契約書は婚姻届

8.昂る熱と冷たい視線

 玄関から聞こえた夫の帰宅を知らせるチャイムの音。
 響子は、工藤からの電話を気にしつつ、受話器を元の場所に戻すと、大樹を出迎えるため急いで玄関へ向かった。
 目的地に到着すると、彼女はすぐに鍵を開け、夫を家の中へ迎え入れる。
「お、お帰りなさい」
「ただいま……って、響子ちゃん駄目でしょ。ちゃんと、どちら様ですかって聞かなきゃ。変な人来たらどうするの」
 帰宅して早々、チャイムを鳴らした人物を確認せずドアを開けた妻の行動を咎め始める大樹。
「下に橋本さん達が居るから大丈夫だとは思うけど。せっかくインターフォンにカメラついてるんだから、そこで誰が来たか確認しなきゃ駄目だよ」
 夫の言葉に、響子の視線は玄関から数メートル先にあるリビングへ向けられた。
 リビングに入ってすぐ真横にある壁には、大樹の言う通りカメラ機能が備わったインターフォン用のモニターが設置されている。
 彼女達が住むこのマンションは、日々エントランスに待機しているコンシェルジュ達によって守られているが、そんな彼らの目を欺く犯罪が発生した場合を考え、住人達が住む部屋にも厳重な警備システムが備わっているのだ。
 このマンションの一ヶ月の家賃金額を初めて聞いた時、想像以上の額に響子は自身の耳を疑った。
 以前、何故そんな家賃を払い続けてまで、ここに住んでいるのかと響子は大樹に問いかけた事がある。
 妻の問いに、コンシェルジュ達の人柄の良さが気に入っている事も理由の一つだが、ここの防犯設備は他より優れているのだと彼は言った。
 マンションのすぐ近くには警備会社の支店がある。そのため、何かあればすぐに警備員が駆けつけてくれる。雇われているコンシェルジュ達も、皆武道の経験者ばかりだ。
 ついこの前まで一般的なマンションに住んでいた響子にとって、ここのマンション設備にはまだまだ驚かされる事が多い。
 住み始めて一年以上経った今でも、彼女はマンション設備を完璧に把握し使いこなす事が出来ずにいる。
 今までの人生で、モニター付きのインターフォンなど使用した事の無い彼女は、未だにこれまでの癖で来訪者を確認せず玄関ドアを開けてしまう事が多々あるのだ。
「豊君が、大樹さんが帰ってきたって教えてくれたから……」
 工藤からの電話があり夫を出迎えるために急いで玄関のドアを開けた。
 自分を心配する大樹の気持ちが理解出来ないわけでは無い。しかし、夫から怒られている気がしてしまい、響子は拗ねた様子で顔を逸らす。
「拗ねても可愛いだけなんだけどなー。えーっと……ところで響子ちゃん、お風呂ってもう入っちゃった?」
 自分の言葉に拗ねる妻の様子に一瞬頬を緩め、ポツリと独り言を呟く大樹。しかし、彼は頭を横に振りすぐに気持ちを切り替えると、入浴を済ませたかと響子へ問いかけた。
「……入れるわけないじゃないですか。私だってついさっき帰ってきたのに」
 そっぽを向いたまま、ポツリとまだ入浴していない事を呟く響子。
 そんな妻の言葉を聞いた瞬間、大樹は無言で口元に小さな笑みを浮かべた。



 何故こんな状況になっているのだろう。響子は先程から自分の中にある疑問の答えを探し続けていた。
『それじゃ……お風呂入ろうか、一緒に』
 満面の笑みを浮かべ、共にお風呂に入ろうと誘った夫の姿を思い出す。
 あれから十数分。現在、響子は大樹と共に、湯船に浸かり身体を温めている。
 互いの裸など、既に何度も目にしているが、やはり明るい浴室内では恥ずかしいと、彼女は湯船の隅で体育座りの体勢で体を小さくしていた。
 やはり家賃の高いマンションというだけあって、浴室は広く、浴槽も大人二人が入ってもまだ余裕がある程大きい。
 ここに越してきた頃、響子は、こんな大きな風呂にゆっくり入れる事に嬉しさを感じていた。今もその気持ちに変わりは無い。
