契約書は婚姻届

11.芸能人

 明日から八月になろうとしている七月の最終日の夜、響子はリモコン片手に、一人リビングで闘い続けていた。
「チャンネルよし、時間よし、番組名よし……これで大丈夫、なはずっ!」
 何度も繰り返された確認作業も最後だと、声に出して確認をした彼女は、リモコンの決定ボタンを押し、ある番組の録画予約を終える。
「よし、完璧……」
「何してんの、響子ちゃん」
 一仕事終えたとばかりにソファーに座り、小さく息を吐いた彼女の耳に届いたのは、不意に背後から現れた大樹の声だ。
「ひゃっ!? び、吃驚させないでください」
 突然聞こえた旦那の声に驚き、響子は大袈裟に肩を震わせ慌てて後ろを振り向く。
「あ、ごめんごめん。すっごい顔でテレビ睨み付けてたから、どうしたのかなと思って」
 風呂上りのせいか、濡れた髪をタオルでガシガシと拭きながら、妻の背後に立ち大樹は首を傾げている。
「大樹さん知らないんですか!? 今日、みずき君がテレビに出るんですよ!」
 首を傾げる夫の姿に、響子は信じられないと言わんばかりに目を見開き、興奮気味に声を発した。
 響子が興奮している理由、そしてリビングで一人リモコンを操作していた理由。それは、モデルでもある義弟のみずきが出演するテレビ番組がもうすぐ始まるからだ。
 昼間、仕事中に彼女の携帯電話へ届いた一通のメール。それは、自分が出演する番組が今夜放送される事を知らせる瑞樹からのものだった。
 響子はそのメールを見た瞬間から、まるで自分の事のように喜び、番組を録画し、リアルタイムでもその番組を見ようと意気込んでいた。
「あー……そういや、この前瑞樹がそんな事言ってたような……」
 忘れてた、と軽い調子で笑う大樹の姿に、響子は呆れ顔になり小さく溜息を吐く。
 この男は、仮にも自分の弟がテレビに出る事を嬉しく思わないのだろうか。
 そんな疑問に響子が頭を悩ませていると、大樹は髪を拭いていたタオルを肩にかけ、ソファーに座る妻の隣へ腰を下ろす。
「響子ちゃんはそんなに楽しみ? 瑞樹がテレビに出るの」
「もちろんですよ。だって、初めてのテレビ出演だって言うじゃないですか。今まで雑誌の写真でしか皆に知られてなかったみずき君が、全国放送のテレビで動いて喋るんですよ」
 これは偉大な事だと力説する響子。そんな妻の様子が可笑しいとばかりに、大樹はクスクスと笑い声を零す。
「な、何で笑うんですか」
「いや、だって。そんなに喜んでくれるとは思わなくて。響子ちゃんのその言葉、そのままあいつに伝えたら、きっと飛び上がって大喜びするよ」
 こんな素敵な姉がいて幸せだね、と笑いながら、大樹は隣に座る響子の頭をポンポンと撫でる。
 興奮しながら自分ばかり喋ってしまった事に対する恥ずかしさと、夫の仕草がまるで自分を子供扱いしているようだと不満に感じた響子は、スッと大樹から視線を逸らした。
「それにしても……あいつがテレビにねー」
 ソファーの背もたれに体重を預け、どこか感慨深い顔で視線を宙へ向ける大樹。
「そのテレビ番組ってさ、どんな内容なの?」
 そのまま視線を響子へ移した大樹は、瑞樹が出演するテレビ番組の内容について彼女に問いかけた。
「えっと、四人一組のチーム対抗戦で……クイズに答えたり、あとは運動系のアトラクションに挑戦したりしてポイントを貰うんです。そして、合計ポイントが一番多かったチームが優勝するって感じですね」
 時々二時間スペシャルにもなるんですよ、と響子は、自分の中にある番組知識を夫へ伝授する。
 最近は、夫婦共にテレビを見る機会も増えてきたため、以前より大樹の中にある芸能界やテレビ番組に対する知識は確実に増えている。
 それでも、世間一般と比べてしまえばその知識量はまだまだだ。そのため、今もこうして響子の芸能界講座が開かれる。
「アトラクション、クイズ……はぁ」
 妻から番組内容を聞いた大樹は、何故か大きな溜息を吐き、頭を抱えてしまう。
「えっ……な、何か心配な事でもありました?」
 突然溜息を吐いた夫の様子に動揺し、響子は恐る恐る大樹へ声をかける。すると大樹は、再び宙を見つめながらゆっくりと口を開いた。
