契約書は婚姻届

20.お守りの指輪

 今週も、あと二日仕事をすれば休日が待っている。
 仕事が嫌だと愚図る大樹を起こしながら、どうにか彼の仕事に対するモチベーションを上げられないものかと考えていた響子のもとに届いた友人からの電話。
 その電話越しに発せられた言葉は、浅生夫婦にとって、厄介な事件が発生した事を知らせるものとなった。
 会社内で大樹と響子が抱きあっていた写真画像付きのメールが、社員達の間で広まっている。
 衝撃的な出来事が現在進行形で続いていると聞かされ、困惑するばかりの響子。
 大樹と結婚し、今までこの秘密を守り続けてきた。その間、特に大樹との仲を疑われるような行動を取った覚えは無い。
 しかし昨日の夕方、大樹が女子社員から告白される現場に遭遇し、嫉妬心に負け夫に抱きついてしまったのは自分だ。まさかあの時の写真が撮られていたのだろうか。
 これから一体どうすればいいのだ。どうすればこの問題を解決出来る。
 早朝でまだ覚醒しきっていない脳をフル回転させるが、妙案が思い浮かばず、出てくるのは疑問符のみ。
「……?」
 その時、ふと頭に何かが触れている事に気付き、視線を上げれば夫である大樹が自分を見つめ微笑んでいるのが見えた。
「響子ちゃん、携帯をスピーカーモードにしてくれる? 志保ちゃんの声、誠司にも聞こえるようにしたいから」
 混乱する妻の頭を撫で笑みを浮かべる彼の顔は、響子が今までに見た事が無い程頼もしく見えた。



 大樹の指示に従い、未だ友人と通話状態になっている携帯電話を操作し、響子はスピーカーモードへ切り替えた。
 そして夫に促されるままベッドへ座り、隣に座った大樹が話す様子を見つめる。
 先程まで会社に行きたくないと駄々をこねていた男が、数分経った今では自分達をまとめるリーダーのように見える。
 自分の目の前に居る男はとても優秀なのだと、彼女は改めて実感した。
 大樹は己が持つスマートフォンを操作し、電話の向こうに居る誠司の声が響子や志保へ届くように準備をする。
「それじゃ志保ちゃん、これまでの事と今どういう状況になってるのかを、改めて教えてくれる?」
 準備は整ったとばかりに、大樹は妻が持つ携帯電話へ向かい、電話の向こうに居る志保へ状況説明を求めた。
『は、はい。今朝起きたら、私の所に何通ものメールが届いていたんです。それをチェックしたら、大樹さんと響子が会社内で抱き合っている画像が添付されてました。大樹さんもこの前会ったと思いますが、総務の先輩、西村さんからその直後に電話が来て。響子にすぐ電話をして休ませるようにと指示を受けて、今電話しました』
 大樹に促され、今回のメール騒動に関し、自分が知っている事をすべて話す志保。
 冷静に状況を伝える友人の声を電話越しに聞き、自分もしっかりしなければと、響子は無意識に気合を入れ、空いている手をギュッと握りしめる。
『どうやら、そのメールは昨夜から社員達の間で広がっているらしい。女性の方は顔が写ってないから誰かは特定されていないが、男の方ははっきり大樹の顔が写ってるからな……。一応お前のパソコンにそのメールを転送しておいた』
 大樹の持つスマートフォンから響く誠司の声。その説明によれば、問題になっている写真に映る男女の姿のうち、男性の方は大樹だと皆に認識されている様だ。
 その大樹が抱きしめている女性は誰か。その真相について、社員達の間で憶測が飛び交っているのかもしれない。
 彼がそんな事をする人物は、もちろん響子ただ一人。しかしその事実を知っているのは、二人と特に親しくしているごく一部の社員のみ。
「オッケー……って、部屋に置きっぱなしだった。響子ちゃん、ちょっとパソコン取ってくるから、少し待っててね」
「はい、わかりま……っ」
 問題のメールが転送されたと聞いた大樹は、自室にあるパソコンを取りに行くと立ち上がり、響子へ声をかける。
 そんな夫の言葉に頷こうとした響子だったが、彼女は最後まで言葉を発する事が出来ず、身体を硬直させ、徐々に赤くなる顔の熱を感じながら寝室から出て行く大樹を見送る事となった。
『……? 響子ー、聞こえてるー? 何かあったー?』
 今まで聞こえていた夫婦の声が聞こえなくなり、急に静かになった事に疑問を感じた志保は、電話の向こうに居るであろう友人へ声をかける。
「だ、大樹さんが……」
 その数秒後、弱々しい声が電話越しに聞こえ、一先ず彼女はホッと息を吐き安堵した。
『大樹さんがどうしたの?』
「大樹さんが……お、おでこにチュって……」
『……あんた達、今自分達にとって最大のピンチが起こってる事、まったく自覚してないでしょ』
 突然額に口付けられた事に驚き、その恥ずかしさに声を震わせる響子。
 そんな彼女の姿を想像した志保は、盛大な溜息を吐き、一人頭を抱えるのだった。



