契約書は婚姻届

18.彼氏じゃなくて?

 徐々に寒さも厳しくなってきた十月下旬のとある日曜日。
 志保はこの日、普段から響子と共に親しくしている同じ部署の女性社員三人を連れ、ある場所を訪れていた。
「伊藤先輩。ほ、本当に……ここに水越先輩が住んでるんですか?」
「それが本当なんだよね。私も最初来た時、間違って別の場所に来たのかと思ったんだ」
 目の前にそびえ立つ高級マンションの外観に驚き、響子達の指導係である西村と、去年入社してきた後輩二人は、開いた口が塞がらない様だ。
 初めてここを訪れた時の自分と同じ反応を示す彼女達の姿に、可笑しさのあまり笑ってしまいそうになる志保。
『あのね、志保。西村さん達に、大樹さんと結婚してる事……言おうと思うんだ』
 事の発端はおよそ一カ月前。響子が発した言葉が、この計画の始まりだった。



 以前付き合っていた恋人との再会をきっかけに、大樹に守られてばかりでは駄目だと、改めて自分を見つめ直した響子。
 新たな一歩を踏み出すために何をすればいいかと考えた結果、一番最初に思いついたのが、現在も秘密にしている結婚生活に関する事だった。
 仕事を続けたいという響子の願いを叶えるため、来年の三月までは、大樹と自分が夫婦だという事を秘密にする。
 自分達で決めた秘密の生活だが、いざ続けていれば、時折そのもどかしさが彼女の心に影を差した。
 もっと堂々と大樹と外を歩きたい。親しい人皆に、自慢の旦那だと彼を紹介したい。
 約束という現実と、自身の気持ちの間で、響子は時折悩む事があった。
 自分でさえこんな状況なのだ、大樹がこの秘密に関し何も思わないはずがない。
 社員の親睦を兼ねた球技大会が開催された日の夜、改めて実感した夫の嫉妬深さ。
 その後も大樹は、隙あらば響子にべったりと引っ付いて離れない。幾度となくキスをし、妻の体をずっと抱きしめ続ける。
 そんな夫が、結婚している事実を隠している現状に、何の感情も抱かないのは逆におかしいだろう。
 この現状を改善するために一番良い方法は、約束の期限を待たず、今すぐ響子自身が会社を辞める事だ。
 いくら期限が決まっていると言っても、大樹の優しさに甘え、三月までこのままズルズルと会社で働き続けるのは、響子にとっても大樹にとってもプラスになるとは言い難い。
 それに、会社を辞めたからと言って、今まで親しくしていた社員達と会えなくなってしまうわけでは無い。会おうと思えばいつだって会えるのだ。
 自分自身を変えようと決めたあの日から何日も考え続け、響子は夫と約束した三月よりも前に会社を辞めることを決めた。
『響子ちゃんが、それでいいって決めたなら、俺は何も言わないよ』
 響子が、自分の気持ちと会社を辞める決意をした事を伝えた時、突然の妻の決断に、大樹は驚きを隠しきれない表情を浮かべていた。
 しかし、それはほんの僅かな間、すぐに彼は妻の決断に頷いてくれた。
 大樹自身、自分の意見を言う事はあるものの、基本的には響子本人の意思に任せているのだろう。
 その後、響子は友人である志保にもこの決定を伝え、それと同時に、会社内で特に仲良くしている同じ部署の女性社員達に、自分が大樹と結婚している事を打ち明けたいと相談した。
『実は、副社長と結婚しているので会社を辞めたいと思います』
 この言葉を簡単に言えれば一番楽なのだが、内容が内容だけに、即座に実行するのは流石に難しい。こんな事を簡単に言ってしまっては、他の社員達から何を言われるかと不安のみが残ってしまう。
 悩んだ末に、響子が第一段階として辿り着いた結論は、先輩や後輩の皆に今まで隠してきた事実を伝えるというものだった。
 大樹との結婚を打ち明ける事で、少しでも自分の自信になればいい。そう思っての選択だった。



