契約書は婚姻届

15.何故あなたがここに居る

 だんだんと秋の色が濃くなっていく九月下旬。この日は休日という事もあり、響子は夫である大樹と共に久々のデートを楽しんでいた。
 テレビで話題になっている新作映画を見た帰り道、大樹の提案で映画館近くのカフェへ二人は立ち寄る事にした。
 カフェの店員に案内されテーブル席へと座り、数分後には注文を済ませる。
 ホットコーヒーを飲む大樹と、紅茶を飲みながら抹茶パフェを食べる響子。二人の間には、穏やかな時間が流れていた。
「響子ちゃん、それ美味しい?」
 コーヒーを飲んでいた大樹は、妻が食べている抹茶パフェが気になったらしく、美味しいのかと首を傾げる。
「美味しいですよ。私の食べかけになっちゃいますけど……大樹さんも良かったら一口どうぞ」
 そう言って、大樹の方へパフェが入ったグラスを近付け、響子は己が手に持っていた細長いパフェ用のスプーンを差し出す。
「そ、それじゃ……ちょっとだけ」
 自分へ差し出されたパフェグラスとスプーンに一瞬戸惑いを見せた大樹だが、スプーンを受け取ると、彼はその先をグラスの中へ突っ込み、ソフトクリームと餡子が重なった部分を掬い口へ運ぶ。
「ん……意外と美味しい」
 和の餡子と、洋のソフトクリームが合わさった絶妙な美味しさは、大樹の想像以上だったらしく、かなり感動している様子だ。
「大樹さん、今まで抹茶パフェ食べた事無いんですか?」
「うん、無いね。パフェ自体、大人になってからは全く食べてなかったな。甘い物はそこそこ好きだけど……自分から積極的に買ったり食べたりしてたわけじゃないし。それに、こんなおっさんが一人でパフェ食べてるなんて、淋し過ぎる光景でしょ?」
 妻の問いに、苦笑しながら首を横に振った大樹は、ありがとうと言って、持っていたスプーンとグラスを妻の元へ戻す。
「一人でパフェ……ぷっ」
 カフェに一人で来店しパフェを頼む大樹の姿を想像した響子は、そのあまりに溶け込めていない姿に、笑いを堪えきれずふき出してしまう。
 世の中には、甘い者好きの男性達が確かに存在している。
 最近では、そんな彼らをスイーツ男子と呼び、女性達に親しまれているが、まだまだ男性が堂々と甘いものを注文出来る世の中では無いのかもしれない。
「そう言えば……昨日清美さんからメールが来たんですよ。また遊びに来てって」
 再びパフェを食べながら、響子は、義理の母である清美から届いたメールの話題を口にする。
 大樹と響子は、お盆休暇のほとんどを、互いの家族と親睦を深めるために費やした。
 それぞれの実家へ宿泊し、墓参りをして先祖へ挨拶をする。それが終われば、互いの両親との交流に専念した。
 そして、帰省している間も、母の言葉が発端となった浅生家、水越家全員揃っての親睦会を実現させるため、大樹はスケジュール調整に頭を悩ませていた。
 彼が一番頭を悩ませた原因は、弟である瑞樹だった。モデルとして活躍する瑞樹には、決まった休日など一切ない。
 世間一般的なお盆休み期間にも関わらず、瑞樹にはいくつもの仕事があった。
 仕事があるという事は、世の中に必要とされている証拠。そう言って、大樹の両親も響子の両親も笑っていた。
 別に急ぐ必要は無い。食事会などいつでも出来るのだから。そう親達は言っていたが、大樹は構わず時間調整を続けた。
 自分と響子の長期休みが終わってしまえば、年末までの数ヶ月また仕事漬けの毎日だ。そんな状況では、今以上に食事会の計画が立てにくくなってしまう。
 自分達が自由に動ける今、出来るだけ早く家族全員での親睦を深めておきたい。その想いが、大樹の行動を後押ししたのだ。
 食事会の日程を決めるために頭を悩ませる夫の姿を目にし、自分も何か役に立ちたいと思った響子は、食事会の場所探しに奔走した。
