契約書は婚姻届

7.夫の心、妻知らず

 時は現在へ戻り、借り人競争の真っ最中。
 大樹も誠司も自分の出番が終わったため、体育館内であまり人気の無い場所へ移動し、競技が終わるのを待っていた。
「…………」
「大樹、頼むから無言で封筒が入った袋を睨み付けるな。さっきから係の奴が、お前の視線気にしてこっち見てる」
 このまま大人しく二人でレースを見守る事が出来ればいい。そんな自分の願いなど、早々に叶わないという事を、誠司はすぐに思い知らされる。
 自分達の出番が終わってからずっと、レース毎にレーンに置くお題入り封筒が入った袋を、大樹は見つめ続けている。否、睨み続けている。
 その視線に含まれる何かを肌で感じ取っているのか、先程から封筒をレーンに置く係りの社員は、何度も大樹と誠司の居る方を振り返り、二人の様子を気にしていた。
 大樹が周りの様子も気にせず、そんな行動をしている理由。その理由が簡単に推測出来てしまう自身の思考回路に、誠司は溜息を吐きたくなった。
「響子ちゃんの封筒出るな、響子ちゃんの封筒出るな……」
 まるで呪文でも唱え、念を送るかのように、大樹は同じ言葉をボソボソと呟き続ける。
 自分にも、そして友人である誠司にも、響子の名前が書かれたお題が出る事は無かった。こうなったら、後は問題の封筒がレーンに置かれないよう祈るしかない。
「おーっと、皆お題の封筒を手に取ったのはほぼ同時! さぁ、封筒の中にはどんなお題が入っているのかー!」
 体育館内に響き渡る男性社員の実況アナウンス。そんなもの、今の大樹の耳には届かなかった。
 彼の脳内は今、妻の名が書かれたお題が出ないよう祈る事しか考えていない。
 交流会運営委員を務める社員達が勝手に考え実行したサプライズ。それは大樹にとっても、そして誠司にとっても衝撃的なものだった。
 昼休憩を終え、即座に二人が向かったのは、運営委員達が待機している場所。そこで二人は、借り人競争のサプライズを中止した方がいいと訴えた。
 球技大会の箸休め的な企画である借り人競争。競技の企画自体かなり緩く、面白半分で考えたお題も多いため、サプライズを実行しても何の問題も無い。
 このサプライズは大々的に発表するものでは無いし、レース走者へのちょっとしたご褒美企画なのだと、運営委員を務める社員は皆、大樹達の意見に苦笑するばかりだった。
 社長達は大袈裟に考えすぎだ。楽しみにしている者も多いし、ちょっとしたお遊び企画だから心配無い。
 笑顔で大丈夫だと主張する社員達の言葉に、結果として大樹達が折れる方法しか道は残されていなかった。
 多勢に無勢とは、まさにこのような状況だ。そう痛感しながら、隣で未だに呟きを止めない友人を気にしつつ、誠司も心の中でサプライズのお題が出ない事を祈りレースを見守る。
 現在レースに参加しているのは、皆若手の男性社員ばかり。次は一体誰が借り人として選ばれるのかと、社員達は興味津々だ。
 それから十数秒後、一人、また一人と、お題に合う人物を見つけ、参加者が体育館中央へ戻り始める。
 このまま何事も無く借り人競争が終わって欲しい。それが大樹と誠司、二人の願いだった。
「……あっ」
 その時、不意に誠司が声を上げる。隣から聞こえた友人の声に、今までお題入り封筒の入った袋を睨み付けていた大樹の視線が袋から逸れた。
「…………」
「はーい、ストップストップ」
 次の瞬間、無言でその場から動こうとする大樹の腕を、誠司は咄嗟に掴んだ。そして、小さな声で何度もストップと友人を静止する。
 腕を掴まれ行動を阻止された大樹は、何をするんだと言わんばかりに誠司へ厳しい視線を向けた。しかし、すぐにある人物の姿を追い求め、その視線を友人から体育館中央へ向けられる。
 体育館中央では、借り人競争の競技が行われている真っ最中だ。
 そんな中、大樹の視線の先に居る人物。それは、自分以外の男と手を繋ぎ走る響子の姿。
 この瞬間、彼の脳はいつになく活発に働き始めた。まるで立て続けに舞い込んでくる仕事に対応している時の様だ。
 そもそも、視線の先で男と手を繋いでいるのは本当に響子なのか。響子と手を繋いでいる男は誰だ。志保に伝言を頼んだはずなのに、何故彼女はこんな事をしているのか。
 脳の思考回路をフル回転させ、次々と生まれる疑問の答えを大樹は懸命に探し求める。しかし、いくら考えても、彼が求める答えが見つかる事は無い。
 自分は今、一体どんな行動をすればいい。どう行動すれば一番ベストなんだ。誠司に動きを封じられたまま、大樹は必死に考え込む。
「……なっ!? こ、これは凄い!」
 その時、突如聞こえた声に反応し、大樹達は体育館中央へ視線を向けた。実況アナウンスのあまりにも驚いた様子に、大樹の思考は一気に現実へ引き戻される。
