契約書は婚姻届

9.戸惑いと暴走

 いつもではありえない夫の言動に疑問を持った響子。しかし、その答えは意外にも早く見つかった。
「ねぇ……何であの時、走ったの?」
 怒りを露にする視線と、その感情故にいつもの柔らかさが無い声。
 大樹は怒っている。そう彼女は直感した。
「あの、その……」
 夫が何かに怒りを感じている事を理解し、今まで大樹から与えられる快感に溺れ、熱くなった体の熱が急激に冷めていくのを頭の片隅で感じる。
 響子は、夫の胸板に寄りかかり、キスを強請るために横に向けた顔を中途半端な角度で止めたまま、目を大きく見開いた。
 彼が怒っている事は理解したが、その理由がわからない。必死に声を出そうとするが、出てくるのは戸惑いや恐怖、驚きに震える小さな声のみ。
 いつも優しいと思っていた大樹から向けられる怒り。その視線に、思わず目を逸らしたくなったが、響子は必死に我慢した。
 そして彼女は、夫の瞳を真っ直ぐに見つめ、彼の怒りの理由を探し始める。
 今朝まではいつも通りの夫だった。しかし、今自分の目の前に居る彼は怒りを感じている。
 この一日で何があったと問われれば、あの球技大会しかない。
「……っ」
 無言のまま自分の世界に入り込んでいた響子だったが、不意に感じた身体の違和感に、慌てて背後に居る夫の方へ顔を向ける。
「大樹さっ、何やって……あぁ」
 背後に居る大樹の様子を窺おうとした響子が目にしたもの。それは、再び己の手を泡だらけにし、妻の体を洗おうとする彼の姿だった。
「…………」
 ボディーソープを泡立てた手が身体を這う感覚に戸惑う響子。しかし大樹は、そんな彼女の様子など気にする事なく、己とは違う柔肌に泡のついた手を滑らす。
「っ、自分で……自分で、やりますから……ひゃ」
 響子は、大樹の手が身体を這うくすぐったさと、時折与えられる甘い快感に、その場から逃げ出したくなった。
 しかし、しっかりとその体は大樹の腕の中にあり、逃げ出す事が出来ない。
 それに彼女は、逃げ出したいと思う反面、頭の片隅でこの状況に快感を感じていた。
 大樹は、まるでガラスに触れているかのように、自由に動かせる片手で妻の体を洗い続ける。
 妻を拘束している手は、時折彼女の胸へと伸び、乳房を揉み、頂を愛撫する。
 自分の腕の中から必死に逃げようとする響子の思考を鈍らせるように、彼女が敏感に反応を見せる耳へと大樹は再び舌をのばす。
 止めてほしい。自分でやるから。そう何度も訴える響子の言う事など聞かぬと、彼は何度も甘い快感を妻へ与え続けた。
「はぁ……はぁ……」
 しばらくすると、響子は全身泡だらけの状態で、すっかり上がってしまった息を整えようと浅い呼吸を繰り返していた。
 抗議の声は途中から喘ぎ声へと変わり、逃げ出そうという思いは消えていた。その証拠に、彼女は二度程大樹の手で軽く達している。
 浴室の熱気と、自分ばかりが翻弄される現状、そして体に感じる僅かな疲労感。そのどれもが、響子の思考能力を低下させるには十分すぎるものだった。
「これで、綺麗になった」
 不意に、彼女の頭上でポツリと呟かれた大樹の声。その内容をよく理解出来ず、何か言ったのかと問いかけようにも、疲労のせいで口がうまく動かない。
 そして久しぶりに聞いた夫の声に、どこか安心している自分がいると感じてしまう。浴槽を出てからたった十分程の時間だが、彼女が不安を感じるには十分だった。
 大樹の胸に寄りかかったまま、響子はぼんやりと視線だけを動かし、彼の手の動きを追いかける。
 また変な事をされたらどうしよう。そんな不安を頭の片隅で感じていると、彼女の予想に反し、大樹の手が向かった先にあるのはシャワーノズルだった。