「響子ちゃんは、瑞樹がテレビに出て凄い嬉しいって言ったでしょ? 俺はその事に、不安しか無いんだよ」
 大樹は、あはは、と乾いた笑みを浮かべ、自分の心の中にあった不安を吐露し始める。
「瑞樹が……全国の皆さんの前で醜態を晒さないか心配で心配で。あいつ、運動は出来るからアトラクションは心配してないんだけど……クイズが……クイズが不安すぎるっ!」
 不安を口にしたせいか、どんどん大樹の眉間に皺が寄る。その様子は、今まで単純に瑞樹のテレビ出演を喜んでいた響子を、急に不安な気持ちにさせた。
「そ、そんなに、……みずき君、勉強苦手なんですか?」
 流石に、馬鹿なんですかとストレートな言葉で質問するわけにもいかず、響子は必死にオブラートに包んだ問いを投げ掛けた。
「馬鹿だよ……あいつ馬鹿なんだよ。ついこの前まで、俺がどんだけ必死に勉強教えても、最高で五十点ちょっとしかテストの点数取れなかったんだよー。赤点回避するために、俺がどんだけ頑張ったか!」
 あー、と奇声を発しながら、大樹は己の髪を掻きむしる。
「兄さんが頭脳全部持ってちゃったから、俺頭悪いんだよって不貞腐れてる姿見た時のイライラ感ときたら。勉強わかんない、夏休みの宿題終わらないって泣きついて、ここに何度泊まり込んだか!」
 弟である瑞樹がテレビ番組に出演する事に対する不安を吐露していたはずなのに、いつの間にかその内容は勉強が出来ない弟への愚痴へと変わっていた。
 大樹本人の口から、瑞樹は馬鹿だと言われてしまっては、響子がわざわざ表現を和らげて発した言葉を発した意味が無くなってしまう。
 そんな彼の姿を目にし、最初は驚いていた響子だったが、だんだんとその様子が微笑ましいと大樹の隣で見守る事にした。
『兄さんが頭脳全部持ってちゃったから、俺頭悪いんだよ』
 不貞腐れた瑞樹が口にした言葉に、大樹が言い返した。
 そんなごく普通そのやり取りは、本当の兄弟だからこそ成り立つ会話だろう。
 しかし二人に血の繋がりは無い。そんな事を感じさせないくらい、大樹と瑞樹の心は繋がり、彼らが本当の兄弟なのだと響子は改めて思い知らされた。
 その後、番組が始まるまでの間、大樹は弟への愚痴をボソボソとぼやき続けた。



『本日の対戦チームは、芸人チーム、キャスターチーム、そして緋野ひのエンターテインメントチームでーす!』
「大樹さん、大樹さん。始まりましたよ!」 
「うんうん、始まったねー」
 番組の開始と共に、響子のテンションは再び急上昇し、まるで子供のようにはしゃぎながら、彼女は隣に座る夫へと話し掛ける。そんな妻の姿を、大樹は微笑ましそうに見つめ、目を細めながら頷いた。
 二人が見ている番組は、クイズの正解数やアトラクションでの順位によって各グループにポイントが加算されていく内容のバラエティ番組だ。
 それぞれのチームのメンバーは三人。そして、この番組の司会進行を務める三人のお笑いグループのメンバーが、各チームに助っ人として一人ずつ参加し、合計四人のチームで戦うというルールだ。
伊瀬いせさん、今日の調子はどうでしょう?』
『私なりに、精一杯頑張りたいと思っています。ですが……私はどちらかと言うとアトラクションよりクイズの方が得意でして。アトラクションの方は後輩であるみずき君に頑張ってもらおうかと。よろしく頼みます、みずき君』
『はいっ! 僕、頑張ってたくさん動きます!』
 テレビの中では、番組司会のお笑いグループのリーダーが、ゲストそれぞれに話を聞き始める。
 緋野エンターテインメントチームで最初に話を振られたのは、紳士的な立ち振る舞いで女性達から人気を得ている伊瀬いせ己輝こうきという名の眼鏡を掛けた俳優だ。
 伊瀬の言葉に、すぐ隣に居るみずきが大きく頷く。
「はぁ……やっぱり伊瀬己輝かっこいいなー」
 優しげな笑みを浮かべ話す伊瀬の姿に、響子は無意識に溜息を吐く。
「む……きょ、響子ちゃんはこういうのがタイプなのか。お、俺だって……眼鏡くらい持ってるし……」
 ただ純粋に芸能人に対する憧れの感情を言葉にした響子だが、大樹はそうは思わなかったらしい。