 しかし、大樹と共に入浴するとなれば話は別だ。浴槽に重量制限でもあれば二人で入る事を回避出来るのに、などと非現実的な願いをしたくなる。
「あー、気持ちいい……」
 浴槽の中に足を投げ出し、入浴剤入りの湯を満喫している夫の様子を窺いながら、響子は工藤から掛かってきた電話内容を思い出していた。
『パッと見いつも通りに見えるけど、なんか怒ってる、みたいな』
 あの電話の内容からすれば、大樹は何かに怒りを感じているらしい。しかし、今目の前に居る彼の様子を見る限り、特に怒っているようには見えないと、響子は不思議そうに首を傾げる。
「そんな隅っこにいないで、響子ちゃんもこっちおいで」
 あれはもしかして工藤の勘違いだったのではないか。そんな事を思っていると、不意に夫が手招きをしながら自分を呼ぶ姿が目に入った。
「わ、私はここで十分ですから。大樹さんは、いっぱい動いたから疲れてるだろうし、のんびりしててください」
 大樹の傍へ行ったら、即彼の腕に捕まり逃げる事が出来なくなる。これまでの経験で、夫が自分を抱きしめる回数が多い事を知っている響子は、慌てて首を横に振った。
 普段のスキンシップくらいなら平気になってきたが、互いに生まれたままの姿で抱きしめらる事に、彼女は未だ慣れていない。
 ベッドの上でなら幾度となく裸のまま抱きしめあった事はある。あの時は羞恥心よりも、夫を求める己の欲が勝っている状況のため、現状とは別問題だと響子は考えた。
 普段は優しく微笑む大樹の瞳が、ベッドの上では熱を帯び艶めかしく自分を見下ろしている。
 その視線を感じる度に、最初は恥ずかしいと抵抗するものの、響子の身体は徐々に熱くなり、自らも大樹を求め始める。そして最終的には彼のすべてを受け入れてしまうのだ。
 普段の優しさを残しながらも、彼の口から発せられる言葉は意地の悪いものへと変わり、熱に浮かされた響子を翻弄する。
 今まで夫の前で晒した数々の自分の醜態を思い出し、恥ずかしさのあまり響子の顔はどんどん熱を帯び赤くなっていった。
「わ、私先に身体洗っちゃいますね!」
 このまま湯船に入っていてはのぼせてしまう。そう判断した響子は、一先ず湯船から出ようと、浴槽の縁に手を掛けた。
「あ、そうだ! 今日は俺が体洗ってあげるー」
 体に力を入れ立ち上がろうとした瞬間、不意に聞こえた夫の言葉に彼女の思考は数秒間停止した。



 何故今日に限って、こんな羞恥プレイのような状況に陥っているのだ。響子は、夫に対し強く言い返せない自分の状況に頭を抱えたくなった。
「ふーん、ふふーん」
 洗い場の椅子に腰かけ、タオルを当てて胸を隠し、膝を抱えたまま夫に背中を向け全裸で座っている自分。
 その背後で、腰にタオルを巻き、何故か楽しそうに鼻歌を歌いながらボディーソープを準備する大樹。
 今まで、二人一緒に風呂に入った事は何度かある。しかし、今日のように大樹の口から体を洗ってあげるなどと言われた事は無い。
 初めての状況に、響子の脳内は軽くパニックを起こしていた。
 もちろん響子自身、一人で洗えるから大丈夫だと大樹の言葉に即首を横に振った。しかし、それを何度繰り返しても、大樹は頑なに自分が妻の体を洗うと言って引かなかった。
 今日の大樹はいつにも増して強引な気がするのは気のせいだろうか。そんな事を思ってしまう。
「よし、準備オッケー。それじゃ響子ちゃん、背中から洗うね」
 現状に対する何か効果的な策は無いのかと頭を悩ます響子の耳に、準備が出来たという大樹の声が届く。
「は、はい……わかりまし……ひゃっ!」
 響子はその言葉に、緊張と戸惑いの感情を無意識に乗せた声で返事をした。
 すると、返事をした瞬間、突然背中をぬるりと温かい何かが撫でた感覚に、響子は反射的に声を上げる。
