契約書は婚姻届

17.二人の決意

 以前付き合っていた修二との再会に、響子は未だ動揺するばかりで、客観的に物事を見る思考力が著しく低下していた。
『とにかく走って!』
 あの場から自分を逃がそうと背中を押してくれた夫の言葉を思い出しながら、彼女はマンションまでの数百メートルを走り続けた。
「はぁ、はぁ……はぁ……」
 マンション正面入口の自動ドアを潜り、エントランスへ飛び込んだ響子。その場に立ち止まると、彼女は膝に手をつき乱れた呼吸を整える。
 普段、机に向かってパソコンばかり操作している彼女にとって、たった数百メートルの全力疾走でも相当な体力を消費した様だ。
「響子、様? 一体どうしたのですか、そんなに慌てて」
 その時、不意に彼女の頭上から酷く心配した様子の声が聞こえ、響子は息を整えながらゆっくりと顔を上げた。
 そこに居たのは西島と木村。二人のコンシェルジュは、目の前に居る女性を心配し、様子を窺っている。
「あ、その……大丈夫です、気にしないでください」
 自分を心配するコンシェルジュ達の姿に、咄嗟に大丈夫だと言葉を発する響子。しかし、大丈夫だという割に、彼女の表情に明るさは無かった。
「木村、裏からミネラルウォーター取ってきてくれ」
「わかりました」
 響子の言葉を素直に受け取る程、西島と木村も馬鹿では無い。現在、彼女にとって、何か都合の悪い事が起きていると二人はすぐに気付いた。
 西島は、コンシェルジュ専用の控室にある冷蔵庫の中から、ミネラルウォーターが入ったペットボトルを持ってくるよう、木村に指示を出す。
 木村も、先輩である西島の言葉に頷き、すぐに自分達が普段利用している控室へ向かった。
「響子様、浅生様はどちらに? 確か、二人でお出掛けになったと記憶しているのですが……」
 何か問題が発生しているのなら、自分で状況を確認するより、響子の夫である大樹にその役を任せた方が良い。そう判断した西島は、この場に大樹が居ない事に気付き、彼の居場所を響子に尋ねる。
「大樹さん」
 西島の言葉を聞いた瞬間、響子の脳内に蘇るのは先程の光景。
 そして彼女は、夫の名を呟きながら後ろを振り返り、たった今自分が潜った自動ドアを見つめる。彼女が見つめていたのは、ドアではなく、その先に居るであろう人物なのかもしれない。



 その頃、人々や車の往来がほとんど無い道の片隅で、二人の男達は睨み合いを続けていた。
 大樹は、自分の背後から妻の足音が完全に聞こえなくなった事を確認し、安堵した様子で小さく息を吐く。
 妻と元彼との再会。この状況で、自分が響子より前に出る事は、一般的に考えてあまり良く無い事だと彼は理解していた。
 本当なら、この状況は当事者である響子自身が決着をつけなければいけない事も、自分はただ黙って見守るのが一番だという事も、彼は全て分かっていた。
 頭では理解しながらも、体が気持ちのままに動いてしまい、結果として、男同士で睨み合うというこの状況を招いている。
『おい、何逃げてんだよっ! 響子お前……まさか本気でこんな奴と結婚なんかしたのか!?』
 妻が以前付き合っていた修二という男。彼の怒号に響子が恐怖を感じていたのは、彼女の表情を見れば一目瞭然だった。
 元彼の写真など見た事が無かった大樹だが、二人のやりとりを見て、彼が問題の男だと確信を持つのに時間はかからなかった。
 響子から、別れた原因が相手の浮気だと聞かされ、その頃から気に食わない男だと思っていたが、今目の前に居る彼の言動が、大樹の怒りに油を注ぐ結果となってしまった。
「君さ、響子ちゃんと別れたんでしょ? だったらさ、もう二度と彼女に関わらないでくれない?」
「何でお前に指図されなきゃいけないんだよ。響子と会おうが、どうしようが俺の勝手だろ」
 大樹の頼みを間髪入れずに拒否する修二。そんな彼の言葉に、大樹の眉間に僅かな皺が寄る。