 計画を立て始めた響子達は、先輩である西村、後輩である根本ねもと絵美えみ山口やまぐち智美ともみに、響子の彼氏を紹介したいから全員で集まれる日は無いかと話をした。
 球技大会の日、極度の人見知りだからと、あれ程彼氏を紹介する事を拒んでいた響子。そんな彼女からの突然すぎる提案に、皆最初は驚いていた。
 しかし、そこは皆女性である。響子が今どんな男性と付き合っているかを知りたい気持ちが勝り、三人はすぐに提案を受け入れてくれた。
 その後、何度もスケジュール調整を続けたが、なかなか五人の予定が合う日が見つからず、約一ヶ月経った今日、ようやく響子の作戦は実行される。
「まさか、極度の人見知り会社員彼氏が、こんないい所に住んでるなんて……一体どんな仕事してるのよ」
「ぶっ! くくっ……」
 先輩である西村の言葉に、四人の中で唯一事情を知っている志保が、我慢出来ず笑ってしまう。
 事実を伝えた時の三人がどう反応するか見たいという志保の思惑のせいで、三人には響子の彼氏個人に関する新情報はまったく与えられていない。
 唯一与えられた新情報は、響子がその彼氏と同棲しているという事だけだ。
 止めた方がいいんじゃないかと、あまり乗り気ではない響子を無視し、志保は断固として大樹に関する事を先輩達に教えなかった。
 自分は、大樹が副社長という立場になる前に初めて彼と出会った。志保は、その時ですら、かなり衝撃的なものだったと思っている。
 まったく何も知らない状態で、響子の彼氏が自分達の勤める会社の副社長、しかも彼氏ではなく旦那だという事実を知った西村達の驚きは凄まじいものになるだろう。
 情報を一切与えないという行為には、三人にも自分と同じ、いやそれ以上の経験をさせたいという、彼女のちょっとした悪戯心から生まれたものだ。
 これから彼女達が対面する人物。その正体を知った時の反応が楽しみで堪らない。
 緩みそうになる口元に力を入れ、志保は肩にかけていたバッグからスマートフォンを取り出し、本日の主役である響子へ電話をかけ始める。
「響子、マンション前に着いたよー」
『え、もう? ちょっと待ってて、今下りるから』
 数回コール音が聞こえ電話が繋がった直後、志保は自分達が今居る場所を響子へ伝える。すると次の瞬間、電話の向こうに居る響子の慌てた声が志保の耳に届いた。
 その直後電話が切られ、スマートフォンをバッグの中へ戻しながら、今頃慌ててエレベーターへ向かっている友人の姿を想像する志保だった。



