契約書は婚姻届

19.妻バカな男と二本の電話

 突然の大樹登場という予想外の出来事に、響子が脳内で考えていた結婚打ち明けプランは、一瞬にして無駄になってしまった。
 そしてその直後、まるで手に持ったボールをパスするかの如く、真実を知らない女性陣に対する説明を夫から任された響子。
『……彼氏じゃなくて、旦那なのっ!』
 極度の混乱と緊張に、今にも破裂しそうな程の鼓動を胸に感じながら、彼女は自分と大樹にとって一番の秘密を打ち明けた。



「響子……いつまで私の後ろに隠れてるの?」
 志保は溜息を吐きながら、自分が座る一人掛けソファーの背後に蹲る友人に声をかけた。
「…………」
 しかし、その声に響子は反応を見せず、熱く火照り真っ赤になった顔を隠すように、更に体を小さく丸めるのみ。
 大樹が旦那だと告白した後、驚く皆の反応は十分予想していた。しかし、予想する事と実際に体験する事では違いがあり過ぎた様だ。
 響子は、自分が想像していた以上の驚きを見せる皆を目にし、恥ずかしさのあまり居た堪れない気持ちになってしまい、まるで親に咎められた子供の様に、そのまま事情を理解している友人志保の背後へ逃げ隠れた。
「初めて出来た彼氏を報告する高校生じゃないんだからさ、いい加減覚悟決めて出てきなって」
 体ごと後ろを向いた志保は、自身が座るソファーの背もたれから身を乗り出し、ペシリペシリと友人の頭を軽く叩き、出てくるよう促す。
 そんな二人のやりとりを、未だ驚いた様子で見つめる女性陣。
 いきなりすぎる響子の告白に驚かされたが、志保と響子のやりとりを見る限り、先程の旦那宣言は本当なのだと実感せざるを得ない。
 そして、未だリビングのドア付近で立ち尽くす大樹は、己の視線の先で繰り広げられる女性達のやりとりを眺める事しか出来ずにいる。
 表情を顔に出さず、その場に佇む彼の姿は、傍から見れば現状に困惑し自分は今後どのような行動を取れば良いのだと悩んでいるように見えるかもしれない。
 実際、現在大樹の脳内では、その問題についての答えを探し求めていた。
 妻から聞いていた予定時刻よりも早い来客。
 皆が来る前に、コンビニエンスストアで適当にガムを買い足しておこうと思い立ち、外出準備を終え妻に一言声をかけてから出掛けようとした矢先、彼を待っていたのは自身が勤める会社の女性社員達だった。
 妻を一人残しコンビニエンスストアへ行く事も出来ず、だからと言って自らリビングの中へ足を踏み入れる事も出来ず、どうしたものかと大樹は頭を悩ませる。
 しかし、その問題を解決するために稼働している部分は、大樹の脳内で十パーセントにも満たない。
『響子ちゃん偉いねー、頑張ったね! 真っ赤な顔で恥ずかしがって、ソファーの後ろに隠れちゃう響子ちゃん可愛いなー』
 脳内の残り九十パーセント以上を占めていたのは、恥ずかしがる妻の姿をニヤニヤと見つめる、親バカならぬ妻バカな男の思考であった。
「あれ? ちょっと響子……お茶の準備するって言ってたけど、ちゃんと火止めてきた?」
 ソファーの後ろからまったく出て来ようとしない友人に、どうしたものかと頭を悩ませていた志保は、不意に自分達のために紅茶を淹れてくれていた響子の姿を思い出し、見下ろす体勢のまま彼女に問いかける。
 紅茶を淹れるためには当然お湯を沸かさなければいけない。準備の最中だった友人は、ここへ来る前にちゃんとガスコンロの火を止めてきたのかと気になった様だ。
「えっ? ……あぁ、忘れてたっ!」
 志保の問いかけに、自分が先程までやっていた事を思い出した響子は、ガスコンロの火を点けっぱなしのままリビングに来た事に気付く。
 ソファーの後ろで蹲っていたが、火事になっては大変だと反射的に立ち上がり、急いでキッチンへ戻ろうと体を百八十度後ろへ向ける。
「はいストップ。紅茶は私が淹れてくるから、響子は、大樹さんと一緒に皆への説明お願いね」
