契約書は婚姻届

10.取っちゃダメ!

 最近、響子はある悩みを抱えている。
 球技大会が無事に終わり、大樹の嫉妬による暴走という予期せぬハプニングが発生したのは、つい数週間前。
 暴走事件直後、彼女は一週間の間、セックスはもちろん、キスや抱きつくなど、あらゆる接触の禁止を大樹に言い渡した。
 自分の暴走が原因と理解していても、最愛の妻に触れられない状況に、夫の落ち込み具合はかなりのものだった。
 少しでも贖罪しょくざいになればと、彼は毎日のように妻のお気に入り店のケーキや菓子を買い、皿洗いや風呂掃除など、自分に出来る事を積極的に行っていた。その姿は、鮮明に響子の記憶に残っている。
 そんな夫の姿を目にし、響子の中にあった怒りも静まり、今では元通りの夫婦生活を送っている。
 相変わらず夫に翻弄される事は多々あるものの、それはそれで幸せなのだと、時々一人で頬を緩める毎日が続いていた。
 そんな彼女は今、会社内の廊下にある柱の陰に隠れ、とある一点を見つめていた。
「浅生さん、良かったらこれどうぞ。週末にお菓子作ったんですけど、ちょっと作り過ぎちゃったんで。お裾分けです」
「こっちも良かったらどうぞ」
 響子が相談を躊躇している悩み。それは、球技大会後から、大樹が急に女子社員にモテ始めた事である。
 彼女の視線の先では、数人の女子社員が大樹を取り囲み、手作りのプレゼントを渡している。
 大樹がモテ始めてから、響子は度々、女子社員と大樹が話をしている姿を目撃した事がある。
 最初は特に気にも留めていなかったが、その頻度や人数が日ごとに増えていく事に、彼女の心の中に、だんだんと波風が立ち始めた。
 夫が急にモテ出した事を、当事者である大樹に相談する事など出来ず、どうしたものかと響子は日々悩んでいた。
 そして今日、彼女は決定的瞬間を、現在自分の瞳で目撃している。
「うわ、これ作ったやつなんだ。凄いねー、俺ぜんぜん料理出来ないから、こういうの作れる子って尊敬するよ」
 差し出される手作り菓子を見つめ、凄いと女性社員達を褒める大樹。そんな夫の姿に、響子の心の波はどんどん大きなものへと変化していく。
 モヤモヤとした気持ちでその様子を眺めていると、今までお菓子に気を取られていた大樹が不意に顔を上げた。
「あ……っ!」
 その瞬間、顔を上げた大樹の視線が自分を見つめているような気がし、響子は慌ててその場を立ち去った。



「大樹さん、球技大会のバスケで準優勝だったからね。あれ、意外とかっこいいんじゃないかって思った女子社員は結構居るみたいだよ」
 昼食の時間になり、元気の無い響子を引き連れ、志保は駐車場にある自分の車へやってきた。
「あとは……副社長って立場だから、玉の輿狙いって人も居るんじゃないの?」
 車に乗り込み、運転席には志保、助手席には響子と、二人並んで持ってきた弁当を食べる。話題はもちろん、響子が落ち込んでいる原因でもある、最近の大樹のモテっぷりについてだ。
「……大樹さん、そういう女の人嫌いだもん」
 お弁当の卵焼きを食べながら、まるで拗ねた子供のように口を尖らせ、明らかに不機嫌な響子。
 その様子を隣で見つめる志保は、呆れた様子でペットボトルに入ったお茶を飲んだ。
「大丈夫だって。今はキャーキャー言ってる子達も、そのうち大人しくなると思うよ」
「…………」
 大丈夫という友人の言葉を信じたいと思いつつ、響子は、未だ心の片隅に残る不安を消せないでいる。
 夫を信用していないわけでは無いが、どこか不安に感じてしまうのは、彼女の心の弱さのせいだろうか。
「……大樹さんも、そんなのいらないって言ってくれればいいのに」
 午前中目にした光景を思い出し、不意に響子の口から本音が漏れる。
 他の女性が作った菓子を手にし笑っていた夫。その姿に抱いたのは、不安の感情、そして嫉妬だった。
 あの場で彼女達の目の前へ飛び出し、大樹の手を引っ張って逃げ出したかった。しかし、自分達が結婚している事は秘密にしているため、会社内でそんな行動は出来ない。
 自分達の置かれている立場を理解しているからこそ、思うままに行動できない苛立ちに、響子の中のモヤモヤが更に増していく。
「あの人はそれが出来ないって、響子が一番わかってるでしょ」
 よしよし、と友人を慰めるように響子の頭を撫でる志保。響子はそんな彼女の言葉に何も答えず、ただ眉間に皺を寄せるだけだった。



