスッ」
 ベッドサイドテーブルにお盆を置いた大樹は、不満そうに口を尖らせて喋りだしたかと思えば、あからさまな泣き真似を始めた。
 そんな夫の芝居掛かった口調に、響子はしばらくの間笑い続けた。笑いが止まらない妻の様子を見ながら、笑わないでと文句を言う大樹。二人の様子は、日常的に接する状態にすっかり戻っていた。
「ふー、ふー。はい、どうぞ」
 響子が落ち着いた頃を見計らい、大樹はお椀に入ったお粥をレンゲで一口掬った。数回自分の息を吹きかけて冷ますと、そのレンゲを妻の口元へ近付ける。
 今日一日ずっと世話をしてくれた夫だったが、まさか食事まで手伝ってもらう事になるとは思わず、差し出されたレンゲを凝視したまま、響子は無言で固まってしまった。
 今朝起きてから、響子はほとんど何も食べていない。いくら具合が悪くても、流石に空腹を感じずにはいられなかった。目の前にあるホカホカのおかゆが入ったレンゲと、それを差し出す笑顔の夫を交互に見つめる。
「じ、自分で食べますからっ」
「えー、つまんないの」
 食べさせるくらいいいじゃない、と不満そうな顔の大樹からお椀とレンゲを奪い、ゆっくりとおかゆを胃の中へ流し込む。
 その後、梅干しの酸っぱさが食欲を刺激してくれたのか、時間は掛かったものの、響子はお椀に入っていたおかゆを完食する事が出来た。
 そして、病院で出された薬を飲み終わった事を確認した大樹の指示により、パジャマに着替えた響子はベッドの中へ戻り横になる。
 この部屋で目を覚ましてから二時間以上が経過した。現在の時刻は夜の七時半過ぎ。いつもなら、大樹と二人で一緒に夕食を食べている頃だろうか。
 ベッドの中に戻ったが、日中に少し眠ったため、すぐに寝る事は難しい。ちらりと響子が横へ視線を向ければ、そこにはベッド横に座り込んでいる旦那の姿があった。
 そう言えば、今日一日夫はつきっきりで看病をしてくれた。仕事に行かなくて良かったのだろうかと、響子の中に小さな疑問が生まれる。
「あの……今日って、大樹さんの方は、お仕事大丈夫だったんですか?」
「んー? うん、大丈夫だよ。今日はお休みだったから」
 響子からの問いかけに対し、大樹は彼女の方を向いて大丈夫だと返答する。
 大樹が現在どんな仕事をしているのか、一週間のうち休日はいつなのか、夫の仕事に関する情報を一切持たない響子にとって、今の言葉が嘘なのかどうか判別は不可能だ。ここは、彼の言葉を素直に信じるしかない。
「薬も飲んだし、明日には熱下がってるといいね。明日には完治して欲しい所だけど……流石に一日で完治は無理そうだな」
 そう言って目を細め、大樹は妻に優しい視線を向ける。そんな夫の視線が妙に恥ずかしく感じた。
「風邪って、人に移すと早く治るって聞いた事ありますよ」
 恥ずかしさをごまかそうと、響子は以前どこかで聞いた話題を口にする。風邪は人に移すと早く治る。何度か聞いた事のある話題ではあるが、本当だという確証は無い。冗談半分に彼女はクスリと笑った。
 本当に人に移す事で風邪が治るなら、移った人には申し訳ないと思いつつ、やはり嬉しい気持ちが勝つだろう。今響子の風邪が一番移る確率が高いのは、今日一日のほとんどを共に過ごした大樹だ。早く風邪が治って欲しいと思う反面、隣に居る彼には移らないで欲しいと、響子は心の中でそっと願う。
「それじゃあさ、キスしたら治るかな?」
 あと何日程で風邪が治るだろうか。そんな事を考えていた時、耳に届いた衝撃の言葉に、響子は驚きのあまり大樹の顔を凝視してしまう。
 今この男は何と言ったんだ。聞き間違いでなければ、キスをすれば風邪が治るかと妻に問いかけてきた。大樹と生活を共にし、度々彼の言動に驚かされてきた響子だが、今の一言は、そのうちの上位に入るかもしれないと思う程の衝撃だった。
「……あ、あれ? 響子ちゃん、今の冗談だよ? 冗談」
 驚きのあまり無言になってしまった妻に、大樹は焦った様子で冗談だったと口を開く。