 しかし次の瞬間、キッチンへ駆け出そうとした響子はあっさり志保に捕まってしまい、この場に残って今日の目的を果たせと、満面の笑みを浮かべる友人から現実を突きつけられた。
「大樹さんもそんな所に突っ立ってないで、こっち来てください」
 響子の腕を掴んでない方の手を動かし、リビング入口に佇む大樹を手招きする志保。
「はーい」
 すると、彼女の言葉に素直に返事をした大樹が、ゆっくりとリビングの中へ足を踏み入れ、皆の方へと近づいてくる。
 もう既に自分は逃げられない。現実に向き合わなければいけないと、響子は肩を落とした。



 その後、響子と大樹は二人で一緒のソファーに座り、まるで観察でもするような視線を女性三人から向けられていた。
 コンビニエンスストアへ向かおうとしていた大樹だが、現状を理解し外出は止めたらしく、脱いだ上着をソファーの背に掛けている。
 二人を同じソファーに座らせるため、西村と根本が一人掛けソファーに座り直し、山口は一人大型テレビを背に床へ座り、正面に座る今日の主役二人を見つめていた。もちろん、体を痛めない様にとソファーの上に置いてあったクッションを敷いて座っている。
 ちなみに志保は、響子に代わって紅茶とマドレーヌを準備するため、一人キッチンへ向かい作業中だ。
「水越先輩、あの……本当の本当に、副社長とご結婚しているんですか?」
「……うん」
 根本が再度確認とばかりに響子へ問いかける。自分が勤める会社の副社長が目の前に居るせいか、口調が普段より堅くなっている様だ。
 すると、少し間があったものの、響子は赤い顔のまま一度首を縦に振り、その問いに肯定の答えを示した。
「副社長、本当に……水越さんとご結婚を?」
 響子の答えを聞いた瞬間、間髪入れずに西村が大樹へ同じ質問を投げ掛ける。
「うん!」
 そんな彼女の問いに、大樹はこれでもかと笑顔を浮かべ、大きく頷いた。まるで、母親と仲がいいのねと言われた子供が嬉しさを体全体で伝えている様だ。
「…………」
 大樹の反応を見た響子は、あれ程秘密にしようと誓い合った事をあっさり認めてしまう彼の潔さに驚かされていた。
 そして、何より一番驚いたのが、結婚を告白した大樹の表情がとても嬉しそうだという事。
 彼の頭上や周辺に、可愛らしい花が浮かび、蝶が飛び回っている。そう思ってしまう程、大樹の笑みはあたたかく、心の底から喜びを表していると誰もが理解出来る程だった。
 やはり大樹も、自分が響子と結婚しているという事実を周囲に報告したかったのだろう。
 子供の様に喜ぶ夫の姿を目にし、響子は自身の選択が間違っていなかったのだと、改めて実感する事が出来た。
「おまたせー。響子、キッチン勝手に使わせてもらったよ」
 その時、お茶会に必要な物をトレーに乗せ、キッチンで準備をしていた志保が戻ってきた。
「ごめんね志保、お客さんなのに準備させちゃって。後は私がやるから」
 響子は、客人である志保に支度を任せてしまったと、申し訳なさそうな顔をしながらトレーを受け取り、皆の前にお茶やお菓子を並べだす。
「伊藤先輩……前にここへ来た事があるって言ってましたけど。もしかしなくても、水越先輩が結婚してる事、知ってたんじゃないですか?」
 ソファーに残っていたクッションを一つ手に取り自分の隣へやってきた志保へ、山口が問いかける。
「大正解だよ、トモちゃん」
「知ってたなら教えてくれても良かったじゃないですか」
 まるで悪戯が成功した子供のように、満足げな笑みを浮かべる志保の言葉に、根本も不満そうに声を上げる。
「いやいや。ほら、サプライズ的な? 極度の人見知り会社員彼氏が大樹さんって知ったら、皆吃驚するだろうなと思って」
「サプライズすぎて、まだちょっと信じられないわよ。まったく……」
 はぁ、と溜息を吐く皆の先輩である西村の姿に、すみませんと頭を下げる志保だが、あまり反省している様子は無かった。
「響子ちゃん、一体俺の事どんな風に説明してたの」