 この田宮修二という男は、どうやら人の感情を逆撫でするのが上手いらしい。
 なるべく穏便に事を済ませたいと思っているにも関わらず、大樹の胸中は煮え滾るマグマの如く熱くなっていく。
 自分に対し妙な自信を持っているとも取れる彼の言動が、大樹の脳内に、ある人物の顔を思い出させる。
 自分にとっても、響子にとっても嫌な記憶しか残っていないあの女が目の前に居るようで、大樹の気分はますます悪くなるばかりだった。
「響子も響子だぜ。俺に捨てられたからって、こんなおっさんと結婚とか、自暴自棄になり過ぎだろ」
 黙ったまま大樹が怒りを抑えていると、修二は不意に、仮にも自分が付き合っていた女を馬鹿にした発言を口にする。
 何を勝手に、自分に都合がいいよう過去を捏造しているんだ。捨てられたのはお前だろう。
 今にも殴りかかりたい気持ちを必死に抑え込み、大樹は、震える右手拳を左手で覆い隠し怒りを耐える。
 怒りを心の奥底に押し込み、改めて冷静になった頭で、大樹は現状整理と修二という男について考え始めた。
 過去に付き合っていた恋人と久しぶりの再会。しかも、女性の方は現在の彼氏と共に居る。そんな状況にもし自分が遭遇してしまったら、見ないふりをして通り過ぎるか、軽く挨拶をする程度だろう。
 しかし、今目の前に居る男は、響子を食事に誘おうとしたり、妙に執着しているような気さえする。
 響子の話では、二人が別れる直前、修二には浮気相手が居たらしい。その女性との関係が微妙なのか、それとも関係自体無くなってしまったのか、どちらにしろ修二が置かれている状況は悪いもののはず。
 そんな状態で彼が見せた響子への執着。きっと彼の中では、まだ響子に対する未練があるのだろう。
 そうでなければ、食事に誘ったり、大樹の存在を嫌悪するような態度を見せるはずがない。
 それにしても、何故響子はこんな男と付き合っていたのだろう。今目の前に居るのは、自分の事を優先して考えてしまうような男だ。彼女は、彼のどんな所に惹かれ付き合おうと思ったのか。
「……違うか」
 ポツリ、と小声で独り言を呟き、大樹は自分の脳内に浮かんだ考えを否定する。
 彼女が今までの人生で、どんな男性とどんな付き合いをしてきたか、大樹は知る事など出来ない。そして、彼はきっとそれを知ろうともしないだろう。
 今まで自分の周りに居た女性達とは違う魅力を感じ、響子を本気で好きになった大樹。
 彼女の真っ直ぐさ、素直さ、そして少しばかり卑屈な所。他にもたくさんの魅力を彼女に感じ、大樹の想いは徐々に本物の愛情へ変わっていった。
 目の前に居る最低男は、そんな彼女が愛した人物。
 流石にお人好しの響子でも、現在の修二を好きになる確率は限りなく低いだろう。二人が付き合っていた頃は、彼女が修二に惹かれる何らかの魅力があったという事だ。
「……そうだな」
 状況を整理する中、目の前に居る男に対する気持ちが、大樹の口から無意識に零れ落ちる。
「は? 何、聞こえないっての」
 その呟きが聞こえないと、修二は不機嫌そうに言葉を吐き捨てる。
「可哀想だなーと思ってさ。……あんたが」
 眉間に皺を寄せる修二の耳にきちんと聞こえるよう、大樹は改めて、たった今自分が思った事をはっきりと言葉にする。修二を見つめる視線も、どこか哀れんでいるようにさえ見えた。
「は? ……はぁ!?」
 そんな大樹の発言に、修二はただ驚愕するばかりだ。いきなり自分が可哀想だと言われ、驚かない方が難しい。
「あんたは本当に可哀想だよ。そして大馬鹿だ。自分へ向けられた愛情に気付かず、己の欲に走って。失ってから初めてその存在の大きさに気付くとか、笑うしかないだろ。響子ちゃんがどれだけあんたを愛していたのか。最初からきちんと分かってたら、今でも彼女はあんたの傍に居たかもな。まぁ、今更返せと言われても、返す気なんか微塵も無いけど……」