「…………。試してみたらどうですか?」
「へっ?」
「キスして風邪が治るか、試せばいいじゃないですか」
「はっ!? いや、だからね、今のは冗談だから!」
 先程は大樹の言葉に妻が驚いていたが、今度は響子の言葉に夫が驚く番だった。響子の発言を聞いた大樹は、驚きのあまり両手を自分の顔の前で何度も横に振り、冗談だからと繰り返す。
「今朝、俺なら大丈夫って言ってたじゃないですか。それに、私も早く風邪が治って嬉しいですし」
 慌てる夫の姿に、響子は内心ガッツポーズをしたくて仕方なかった。
 普段こちらが翻弄されるばかりなため、たまには仕返しをしないと気が済まない。妻の突然の発言に驚きを隠せない様子の大樹。そんな姿を、響子は表情を変えないよう気を付けながら楽しんでいる。
 本当にキスをしたくらいで風邪が治るなど、響子自身まったくと言って良い程信じていない。しかし、こうやって日頃の仕返しを出来るまたと無いチャンスを思う存分楽しみたかった。
 今日一日、一生懸命看病してくれた夫に心の中で謝罪する。看病してもらった事は本当に感謝しているが、こんな楽しい機会を逃すわけにはいかなかった。
「確かに言った、けど……あー」
 妻の攻撃にすっかり困り果ててしまったのか、大樹はガシガシと己の髪をかきむしる。こんなに困った様子の夫を見るのは初めてだと、響子は楽しそうに笑みを浮かべた。
 これ以上困らせるのは流石に悪いだろう。そろそろ冗談だと言わなければと、響子が口を開きかけた時だった。
「後で文句言うの無しだからね!」
「えっ? ……っ!?」
 大樹の言った言葉の意味が理解出来ず聞き返そうとした瞬間、両肩を掴まれると同時に、響子の唇に何かが触れた。それが大樹の唇だとすぐに気付き、驚きのあまり目を見開く。
「ん……っ、ちゅ」
 何度も繰り返される啄むような優しい口付け。あまりにも優し過ぎるキスに、響子は開いていた瞳をゆっくり閉じ、それを受け入れた。
「…………。本当に……これで君の風邪が俺に移ればいいのに」
 目を閉じ、夫からの口付けを受け入れた響子の様子に、大樹は驚きのあまり一瞬唇を離した。しかし、すぐにまた目の前にある妻の唇へと自分のものを重ねる。
 響子が目を閉じた後、小さく呟かれた夫の言葉は、あまりに一瞬で小さすぎたため、彼女が意味を理解する事は無かった。
 二人が出会ってから初めてのキス。その優しく甘い口付けは、しばらくの間幾度となく続けられた。



 深夜、眠っていた響子はふと目を覚ました。部屋の電気は消え、すっかり暗くなった自室の天井を見上げる。
「ぐー……」
 突然聞こえた物音に、何事かと視線を向ければ、自分が眠るベッドに寄りかかり熟睡している夫の姿を見つける。どうやら響子を看病していて、そのまま眠ってしまった様だ。
 響子は、眠っている大樹を起こさぬようにそっとベッドから降りると、慎重に室内を歩き始める。
 病院から貰った薬の効果か、ベッドを抜け出して少し歩き回れる程度には回復したらしい。その事を心の中で喜びながら、彼女は部屋の奥にある収納スペースからタオルケットを一枚取り出す。
 そしてそれを持ったままベッドの傍へ戻ってくると、いびきをかきながら眠っている夫が風邪を引かないようにと、持ってきたタオルケットを彼の体へ掛ける。
「今日は……本当にありがとうございました」
 寝ている大樹を起こさぬよう、響子は囁くような声で感謝の言葉を伝える。
 いびきをかきながら、妻のベッドに寄り掛かって眠る夫。そんな姿が愛おしいと思えてしまう。
 響子は、主張しようとする気持ちを自分の中に必死に押し込め、再び足音を立てぬよう歩きベッドの中へ戻っていった。
 大樹の事を好きになってしまった。しかし、この気持ちは誰にも知られてはいけない。
 そう何度も自分に言い聞かせながら、響子は再び眠りについた。
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