契約書は婚姻届

16.開戦のゴングが今鳴った

 自分の名を口にした男が、以前交際していた人物だと認識し、響子は困惑するばかりだった。
「いやー、まさかお前がこんな所に居るなんて思わなかったから驚いたぜ」
 困惑する響子の事など気にも留めず、修二は尚も親しげに彼女へ言葉をかける。
 修二は響子と同い年の会社員。
 ここ数年業績を伸ばし続け、人気もある株式会社『With U』とは対称的に、彼の勤めている会社は、最近あまり良い噂を聞かない事が多い。
 実際の所、修二自身、真面目な会社員とは言い難いのだろう。
 響子と付き合い始めた頃の彼は勤勉な会社員だった。そんな彼の真面目さ、そして明るさに響子は惹かれていたのは紛れもない事実だった。
 しかし、二人が付き合い始めてから、修二は少しずつ、そして確実に変わっていった。
 付き合い始めの頃、デートでかかった費用は全額修二が負担していた。
 しかし、次第に二人でデート費用を割り勘するようになり、二人が別れる数ヶ月前からは全額響子が支払っていた。
 面倒見の良い響子の性格に、彼はすっかり甘えきっていたのだ。
 金銭面の問題だけではなく、修二の浮気癖も、響子に別れを決断させた要因と言える。
「…………」
 自分から別れをきり出し彼の前を去ったあの日、響子の心の中には男に対する僅かな未練が残っていた。
 しかし彼女は、大樹と出会い、彼の優しさに触れ、不器用ながらに愛される日々を過ごした。
 今では、修二に未練を持っていた自分がなんて馬鹿だったのだろうとさえ思ってしまう。
 もう二度と会う事など無いと思っていた。そんな男との突然すぎる再会に、響子は呆然と立ち竦む。
 今すぐこの場から逃げ出したいのに足が動かない。
 今日はデートを満喫し、幸せな気分のまま一日を終えるはずだったのに、どうしてこんな事になっているのだろう。
 予想外の展開に、今までほわほわと飛んでいきたくなる程幸せだった気持ちが、一瞬にして粉々に壊されていくのがわかる。
 もしこの場に居るのが自分一人だったら、何かしら理由をつけて逃げる事は出来ただろう。
 しかし、響子の隣には夫である大樹が居る。
 修二と再会した事に対するショックよりも、大樹にその現場を見られてしまった事の方が、今の響子にとって何倍もショックだった。
 大樹と二人でこの状況をどう切り抜けるか。必死に脳を働かせ策を考えるが、気持ちばかりが焦り、一向にアイディアなど出てこない。
「……?」
 その時、不意に繋いだ手を握る大樹の握力が僅かに強くなった気がした。何かあったのかと、響子は隣に立つ夫を見上げる。
 そんな彼女の視線の先には、優しげな表情で小さく微笑む大樹の顔があった。
 まるで、大丈夫だと言わんばかりの笑みだ。
 以前、相手の浮気が原因で彼氏と別れたと大樹に話した事がある。しかし響子は、その問題の人物の名前や見た目、ましてや今現在目の前に居る本人だとは、一言も言っていない。
 そんな状況でも、きっと頭のよい大樹はすべてを理解しているのだろう。すべてを理解した上で、彼は優しい笑みを浮かべている。
 一生大樹には敵いそうにないと、響子はこの瞬間悟った。
「そうだ、響子が暇なら今からどっか飯でも……」
 修二は、久しぶりの再会を喜び、響子を食事へ誘おうとした。
 しかし、今まで響子ばかりを見つめていた彼の視線が、彼女の手へ移り、更に響子と手を繋ぐ男へと移っていく。
 突然の再会に、響子しか眼中に無かった修二は、この時初めて彼女が他の男と一緒に居る事を認識した。
「おい、誰だよ。その男」
 大樹に気付いた修二は、今までの上機嫌な声から一転し、不機嫌だと言わんばかりの低い声で言葉を発した。
 そんな彼の態度に、響子は首を傾げたくなった。
 何故、彼は突然不機嫌になったのだろう。自分達の関係は一年以上前に終わっている。てっきり、最後の浮気が発覚した時一緒に居た女と関係を続けているものとばかり思っていた。
 しかし、どうやら彼女の考えは間違っていたらしく、まるで今でも自分は響子の彼氏だと言わんばかりの威圧的な修二の態度に、響子は苛立ちと僅かな恐怖を感じる。
「響子ちゃんの旦那ですけど、何か?」
 その時、今まで静かに状況を観察していた大樹が、小首を傾げながら声を発した。
 自らを響子の夫だと名乗り、威圧的な修二の態度に臆する様子もまったく無い。
「…………」
 突然すぎる大樹の発言に、響子は驚きのあまり目を見開き、隣に佇む夫を見上げる事しか出来なかった。
「はぁ!? 旦那って……響子、お前……まさかこのオヤジと結婚してるって言うのか!?」
 突然聞かされた衝撃の事実に、修二も驚きを隠せないらしく、大樹を指差しながら一際大きな声を発する。
「そうです、結婚してるんです。そういう訳で、響子ちゃんは君とご飯には行きません。他を探してください」
 動揺する修二の事など特に気にする様子も無く、ペコリと目の前に立つ男に向かって頭を下げた大樹は、繋いだままの妻の手を引き、再び歩き始める。
「だ、大樹さんっ」
 響子は、夫の言動の意図を把握出来ず、戸惑いの表情を浮かべ、夫に手を引かれるまま、もつれる足を必死に動かし彼の後を追いかけた。
 そして元彼である修二の真横を通り過ぎようとした時、突然修二の手が彼女の肩へ伸び、華奢なそれをしっかりと掴む。
「っ!?」
 大樹と繋いだ手から伝わる前へ引っ張られる力、そして、突然肩を掴まれたせいで感じた後ろへ引っ張られる力。
 相反する力に、響子はバランスを崩しそうになる。しかし、防衛本能が働いたおかげか、両足に力を入れて踏ん張り、なんとか転ぶ事は避けられた。
「おい、何逃げてんだよっ! 響子お前……まさか本気でこんな奴と結婚なんかしたのか!?」
 背後から聞こえた修二の怒号に、響子は反射的に後ろを振り返る。そして、予想より目前に見える元彼の激怒した表情に息を呑んだ。
「……ぁ……あの……」
 ギラギラと、まるで獣のような修二の視線が彼女を射抜く。目の前に居る男の態度に、響子は困惑するしかなかった。
 自分と彼の間にもう恋愛感情は残っていない。それなら今、どうして修二はこんなに怒っているのだろう。
『貴方は、私より浮気相手の女を選んだはずでしょう? だったらもう私の事は放っておいて!』
 目の前に居る男に対し、大声でそう言い放ちたいと思った。残念ながら彼女は、それを実行出来る程の度胸も勇気も持ち合わせていない。
 しかし、最愛の夫を『こんな奴』呼ばわりされ、響子の中でゆらりと大きな怒りの炎が揺れる。
 自分に対する暴言なら、いくらだって我慢出来る。その矛先が、大樹へ向けられる事だけはどうしても許せない。
 世間一般的に言えば、大樹がオヤジと呼ばれる事は理解している。実際彼と初めて会った時、響子自身そんな印象を彼に抱いた。
 それでも、そんな大樹を心から愛する今、その言葉を聞きたくないと彼女は思った。
 友人同士の冗談ならまだしも、その言葉を発するのが自分の元彼なら尚更嫌悪してしまう。
「手、離せよ」
 その時、耳元で酷く冷たい声が聞こえた気がした。それとほぼ同時に、肩を掴まれていた感覚が無くなった事に響子は気付く。
 そして次の瞬間、グイッと力強い腕に身体を引っ張られたと認識すれば、いつの間にか響子は大樹の腕の中に居た。
 彼女は、腹部に回された自分と違う腕を認識し、そして背中に感じる温もりに気付けば、自分が夫に抱きしめられていると知った。
 恐る恐る視線を頭上へ向ければ、自分を抱きしめたまま無表情で修二を見つめる大樹の姿が目に入る。
 感情を露にしない顔、そしていつもより低く冷たい声。過去にも似た事があったと、響子は意識の片隅で記憶を手繰り寄せた。
 一度目は、自分が電車で痴漢に遭った時。二度目は、風邪で熱を出した事を誤魔化そうとした時。
 どちらもほんの一瞬だった。特に気にしなければ、すぐ記憶から消えていたであろう些細な変化だと思う。
 しかし、普段の大樹からは想像もつかない程の冷たい声が、二つの記憶を彼女の脳内へ鮮明に刻み込んだ。
 あぁ、きっと彼は今怒っているんだ。響子は直感的にそんな事を思った。
 無表情、そしていつもより低い声。この二つが揃った時は、大樹が本気怒っている証拠。彼女はこの時、新たな大樹の情報を自身の脳内へインプットした。
「…………」
 己の手を突然叩き落されるように払われ、驚きのあまり修二は言葉を失ってしまう。
「響子ちゃん、今のうちに家に戻ってて。後で追いかけるから」
 呆然とする修二を横目に、妻の耳元に顔を近付けた大樹は、一人でマンションへ帰るよう彼女に指示を出した。
「だ、だったら大樹さんも一緒に……」
 突如先にマンションへ帰るよう言われた響子は、困惑するあまり、反射的に大樹の上着を握りしめる。
 もうこの場に居たくない。そんな響子の気持ちを察し、大樹はこの場から妻を逃がそうとしている様だ。
 そんな彼の気持ちを感じながらも、響子は、すぐにその場から立ち去ろうとはしなかった。
 大樹も一緒に逃げよう。響子は必死に夫へ視線を送り、共に行こうと訴える。しかし、大樹はそんな妻の視線に頷く事は無かった。