 互いの両親から好みやリクエストを聞き、モデルである瑞樹の事も考え、個室が利用出来る料理店を必死に探し回った。
 その結果、無事家族全員での食事会を実現する事が出来、響子と大樹は、当日楽しそうに酒を飲み会話をする両親の姿に、より一層嬉しさを感じた。
 食事会以来、響子の携帯電話には清美から度々メールが送られてくる。
 他愛も無い内容がほとんどだが、昨夜届いたメールのように、響子に再び会いたいという希望のものも多い。
 男二人を育て上げた清美にとって、響子という新たな家族の存在は刺激になっているのだろう。まるで娘のように可愛がってもらい、響子自身とても嬉しいと日々実感している。
『今度家に来た時、一緒にアルバムを見ない? 大ちゃんの小さい頃の写真、いっぱいあるから』
 先日、電話で話した清美とのやりとりを思い出しながら、響子は目の前に座る夫へ視線を向ける。
 初めて会った時から、清美は自分の息子である大樹の事を『大ちゃん』と呼んでいた。その呼び名と、目の前に居る男の見た目のギャップに、激しい違和感を覚える。
 自分より背が高く身体も大きい四十歳間近の男をちゃん付けで呼ぶなど、響子には到底出来ない事だ。
「……大ちゃん」
 響子は、出来るだけ小さな声で、清美の真似をしてみる。真似をしてみても、自分が夫を『大ちゃん』と呼ぶのはかなり違和感がある。やはり、あの呼び方は清美にしか出来ないのだろうか。
「……っ!? ゲホッ、ゴホッ!」
「大樹さん大丈夫ですか?」
 響子が小声で呟いた言葉が聞こえていたらしく、次の瞬間大樹は飲んでいたコーヒーにむせてしまった。
 突然咳き込む夫の姿に、響子は慌てて立ち上がろうとする。しかし、大丈夫だと言わんばかりに、大樹はテーブルの上に置かれた彼女の手に自分の手を重ねる。
「はぁ、はぁ……響子ちゃん、なんでその呼び方」
 そして呼吸を整えながら、彼は妻に対し何故『大ちゃん』と自分を呼んだのかを問いかけた。
「この前お家に行った時、清美さんが大樹さんの事をそう呼んでたので」
 外見に似合わない随分可愛らしい呼び方だと思った。そんな言葉が口から飛び出しそうになるのを、響子は咄嗟に我慢する。
「また母さんかよ。はぁ……」
 返ってきた妻からの答えに、大樹は盛大な溜息を吐き頭を抱えた。
「小さい時からずっとその呼び方なんだよ。俺が高校生になっても、大人になっても、ずーっと大ちゃん大ちゃんって。何回も止めてくれって言ってるのに」
 大樹はそのまま唇を尖らせ、拗ねた子供のようにテーブルに頬杖をつく。
 彼の言う通り、多感な高校生や、いい歳をした大人が『大ちゃん』と呼ばれるのはかなり恥ずかしいのだろう。
 どうやら母親からちゃん付けで名前を呼ばれる事に関し、以前から本人も違和感を感じていた様だ。
 響子は、お盆休暇の帰省中や、電話越しにした清美との会話を思い出す。しかし、記憶の中にいる清美は、大樹の事を『大ちゃん』としか呼んでいない。
「でも清美さん、今でも普通に呼んでます……よね?」
「俺がいくら言っても『大ちゃんは大ちゃんだもの』の一点張りなんだよ。だから響子ちゃん、今度から母さんが大ちゃんって呼んでも、反応したりしないでね」
 俺のメンタルが抉られる。そう言ってテーブルの上に突っ伏す夫の頭を、響子は優しく撫で、再度彼にパフェを食べてとすすめるのだった。



 休憩を終えカフェを出た二人は、自宅のあるマンションへ向かいゆっくりと人混みの中を歩き始めた。
 二人は結婚後、週末になると、度々今日のようにデートをするようになった。
 今まで家に籠ってばかりだった大樹だが、響子と結婚してからは、以前より外出頻度は多くなっている。
 しかし、デートと言っても、日頃の運動不足解消も兼ねて、徒歩で行ける範囲の店を訪れるばかり。