「それは、えっと……」
 女性陣の会話を聞いていた大樹が、突然隣に座る妻へふと感じた疑問を投げかける。その問いに、響子は顔を引き攣らせ、あからさまに夫から視線を逸らし口籠った。
「怒らないから、言ってみて?」
「うっ……私より、十歳年上で、会社員で……きょ、極度の人見知りだって」
「大体本当の事だけど……三十後半にして極度の人見知り会社員って、普通に話聞けばちょっと怪しい人だよね」
「だって、皆から写真見せてとか、会ってみたいって言われて。回避する方法がそれしか思いつかなかったんです」
 響子と大樹のやりとりは、まるで悪戯が見つかって居心地の悪そうな子供と、それをたしなめる親のように見える。
 秘密を守るため、考え抜いた末についた妻の嘘に、大樹は苦笑いを浮かべるしかなかった。
 自分とまったく違う彼氏を作り上げ皆に伝えていたのかと思えば、響子が考えた彼氏像はほぼ自分と言ってもいい程類似点が多いものだった。
 極度の人見知りではないものの、本当の意味で他人と親しくするのは苦手な大樹。そして、少し前まで引き籠り生活を送っていた時点で人見知りに通じるものがある気がする。
 自分自身が思っている以上に、妻である響子は夫の事を理解しようと努め、実際に理解し始めている。
 その事実が、唯でさえ緩みっぱなしの頬を、より緩ませる事になりそうだ。大樹は今日一番とも言える程、愛おしいという気持ちを妻へ向ける視線に込めた。
「ね? ただのバカ夫婦でしょ?」
「伊藤先輩、それは言い過ぎ……でもないか」
「あはは、はは……」
「あー、私も旦那欲しいわ」
 来客の事などすっかり忘れかけている響子達を眺め、バカップルならぬバカ夫婦と女性陣に説明をする志保。
 そんな彼女の説明に、三者三様の反応を見せる西村達だった。



 大樹との結婚を告白した休日から数日後、仕事を終え帰ろうとしていた響子は、自分のデスクに仕事で使うペンケースを忘れた事に気付いた。
 社員専用駐車場まで下りてきたが彼女だったが、このまま帰っても忘れ物が気になり落ち着かない思い、すぐに来た道を引き返し会社内へ戻っていった。
「車出す前に思い出してよかった」
 急いで自分の仕事場へ戻った響子は、デスク引出しの中に置き忘れていたペンケース見つけホッと一息吐いた。
 ペンケースを肩にかけたバッグの中へ仕舞い、今度こそ帰宅しようと彼女は人気の無い廊下を歩き始める。
 就業時間が終わり、ほとんどの社員が帰ってしまった会社の廊下に、コツコツと響子の足音が響く。
 十一月に入り、夏と比べ日が昇っている時間が短くなっているのが分かる。
「大樹さんも……今頃帰り支度してるのかな」
 自分以外誰も居ない廊下で一人ポツリと呟き、響子は数日前の賑やかな日を思い出していた。
 大樹との夫婦関係を告白した後、結婚した当初から予想していた怒涛の質問責めを受けた響子。
 出会いはどこで、告白はどちらから等、次々と飛び出す女性陣からの様々な質問に、二人は時折照れながら答えた。
 とは言っても、借金返済と交換条件の結婚をしていた事は、事前に夫婦で打ち合わせ上手く隠し通した。
 一番の友人である志保には今までの事をほとんど話しているが、少し仲が良い先輩後輩の位置に居る西村達に全てを話すのは止めた方がいいと、響子自身が考えたからだ。
 胸を張って自慢出来る出会いでも無く、堂々と惚気られる部分が少ない夫婦生活を送ってきた二人。
 そんな事を素直に話した所で、場の空気が微妙になるだけで、聞いている側も楽しくはないだろう。
 もし仮にすべてを話したとしても、きっと彼女達なら受け入れてくれると思う。
 西村達三人を信用していないわけでは無いが、時には秘密を作る事も人間関係を築く上で大事な事だと響子は思った。
「……とうに、……ですか?」
「……から何度も言ってるでしょ?」
 恥ずかしくも、楽しかった一日を思い出しながら歩いていると、不意に自分以外の声が響子の耳に届いた。
