契約書は婚姻届

12.ドキドキの初対面

 八月も中旬になった頃、響子と大樹が勤める株式会社『With U』では、社員全員に九日間の休暇が与えられた。
 お盆の時期が近付くと、株式会社『With U』では毎年社員達に長期の休暇が与えられる。
 そしてお盆休みだけではなく、ゴールデンウィークや正月にも、社員達はしっかりと休暇を満喫しているのだ。
 社長である誠司と副社長である大樹の意見が考慮されているため、一般的な企業より様々な休暇の期間が長いという所が、この会社の一つの特徴だろう。
 これも、普段会社のために尽力している社員達を、少しでも労いたいという彼らの意見が通った結果だ。
 社員達の仲は良く、自分の意見が堂々と言える。そして疲れた身体をリフレッシュする期間も多い。
 その分社員達の実力や、会社への貢献が求められるが、現在働いている社員達は一人として、会社へ文句を言う者など居ない。
 毎年入社希望者は多数やってくるが、入社試験や面接などを経て、実際にこの会社で働ける者はごく僅かだ。
 入社してすぐ、自分の理想と違っていた、こんなに大変だとは思わなかったと退職していく人間も少なくは無い。
 しかし、その試練を乗り越えた者達は、皆この会社で働ける事を誇りに思っている。
 そんな社員達に与えられた長期休暇。ある者は海外旅行へ行き、ある者は家族を連れ実家に帰省する。
 休暇前の社内は、まるで夏休み前の学生達が集まっているような賑わいがあった。
 皆それぞれに計画を立て、各々の休みを満喫するのだろう。
 そして、そんな社員の一員である響子は、休暇初日のこの日、夫である大樹と共にある場所を訪れていた。
「…………」
 何故か、緊張した面持ちで自分の視線の先にある建物を見つめる響子。
「響子ちゃん……大丈夫?」
 そんな妻の様子を心配してか、大樹は自分の真横に立つ妻の顔を恐る恐る覗き込んだ。
「大樹さん、私……今、とても帰りたいです」
「えっ!? どうして? どこか具合悪い?」
 突然帰りたいと言い出す響子の言葉に、彼は酷く慌て、心配そうに妻を見つめる。
 自分を心配する夫の態度に、嬉しさを感じる響子だったが、それ以上の不安と緊張に、現在彼女の心は押しつぶされそうになっていた。
「だ……旦那さんの実家に初めて来て、緊張しない人が居ると思いますか!?」
 夫に迫る勢いで響子は口を開き、睨むような、どこか縋るような、そんな瞳で自分より背の高い大樹を見上げる。
 二人が今居る場所。それは、大樹の実家であり、彼の両親が暮らしている一軒家の前だった。



 事の発端となったのは、瑞樹が初出演したバラエティ番組が放送された夜に浅生家へ掛かってきた一本の電話だ。
『はぁ……気持ち良かった』
 テレビ番組が終了し、最初は渋っていたものの、大樹に促されるまま浴室へ向かった響子。
 しかし、一旦浴室へ向かってしまえば、一日の疲れを癒す入浴に、彼女の心はすっかりリラックスしていた。
 風呂から上がり、濡れた髪を拭きながら彼女は上機嫌でリビングで待つ夫の元へ戻る。
『うん、うん。分かった。分かったから。とりあえず聞いてみてからだって……うん、はいはい、今度はこっちから電話掛けるから』
 リビングへ戻ってきた響子が目にしたのは、固定電話を使い誰かと話をしている大樹の姿。
 その姿に珍しさを感じながらも、邪魔をしてはいけないと思った響子は、一人キッチンへ向かった。
 冷蔵庫を開け、冷えた麦茶の入ったペットボトルを取り出し、蓋を開け水切り籠の中にあったコップに注ぐ。そして彼女は、そのまま勢いよくコップに入った麦茶を飲みほした。
『ふう……』
 火照った身体に冷たい麦茶が染み入る。なんとも心地良い感覚だ。
 響子は、空になったグラスに再度麦茶を注ぐと、一旦グラスをシンクの調理スペースへ置き、麦茶が入ったペットボトルを冷蔵庫へとしまう。