「……ふう」
 車を社員専用駐車場へ停めた響子は、エンジンを切り、軽く息を吐く。そして、胸元にぶら下がる物の存在を確認するかのように、小さなそれを己の手で包み握りしめた。
『え? これを……持って行くんですか?』
 出勤前の早朝、友人達との会議を終えた響子と大樹は、休めと何度も訴える友人の言葉を聞かず出社する事を決めた。
 二人揃って休んでしまえば、事情を知らない社員達に、あのメールは事実だと教える事になると考えたからだ。
『うん、そう。お守りだと思って、持って行って。ネックレスのチェーン長いやつに通して持って行けば、そう簡単にはバレないだろうから』
 朝食を食べ終え、いざ出勤しようと意気込む響子をひき止め、大樹が彼女に渡した物。それは、休日には必ず妻の左手薬指で光り輝いている二人が結婚した証だった。
 株式会社『With U』では、仕事に支障が無い程度のささやかなお洒落を黙認している。
 会社側が全面的に認めているわけではないが、社員のモチベーションが上がるならと、誠司や大樹も特に注意するつもりは無い。
 そのため、女性社員の半数以上は、簡単なネイルをしていたり、シンプルな指輪やピアス、ネックレスなどでお洒落をしている。
 普段、小ぶりなネックレスを身につけている事が多い響子も、そんな女性社員達の一人と言える。
 いきなり結婚指輪をお守り代わりに身につけろと言った大樹の思惑が分からず、響子は首を傾げた。
 しかし、ブラウスの布一枚隔てて感じる指輪の存在が、不思議と彼女の心を落ち着かせた。
「大丈夫、大丈夫、大丈夫……」
 何度も小さな声で繰り返し発する大丈夫という言葉。まるで自分自身へ言い聞かせるように繰り返していた時、不意に鞄の中に入れていた響子の携帯電話が鳴った。
「は、はいっ。もしもし」
『あ、水越先輩! 会社に向かったって伊藤先輩から聞いて私達吃驚したんですよ!』
「え、あの……絵美、ちゃん?」
 突然の着信音に驚き、相手を確認せず電話に出た響子は、電話の向こうから聞こえる後輩の声に、一瞬反応が遅れてしまう。
 電話をかけてきたのは、結婚の事実を伝えた後輩の一人であり、男性モデルみずきのファンでもある根本絵美だった。
『はい。水越先輩、今どこに居ますか? 電話に出れたって事は、もう会社着いてます?』
「う、うん。今駐車場に……」
『トモ、水越先輩駐車場だって。先輩、私達が今迎えに行きますから、まだ社内に入らないでくださいね!』
 困惑する響子の事など気にも留めず、自分の用件だけを伝え、根本はすぐに電話を切ってしまった。
「なんなの、一体」
 その後しばしの間、響子は呆然と携帯電話の画面を見つめる事しか出来なかった。



