契約書は婚姻届

6.男達のランチタイム

 借り人競争が始まる少し前、昼休憩の時間も残り十五分を切った頃まで話は遡る。
「あー……何でこんな日まで、一緒に昼飯食う相手がお前なのかな。しかも場所が更衣室って」
「…………」
 大樹と誠司は、他の社員が昼食を食べている体育館から少し離れた男子更衣室内で食事を摂っていた。
 昼休憩くらいはゆっくりしたいという両者の希望により、どこか静かな場所は無いかと探し回った結果、辿り着いたのがこの更衣室。
 普段この体育館で働く職員用の休憩室や個室のような場所を、食事時間だけ借りる事は出来ないかと、誠司はこの日唯一出勤していた職員に訊ねてみた。
 しかし、普段体育館で働く人間以外出入りしない場所を、他人に貸す事は出来ないと断られてしまった。
 だからと言って、今から多くの社員達が居るあの場所へ戻りたくは無いと、二人は必死に自分達が食事をするスペースを探し求め、館内を歩き回った。
 その結果、ようやく食事場所として確保出来たのが、男子更衣室の中というわけだ。
 昼休憩時間も残り僅かとなり、昼食を食べ終えた二人はそれぞれ好きに寛いでいる。
 大樹は、ベンチの上にうつ伏せになり、寝そべるような恰好のまま、現状に対しての文句をタラタラと零し続ける。
 そして誠司は、その向かい側のベンチに座り、先程自動販売機で買ってきた缶コーヒーを無表情で飲んでいる。目の前に居る男の言葉など、彼は完全に無視していた。
「響子ちゃんのお弁当美味しいのに。響子ちゃんと食べたらもっと美味しかっただろうなー。何でこんな男の汗臭い場所で、誠司と顔突き合わせて食べなきゃいけないのかなー」
「……っ、ふー」
 まるで、誠司が悪いと地味に責めるような大樹の口調。今までその独り言を受け流していた誠司だったが、彼の眉がピクリと僅かに反応した。
 しかし次の瞬間、誠司は大きく息を吐き出し、その後何度か深呼吸を繰り返しながら昂った気持ちを落ち着かせる。
 ここで感情のままに怒っては駄目だ。どうせ怒ったとしても自分にとって良い結末は待っていないだろう。
『ちょっとした冗談でしょー? 何本気で怒っちゃってるのさー』
 盛大な溜息を吐きながら首を横に振る友人の姿を思い浮かべてしまい、自分の中にある怒りが更に湧き上がっていくのがわかる。
 このままでは駄目だと思った誠司は、最終手段として、ヘラヘラと笑みを浮かべている大樹の顔面を脳内で何度も殴りつけ、己のストレスを発散させた。
「つまーんなーいなー」
 自身を落ち着かせるために落としていた視線を上げた誠司が見たものは、唇を尖らせ、まるで小学生の子供のように、だらしなくベンチの上に寝そべっている成人男性の姿。
 だったら今すぐ最愛の妻の元に飛んでいって、全社員の前で結婚している事を言いふらして来い!