 その日の夜、響子達はダイニングルームで向かい合うように席につき、夕食を食べていた。
 傍から見れば、夫婦が一緒に食事をしている何の変哲も無い光景だろう。しかし、この食卓に大樹はいつもと違う違和感を感じていた。
「響子ちゃん、えっと……これ、何かな?」
「野菜炒めですけど」
「…………」
 自分の問いに返ってきた妻の答えに、大樹は再度テーブルの上に並んだ皿へ視線を向ける。
 彼の視線の先にあるのは、中華風に味付けされた野菜炒めが乗っている皿だ。
 浅生家の食卓では、夕食時必ずといって良い程、肉や魚など、メインとなるおかずが乗った皿が食卓の中央や、それぞれの食事スペースに置かれる事が多い。
 しかし、今日食卓の中央に置いてあるのは、山盛りの野菜炒めが乗った皿だ。
 大樹は恐る恐る自分の元にある取り皿を手に取り、山盛りの野菜炒めを取り分ける。
 そして、行儀が悪いと知りながら、まるで何かを探すように、取り皿に乗った野菜達を次々と持ち上げた。
「響子ちゃん、あの……お肉は、どこかな?」
 彼が必死に探していたもの。それは、野菜炒めには高確率で入っているであろう食材だ。
 あの山盛りの野菜炒めの中で、自分が取り皿に取ったのは野菜のみだったのかと、大樹は半信半疑になりながら響子へ質問をぶつける。
「無いですよ」
「えっ!? ……じゃ、じゃあ、魚は?」
「無いです」
 肉も魚も、この食卓には一切並んでいない。つまり、目の前にある野菜炒めは、正真正銘野菜のみを炒めた料理だと、大樹はこの時理解した。
 魚料理など一切食卓に並んでいない。そんな状況にも関わらず、魚はどこだと聞いてきた夫の様子を気にする事無く、響子は己の茶碗に盛ったご飯を一口頬張る。
「いいじゃないですか、たまには。最近大樹さん、体重増えたって言ってたし」
 響子のそんな言葉に、大樹は、確かに言ったけど、とどこか不満げな様子で声を漏らす。
 肉が入っていない野菜オンリーの野菜炒め。そんな料理が食卓に並ぶのは、給料日前の家庭や、節約中の家庭という場合が多いだろう。しかし、そのどちらにも浅生家は当てはまらない。
 最近体重が増えてきた事を気にしている夫のために、ヘルシーなメニューをと響子が考えたのかと問われれば、彼女は静かに首を横に振り否定するだろう。
 この料理を出した理由、それは単なる響子の気持ちの問題だった。
『浅生さん、良かったらこれどうぞ。週末にお菓子作ったんですけど、ちょっと作り過ぎちゃったんで。お裾分けです』
『こっちも良かったらどうぞ』
 彼女が思い出すのは、昼間会社で目にした光景。
『うわ、これ作ったやつなんだ。凄いねー、俺ぜんぜん料理出来ないから、こういうの作れる子って尊敬するよ』
 渡されたお菓子を手にし、女子社員達を褒めていた大樹。その姿を思い出す度、響子の中で沸々と黒い感情が大きくなっていく。
 そんな感情をどうにかしようと考えた結果、嫉妬心の捌け口になったのが今日の料理だった。
 女子社員達と楽しそうに会話し、お菓子を貰っていた夫への、響子なりのささやかな仕返し。
「…………」
 大樹はその後、妻の態度に腑に落ちない顔をしながらも、大人しく野菜炒めをおかずに夕食を食べ続けた。