 あと数メートル先にある曲がり角の向こうから声は聞こえてくる。他の社員達が何か話し合いでもしているのかもしれない。
 他の道を通って迂回出来ればいいのだが、生憎彼女が居る場所から駐車場へ向かうには、この道を通る以外他に無い。邪魔にならないよう、出来るだけ静かに立ち去ろう。
 響子はそのまま歩くスピードを落とし、ゆっくり曲がり角へ近付く。
「私、諦められません。本当に好きなんです、浅生さんの事っ!」
「……っ!?」
 その時、彼女の耳に少々ヒステリックになった女の声が届いた。自分の身近な人物の名が聞こえた気がして、反射的にその場で立ち止まる。
「俺を慕ってくれる気持ちは純粋に嬉しい。でも、君の気持ちには応えられない。知ってるでしょ? 俺には今付き合ってる人がいるの」
 続いて聞こえてきたのは、溜息交じりの男の声だ。しかもそれは、響子が毎日のように聞いている声そのもの。
 まさか、と脳内に浮かぶ光景を必死に否定しながら、響子は恐る恐る柱の陰に隠れ、曲がり角の向こうに居るであろう二人の様子を窺う。
「……っ」
 その光景を見た瞬間、飛び出しそうになった声を、響子は咄嗟に手で口を覆い誤魔化す。
 彼女の予想通り、角を曲がった先に見えたのは、自分の夫である大樹と女性の姿だ。向かい合って話をしている二人。しかし、女性は響子に背を向けるように立っているため、どこの誰かは分からない。
 こんな時間に会社内に居るのだから、部外者ではなくここの社員なのだろう。背中まで伸びた緩くウェーブのかかったロングヘアーが特徴的だ。
 響子は、そのまま己の視線を女性から大樹へと移す。
 彼は明らかに困惑した表情を浮かべ頭を掻いてていた。己の頭をガシガシと手で掻く行動は、困った時に大樹が無意識にやる動作の一つとも言える。
 仕事を終え帰宅する途中だったのか、彼は黒いコートを羽織り、手に鞄を持っている。
「…………」
 響子は無言のまま柱の陰に隠れ、二人の様子を窺い続ける。
 誰も居ない廊下で二人きり。そして先程の大樹達のやりとりから察するに、十中八九告白場面に遭遇してしまった様だ。
 今まで、大樹と女性社員の間で、芸能人とファンのやりとりに似た状況を何度か目撃した響子だったが、今回のようなあからさまな告白場面を目にするのは初めてだった。
 何も知らぬふりをして、二人が居る場所とは逆方向へ歩き、駐車場へ向かえればどんなに楽だろう。
 告白現場に遭遇してしまうというシチュエーションは、普通の状態でも回避したいものだ。それに加え、告白されている相手が自分の旦那なんて、考えるだけで気が狂いそうになる。
 柱の陰から顔を覗かせ二人の様子を窺うが、大樹に告白した女は一向に立ち去る様子は無い。
 大樹本人の口から、既に恋人が居るとはっきり拒絶されているのだから、素直にそれを受け入れてくれればいいのに。
 もうこうなったら、たった今仕事を終えたふりをし、歩いていたら偶然この場に居合わせてしまったと、自分から動いて状況を変えるしかないだろうか。
「どうしよう」
 ポツリと小さな声が無意識に出てしまう。
 響子は、大樹達の状況をもう一度冷静に確認しようと、柱の陰から僅かに身を乗り出す。その時、彼女が肩にかけていたバッグの中から財布が床へ落ちてしまった。
「っ!?」
 目の前に落ちた財布の存在に気付き、彼女は慌てて肩にかけたバッグを確認する。すると、チャックを閉め忘れるという致命的なミスを犯していた事に気付かされた。
 どうやら、響子が身を乗り出した瞬間にバッグが傾き、口の開いた状態からポロリと財布が落ちてしまった様だ。
「っ!? 誰よっ!」
 響子はすぐに不味いと思ったが、既に遅かった。
 人気の無い静まり返った廊下では、財布が落ちる音ですら、その場に居る人間の耳に届いてしまうらしい。
 焦りを含んだ女の声が聞こえ、既に誰か第三者が居るとバレているこの状況では仕方ないと響子は覚悟を決めた。
