契約書は婚姻届

13.計画通りには進まない

 大樹の怠惰な性格が原因で、急遽会社のお盆休みに彼の実家へ行くことになった響子。
 夫の両親に初めて対面するという一大イベントを前に、緊張のあまり不安がっていた彼女だったが、自分と大樹を出迎えてくれた女性の号泣する姿を目にした瞬間、今まで感じていた負の感情が彼女の中から消えていた。



「ご、ご挨拶が遅くなってしまって申し訳ありません。水越響子と申します」
 リビングへ通された響子は、テーブルに麦茶入りのグラスを置きソファーに腰掛けた女性に対し、深々と頭を下げた。
 丁寧な挨拶をしようと何日も前から考えていた、家に一歩足を踏み入れた瞬間から続く緊張のせいで、すっかり頭の中が真っ白になってしまった響子は、自分の名前を伝えるだけで精一杯になってしまう。
「水越、響子さん? ふふ、素敵なお名前ね。初めまして、大樹の母の清美きよみです」
 響子の自己紹介を聞き、大樹の母である清美も頭を下げ自分の名を名乗った。
「はぁ……さっきは本気で焦った。母さん、いきなり人の嫁さん見て泣き出すとか何なの? 響子ちゃんが吃驚しちゃうでしょ」
「だって……まさか大ちゃんが結婚出来るなんて思わなかったから、私本当に吃驚しちゃって。しかも、こんなに若くて可愛いお嫁さんだったなんて」
「いやいやいや、少しは息子の事信じようって。まぁ……確かに、俺も結婚出来た事には正直驚いてるけど」
 自分の実家、そして相手が自分の母という事もあるのか、大樹は特に緊張する事も無く、先程の母の失態を咎める。
 玄関先で突然清美が泣き出した理由は、実際に息子の嫁を自分の目で確認した事から来る安堵と感動からのようだ。
 彼女の言葉から察するに、既に大樹の両親は、息子の結婚を諦めていたのだろう。
 そんな状況で知った大樹の結婚。息子を疑うわけでは無いが、半信半疑だった清美は、実際に響子の姿を目にし、どこか安心した表情を見せる。
 響子はソファーに腰掛けたまま、改めて夫の母である清美へ視線を向けた。
 細身で、黒髪のボブヘアーが似合う女性だ。大樹の年齢から考えて、この女性の年齢は六十歳前後くらいだろうか。
 自分より少しばかり背が高く、目尻に皺があるものの可愛らしい顔立ちをしている彼女が、これからは義理の母親になる。
 目の前に居る女性が大樹の母なのだと改めて実感した響子は、再び自身を襲う緊張で身体を強張らせてしまう。
「そういや……親父どこ行ったの?」
 その時、この場に居るはずの人物が居ない事に気付いた大樹が、不思議そうに首を傾げた。
「お父さんは今散歩中よ。あらやだ、私ったら飲み物しか出してないじゃない。……大ちゃん、持ってきてもらったお団子、開けちゃっていい?」
「ん、別にいいけど」
「それじゃ二人共、ちょっと待っててね」
 息子に手土産を開ける許可を取った清美は、ソファーから立ち上がると一人台所へと去っていった。
「ふー……ん?」
 清美がリビングから立ち去るのを見届けた直後、響子は心に溜まった感情を吐き出すように小さく息を吐いた。
 緊張状態から解放され、安堵した彼女だったが、次の瞬間不意に自分の頬に感じた違和感に、隣に座る人物へと視線を向ける。
「そんなに緊張しなくていいって言ってるでしょうに。お偉いさんに会うわけじゃないんだから、ね?」
 緊張で身体を強張らせる妻の様子に気付いていたのか、大樹は彼女の頬を指で突きながら苦笑いを浮かべる。
「私の中で、今がまさにそんな感じなんです。緊張しない方が無理……って、いつまで突っついてるんですかっ!」
「んー? 響子ちゃんの緊張が取れるまでー」
 頬を突かれ慌てる響子と、そんな妻の様子を楽しそうに見つめる大樹。頬を突くだけでは収まらず、抱擁や口付けにまで発展した二人の攻防戦は、清美が戻ってくる直前まで続いたのだった。