 そして麦茶入りのグラスを手に取ると、リビングへ戻るため、あまり音を立てないように歩き出す。
『響子ちゃんお風呂上がったんだね』
 まだ大樹は電話中だろうかと、キッチンの柱の陰からリビングを覗き様子を窺う。そんな響子の姿を目にし大樹は、その不思議な行動を気にする事なく、彼女へ声を掛けた。
 先程まで電話をしていた大樹は、いつの間にかソファーへ移動し寛いでいる。どうやら電話は終わったらしい。
 そんな夫の姿を目にし、まるで主人の元へ戻っていく犬の様に、響子は麦茶入りのグラスを持ったまま足早にリビング戻った。
『……あぁ、せっかくのビールがぬるくなった』
 飲もうと思っていたせっかくの缶ビールが、長電話をしていたせいで温くなっていたらしく、大樹はビール缶を持ちながらガックリと項垂れる。
 彼の隣へ腰を下ろした響子だったが、落ち込む夫の様子を目にし、新しいのを持ってこようかと声を掛けた。その声に反応し、大樹は無言のままコクリと首を縦に動かす。
 そうと決まれば、温くなった缶ビールを冷蔵庫に戻さなくてはいけない。テーブルの上に置いてある缶ビールを手に取り、響子は再びキッチンへ向かおうと立ち上がった。
『あっ! そうだ、響子ちゃん。ビールよりも大変な事が起きたんだよ!』
 さっさとキッチンへ向かい缶ビールを交換してこよう。そんな事を考えながら歩き出した響子の動きは、不意に耳に届いた大樹の焦った声によって止められた。
『……一体何が起きたんですか』
 この人はいつも話が唐突だ。今度は一体何が起きたんだと、内心溜息を吐きながら歩みを止めた響子は、缶ビールを手に持ったまま、ソファーに座り自分を見つめる大樹の方を振り返る。
『えっとですね、ついさっき俺の母さんから電話が掛かってきまして』
『はぁ……』
『瑞樹のお馬鹿が口を滑らせてしまって……俺達が結婚してる事、親父達にバレちゃった』
『はぁ……はぁ!?』
 てへっ、と可愛らしい効果音がつきそうな笑みを浮かべ、大樹はその口からはとんでもない爆弾を放り投げた。
 最初は適当に相槌を打っていた響子だったが、夫が放ったとんでもない爆弾発言を聞いた瞬間、その表情は数秒も経たず驚きへと変わる。
『……っ! バレ……バレちゃったって、だって籍入れ直す前に、後で俺が言っとくからって大樹さん言ってましたよね!?』
 即座に身体の向きを変え、響子はソファーに座る夫へ詰め寄る。傍から見ればその体勢はまるで、ソファーに座っていた大樹が響子に押し倒され、迫られている様にも見える。
 自分が手に缶ビールを持っていた事など、夫の爆弾発言の衝撃ですっかり忘れてしまったのだろう。
 すっかりぬるくなったそれは、響子の手から滑り落ち、ローテーブルの下へ転がり込んだ。
 二人が再婚する前、これまでの事情を知らない大樹の両親へどのように話をするかと響子と大樹の間で問題になった事がある。
 その時大樹は、自分が上手く説明しておくからと言っていた事を、響子はしっかり覚えていた。
 既に大樹の両親は、二人の結婚を知っているはず。それなのに、バレちゃったとは一体どういう事なのだろう。
 これが混乱せずにいられるだろうか。響子は現状を必死に整理し、夫の言っている事を理解しようと努めた。
『いやー、そのー……今じゃなくても、ほら……響子ちゃんが会社辞めてからでも、いいかな、と思って』
 説明を求める妻の迫力に、大樹は目を泳がせモゴモゴと口を動かしながら、響子が求めているであろう答えを口にする。
 その答えを聞いた瞬間、響子は過去の自分の判断を酷く後悔した。
 そうだ、浅生大樹という自分の夫は、繊細な心を持っているものの、基本的に大雑把で面倒くさがりな人間だ。
 そんな事十分わかっていたはずなのに、何故あの時自分は大樹に結婚報告を任せてしまったのだろう。
 ソファーの上で、過去の自分の判断を後悔し落ち込む響子。そんな妻に押し倒されたまま、大樹は彼女を見上げ、どうしたものかと口を閉じ考える。