 感情任せの言葉が口から飛び出しそうになるのを、誠司は咄嗟に口元に手を当て抑えた。
 そんな事を自分が口にしても、目の前に居る男の気持ちを代弁するだけだと理解しているからだ。
 大樹自身、一分、一秒でも早く、自分と響子は結婚しているのだと宣言したいのだろう。しかし、そう思いながら彼が行動を起こさない理由は、すべて愛する妻のため。
 今の仕事は嫌いでは無い。出来るなら、まだ仕事を続けたい。そんな妻の願いを叶えるため、現在進行形で大樹は自分の中に熱い想いを秘めている。
 散々自分の情けない姿を晒し続けている妻を相手に、自分の想いを隠し相手の願いを優先するという小さな見栄にも似た行動を取る大樹。
 それが、誰か一人を心の底から欲し愛する事なのだろうかと、誠司はだらしない友人の姿を見つめ、僅かに首を傾げる。
 誠司自身、今まで恋人が居なかったわけではない。歳に不足は無い恋愛をしてきたという自覚はある。
 しかし、今目の前に居る男のように、誰か一人を長年思い続け、想い人のために尽くそうとしてきたか、自分の中にあるすべての愛や情熱を相手に向けていたかと問われれば、彼は首を横に振るしか無いだろう。
 ことごとく、大樹は誠司に無いものを持っている。無意識にそんな彼に憧れるからこそ、自分とは正反対のタイプである彼と長年友人関係を続けているのだろうか。
 否、ただ単にこの男が変な心配ばかり掛けるから目が離せないだけだ。誠司は、そう心の中で呟き、自嘲するような薄笑いを浮かべる。
 その時だった。勢いよく男子更衣室のドアが開く音と共に、誰かが室内へ駆け込んでくる足音が、大樹と誠司、二人の耳に届く。
「……あぁ! こんな所に居たんですか。俺すっごい探したんですよ!」
 その足音は数秒間室内を走り回り、一番奥に居た大樹達の目の前で止まった。それと同時に、今度は普通の声量より大きな男の声が、二人の耳を刺激する。
「んー? あー、佐野さのちゃんだ。どうしたのよ、そんなに息切らしちゃって」
 今までベンチの上で顔を伏せていた大樹は、突然聞こえた第三者の声に反応し、顔を上げると共に上半身を起こす。しかし、ベンチから起き上がる気は無いようだ。
 突然更衣室内へ飛び込んできた人物。彼の名は佐野さの篤志あつしと言い、普段は商品企画部で働いている社員だ。そして彼は今回、この社員交流球技大会の運営委員長を務めている。
 交流会の運営委員長という立場のため、大樹や誠司達と接する機会も最近は多く、佐野は他の社員達よりも二人に懐いていた。
「どうしたんだ佐野。何か問題でも起きたか?」
 交流会当日、しかも昼休憩中にも関わらず、息を切らしながら走り回り、大樹と誠司を探していたという佐野の言葉に、誠司は何か問題が発生したのかと顔色を曇らせる。
「あ、いや……問題は起きてないです。順調すぎて怖いくらいです」
「うんうん、順調なのはわかったから。別に怖くないからねー」
 眼鏡のフレームを直す誠司の姿に、思わず姿勢を正す佐野。そんな彼の発言に対し、大樹は暢気な態度を崩さず、やんわりと注意する。
「……はぁ。だったら何だと言うんだ。そんなに慌てるような事なのか?」
「えっと、その……この資料、お渡しするの忘れてました。すみません!」
 溜息を吐く誠司の様子を目にした瞬間、慌てた様子で佐野は自身が持っていた二つの紙束を大樹達の前に差し出し、勢いよく頭を下げ謝罪した。



 その後、会社の部下であり、この交流会の運営委員長を務める佐野から手渡された紙束を、大樹と誠司はしばしの間無言でチェックし続けた。
「この後、借り人競争をやるじゃないですか。その時に使うお題選ぶのに凄い時間かかっちゃって。昨日ようやく、お題の紙も封筒も全部準備し終わったんですけど……担当の奴が、お題の一覧表提出するの忘れてたって慌てて持ってきたんです」
 遅くなってすみません、と二人の前に現れた理由を説明し、佐野は頭を下げる。そんな彼の姿を一瞬だけ視界に入れたものの、大樹達は無言のまま、お題が書かれた一覧表へ視線を戻した。