「え? ……っ!」
「うわー……」
 二人が目にした光景。それは、彼らの思考を一時停止させるには十分すぎるものだった。
「三番目に戻ってきたのは、営業部の池田君! この競技は、走者とお題に選ばれた方が手を繋いで走るものとばかり思っていたが……まさかのお姫様抱っこだー!」
 実況する男性社員の発した『お姫様抱っこ』という単語に、体育館内に居る社員達が一気に盛り上がりを見せる。
 大樹と誠司の二人が、同時に自分の目を疑った光景。それは、池田と呼ばれる男性社員に抱えられた響子の姿だった。
 顔を真っ赤に染め、自分を抱えて走る男に対し、必死に何かを訴えている様子の響子。しかし、大樹達の居る場所からでは、彼女が何を訴えているのかまでは理解出来ない。
 響子を抱き抱え走る男の姿を目にし、しばし言葉を失っていた二人だが、先に我に返ったのは誠司だった。そして彼は、自分の真横から感じる禍々しいオーラに気付く。
「だ、大樹……大丈夫、か?」
「…………」
 恐る恐る誠司が視線を向けた先に居たのは、怒りに身を震わせ、凄まじい形相で妻を抱え走る男を睨み付ける友人だった。
 これは不味いと感じた誠司は、掴んでいた友人の腕を握る力を強める。
 本当は、大樹が走り出さないように背後から押え込みたい所だが、そんな事をしては周囲から注目されてしまうため、今はこれが精いっぱいだ。
 しかし、そんな誠司の思いなど知らぬとばかりに、大樹はその場から走り出そうとする。そんな事はさせられないと、誠司は大樹の腕を握る力を更に強めた。
「誠司……離せ、行かせろ」
「誰が行かせるか。馬鹿」
 すぐにでも二人の元へ駆け寄り、あの男を殴り飛ばしてでも響子を救出したい。気持ちばかり焦る大樹だが、友人に掴まっているためその場を動く事が出来ない。
 平静を装い、借り人競争を観戦する誠司。
 しかし、彼の右手はしっかりと隣に居る男の左腕を掴み、離そうとしない。
 普段まったくと言っていい程運動をしていない大樹とは対照的に、小学校から高校までずっとバスケ部に所属していた誠司。しかも彼は、社会人になった後も、時間を見つけてジム通いを続けている。
 細身の体に似合わぬ握力で、大樹の暴走を押え込もうと、彼は友人の腕を力いっぱい握りしめた。
「……っ! ……は、な……せーっ!」
「今離したら、お前明らかにあそこに突っ込んでくだろ。自分から暴露するようなもんだぞ」
 大樹は、掴まれた腕を上下に激しく振り、拘束を振りほどこうとするも、掴まれた腕は簡単には解放されない。
 その様子に一瞬ちらりと視線を向けた誠司だったが、すぐに体育館中央へ視線を戻し、平然と競技を観戦しつつ、独り言でも呟いているよう装い友人を制止する。
「暴露でも何でもいい! 俺は今すぐ響子ちゃんを助ける!」
 まるで、愛する人が悪魔に捕まったと言わんばかりの必死さを見せる大樹。その様子に、誠司は呆れ果てるしかなかった。
「球技大会をめちゃくちゃにしていい。責任は全部自分が取るって言うなら……この手、離そうか?」
「おう、離してくれ」
「でも響子さん、今日のこの会楽しんでるんだろうしなー。お前が試合する姿楽しみにしてるんだろうなー」
「うっ……うぐっ」
 独り言のように見せかけ、あからさまに大樹を責める言葉の数々。それを耳にした瞬間、今まで威勢の良かった大樹の顔に、躊躇いの感情が現れる。
「お前の身勝手な行動で、秘密はバレるし、球技大会も台無し……響子さん悲しむよなー」
「うぐぐ……」
 自身の中にある、優先順位不動の一位を誇る妻の話題を持ち出されては、大樹も己の感情に任せ暴走する事は出来ない。
 本能に従うべきか、理性を総動員してここは我慢をするべきか。目の前に突き付けられた究極の二択に、しばらくの間、大樹はその場で頭を抱え悩み続けるのだった。



「ん? よし、今のレースは終わったな。これで一先ず安心だ。それにしても……さっきの、池田だったか……とんでもない事してくれたな」
 己の嫉妬心と理性の狭間で彷徨い続ける友人を尻目に、誠司は小さな声で呟き、大きく溜息を吐く。
 それと同じ頃、大樹と誠司が居る場所から少し離れた所で、運営メンバー達は二人の様子を窺いつつ何やらこそこそと話し合いをしていた。
「……先輩、あの二人……怒ってます、よね?」
「ありゃ怒ってるな、確実に。副社長なんて、今にも飛び出しそうな勢いだったぞ」
 運営委員長という大役を担っている佐野だが、己の視線の先で繰り広げられる光景に不安を感じ、思わず同じ部署の先輩であり、同じく運営委員をしている男性社員に話し掛ける。