 最初はなかなか頷こうとしなかった響子だが、最後には渋々大樹の提案を受け入れ、一人自宅のあるマンションへ向かい走り出す。
「っ! 響子、待てよ。おい!」
 自分の目の前から走り去る響子の姿を目にし、我に返った修二は、すぐに彼女の後を追いかけようとした。
 しかし、片腕を大樹に掴まれたせいで、その場から動く事が出来ない。
「っ! 離せよ、何なんだよお前!」
 今すぐにでも響子を追いかけたいのか、自身の腕を掴む大樹を彼は睨み付ける。
「はぁ……だーかーらー、さっきから言ってるでしょうよ」
 喚くばかりの修二を見つめ、大樹は盛大な溜息を吐き、空いている手で己の頭をボリボリと掻き始める。
「俺の大事な嫁さん怖がらせてんじゃねぇよ、浮気男」
 まるで自分を射殺さんばかりの鋭い声と視線が、大樹から修二へ向けられる。すると、自分へ向けられた大樹の怒りに、修二は再び黙り込んでしまった。
「さーて、ちょっとお話しようか。シュウジ君?」
 すると大樹は、にこりと笑みを浮かべ、修二へ優しく声をかける。表情だけ見れば明るい笑みを浮かべているが、目の奥が笑っておらず、纏う雰囲気にも彼の怒りが滲み出ていた。
 そんな彼の姿を目にし、修二の恐怖心は更に増すばかりだった。
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