「皆、紅茶でいいですか? 西村さんに持ってきてもらったお菓子、今お皿に出しちゃいますから、ちょっと待っててくださいね」
 志保から、マンション前に到着したと連絡を貰った響子は、すぐに皆を迎えに行くためエントランスへ降りた。
 連絡が来た時は、予定より早い皆の到着に驚かされたが、今日はこの計画のために時間を費やすと決めているため、すぐに緊張する心を落ち着かせ、彼女は一人心の中で気合を入れた。
『せ、先輩……ここ、ホテルじゃないですよね? マンションなんですよね?』
『お土産のお菓子、もっと高いのにすれば良かったかしら……』
 エントランスから、今席についているリビングへ到着するまでの道中、志保以外の女性メンバーの姿が、まだここへ来たばかりの頃の自分と重なり、響子はふと懐かしさを感じていた。
 後輩達はコンシェルジュの対応に困惑し、先輩である西村は手土産に持ってきた菓子の値段をずっと気にしていた。
 緊張と不安で困惑する三人の様子に、エレベーターの中で志保と二人、懐かしい反応だと微笑ましく笑っていたのはつい先程の話。
 響子は皆に断りを入れると、西村から貰った手土産の菓子を持ってキッチンへ向かった。
「伊藤先輩、なんだかさっきから余裕ですね」
「前に一回来た事あるもん」
「先輩だけずるいですよ! というか、こんなに立派な家に一回来ただけで、平然としてられる伊藤先輩が凄すぎます」
 普通の人生で、足を踏み入れる事すら無いであろう高級マンションの空間に、未だ困惑しっぱなしの女性陣達。
 響子はそんな彼女達の声を苦笑しながら聞き、キッチンで客人達出すお茶の準備を始める。
 お湯を沸かしている間に、戸棚からティーポットと人数分のティーカップ、そして茶葉が入った缶を取り出す。
 そして、西村が手土産にと持ってきた菓子は一体何だろうと確認すれば、紅茶によく合いそうなマドレーヌが入っていた。
「お皿と……フォークは、この前買い足したのがここに」
 準備する皿とフォークの数を頭の中で確認しながら、今度は食器棚へ近付く。
 このマンションへ越してきたばかりの頃、必要最低限しか無い食器類に驚いた事も、今となっては彼女にとっていい思い出だ。
 借金返済と交換条件の結婚だったため、居候のような感覚でいた彼女は、あまり大樹に迷惑をかけないよう元々あった食器や調理器具を使用し料理を続けていた。
 しかし、大樹から結婚の真相をすべて聞かされ、再び彼と一緒に居る事を決めてから、響子は少しずつ足りない食器や調理器具を買い足していった。
 今回のように、一度にたくさんの客人が来る事は、響子にとって、ここへ越してきてから初めての経験だ。
 皆の訪問が決まった後、急いで客人用に使える食器類を確認したが、二人分までしか用意していなかった。
 食器の数が足りない事に気付いた響子は、皆で集まる日がいつ来てもいいように、慌てて足りない食器を買い足した。もちろん、大樹に了承を得ての買い物である。
『俺より響子ちゃんの方が断然使う頻度多いんだから、台所の物は好きなように揃えていいのに。いちいち俺に確認とるの面倒でしょう』
 初めて、調理器具と食器を買い足したいと夫に相談した時、大樹は自由にやっていいと答えてくれた。
 妻に対し、とことん甘い大樹の事だ。普通に考えれば絶対に必要無い物でも、響子が必要だと言えばすぐに頷きそうで少々怖くなる。
 これからも、家庭に必要な物を買う時は、夫である大樹に相談した方が良さそうだと再度頷きながら、響子はお茶の準備を進める。
「響子ちゃーん、皆が来る前に、俺ちょっとコンビニに行ってガム買って……」
 その時、リビングの方から自分の名を呼ぶ夫の声が聞こえた。しかし次の瞬間、その声は途中で不自然に途切れる。
 マンション近くにあるコンビニエンスストアへ向かうため、夫が自分に声をかけたのだと響子はすぐに理解した。
 しかし、何故その報告が途中で途切れてしまったのだろう。リビングに妻が居ないと分かれば、いつも大樹はキッチンへ来るはずなのに。
「まさかっ!」
 夫の行動がいつもと違う事に首を傾げる響子だったが、リビングから聞こえた声と、現在の状況を思い出し、慌ててキッチンを離れリビングへと向かった。
「あー……」
 リビングへ戻った響子が目にしたのは、彼女が想像していた通りの光景だった。
 コンビニエンスストアへ行くために着替えたのだろう。ジーンズに上着を羽織った状態のまま、廊下とリビングを繋ぐドアを開け、その場に立ち尽くす大樹。
 そんな大樹の姿を目にし、何故自分達が勤めている会社の副社長がこの場に居るのかと困惑する、西村、根本、山口の女性三人。
 そして、一人だけ現状を楽しんでいる友人志保。
 想像通りすぎる光景に、響子は頭を抱えたくなった。
「副社長!? え、何で副社長がここにいらっしゃるんですか!?」
 皆の中で一番早く我に返った西村が、何故貴方がここに居るのかと大樹に問い掛けた。突然の副社長登場という予想外の展開に、現状を理解出来ず困惑していると彼女の顔に書いてある。
 しかし、いくら驚いていても相手は自分が勤める会社の上司。大樹相手に敬語を崩さないのは流石と言えるだろう。
「なんでって言われても……どう言ったらいいもんか。んー……あ、響子ちゃん、パスっ!」
「えぇ!?」
 妻から聞いていた予定時刻よりも前に志保達と鉢合わせてしまった現状に、流石の大樹も驚きを隠せずガシガシと己の頭を掻く。
 その時、リビングの向こうに驚いた表情で立ち尽くす響子の姿を発見した彼は、まるでボールでも投げ渡すように状況説明の役を彼女に託した。
 そんな夫の言葉に、響子は驚きの声を上げ、口元を引き攣らせる。すると次の瞬間、今まで大樹に向いていた四人の視線が一気に彼女の方へ向けられた。
 一体どういう事だと言わんばかりの女性三人の視線。そして、まるで頑張れと応援するような志保の視線に、響子の鼓動はどんどん加速していく。
「先輩、あの……もしかして、先輩が言ってた極度の人見知り会社員彼氏って、副社長の事、なんですか?」
 その時、後輩の山口が半信半疑状態で自分が考えた答えを口にする。
 そんな彼女の言葉に、嘘でしょと言いたげな視線を山口へ向けた西村と根本。しかし、真相を知りたいと、二人の視線は再び響子へ向けられた。
 緊張のせいで心臓が激しく鼓動する。その音が身体を通して伝わり、背中に嫌な汗までかいてしまいそうだ。
「……て、……なの」
 響子は、震える唇を僅かに動かし声を出そうとするが、上手く言葉が出てこない。
「えっ?」
 何を言っているのかわからないと、響子の言葉に女性陣が首を傾げる。
 皆が落ち着いたら、大樹の自室から彼を連れてきて、きちんと紹介しようと思っていた。しかし、予想していなかった大樹の登場に、その時は突然やってきてしまったのだ。
「……彼氏じゃなくて、旦那なのっ!」
 これ以上誤魔化す事は無理だと悟った響子は、覚悟を決め、一際大きな声で今まで皆に隠していた事実を口にする。
 次の瞬間、浅生家のリビング、いや家中に女性達の大きな驚き声が響いた。
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