 テレビに夢中になる妻の様子を横目に、ボソボソと独り言を呟きながら、一人テレビの向こうに居る伊瀬へ対抗意識を燃やす。
『ひーちゃん、今日も可愛いね』
『ふふっ、ありがとう。今日は事務所の子を連れて来たから、アタシも頑張るわよ!』
 画面の中では、司会者と三チームそれぞれのメンバーとの会話が続き、緋野エンターテインメントチームからは、二人目のメンバーが紹介されていた。
 ひーちゃんと呼ばれたのは、緩いパーマがかかった茶色いロングヘアーの女性だ。今日は番組内容に運動系の種目が入っているため、その髪を首元で一つに纏めている。
「ひーちゃんも相変わらず美人だなー。羨まし過ぎる」
 テレビを見つめていた響子は、画面に映ったひーちゃんの姿を目にした途端、その美しさが羨ましいと再び溜息を吐く。
「大樹さんもそう思いませ……大樹さん?」
 次の瞬間、隣に居る夫へ同意を求めようと声を掛けながら振り返った響子は、自分の目の前に居る彼の様子に首を傾げた。
「…………」
 大樹は何故か大きく目を見開き、酷く驚いた様子で隣に座る響子を無言で見つめている。
「響子ちゃん!」
 そんな夫の様子に響子が小首を傾げた瞬間、大樹は妻の名を叫ぶように呼び、彼女の両肩をいきなり掴んだ。
「は、はいっ!」
 突然の夫の行動に、響子は反射的に返事をしてしまう。とても真剣な表情で自分を見つめる彼の様子に、一体どうしたのかと彼女の中で不安が芽生える。
「……あの人、男だからね」
 真顔のままビシッとテレビ画面を指差し、真剣な様子で口を開く大樹。そんな彼が指示したのは、テレビ画面に映るひーちゃんだ。
「……? 知ってますよ、そんな事」
「へっ?」
 そんな事は知っている。響子の口からそう返答を聞いた瞬間、眉間に皺が寄るのではと思ってしまう程真剣な表情をしていた大樹の表情が、一瞬にして間抜けなものへと変わった。
 他の芸能人達からひーちゃんと呼ばれる美人が男だという事は、テレビをよく見る人々にとって周知の事実だった様だ。
 彼の名は緋野ひのれん。若くして緋野エンターテインメントを立ち上げ代表取締役を務める社長であり、芸能界でも有名な女装タレントとして活躍している。
 芸能人やファンから『ひーちゃん』という愛称で親しまれ、主にバラエティ番組のゲストや司会を務めている。
 初めてその姿を見た人々は、誰もがその容姿に騙され女性だと思い込んでしまう。しかし、緋野蓮はれっきとした男性である。
 どうやら大樹は、響子がひーちゃんを女性だと信じ込み、その美しさを羨ましがっていると思ったらしい。
 しかし、男性であると知りながらその美しさを羨ましがっていた事実に、大樹はしばらく開いた口が塞がらなかった。



 その後、響子と大樹は瑞樹の活躍を見守りつつ、自分達も一緒にクイズに挑戦しながら番組を楽しんだ。
「みずき君、いっぱいテレビに映って良かったですね。特に、あのアイスホッケーみたいなゲーム! みずき君が一番ポイント取れてて……凄いなぁ」
「んー、そうだね。それにしてもあいつ、あんだけ教え込んだ将軍の名前、なんで間違うんだよ」
 未だ瑞樹の活躍に興奮している響子。そんな彼女とは対照的に、弟の学力の無さに落ち込む大樹。番組が終わってからの二人の反応はまさしく正反対だった。
「それにしても……私驚いちゃいました。大樹さんが、ひーちゃんの事知ってたなんて」
 その時、ふと思い出したように響子が口を開いた。その内容は、夫が女装タレントである緋野蓮を知っていた事についてだ。
 芸能界についての知識などほとんど持っていない大樹が、見た目は完璧な女性である緋野蓮を男だと知っていたという事実は、響子にとってとても衝撃的だったらしい。
「知ってるっていうか、会った事あるっていうか。ほら、あの人って瑞樹の事務所の社長さんでしょ? 瑞樹が芸能界入る事になって、そんであの人の事務所に所属するって話になった時に瑞樹と一緒にここに来たんだよ。わざわざお菓子持って挨拶しに」
 その時の声が完璧に男だったからね、と過去の出会いについて大樹は語った。
 彼の話によると、大樹は過去に一度だけ緋野蓮に会った事があるらしい。