 シャワーノズルを手に取った大樹は、お湯を出そうと、もう片方の手で鏡の下にある蛇口を捻り、そのままお湯の温度を調節し始める。
 そして、何度か自分の手にお湯をかけ温度を確かめると、そのまま妻の体を洗い始めた。
「……よいしょっと」
 響子の体についた泡をすべて流し終えると、大樹はシャワーを止めて元の場所にシャワーノズルを戻した。そして妻の体を抱き上げ、自分と対面するように膝の上へ彼女を座らせる。
 大樹の膝の上に跨るように座った事で、いつもよりほんの僅かに響子の視線は高くなる。
 綺麗に洗った響子の身体を確認するように見つめ、大樹はどこか満足げな様子だ。しかし、そんな夫の様子に響子は気付いていない。
「……何、を……怒って、るんですか……」
 彼女は、未だぼんやりとする頭を必死に働かせ、ずっと気になっていた問いを夫へぶつける。疲労と暑さで弱った声だったが、目の前に居る男の耳に届くには十分だった。
 今日の球技大会で、自分は何か大樹を怒らせるような事をしただろうか。
 先程まで記憶を手繰り寄せ、疑問を解決しようとしていたのに、いつもと違う大樹の行動のせいで響子の思考は止まってしまった。
 再び夫の怒りの原因を考えようにも、今の状態では頭が上手く回らない。彼女に残された手段は、目の前にいる人物に直接答えを聞く事だった。
「…………」
 しかし、求めた答えはすぐに返ってくる事はなかった。
 大樹はしばし無言になると、突然自分の膝の上に座る響子の背中へ両腕を回し、そのまま彼女を引き寄せ抱きしめる。
 突然力強く抱きしめられた事に驚き、響子は一瞬身体を強張らせた。
 一体この人は何がしたいのだろう。彼女はそんな疑問を感じながらも、今日浴室に来てから、初めて大樹に抱きしめられたこの状況が素直に嬉しかった。
 ようやく求めていた夫の熱を少しでも感じられる。フワフワとした意識の中で、響子は目を細めながら甘えるように夫の胸に顔を寄せ、その背中に腕を回す。
 もし彼女に犬の尻尾が生えていたら、今はきっと、嬉しさのあまり勢いよくその尻尾は揺れているだろう。
「……?」
 その時だった。響子は、不意に自分の身に感じた違和感に気付き、恐る恐る視線を下へ向ける。
「……ふぁっ」
 しかし、自分の目で違和感の正体を確かめる前に、彼女は自身の身体でその正体を知る事となった。
 まだ中には入っていないものの、熱く固くなった大樹の熱が、何度も響子の中心へ押し付けられている。
「だ、大樹、さ……何、して……っ、んん」
 一体何をしているんだ。そう問いかけようとした妻の唇を、大樹は荒々しく己の唇で塞いだ。
 先程まで、どこか冷たさを感じた彼の態度。しかし、そんな事を忘れそうになる程の口付けに、響子は無意識のうちに夫の背に回した腕に力をこめる。
「ん、ふ……はっ……んん」
 このままでは本当に意識が飛んでしまうのではないか。
 響子は頭の片隅で、ぼんやりと己の今後の姿を考えた。すると、そんな彼女の意思を感じたのか、大樹が浴室のドアを少しばかり開けた。
 脱衣所から流れ込む冷たい空気が、すっかり熱くなってしまった二人の体を心地良く包む。
 少し涼しさを感じられたおかげか、響子はぼんやりとしていた思考力が、ほんの僅かに戻ってきた気がした。
 しかし、冷静さを取り戻そうとする響子の想いと反するように、未だ大樹の昂った熱は彼女の体に押し付けられたままだった。



「ね、響子ちゃん。……俺の事好き?」
「……好き、ですよ?」
 互いに互いの身体を抱きしめたまま、まるで独り言のように呟かれた大樹の問いかけに、響子は疑問を感じながら自分の正直な想いを口にする。
「お願いだから、あんまり心配させないで。っ……んん、今日だって……池田に抱っこされて……んっ」