「す、すみません。邪魔するつもりも、聞くつもりも無かったんです。すぐに帰りますので、お二人はどうか気に、せ……ず……」
 偶然告白現場に遭遇し、会話内容を聞いてしまった事を謝りながら、財布を拾い足早にこの場から立ち去る。
 これから自分がすべき行動を頭の中で確認し、響子は口早で謝罪しながら床に落ちた財布を拾った。
 私の旦那に告白なんかしないで、なんてかっこよく言い切れればいいのだが、こんな些細なミスからあっという間に噂が広まるのも困ると彼女は考えた。
 次に自分と大樹の関係を告げるのは、自分が働く部署の上司。その時、一緒に退職届を渡し、退職の手続きを進めようと響子は決めている。
 財布を拾った後は足早にこの場を立ち去ればいい。次の行動を分かりきっていたはずなのに、財布を手に持ち顔を上げた響子は、目の前の光景に動けなくなってしまった。
「なっ!? あ、貴女……総務の」
「あは、ははは……」
 響子の視線の先に居るのは、顔を赤くし驚愕している女子社員と、予期せぬ妻の登場に口元を引き攣らせ乾いた笑い声をあげる大樹だ。
 状況は予想していたものの、実際目にしてしまうと、衝撃の大きさに彼女の頭は真っ白になってしまう。
 改めて大樹と一緒に居る女性を見れば、なんと会社内で一番の人気を誇る女性社員及川おいかわ未来みくだという事が解った。
 男性社員達から絶大な人気を得ている美人社員及川が副社長に告白している。こんな場面を噂好きの社員に目撃されれば、数日と経たずに社員全員へ知れ渡ってしまうだろう。
 もちろん、響子は噂など流すつもりはまったく無いが、心に受けたダメージは計り知れない。
「っ、失礼しますっ!」
 自身の告白シーンを他人に見られていた事が余程恥ずかしかったのか、及川は真っ赤な顔のまま、足早に大樹の横を通り過ぎ、廊下の奥へ消えて行った。
「……ふう」
 その後、自分の前から及川が立ち去り、彼女の姿が見えなくなった事を確認した大樹は、小さく溜息を吐くと、未だ呆然と立ち尽くす妻の元へゆっくりと近づく。
「響子ちゃーん、起きてますかー?」
 出来るだけ声を抑えパタパタと妻の目の前で手を振るが、放心状態の響子は一切反応を見せない。
「……えい」
「っ!? だ、大樹……ひゃん」
 このままでは埒が明かないと考えた大樹は、響子の頬へ手を伸ばすと、彼女の柔らかなそれを左右へ引っ張った。
 両頬を引っ張られた痛みで我に返った響子は、自身の目の前に立つ夫の姿に首を傾げてしまう。
 ようやく自分の姿が妻の視界に入った事にホッとし、大樹はすぐ頬から手を離す。
「あ、あれ? 及川さん、は?」
「彼女なら走って帰っちゃったよ。いやー、響子ちゃんが来てくれて助かったー」
「……?」
 ありがとう、といつも通り力無い笑みを浮かべる大樹。そんな夫の様子に、響子は不思議そうに首を傾げる。自分が来てくれて助かったとはどういう事なのだろう。
「さっきの子、何回も断ってるのに、付き合ってくれってしつこくってさ……どうしたもんかって困ってたんだよね」
「……そう、ですか」
 頬から大樹の手が離れ、自分より背の高い夫を見上げる響子。しかし、そんな彼本人の口から及川に告白されていた事実を聞かされ、心に黒い感情が芽生える。
 力無く笑い状況を報告する夫から、彼女はあからさまに視線を逸らし俯いてしまった。モヤモヤと心の底から湧き上がる感情が、嫉妬からくるものだと自覚するのに、そう時間はかからなかった。
 本当に自分は可愛くない女だ。自己嫌悪に陥りそうになっていると、先程まで抓まれていた頬に、今度は優しく包み込むような温もりを感じた。
「ヤキモチ妬いてくれるのは嬉しいんだけど、心配しなくても俺は響子ちゃんしか好きじゃないから心配いらないよ」
 俯いた顔を無理矢理持ち上げられ、問答無用で大樹の顔を見つめる事になった響子。嫉妬し不貞腐れる自分を見つめ、嬉しそうな笑みを浮かべる夫の表情に、何故だか悔しさを覚えた。