 夕食を食べ終わり、別々に入浴を済ませた二人は、早々に就寝するため、寝室へ行きベッドの中に入った。
 響子は、まるで大樹の抱き枕とでもいうように、彼の腕の中に閉じ込められている。
 大樹への接触禁止令が解除された後、彼は以前と同じように、最愛の妻を抱きしめ眠りについている。
 夫のぬくもり、夫の匂い、そしてスヤスヤと聞こえる夫の寝息。それらを感じながら、今日の自分の行動を響子は一人で後悔していた。
「……子供じゃないんだから」
 ポツリと小さく呟いた言葉が、彼女の後悔をより一層強くする。
 目の前へ視線を向ければ、ジャージを着た夫の胸が見える。その視線をゆっくり上へ移動させれば、そこには眠る大樹の顔があった。
『大樹さん、球技大会のバスケで準優勝だったからね。あれ、意外とかっこいいんじゃないかって思った女子社員は結構居るみたいだよ』
 昼食の時聞いた友人の言葉が、響子の脳内で再生される。
 確かに、副社長に就任するためにと、髪を整え無精ひげを剃った大樹は、以前より若く、かっこよく見えるだろう。
 しかし、弟である瑞樹のような美しさや、親友である誠司のようなクールさを彼は一切持ち合わせていない。
 今のように、女子社員達が騒ぐ程のかっこ良さがあるかと問われれば、流石に妻である響子でも、答えるまでに数秒間無言になるかもしれない。
 響子自身、大樹の事を愛しているし、かっこいいと思う事や、素敵だと感じる事は幾度となく経験している。
 しかし、彼と初めて会った時の自分を思い返してみれば、そんな事は一切思っていなかったと断言できる。
 あの時の自分が、もし今の大樹を目にしたとして、手作り菓子を作ってまで自分をアピールするなど考えられるだろうか。
 その可能性は限りなく低そうだと、彼女は自問自答を心の中で繰り返す。
 その後響子は、大きな欠伸をしウトウトと意識を漂わせながら、自分の行動を後で大樹に謝ろうと決め、そのための作戦を考えながら眠りについた。
「……大樹さんは……私の……取っちゃ、ダメ……スー……」
 響子が眠りについた後、しばらくすると彼女は、口をモゴモゴと動かし何やら寝言を呟き始める。
 どうやら夢の中でも、会社の女子達と大樹の取り合いをしている様だ。
「…………」
 そんな彼女の様子を無言で見つめ、口元を微かに緩めながら、大樹はそっと愛する妻の額に口付けた。



「……はぁ」
 翌日の夕方、会社から帰宅途中の車内で、響子は今日何度目か分からない溜息を吐いた。
 今日一日、普段と変わらぬ行動を心掛けながらも、彼女の脳内は隙あらば大樹への謝罪方法を考えていた。
 しかし、いくら考えても最適と思える方法が見つからない。
 昨夜の意地悪を正直に謝罪しようとも考えたが、どう言葉にしていいものか分からない。
 そんなモヤモヤした気持ちを抱えたまま車を運転していれば、いつの間にかマンションに到着してしまった。駐車場に車を停めた響子は、バッグを持ちそのままエントランスへ向かう。
「お帰りなさいませ、響子様」
「お帰りなさいませ」
 エントランスへ入ると、そこには工藤と美沙が待機しており、帰宅した響子を笑顔で迎えた。
「あの……響子様、浅生様が帰ってきたら、お菓子美味しかったって伝えて頂けますか?」
 ただいま、と彼らに帰宅の挨拶をした響子。すると、何やら工藤は大樹への伝言を頼みたいと口を開く。
「お菓子?」
 工藤が口にした『お菓子』というキーワードに、響子は心当たりが無く不思議そうに首を傾げる。
「はい。昨日浅生様が帰宅なさった時に、僕達で食べて欲しいって、クッキーとかマドレーヌとかいっぱい入った紙袋を木村さんに渡して……いでででっ!」
「豊君、余計な事言わなくていいの。響子様、すみません。伝言はしなくてオッケーですので。今日もお仕事お疲れ様でした」
「あ、えっと……その、豊君大丈夫?」
 工藤が響子の疑問に答えていると、突然彼の隣に立っていた美沙が手を伸ばし工藤の頬を抓り始めた。そして彼女は響子に対し、伝言はしなくても大丈夫だと言い出す。
 突然目の前で繰り広げられた光景に、戸惑いを隠しきれない響子。頬を抓られた工藤を心配するが、全然気にしなくていいですから、と彼女の問いに返答するのは、工藤ではなく美沙だった。
 結局、工藤はずっと美沙に頬を抓られたまま、響子が乗ったエレベーターを見送る事となった。
 エレベーターが上の階へ上がり始めたのを確認した美沙は、すぐに工藤の頬から手を離す。理由もわからず抓られた工藤は、不機嫌な顔で抓られた頬を擦りだす。
「……なんで急に抓るのさ。痛いんだけど」
「豊君が余計な事言うからでしょ。浅生様は、響子様に見られたくないから、あのお菓子を私達にくれたのよ」
「んー……どゆこと?」
 響子が居なくなったエントランスでは、不思議そうに首を傾げる工藤と、そんな彼に呆れる美沙の姿があった。