 その後、手土産にと買ってきた団子を食べ団欒していた三人のもとに、散歩から戻った大樹の父であるいつきが加わり、響子と大樹の両親は改めて互いに自己紹介を兼ねた挨拶をした。
『これから皆で仲良くしていきましょうね。大ちゃん、二人のお休みはいつまでなの? 私とお父さんも、響子さんの親御さん達にきちんとご挨拶したいわ。……あっ、いい事思い付いた。みー君も呼んで、皆でお食事会しましょう。ね? お父さん』
『……あぁ』
 挨拶を済ませると、両家揃って食事会をしようと、唐突に提案する清美。そんな彼女の様子に一切動じず、隣に座っていた樹は言葉少なに頷いた。
『そこら辺のスケジュール調整するの、絶対俺の役目じゃん……はぁ』
『私も手伝います』
 食事会の幹事は自分になるのだろうと、一人溜息を吐く大樹の様子に、響子は自分もその手伝いをすると名乗り出る。
『やっぱり響子ちゃんは優しいなー』
『大樹さんっ!?』
 自ら手伝いを名乗り出てくれた事が余程嬉しかったのだろう。大樹は笑みを浮かべたまま、両親の目も厭わず勢いよく妻を抱きしめた。
 突然すぎる夫の抱擁と、目の前に座る彼の両親を前にし、恥ずかしさのあまり頬はみるみる赤くする響子であった。
「普段、こういう番組はあまり見ないんだけど……みー君が出てるから、もう私この録画を何度も見てるのよ」
「わかります。瑞樹君、凄い活躍でしたから」
 時間が経つにつれ、徐々に響子の緊張も解けてきたのだろう。
 今では清美と二人でテレビを占領し、先日瑞樹が出演したバラエティ番組の録画を見返している。
 瑞樹が映る度、まるで友達同士でテレビを見ているのではと思う程、響子と清美は共にはしゃいでいた。
「大切にするんだぞ」
「わかってるよ、そんな事」
 テレビ前ではしゃぐ女性陣の姿を見守りながら、大樹と樹は時折言葉を交わす。
 その時、突如リビングに鳴り響いた携帯電話の着信音が、浅生家の穏やかな午後の雰囲気を変えた。
「……? 誰の電話かしら?」
「これは、大樹さんの電話ですね」
 着信音に気付いた清美と響子が、後ろを振り返りソファーに座る大樹を見つめる。
「せっかくの休日に誰が電話なんか……」
 突然の着信に溜息を吐きながら、大樹はズボンのポケットに入れていたスマートフォンを取り出す。
「……うん、大丈夫」
 取り出したスマートフォンの画面を見た大樹は、一人勝手に頷き自分を納得させると、瞬時に手に持っている物をポケットへ戻そうとした。
「……はっ! 駄目ですよ、大樹さん!」
 その時、響子は何かを思い出した様子で立ち上がり、大樹の傍へ駆け寄ると、すぐに彼の手からスマートフォンを奪う。
「あぁ! 響子ちゃん、何すんの!」
 突然スマートフォンを妻に奪われ、返せ返せと大樹は騒ぎ出す。そんな夫など無視したまま、彼から奪った物の画面を見れば、そこには彼女の想像していた人物の名が表示されていた。