『それで、あの……母さんが、早く嫁さん見せに来いって煩くてですね。響子ちゃんさえ良かったら……お盆の連休、ちょっとだけでいいから、一緒に行ってくれない? 俺の実家』
『……それ、私に拒否権無いじゃないですか』
 夫から一緒に実家に行って欲しいと言われ、嫌だと言える妻がこの世に一体何人居るのだろう。
 響子は唇を尖らせると、夫の問いに答えながらそんな事を考え始めた。
 様々な理由で嫌だという妻は存在するのだろうが、自分はそんな事が言える立場では無い。
 初めて行く夫の実家。初めて対面する夫の両親。こんな状況で行かないという選択肢を選んだ場合、その後の自分に対する大樹の両親からの印象が悪くなるに決まっている。
 今後何年も、いや何十年と続いていくであろう縁のある家族に対し、最初から最悪な印象を持たれる事は非情に困る事になってしまう。
 お盆休みに大樹の実家へ行く。この時、響子の中で連休のスケジュール一つ目が決定してしまった。



 約十日程前の夫とのやりとりを思い出し、響子は目の前の一軒家を見上げ、弱気になっている自分をどうにかしようと、気持ちを切り替える事に集中し始める。
 しかし、着ている服は変じゃないか、お土産はここへ来る途中で買った団子で大丈夫か等、不安な点が次々と露になり、その都度彼女は、自分の隣に佇む大樹へ確認を取った。
「響子ちゃん、そんなに緊張しなくていいから。というか、そこまで緊張されるような親じゃないから、絶対」
 ほらいくよ、と苦笑しながら大樹は妻の手を取り引っ張る。
 緊張しなくても大丈夫と言われても、緊張せずにはいられない。緊張と不安に押しつぶされそうになりながら、響子はズルズルと大樹に引っ張られるまま、彼の実家の敷地内へ足を踏み入れた。
「ただいまー」
 玄関のドアを開け、家の中へと入った大樹は、慣れた様子で家の奥に居るであろう両親に自身の帰宅を知らせる。
「はいはーい。まぁまぁ、おかえり」
「うん、ただいま」
 彼の声に反応するように、廊下の奥から玄関へとやってきた一人の女性。彼女の姿を目にした大樹は、僅かに目を細め、ただいまと言葉を返す。
「……ん?」
 その時、大樹はふと違和感に気付き、ゆっくりと後ろを振り返った。そこに居たのは、俯いたまま夫の大きな体で自分の姿を覆い隠す響子。
「はいはい、響子ちゃんはそんな所に隠れてないで出てきてねー」
「うー……」
 体ごと後ろを向いた大樹は、必死に身を隠そうとする響子の両肩に手を置き、そのまま再度自身の体の向きを変える。
 そして、向きを変える大樹に強引に引っ張られる形で、響子は夫の前に無理矢理移動させられてしまった。
 その一連の光景は、まるで人見知りの子供が親の背中に隠れているようなものだ。
 何てことをしているんだ、と響子は視線で大樹に訴えるが、大樹はそんな視線を気にする様子は無い。
「どうよ、母さん。俺だって、やれば結婚出来るんだから」
 妻を自分の前へ移動させ、えっへん、と一人胸を張る大樹。
 そこは胸を張る所なのだろうかと、首を傾げたくなった響子だが、あまり突っ込まない方が良いと判断し口を噤む。
 まるで、教師の前に一人立たされている生徒のような気分になりながら、響子は数回深呼吸をし気持ちを落ち着かせる。
 もうここまで来てしまったんだ。逃げられないのなら、覚悟を決めるしかない。
「……えっ?」
 次の瞬間、心の中で気合を入れ、俯いていた顔を勢いよく上げた響子は、自分が目にした光景に驚きを隠せなかった。
「……っ、ひっく……グスッ」
「はっ!? ちょ、母さん! 何で泣いてんの?」
 響子達が目にした光景。それは、自分達の目の前で突然号泣する大樹の母親の姿だった。
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