「お、俺……さっき封筒準備してたら、浅生副社長に凄い睨まれて……こ、怖かったっす」
「ちょっと、何泣いてるの。男でしょ!」
 借り人競争用の封筒を準備していた別の社員は、大樹に睨まれたと涙目になっていた。そんな彼の背をポンポンと叩き、運営委員の女性社員が励ましている。
「来年からの交流会。……あんまりふざけ過ぎた企画出すなって、過去の企画一覧ファイルに注意書きしといた方がいい、かな?」
 不意に佐野の口から零れた言葉に、その場に居た全員が大きく頷く。
 社員交流球技大会終了後、これまでの交流会企画のすべてが記録されたファイルの表紙裏に『社長と副社長が怒るので、ふざけ過ぎた企画禁止』と、赤マジックで大きく注意書きが書かれた紙が貼られる事となった。



 球技大会すべてのプログラムが終了し、参加した社員達は午後五時過ぎに現地解散となった。
「あー……疲れた」
 響子は、友人である志保の車に乗せてもらい、夫より一足早く帰宅した。
 自宅のあるマンションに戻った響子は、玄関で靴を脱ぎ、キッチンへ直行する。そして、水切り籠に入っていたグラスを手に取り、その中に水道水を注ぐと一気に飲み干す。
 空になったグラスを洗い、再び水切り籠の中へ戻した彼女は、ふとダイニングルームの壁掛け時計へ視線を向けた。
「六時、か。……大樹さん、何時頃帰ってくるんだろう」
 現在の時刻は午後六時。きっと、大樹はまだ体育館に残り、後片付けを手伝っているのだろう。
 副社長という立場なら、そこは運営委員や他の社員に任せればいいのだが、大樹や誠司の性格上、そんな事は出来ないはずだと考え、響子の口元から思わず笑いが零れる。
 しかし、現状のまま、大樹がいつ帰宅するかが分からない状況が続くのは非常に不味い。
 夕食を準備するタイミング、そして疲れて帰ってきた夫がすぐにお風呂に入れるように浴槽に湯を張るタイミング。
 大樹の正確な帰宅時間が分からないため、夕食とお風呂の準備をいつ始めたらいいものか悩んでしまう。
 正直、今すぐ風呂に入り、球技大会でかいた汗を流し、メイクを落としてしまいたいという響子自身の願望もある。しかし、自分が湯船の中でのんびりしている間に夫が帰ってきては大変だ。
「んー……ん?」
 どうしたものかと悩んでいると、不意にリビングに置いてある電話の着信音が響子の耳に届いた。
 電話に気付いた彼女は、小走りでリビングへ向かい、ソファーの上に持っていたバッグを置くと、着信音が鳴り続ける固定電話の受話器を取り耳に当てた。
「はい、もしもし」
『あ、響子様ですか?』
 受話器から聞こえたのは、このマンションでコンシェルジュをしている工藤の声だった。
 コンシェルジュから固定電話に電話が掛かってくる理由は、大体二つのパターンに分類される。
 一つ目は住人が在宅時、宅配などの荷物が届いた場合の連絡。二つ目は来客があった場合の確認だ。
 これ以外にも、何か緊急の連絡があった場合に電話が掛かってくる事があるらしいが、それは珍しい事だと大樹が以前教えてくれた事を思い出す。
 今日は荷物が届く予定も、来客の予定も無いはずだ。それなのに、何故工藤は電話を掛けてきたのだろう。
 突然の電話を不思議に思い、響子は首を傾げそうになる。
『響子様、あの……今日、浅生様と喧嘩しました?』
「……え? いや……喧嘩はしてない、けど。一体どうしたの?」
 何かあったのかと電話の向こうに居る工藤に尋ねようとした瞬間、突然受話器から聞こえた焦りを含んだ問いかけに、響子は一瞬反応が遅れてしまった。
 しかし、すぐに冷静さを取り戻し、何かあったのかと電話の向こうに居る工藤へ問いかける。
『今、浅生様が帰ってきて、エレベーターに乗ったんです。その……ここを通った時の様子に違和感があって。パッと見いつも通りに見えるけど、なんか怒ってる、みたいな。そんな雰囲気が……』
『工藤っ! お前、勝手に電話を使って何を!』
『うわっ! 木村さん、トイレから戻ってくるの早すぎっ! と、とにかく響子様、えっと、えーっと……気を付けて!』
 気を付けてと言った次の瞬間、工藤から掛かってきた電話は切れてしまった。
『パッと見いつも通りに見えるけど、なんか怒ってる、みたいな』
 既に通話が切れた受話器を持ったまま、響子は工藤が言っていた言葉を思い返す。
 突然夫が怒っているようだと言われても、その理由にまったく心当たりがない。自分は何か大樹を怒らせるような事をしただろうか。
 それからわずか数秒後、受話器を手に持ち首を傾げる響子の耳に、夫の帰宅を知らせるチャイムが聞こえた。
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