 まだ朝だというのに、いつも使っている体力を既に半分以上使っているのではないだろうか。朝から自分の身の周りで目まぐるしく起きる出来事の数々に、響子は既に疲労感を感じていた。
「ね、ねぇ……二人共、わざわざ出迎えなんて来なくてもいいんだよ? それにほら、変に目立っちゃうし」
 響子は、左右に並んで歩く後輩二人を交互に見つめ、困り顔のまま声をかける。
 つい数分前、根本からの電話を受けた彼女は、突然の事に首を傾げながらも、荷物を持ち、車の前で後輩達の到着を待っていた。
 その後、すぐに後輩である根本と山口が駆け足でやってきた。そして、何故か響子は二人に挟まれるような形で、駐車場を出発し会社内へ向かう事になった。
 右を向けばすぐ近くに根本の顔が、左を向けばすぐ近くに山口の顔がある。まるで要人を守る警備員のごとく自分と共に歩く後輩達。
「水越先輩……周り、見てください」
 困り顔で声をかける先輩の姿に、山口が溜息交じりに視線を周囲へ向ける。彼女にならって、辺りを見回した響子は、瞳に映った光景に驚きを隠せなかった。
「……でしょ?」
「うそ、マジで?」
 はっきりとした理由はわからないが、出社してきた社員達の視線のほとんどが、自分達三人に向けられている事に気付かされる。
 遠巻きに三人を見つめ、コソコソと小声で言葉を交わす社員達。時折聞こえる声が、響子の中にある不安を倍増させる。
「私達がガードしてるから、これくらいで済んでるんですよ。先輩一人で歩いてたら、噂好きの女子社員に囲まれて、今頃揉みくちゃにされてますって」
 根本の言葉に、響子は今朝自宅での会話を思い出していた。
『これは……確かに俺の顔バッチリ写っちゃってるね。でも、響子ちゃんの顔は写ってないよ?』
 ノートパソコンを手に寝室へ戻ってきた大樹と共に、問題の画像を目にした響子。
 そこに写っていたのは、想像していた通り、昨日の帰り際廊下で大樹と抱き合った時のものだった。
 夫の言う通り、顔が写っているのは大樹だけで、相手の女性は運よく男の胸に顔を埋めていたため、すぐにその女性が響子だと気付く人物はごく一部の人間だと推測される。
『大樹さん、あの……大変言いにくいんですけど、いいですか?』
 俺が誤解を解けば大丈夫かな、と微笑む大樹だったが、そんな彼の声を遮るように、響子が手にする携帯電話から、どうしたものかと悩んでいるような志保の声が聞こえてきた。
『多分、一部には相手の女性が響子だってバレてます。昨日響子が着てた服とか覚えてる子が居て、相手は響子なんじゃないかって広まってるって、さっきトモちゃんから連絡が』
 電話越しに聞こえた志保の発言に、響子、大樹、そして誠司までもがそれぞれ頭を抱えてしまう。
 響子達が勤める会社には、制服を着て仕事をするという概念は無いため、皆それぞれ自分で用意したスーツを着て出社している。
 そのため、昨日響子が着ていたスーツの色や特徴を覚えている人物が居るとしても、それ程不思議では無かった。
『はぁ……そもそも、何故こんな写真が出回っているんだ。大樹、昨日何か変わった事は無かったか?』
『突然変わった事と言われても……あぁ、何回も告白された、かなー。あの子の名前、何だっけ』
 問題の発端となった出来事を探るため、誠司は大樹へ、昨日何か変わった事は無かったかと尋ねる。友人の言葉に、大樹は身の回りで起きた出来事を思い出し、あの告白について告げた。
『及川さんですよ……及川未来さん』
 大樹に告白してきた人物の名前を教えながら、響子は自身が目撃したあの光景を思い返していた。
 大好きな夫が、自分よりかなりレベルの高い女性から告白を受けている場面というのは、実際目にしても、思い出しても腹立たしいものだ。
『え、及川さんが大樹さんに告白した!? うっそだー、有り得ないよ、それ!』
 記憶の中にある光景のせいで不機嫌になっている響子の耳に、今度は何やら驚いた様子の友人の声が届いた。
『及川さんは社長狙いなはずだもん。大樹さんに告白したとか、嘘でしょ。いや……もしかして、大樹さんの方が社長より楽に落ちると思って、乗り換えたか……』
 一人ブツブツと電話の向こうで喋り続ける志保。そんな彼女の発言を耳にし、響子は恐る恐る自分の隣に座る大樹へ視線を向けた。
『どうせ俺なんか……俺なんか……』
 その視線の先には、予想通り志保の辛辣な発言のせいで、どんよりと暗い空気を身に纏い激しく落ち込む夫が居た。
 やはり自分の旦那は、とことんメンタル面が弱い人間なのだと、改めて実感させられた響子であった。
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