「それに、俺あぁいう子苦手なんだよ。自分に変な自信あるっていうか……私が告白して落ちない男はいない、みたいな雰囲気がちょっと出てて。それに香水の匂いきつくってさ……あ、これ誰にも言わないでよ?」
 言葉にしてから不味いと思ったのか、焦った様子で内緒にしてと大樹は訴える。
「ぷっ……い、言いませんよ。そんな事……ふふ、ふふふ」
 慌てる夫の姿が可笑しかったのか、思わず笑い出してしまった響子は、笑いながら目の前にある夫の胸元に顔を埋める。
 薄らと香る鼻につく香水の匂いが嫌で、その香りが無くなれとばかりに、グリグリとコート越しに大樹の体に額を押し付けた。
「……響子ちゃーん、ここ会社だよー? 誰かに見られちゃうよー?」
「分かってます。もう夕方ですから、皆帰ってますよ。……それにしても、さっき私のほっぺ引っ張った人が言う台詞ですか? それ」
「あはは、だよねー。……早く家に帰ろうか」
「……はい」
 自分の背に回る大樹の温かく逞しい腕。彼の想いに応えるように、響子も夫の背に腕を回した。



 翌朝、朝食の準備を終えた響子は、未だ起きてこない夫を起こそうと寝室へ向かった。
「大樹さん朝ですよ。起きてください」
「んー……仕事行きたくないー。響子ちゃん、今日は休んでゴロゴロしてようよー」
 未だベッドの中で丸まっている夫の体を揺すり、起きるよう促す響子だったが、妻の願いに反するように、大樹はまるで子供のように仕事を休みたいと言い出した。
「あと二日行ったら休みなんですから我慢して。ほら、起きて。着替えてご飯食べてください」
「うー……」
 唸り声を上げながら、大樹はのそのそとベッドの上で起き上がる。その時、ベッドサイドテーブルに置いてあった大樹のスマートフォンから電話の着信音が流れ始めた。
「誰だよ、こんな朝っぱらから……って、誠司だし」
 大樹がスマートフォンへ手を伸ばし、電話をかけてきた人物の確認をしていると、今度はエプロンのポケットに入れていた響子の携帯電話が鳴りだした。
「……? え、志保?」
 朝から電話が掛かってくるなんて珍しい事もあるものだ。そんな軽い気持ちで携帯電話を取り出した響子は、画面に表示された友人の名前に驚きを見せる。
「もしもしー? 何、こんな朝早くから」
「もしもし? 志保、何かあった?」
 大樹と響子は、ほぼ同時に通話ボタンを押し、電話の向こうに居るであろう相手にそれぞれ声をかけた。
『大樹、お前まだ家に居るよな? 今日は会社に来るな、休めっ!』
『響子っ!? よかったー、電話に出てくれた。って、それ所じゃないんだ。響子、今日は会社に絶対来ないで!』
 次の瞬間、大樹が持つスマートフォンと響子が持つ携帯電話から、友人達の焦りを含んだ声が漏れ寝室内に響いた。
「……は? 何、どういう事?」
「えっ? ちょっと、志保!?」
 突然それぞれの友人からかかってきた電話に、混乱するばかりの響子達。
 そして、至近距離で電話をしていたため、二人の耳には、互いの電話越しに聞こえる相手の声まで届いてしまった。
 一体どういう事だ、と響子と大樹は顔を見合わせ、不思議そうに首を傾げる。
「志保、ごめん。状況がさっぱりわかんないんだけど。今、誠司さんからも大樹さんに電話掛かってきてて……何があったの?」
『嘘っ!? もう社長の耳にまで入ってるの!? 皆どこまで回してんのよ!』
 友人に状況説明を求める響子だが、電話の向こうに居る志保は、自分達が勤める会社社長の名を耳にし、更に動揺している様だ。
『多分会社の中で撮られたんだと思うけど……響子と大樹さんが抱き合ってる画像付きメールが、昨日の夜から社員達の間で広がってるんだよ!』
 次の瞬間、携帯電話越しに聞こえた志保の言葉は、響子と大樹に衝撃を与えるには十分すぎるものだった。
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