「何なんだよお前っ! いきなり割り込んできやがって、勝手な事ばっかり!」
 自分が居る場所が外だという事も忘れ、自分へ向けられた言葉に声を荒げる修二。大樹の言葉が図星だったらしく、羞恥と怒りで彼は冷静さを失っていた。
「このやろ……っ!」
 怒りに任せ、目の前に佇む大樹へ殴りかかろうとするが、次の瞬間、彼の拳は腕を上げた大樹の掌へ易々とおさまってしまった。
「勘違いすんなよ。いきなり割り込んできたのはそっちの方だろう。本気で彼女が欲しいなら、それ相応の男になってから出直せ。いつでも受けて立ってやる」
 大樹の声は、こんな状況にも関わらず驚く程冷静なものに聞こえた。しかし、その声に、響子を誰にも渡さないという決意が込められていると気付く者は本人以外誰も居ない。
 目の前に佇む男から、揺らぎ無い真っ直ぐな感情を感じ取り、脳内を過った『敗北』という二文字を、修二はすぐに認める事が出来なかった。



「響子様、少しは落ち着かれましたか?」
「……はい」
 響子は、西島に言われるままエントランスにある小さなソファーに腰掛け、木村が持ってきてくれたペットボトルに入った水を飲み、気持ちを落ち着かせていた。
「…………」
「…………」
 今の響子の様子から、何かが起きている事は間違いない。しかし、自分達が触れて良い問題なのか分からないため、西島も木村も、互いの顔を見つめ合い、無言で首を横に振るだけだ。
 呼吸と共に気持ちを落ち着かせた響子は、数分前の自分を振り返り、その言動と激しく後悔していた。
 突然の事に驚くばかりで、何も出来なかった自分。驚きと恐怖ばかりに脳内を支配され、冷静な判断が出来ず、大樹に言われるまま逃げてきてしまった。
 あの場は自分が解決すべき所なのに、夫に任せ逃げてきてしまうなど、本当に最低だ。
「……っ」
 いつも大樹にばかり頼ってしまう自分が腹立たしい。
 響子は、感情のままに飲みかけのペットボトルを持つ手に力を入れる。まだ中身が残っていたが、蓋を閉めていたため、彼女が握っても中身が零れる事は無い。
 マンションに戻ってきてから既に数分が経過している。しかし、先に戻っていてと言った夫は一向に帰って来ない。
 もしかして、修二との間で何かトラブルが起きているのだろうか。最後に目にしたあの男の様子を見る限り、大樹に危害を加えてもおかしくない。
 このまま夫の帰りを待つばかりでは、思考がどんどん悪い方へ向かってしまう。
「大樹さんっ!」
 意を決した響子は、ソファーから立ち上がり、夫の元へ向かうため駆け出す。
「なっ! 響子様!」
「……っ」
 突如その場に立ち上がったかと思えば、いきなり走り出した響子の姿を目にし、西島は反射的に彼女の名を叫んだ。木村も驚きを隠せないのか、目を見開き息を呑む。
「……むぐっ!」
 そして次の瞬間、響子は勢いをそのままに、マンション入り口の自動ドアを潜ろうとした。しかし、彼女がドアの前へ向かった瞬間、外からやってきた人物に勢いよくぶつかってしまった。
「……っと。どうしたの響子ちゃん、そんなに慌てて」
「へっ?」
 何かにぶつかった衝撃に、パチパチと瞬きをしていた響子は、不意に頭上から聞き慣れた声がする事に気付き、慌てて顔を上げる。
 彼女の視線の先に居たのは、驚いた様子で首を傾げる大樹だった。
 どうやら、マンションへ戻ってきた大樹と、急いでマンションを出ようとした響子がぶつかってしまったらしい。
「大樹、さん?」
「うん、ただいま」
 目の前に居る人物が自分の夫だという事をすぐに理解出来ず、響子は思わず疑問形で彼の名を呼ぶ。
 そんな彼女の声に、大樹は見ている者の気が抜けてしまうような、いつもと変わらぬ緩い笑みを浮かべた。
「大樹さんっ! どこか怪我してませんか? 酷い事されませんでした?」