 借り人競争で目にした光景を思い出しながら、大樹は妻の胸に顔を寄せ、まるで赤ん坊のように乳首に吸い付く。
「ひゃん! あ、れは……どうしてもって、言われ……は、あぁ」
 乳首を吸い、胸の至る所に吸い付く夫の姿に顔を赤くする響子。
 大樹が発した池田という名前を耳にし、彼女が思い出したのは、今日の球技大会の中で一番恥ずかしい記憶だった。
 借り人競争のレースで、池田に一緒に走って欲しいと言われたが、響子はもちろんそれを断ろうとした。しかし、彼女が何度断っても池田は諦めなかった。
 二人の攻防はしばし続いたが、響子が結果的に先に折れ、申し出を承諾した。
 その後、少し走るだけだと、自分に言い聞かせ池田と共に彼女は走り出した。しかしそれから数秒後、何故か彼女は池田の腕の中に居た。
『い、池田さん! 何してるんですか、下ろしてください!』
『うわっ! ちょっと、暴れないで。落としちゃうから! ちょっとだけ我慢してね、せっかくだから一位になろっか』
「誰とも走るなって、言ったでしょ。なのに、なんでっ!」
 恥ずかしがる自分に対し、笑顔で一位になろうと言ってきた池田の様子を思い出していると、突然声を荒げ、怒りを吐き出した大樹の姿に、響子は驚きのあまり反射的に身体を強張らせる。
「……くそっ」
 自分の言葉に怯える妻の姿を目にし、ほんの一瞬大樹の中にある感情が揺らいだ。己の中に生じた迷いを吐き捨てようと、眉間に皺を寄せながらポツリと声を漏らす。
 今自分が抱いている感情が、単なる醜い嫉妬であるという事を、彼は十分理解していた。
 しかし、最愛の妻が他の男と共に走り、ましてや抱き抱えられる光景を、実際に彼は目にしている。
 その瞬間から湧き上がったまま、どんどん己の中で膨れ上がるどす黒い感情を、まったく無かった事にするなど大樹には不可能だった。



 このまま二人の熱が引き、いつも通りの大樹に戻ってくれればいい。響子が心の中に抱いた淡い願いは、結局叶う事は無かった。
「やぁ! 駄目、駄目ですっ大樹さ……あぁっ!」
 響子は先程から、幾度となく大樹に声を掛け続けている。駄目だ駄目だと、まるで言葉を覚えた鳥のように繰り返し、夫の膝の上で首を横に振り喘ぎ続けた。
「何で、駄目なのさ……っ! いいじゃない、俺達結婚してるんだしさ……はぁ」
 自身の膝の上で喘ぎながら否定の言葉を繰り返す妻の姿を見つめると、大樹は己の熱で響子の中を激しく突き上げ、その身体を揺さぶる。
 浴室のドアを開けた事で、現状が好転する。そう考えていた響子だったが、その考えは甘かった。
『誰とも走るなって、言ったでしょ。なのに、なんでっ!』
 己の中にある感情を吐き出した大樹は、怯える響子を落ち着かせるように彼女の額に口付けた。しかし次の瞬間、彼は今まで妻の体に押し当てていた自分の熱を、彼女の中へいきなり押し込んだのだ。
 突然の衝撃に響子は目を見開き声を上げた。そして、たった今起こった出来事を理解すると、慌てて首を横に振り夫に訴えかけた。
 セックスをする時、必ずと言って良いほど大樹は避妊を心掛けてくれた。しかし、現在二人が居るのは浴室。避妊具などあるわけが無く、このまま大樹が響子の中で果てれば妊娠の可能性も考えられる。
「だって……だって……このままじゃ、はぁっ」
 浴室の床に座る大樹の上に跨る形で繋がり、下から突き上げられる快感に、響子は目の前にある自分より大きな体にしがみつき耐えるしかない。
「俺、大歓迎だよ? 響子ちゃんとの子供なら、何人だって欲し……っ、く……はぁ」
 夫の言葉に反応したのか、響子の意思とは関係無く、彼女の身体は大樹の熱を締め付ける。その強い快感に、思わず大樹の口から熱を帯びた声が漏れた。
 二人の子供なら何人だって欲しい。その想いは響子も同じだ。大樹との子供が欲しくないわけじゃない。