 その数日後、再び会社内の廊下にある柱の陰に隠れながら、響子はある一点を見つめていた。
「副社長、良かったらこれどうぞ!」
 数日前にも似たような光景を目にしたばかりなのに。
 思わず口から出そうになる溜息を堪え、響子は小さく息を吐く。
 今日も会社の廊下では、大樹へのプレゼントを抱えた女子社員が彼を待ち構えていた。
 何故自分は、見たくも無い場面に何度も遭遇してしまうのだろうと、響子は自分の運の無さを嘆きたくなった。
「響子、何やってんの? 早くしないと先輩怒るよ」
「あ、うん……わかった」
 一人その場で落ち込む響子の元へやってきたのは友人の志保。どうやら、友人の姿が無い事に気付き探しに来てくれた様だ。
 早く仕事に戻ろうと、志保は友人の手を取り急かし始める。そんな彼女の言葉に促され、響子は後ろ髪を引かれつつ、ゆっくりとその場を離れた。
「ありがとう。わざわざ俺のために」
 響子達が立ち去った後、大樹は自分にプレゼントを差し出す女子社員に向けて、お礼の言葉を述べ始めた。
「……っ」
 そんな彼の言葉に、緊張した面持ちだった女子社員の表情がパッと明るくなる。
「でもごめんね、受け取れないや。気持ちだけ受け取らせてもらうよ」
「えっ? どうしてですか!? 他の子が作ったお菓子は、この前受け取ったって……」
 数日前、大樹にプレゼントを渡した女子社員の事を聞いていたのか、彼女は酷く驚いた様子で、自分の目の前に佇む男を見上げる。
「ごめんねー、本当に。でも、ね……彼女が、ヤキモチ妬いちゃうから」
 照れくさそうに笑い、ポリポリと頬を掻きながら飛び出した大樹の言葉は、女子社員に更なる衝撃を与えた。
「で、でもっ! ほら、これはこの前の球技大会お疲れ様でしたって意味でのプレゼントですから。彼女さんがヤキモチ妬くような事じゃ……」
「君だって、嫌でしょ?」
 口早に、自分には下心など無いと説明する彼女の言葉を、いつもより低くはっきりとした大樹の声が遮る。
「……えっ?」
「理由は何であれ、大好きな男が他の女の子からプレゼント貰ってたら……君だって、嫌でしょ?」
 顔にはヘラヘラとした笑みを浮かべているものの、拒絶を含んだ彼の感情の無い声に、女子社員は何も言葉を返す事が出来なかった。



 大樹には付き合っている女性がいるらしいという噂が、社員達の間で広まるにはあまり時間はかからなかった。
「誰でも簡単に作れるお菓子レシピ。ホットケーキミックスで作る簡単お菓子……うーん」
 二度目のプレゼント現場を目撃した日の会社帰り、本屋に立ち寄り何冊ものお菓子作りの本を眺める響子がその噂を知るのは、もう少し先の話である。
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