「だ、大樹さんっ! 一体何やって……えっ?」
 響子はすぐに後ろを振り向き、夫に向かって声を上げる。しかし、視線の先にあるものに、彼女は戸惑い首を傾げた。
「何って、響子ちゃんの背中洗ったんだよ?」
「タオル使ってないじゃないですか。体を洗うタオルならあそこにありますから」
 何故か両手を泡だらけにしたまま、背後に居る夫。その姿を目にした響子は、いつも自分が体を洗う時に使っているタオルの場所を慌てて指差す。彼女の指差した先には、浴室の壁に吸盤で取り付けたフックに掛かったままのタオルが、自身を主張していた。
「それは解ってるけど、俺があのタオル使って響子ちゃんの体擦ったら、絶対痛いだろうなーって。だから、今日はタオルは使いません。ほらほら、前向いて前向いて」
 泡まみれの両手で響子の肩を掴み、前を向けと大樹は指示を出す。
 どこか納得できないまま、大人しく前を向く響子。そんな彼女の視線の先には、浴室に取り付けられた鏡に映る自分の姿があった。
 口をへの字に曲げ不満そうな様子の自分、そしてその背後からひょっこりと顔を覗かせる夫。鏡に映った姿に妙な恥ずかしさを覚え、響子は慌てて視線を逸らした。
「今日はいっぱい動いて疲れたねー。来年の親睦会は、是非運動系以外のものにしてほしいな。もう少し時期を早めてお花見なんていいね。あー……でも、入社して即お花見ってのも、新人には大変かな」
「……っ……んっ」
 響子の背後から、大樹はボディーソープをつけ泡立てた自身の両手を目の前にある妻の背中へ優しく滑らす。上下左右、背中全体へまるで泡を塗り込むような手つきだ。
 そんな夫の言葉に返答しようにも、背中を撫でる手から伝わる感覚が妙にくすぐったい。響子は、僅かに身を捩りながら、早く終わってくれと願うのみ。
「借り人競争の時は響子ちゃん吃驚したでしょ? あの企画を最初に聞いた時、俺も誠司も吃驚したんだ。でも、面白そうだし、ずっとバレーとバスケばっかりじゃ飽きるかなって思ってオッケーにしたんだよ」
 背中を這う大樹の大きくてあたたかい手。妻の肌を傷つけまいと、優しげな手つきで動くそれが与えるものは、響子にとって甘い拷問だった。
 最初はくすぐったさに身を捩っていた響子。しかし、次第に夫の手は、背中から肩、腕へと移動しいき、その手つきは明らかに体を洗う目的とは違うものになっていく。
 泡にまみれた夫の両手が、厭らしく己の体に触れていく。
 これは大樹の好意だ。大樹は良かれと思って体を洗ってくれているんだ。
 そう何度も自分自身に言い聞かせていた響子だったが、湯船から立ち上る湯気が充満する浴室で感じる暑さとは明らかに違う熱さを、彼女は自身の身体の奥から感じ始めていた。
「っ、は……や、め……大樹さ……あぁっ!」
 気を抜けば口から零れ落ちてしまいそうになる吐息を必死に我慢する響子。
 そんな妻の気持ちを知ってか知らずか、大樹は泡で濡れた手を彼女の体の前へと回す。そして、震えに揺れる胸の中心、響子の熱に反応し、ぷっくりと赤く膨れ上がった頂を指で挟み、僅かな力を込めて抓った。
 突然身体に感じた痛みに、響子は思わず声を上げ身体を弓なりに反らす。
 その瞬間を逃すまいと、大樹は空いている方の腕を妻の腹部に回した。そのまま腕に力を入れ、響子の身体を自分の方へ引き寄せる。
 そして、浴室用の椅子に座っていた響子は、そのまま大樹に抱き寄せられ椅子から強引にずり下ろされる。
「きゃっ!」
 突然の衝撃に彼女は軽く悲鳴を上げたが、身体への衝撃や痛みは無かった。
 彼女が感じたのは、腹部に回された腕と、背中に密着する自分よりも大きな胸板の熱さ。
 視線を正面へ向ければ、湯気のせいですっかり曇ってしまった鏡が目に入る。