 あと一年仕事を続けたいという自分の我が侭を聞いてくれた夫の優しさは十分に理解している。
 もし、約束の日より前に妊娠が発覚したとしても、響子はその事実を受け入れ仕事を辞めると素直に頷くだろう。
 しかし、今行われているのは、避妊も無しにほぼ無理矢理とも言える行為。響子はそれが悲しかった。
 一言言葉を掛けてくれれば、この状況を受け入れることが出来たかもしれないのに。初めての夫の身勝手な行動に、彼女はただ戸惑う事しか出来ない。
 彼女の口から出てくる否定の言葉。その理由を、きっと大樹はまだ理解していない。
「もっと自覚して。男に警戒心持って。そうじゃないと……俺、心配で、心配で……っはぁ」
 大樹は響子の身体を強く抱きしめながら、何度も熱くなった中を突き上げる。そして響子の名を呼び続け、顔、胸、いたる所に口付けた。
「……はぁっ、あぁ! 私が、好きなの……大樹さ……だけ……んん」
 自分が好きなのは大樹だけ。そう自分の気持ちを必死に伝えようとする響子の唇を、大樹は再び塞いでしまう。
 まるで自分に縋りつくような大樹の言葉と態度に、ようやく響子は夫の不自然な行動の原因を理解した。
 その瞬間、今まで恐怖や悲しみしか無かった感情の中に、正反対の感情が少しずつ芽生え始める。
「大樹さん……んっ……だい、んん」
 僅かに残っていた思考力を使い果たした響子は、次の瞬間、自分から舌を絡め、ぎこちなくではあるが、自ら腰を動かしていた。
 いつもと違う空間、いつもより熱く感じる快感。これでもかと身体を密着させ、更なる熱を彼女は求め始める。
「はぁ……あ、響子……響子っ!」
 自分を求める妻に応えようと、大樹は更に腰を激しく動かした。
 普段はちゃん付けで響子の事を呼んでいる大樹だが、気持ちに余裕が無くなるとその呼び方は呼び捨てへと変化いく。
「は、あぁ……あっ、あぁっ!」
「っ、はぁ……はぁ……う、くっ!」
 互いに名前を呼びあい、互いの身体を抱きしめ、最後はただ愛しい者を求める本能に従い、相手を好きだという想いだけを抱きながら二人は果てた。
 今日の借り人競争の事で、彼はきっと嫉妬していたのだろう。原因が分かってしまえば、安心と共に彼女の心の中を満たす気持ちは不思議とあたたかいものになった。
 そして、いつもとは違う大樹の熱を直に感じながら、彼女はゆっくりと意識を手放した。



 翌日、朝から明らかに様子のおかしい友人の様子に疑問を持った誠司は、昼休みに大樹と社長室で二人きりの昼食を食べていた。
「……お前、ほんっとうに馬鹿だな」
「そんな力こめた声で言わないで……自分で最低なの解ってるから」
 昨夜の出来事をすべて大樹から聞き、誠司はただ呆れる事しか出来なかった。
「響子さんは何も悪くないのに、お前が勝手に嫉妬して、勝手に八つ当たりして。風呂場で無理矢理ヤッた挙句に避妊してなかった。しかも響子さんが気失ったって……また彼女が家出して、最悪今度こそ離婚するって言いだしてもおかしくないんだぞ?」
「……仰る通りです。目を覚ました響子ちゃんに、即、土下座して謝りました」
 改めて友人の口から昨夜の状況が伝えられ、ますます大樹の周りに漂う空気は重くなっていく。
「それなのに……えっと、何だっけ?」
「平手打ち二回喰らった。あと、今日から一週間接触禁止」
「寛大すぎるな、響子さん。罰として甘すぎるだろ、そんなの。体だってボロボロだろうに、作りたくも無いであろうお前の弁当まで作って……」
 健気だ、妻の鏡だ、と泣き真似をしながら響子を褒め称える誠司の姿に、大樹はただ項垂れるしかなかった。
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