「……大樹さん」
 大樹からスマートフォンを奪った響子は、それを通話状態にすると、まるで画面を見せつけるように夫の前へ差し出した。
「うっ……」
 そんな妻の行動に一瞬たじろいだ大樹だったが、画面に表示された名前を見るなり、まるで子供のようにスマートフォンから顔を背ける。
『またお前は……響子さんに迷惑掛けてるのか』
 その時、響子が手にするスマートフォンから男性の声が聞こえた。
「め、迷惑なんか掛けてないし」
「そんな事言うなら、最初からすぐ電話に出てください」
 迷惑を掛けていないという夫の言葉に、響子は思わず溜息を吐きながら本音を零す。
「あら? その声は……もしかして誠司君?」
 息子へ電話を掛けてきた人物の正体に気付いたのか、テレビの前で大樹達夫婦のやりとりを眺めていた清美が二人のもとへ近付き、電話の向こうに居るであろう人物の名を呼んだ。
『ん? あぁ、そうか。実家に行くんだったな。清美さん、御無沙汰しています』
 清美が声をかけてから数秒後、電話の向こうに居る人物が反応を示す。大樹に電話を掛けてきたのは、彼の友人誠司だった。
 誠司からの着信と気付き、あからさまな程電話に出る事を拒否している。
 以前、そんな光景を目の当たりにした響子は、先程大樹の反応を見た瞬間、すぐに電話を掛けてきたのは誠司だと気付いた。
 休暇中に誠司から電話が掛かってくる事の意味を理解していた響子は、自身の夫である大樹にではなく、二人の友人である誠司の味方についた。
 電話越しに続く清美と誠司の会話を頭の片隅で聞きながら、響子は視線を自分の傍に居る夫へと向ける。
 そこには、居心地が悪いのか、キョロキョロと視線を頻繁に動かし、頬杖をついたり、足を組み替えたりと、落ち着きが無い大樹の姿があった。
 誠司が清美との会話に気を取られている今、本気になれば、彼がこの場から逃走する事は可能だろう。
 しかし、大樹は一向にソファーから立ち上がろうとしない。それは、彼に逃げる意思が無い事を示している。
 口では嫌だ嫌だと言いながら、誠司から掛かってきた電話が意味する事を、彼はしっかり理解しているのだ。
 最初から嫌がらず素直に頷いてくれれば、どれだけ自分や誠司が助かる事か。響子は小さく溜息を吐くと、未だ挙動不審な夫の様子を見つめ小さな笑みを零した。
「で? 何で電話掛けてきたのさ」
 しばらく母と友人の会話を聞いていた大樹だったが、妻が持つスマートフォンを受け取り、電話の向こうに居る友人へ話し掛ける。
 両親も知る誠司の声を久々に聞かせてやろうとでも思ったのか、大樹は画面をタップしスピーカーモードへ切り替え、その場に居る全員に会話内容が聞こえるようにした。
『あ、あぁ。悪い悪い。大樹、お前これから仕事な。やってほしい事は、全部お前のパソコンにメールで送ったから』
「……はい?」
 一体どんな用件で電話を掛けてきたのかと友人に問えば、返ってきた答えに大樹は一瞬自分の耳を疑った。
『だから、仕事だ。仕事』
「誠司、今お盆休みだよ? お盆休みなのに何で仕事なの? 休暇の知らせ、ホームページに出したの忘れちゃったの?」
『最終チェックしたのは俺だぞ。忘れるわけないだろう』
 友人の反応が自分の予想通りだったため、誠司は電話の向こうで一人頭を抱える。
 株式会社『With U』は、インターネット上に公式のホームページサイトを立ち上げている。
 新商品や新プロジェクトの告知の他、普段社員達がどのように働いているかを示す画像など、出来る限り親しみやすい雰囲気を心掛け日々ホームページを運営している。
 そして一週間程前から、お盆休暇中の問い合わせに関する告知をトップページに記載していた。
 休暇中、社員皆が心身共にリラックスできるよう、自分達は最善の対策をしてしてきたはず。それなのに、この状況は何だ。
 休み中は仕事の事など忘れ、自分と妻の実家へそれぞれ数日世話になり、残りは二人でのんびり過ごす予定を立てていた。
 しかし、そんな大樹の計画は、友人から掛かってきた一本の電話によって、初日からあっさりと狂う事になってしまう。
「休み中の問い合わせは、休み明けに対応すればいいと思うんだけどね。毎年そうしてるじゃん」
『休み明けの対応じゃ遅い案件が来たから急いで電話したんだよ。俺とお前で対応する』
「えー。……はぁ、仕方ないな。やればいいんでしょ……って誠司、やっぱり出来ないわ、仕事」
 このまま逃げ切る事は不可能だと判断したのか、大樹はようやく友人の言葉に頷く。しかし、その数秒後、彼は態度を一変し仕事が出来ないと言い出した。
「俺のパソコンにメールしたって言ってたけど、俺のパソコン……マンションに置いてきた。ここにパソコン無いんじゃ、仕事……出来なくないか?」
 大樹は普段から、仕事とプライベートを区別したいと考えている。そんな考えを持つ彼は、帰省の荷造りをする際、仕事関係の物を一切入れなかった。
 そのため、彼が仕事で愛用しているノートパソコンも、マンションの自室に置きっぱなしになっている。
 必要なアイテムが無い以上、どんなに仕事をしたいという気持ちがあっても、それはただ虚しい感情となるだけ。
 仕事用のパソコンが目の前に無い今、自分はこれからどう行動すべきか。スマートフォン片手に頭を悩ませる大樹の様子を察知したかのように、次の瞬間電話の向こうに居る誠司が口を開いた。
『それなら心配するな。こんな事もあろうかと、響子さんに頼んでお前のパソコンと充電アダプターを持ってきてもらった』
「……えっ?」
 不意に聞こえた友人の言葉に、大樹は気の抜けた声を返す。そしてそのまま、スマートフォンに向けていた視線を、自分の傍らに居る響子へと向けた。
「ちゃんと持ってきました」
 夫の視線に、響子はにこりと笑みを浮かべ、リビングの片隅に置いた自分達の荷物を指差す。
『えっ? ノートパソコンですか?』
『はい。毎年長期期間中は、社員と仕事とのつながりを完全に絶っています。ですが、休暇中と言えど、問い合わせのメールが無くなるわけじゃありません。休暇が明けてすぐ問い合わせに対応出来るよう、毎年俺と大樹が出来る限り準備しておくんです。これまでは、休暇中とは言え、大樹はほとんどマンションに居たからすぐに捕まりました。でも今回は、響子さんと二人で実家に帰省すると話していましたから……万が一に備えて必要な物を持って行って欲しいんです。大樹本人に言っても、どうせ持って行かないと思うんで……今から俺が言う物を、こっそり持って行ってくれませんか?』
 今朝自分の携帯電話に掛かってきた誠司との会話内容を思い出しながら、響子は心の中で夫の友人に拍手を送った。
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