 二人共車を所有し運転免許も持っているため、遠出する事は十分に可能だ。しかし、二人には徒歩でのデートにこだわる理由があった。
 その大部分が、社員との接触を避けるためである。
 響子が退職するまでの間、社員達には自分達の関係を知られてはならない。
 その危険を少しでも回避するために、響子達はあえてマンションの近くをデート場所に選んでいる。
 二人が住むマンションがある地域は、世間一般に高級住宅地と言われているため、周囲にある店もそれ相応のものが多い。
『ここら辺に、うちの社員が来る可能性かなり低いと思うから……きっと大丈夫』
 そんな店を訪れる客の中に、滅多な事では知り合いは紛れていないだろう。そんな夫の言葉に納得し、響子も彼の提案に同意した。
 もっと色んな場所を二人で訪れてみたい。そんな本音を響子は心の中に抱えているが、現状それを今実行する事は難しい。
 来年自分が退職し、その後大樹の仕事状況を見ながら少しずつ実現出来ればいい。そんな小さな夢を胸に抱き、彼女は現在出来る精一杯のデートを毎回満喫している。
「ごめんね。デートの場所……毎回似たような場所ばっかりで。もっと他に行きたい所あるでしょ?」
「楽しいですから気にしないでください。行きたい所はいっぱいありますけど、それは来年からの楽しみにとっておきます」
 手を繋ぎ申し訳なさそうに隣を歩く夫の言葉に、響子は笑みを浮かべ彼の顔を見上げる。
 そんな自分に対する妻の気遣いに、大樹はにこりと笑みを浮かべ、嬉々として自分の手中にある小さな手を優しく握り直す。
 本当なら、今すぐにでも目の前に居る女性を抱きしめてしまいたい。
 しかし、ここは家の外。流石の大樹にも常識はあるらしく、その後も、響子の背中へ手を伸ばしたくなる衝動を抑えようと、彼は必死に己の心と闘い続けた。



「今日のご飯は何にするの?」
「今日は天ぷらにしようかなって。お休みの日じゃないと、なかなか揚げ物は出来ませんから」
 手を繋いだまま道を歩く事数分、二人は自宅マンションの少し手前の場所までたどり着いた。
 今日の夕食メニューは天ぷらだと聞き、大樹のテンションは高くなる。
 デート中ずっと徒歩で移動していたため、夕食時間が近付き空腹を感じ始めたのだろう。
「いいね、天ぷら。何が出てくるのかな、楽しみだな」
 まるで子供のように、心の底から夕食を期待する夫の姿に、響子は思わずクスリと笑みを浮かべる。
「冷蔵庫にあったのは……海老と、さつまいもと」
 彼女は自宅にある食材を思い出しながら、天ぷらに使う材料を口に出しリストアップしていく。
「……響子?」
 その時、不意に自分の名を呼ぶ声が聞こえた。こんな場所で知り合いに会うのだろうか。そんな疑問が彼女の中に生まれる。
「……っ」
 そして、進行方向から聞こえた声に視線を向けた彼女が目にしたのは、記憶の奥底へ封印した人物の姿だった。
「なん、で……」
 何故だ。何故この人がここに居る。
 彼女は目の前に佇む人物の姿に困惑し、その場から一歩も動けなくなった。
 突然立ち止まった妻の様子、そして彼女の名を知る人物の登場に、大樹は訳が分からず二人の顔を交互に見つめるのみ。
「久しぶりだな。元気だったか?」
 困惑する響子の様子など気にせず、その人物は親しげな口調で彼女に声をかけてきた。
「なんでこんな所に居るの……修二しゅうじ
 大樹と繋いでいる手に、無意識に力が入る。響子は声を震わせながら、自分に声をかけてきた人物の名を呼んだ。
 響子達の前に突然現れた人物の名は田宮たみや修二しゅうじ。彼は、大樹と出会う直前まで響子が交際していた男性だった。
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