 響子の様子に気付いた大樹は、クスリと彼女の頭上で小さく笑い、悪戯に胸の頂を弄っていた手を離すと、その掌を曇った鏡へ滑らせた。
 大樹の手が触れた部分の曇りはあっさりと取れ、そこに映るのは、すっぽりと夫の腕の中に閉じ込められた妻の姿。
「体洗ってるだけなのに……顔、真っ赤だよ? 響子ちゃんのエッチ」
「……っ! ち、ちがっ……ひゃ、ん……んんっ!」
 耳元に顔を近付け、大樹は妻の羞恥心を煽る言葉を囁く。その囁きに、真っ赤な顔で違うと否定する響子だが、自身の耳を舐め刺激する大樹の舌が与える快感に、最後まで言葉を紡ぐことは出来なかった。
 耳の輪郭をなぞるように丁寧に這い回る舌。舌先は耳の中へ入り込み、動く度に厭らしい水音がダイレクトに響子の聴覚を刺激する。そして、妻の耳をパクリと口に含み、時折甘く歯を立てる。
 その間、響子を拘束する腕が解かれる事は無く、もう片方の手は、彼女の乳房を揉みしだき、頂を抓み愛撫する。
 大樹が響子を初めて抱いてから既に数ヶ月。響子の身体は、夫から与えられる愛撫に敏感に反応するようになっていた。
 それだけでは無く、大樹自身も、どんな事をすれば妻がより快感に溺れやすくなるかを理解し始めている。響子が耳への刺激に弱い事も知っている。
 腹部に回された夫の腕を力無く掴む彼女の両手は、与えられる快感に震えるばかり。最初は突然の事に強張っていた体も、今ではすっかり力が抜けてしまい、大樹の胸に体重を預けるように寄りかかっている。
「だい、きさ……やめっ……やっ、はぁ」
 徐々に減っていく己の中の理性を総動員し、止めてほしいと大樹へ訴える。
 しかし、場所が悪い。浴室で求められた事など今まで無かった。
 初めての事に戸惑うだけでは無く、まるでエコーのように声が響く浴室内にいるせいで、自身の喘ぎ声がいつにも増して耳につく。
 戸惑いを感じる反面、体の奥から発する熱、そして太腿を伝う愛液、響子は自分が本能的に大樹を求めている事に気付いていた。
「大樹、……っ」
 もうこのまま理性も何もかも捨てて本能に従えば楽になれるのだろうか。
 今まで耳を執拗に愛撫していた夫の舌が、今度は首筋を舐め始める。
『もう、声我慢しなくていいんだよ? 響子ちゃんが気持ちよくなってる声、俺聞きたいな』
『んっ……ん、んん。ねぇ、ここ……吸っても吸っても、溢れてくるんだけど……どうしてかな?』
 思い出すのは、いつも自分を翻弄する大樹の声と、意地悪な笑み。もういっその事、恥ずかしさなど忘れて、快楽に溺れ、喘ぎ、夫の熱を求めたい。
 大樹を抱きしめたい。何度も何度も口付けたい。もっと大樹が欲しい。
 理性と本能の割合が逆転し、浅い呼吸を繰り返しながら、響子は夫の唇を求め、顔を横へ向ける。
 その時、ふと彼女はある事を思った。
 不思議だ。いつもは決まってベッドの上で求めてくる夫が、何故こんな浴室で自分を求めたのか。
 いつもは互いの顔が見えるように向き合い何度もキスをするのに、今日は背後から自分を抱きしめキスをしてくれない。
 そして、聞いているこちらが恥ずかしくなるほど、恥ずかしい言葉や甘い言葉を口にする夫が、今日はあまり口を開いていない。
「…………」
「…………」
 横を向いた響子の視線は、妻の首元に埋めていた顔を上げた大樹の視線と交わる。
『パッと見いつも通りに見えるけど、なんか怒ってる、みたいな』
 不意に脳内で再生されたのは、工藤から伝えられた言葉。
 あれは、嘘ではなかったんだ。響子はこの時、初めて工藤が言っていた言葉の意味を理解した。
 怒りに揺らぐ視線、そして優しさを感じる事が難しい声色。
「ねぇ……何であの時、走ったの?」
 大樹の怒りを感じ取った瞬間、響子の熱は一気に冷めた。
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