「大丈夫大丈夫。響子ちゃんが心配する様な事は何も起きなかったよ」
 笑みを浮かべる夫を心配する響子。修二が何か酷い事をしたのでと、大樹の腕や腹部など、至る所を触り、彼女は夫の無事を確かめる。
 そんな妻の姿に、大丈夫だと大樹は言い、彼女を安心させようと、その頭を優しく撫でた。
「私っ、大樹さんに甘えてばっかりで。……ぐすっ、さっき、だって。本当は私が、っ……しっかりしなきゃいけないのに。全部、全部大樹さんに押し付けて」
 優しく頭を撫でるあたたかく大きな夫の手。そのぬくもりに、響子の感情は昂り、涙となって溢れ出す。
「これからは、もっと……もっと強く、ぐすっ……強くなります、から。だから、だからっ」
 響子は、目の前に佇む夫の上着を両手で握りしめ、涙を流しながら自分の思いを訴える。
 きっと涙で化粧は崩れ、今の自分を鏡で見れば酷い顔をしているのだろう。しかし、今は自身の外見よりも、胸の中にある決意をどうしても夫に伝えたかった。
 すぐに全てを変える事は無理かもしれない。最初の一歩を踏み出すには勇気がいる。それでも、この人の隣に立ち続けるためには、今の自分を変えなければいけない。
「強くならなくても、いいんだけどなー。もっともっと甘えてくれていいのに」
「そんな、事言って……これ以上、私を駄目にしないでくださいっ」
「駄目になっていいよ。俺、響子ちゃんに甘えられるの大歓迎だし」
 優しい声で、これでもかと優しい言葉を口にする。そんな夫の手は、未だに響子の頭から離れる様子は無い。
 この男は、その言葉通り、響子が甘えればとことん甘やかしてしまうのだろう。
 妻の敵となるすべてから彼女を守り、寵愛し、彼女の言う事は何でも聞く。甘く滑らかな糸で彼女の身体を己に縛り付け、溢れんばかりの愛情をその身体に注ぐ。
 それ程までに守り、愛したいと思う女性は、もう響子以外この世に存在しない。大樹の視線の先に居るのはたった一人の女性だけ。
 そんな自分の想いが、彼女を駄目にしてしまうと理解していても、きっと彼はやりかねない。そう思ってしまう程、大樹の中で響子の存在は特別なものになっていた。
「ちゃんと、強くなりますから」
 大樹の言葉と温もりが、甘い毒となって響子の身体を蝕んでゆく。このまま夫の言葉に身を委ね、ずっと甘えられたら、自分はどんなに幸せだろうと誘惑が頭を過る。
 しかし、夫の優しさという名の柔らかいベールに身体を包まれそうになった瞬間、響子は自身の決意を改めて言葉にした。
 この人のために、そしてこの人の隣に立って恥じない自分になるために、私はこれから強くなる。
 夫の胸板に額を押し付け、泣いてメイクが崩れた顔を隠しながら、響子は心に誓いを立てた。



 帰宅した大樹の胸で泣き続ける響子。そんな響子を愛おしそうに見つめ、優しくその頭を撫でる大樹。
 すっかり自分達だけの世界へ入り込んだ二人の周囲には、ピンク色に輝くハートが、ふわふわと舞っている幻さえ見えてしまいそうだ。
 いつ誰が来るかも分からぬマンションのエントランスでイチャつく浅生夫婦の姿に、残された西島と木村は狼狽えるしかない。
「西島さん、俺達は……どうすれば」
「一先ず……耳は塞いでおくか」
 本当なら、耳を塞ぐと共に、響子達の姿が視界に入らないよう二人に背を向けるのがベストな選択なのだろう。
 しかし、ここはマンションのエントランス。そんな事をしている間に、何か予期せぬ事態が起きる可能性はいくらでも考えられる。
 コンシェルジュである自分達が、視覚と聴覚の両方を遮断してしまうのは危険と判断した西島は、小声で耳だけ塞げと木村に指示を出した。
 そして二人は、イチャつく大樹達から出来るだけ視線を外し、そっと耳を塞いだのだった。
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