 瑞樹と共にこの家を訪れた緋野は、自分がどのような想いで事務所を立ち上げ、今まで運営してきたかを話し、他の所属芸能人や事務所スタッフ一人一人の写真を見せながら、その人物について大樹に説明したらしい。
 芸能界での瑞樹の売り出し方や将来の方向性なども説明し、瑞樹を自分の事務所で預かる事に関して、瑞樹の兄である大樹や、両親に挨拶と共に承諾を得に来たそうだ。
「へー……ひーちゃんってそんなに真面目な人だったんだ。トークも面白いから、頭の回転は速いんだろうなとは思ってたけど」
 今までテレビの中で活躍する緋野蓮しか知らなかった響子にとって、大樹から聞く彼の姿は驚きの連続だった様だ。
「芸能界なんて、雲の上の世界だと思ってたけど……世間って意外と狭いんだなって思い知らされたよ。その後しばらくして、ここの住人とエレベーター一緒になった事があってさ。どっかで見た顔だと思ってたら、社長さんが見せてくれた写真の人だったんだ」
「事務所のスタッフさんがこのマンションに住んでるんですね。いつか会った時にちゃんと挨拶しないと……。大樹さん、後でその人の特徴教えてください」
 瑞樹の所属する事務所関係者が同じマンションに住んでいる事を大樹から聞かされ、響子は義姉としてきちんと挨拶をしたいと考え、夫へその人物の容姿について訊ねる。
「特徴も何も……さっきテレビ出てたよ」
「へっ?」
 大樹の方へ体を向け、しっかりと夫の話す人物の特徴を覚えようと意気込む響子だったが、大樹の口から返ってきた言葉の意味を理解出来ず、彼女の口から出たのは、なんとも間抜けな声だった。
「だから、さっきテレビに出てた人。……響子ちゃんが、かっこいいって言ってた眼鏡の人」
「……い、伊瀬己輝がここに住んでるんですか!?」
 目をキラキラと輝かせ、テレビの向こうで喋る俳優を見つめていた妻の姿を思い出しているのか、どこか拗ねた口調で大樹は言葉を続ける。
 そんな彼の説明を聞き、響子は今日一番の驚きを見せる。
 このマンションの住人であり瑞樹の事務所関係者だという人物の正体が、俳優の伊瀬己輝という事実は、彼女の予想外の答えだったらしい。
「え、あの。どんな事話したんですか!?」
「どんなって言われても……ただ軽く挨拶した程度だよ。会ったのだって、一、二回だし」
 伊瀬己輝と挨拶を交わした。たったそれだけの出来事を体験したと話した途端、目をこれでもかと輝かせ自分に尊敬の眼差しを送ってくる妻の様子に、大樹はただ苦笑するしか無かった。



 その後、伊瀬己輝についてもっと話を聞きたいという響子を宥め、まだ風呂に入っていない彼女に大樹は入浴を勧めた。
 最初は後でと渋っていた響子も、最後には夫の言葉に頷き、渋々ながら一人浴室へ向かっていった。
「はぁ……俳優さんと会った話、しない方がよかったのかな」
 妻を浴室へ送り出した後、大樹は冷蔵庫から取り出した十分に冷えた缶ビールを片手に、ぶつぶつと独り言を呟きながらリビングへと戻ってきた。
 興奮した妻の様子は、一般人が抱く芸能人への憧れの感情なのだろうと思っているものの、やはり男として悔しいものがある。
 出来る事なら、響子には自分以外の男を見てほしくない。そんな感情を抱きながらも、先日の暴走事件を思い出せば、なかなか言い出しにくいのが現状だ。
 降下した気持ちが少しでも元に戻ればと、缶ビールをテーブルの上に置いた大樹は、つまみになりそうなものを探しに再びキッチンへ向かおうと一歩足を踏み出した。
 その時、彼の耳にリビングに置いてある固定電話の着信音が聞こえた。
「はいはいー、ちょっと待ってくださいよ」
 大樹は、キッチンへ向けていた体の向きを変え、急いで電話の元へ歩み寄る。
「はい、もしもし。浅生ですけど……」
「もしもし? 大ちゃん?」
「え、母さん!?」
 滅多に鳴らない固定電話に掛けてきたのは一体誰だと首を傾げつつ、大樹はその受話器を手に取った。
 電話を掛けてきたのは大樹の母親。そんな母の口から告げられた言葉に、大樹は内心驚きながらも必死に平静を装おうと努めた。
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