「……っ」
 ぼんやりと一覧に書かれたお題を眺めていた大樹の視線が、ある一文を目にした瞬間ピタリと止まる。
「大樹、男子の方も見せろ」
 大樹が男子社員に出されるお題を確認していると、女子社員に出されるお題を確認していた誠司が、男性用のお題も見せろと空いている手を差し出した。
「……ん」
 その手の上に、大樹は自分が持っていた紙束を乗せる。そして、今までうつ伏せのまま寝転がっていたベンチの上に座り直し、両腕を大きく頭上へ振り上げ、凝り固まった筋肉を伸ばし始めた。
「ねえ、佐野ちゃん。一つ質問してもいい?」
「は、はい! なんですか?」
 身体の筋肉を解しながら、大樹は不意に、佐野へ質問してもよいかと問いかける。佐野は即首を縦に振り、上司である大樹からの質問に答えられるよう心構えをした。
「色んなお題があっていいと思うんだけど。なんできょ……じゃなかった。なんで、所々に女子社員の名前がフルネームで載ってるの?」
「……女子社員だけじゃない。男達の名前も何人か載ってる。しかも何だ、名前の隣に書いてある番号は」
 大樹達が揃って首を傾げる点。それは、普通のお題に混じり明記されている、社員数人の名前だった。
 営業部の男性社員、自分が所属する部署の上司など、様々なお題が並んでいる中に点々と載っている社員個人のフルネーム。大樹と誠司からすれば明らかに不自然なその存在が、二人が首を傾げる原因となっていた。
「あぁ。それはお題作った人達のサプライズらしいです。何でも、社員達の一部で人気アンケートを取ったらしくて。男女それぞれ、異性に人気の社員上位十人の名前を入れておいたって」
「……はぁ、何故そんな馬鹿げた事を。それじゃ、女子社員用のお題に俺の名前があって、しかも横に三と書いてあるのは……」
「それは多分、社長が女子社員からの人気で三位って事じゃないですか? 結構女子社員から人気あるんですよ、社長」
 凄いですね、と何の悪気も無く笑顔で誠司の疑問に答える佐野。そんな彼の様子に誠司は頭を抱え、大樹はベンチから立ち上がると、友人の背後へまわり込み女子社員用のお題一覧表を覗き込む。
「俺の名前あ……」
「ない」
 お題の中に紛れた人気社員の名前の中に、自分の名はあるかと尋ねる大樹の問いを、遠慮無くばっさり否定の言葉で切り捨てる誠司。
「しゃ、社長! それは言い過ぎです。あぁっ! 浅生さん、戻って来てください! 俺、浅生さんの事凄いかっこいいって思ってますから!」
「男のお前に言われても、そいつは別に喜ばないんじゃないか?」
 友人の遠慮無い否定が相当ダメージを与えたらしく、大樹はその場から一歩も動かず、まるで魂が抜けてしまった人形のように無言で佇んでいた。
 そんな彼の姿に佐野は酷く慌て、なんとか大樹を正気に戻そうと必死に声を掛け続ける。そんな彼の行動に、冷静なツッコミを入れながら、誠司は残っていた缶コーヒーの中身を飲み始めた。



 昼休憩の時間も残り五分程となり、佐野は借り人競争の準備があるからと、未だ友人の言葉に落ち込んだ状態の大樹を気にしつつ更衣室を後にした。
「…………」
 大きな図体で、更衣室隅の床にちょこんと体育座りをして落ち込む大樹。
 その様子を横目で気にしつつ、誠司は残っていた缶コーヒーの中身をすべて飲み干す。缶を口から離し、息を吐いた彼は一瞬出入り口のドアへ視線を向けると、すぐに口を開いた。
「いつまでそうしてるんだ。もう佐野は行ったぞ」
 部下はもう更衣室を出て行った。そんな友人の言葉にすら、大樹は反応を見せず無言のままだ。
「……いつまでそうしてるんだ、もう午後の部が始まるって言うのに。もう拗ねた真似なんてしなくていいんだよ。元から拗ねて無いくせに……俺に全部押し付けやがって」
 大きな溜息を吐きながら、誠司は疲れたと小さく呟く。
「あと……騒ぐなら、外に声が漏れない程度にしろ」
 黙り込んだ友人に声を掛け、誠司がベンチから立ち上がった瞬間、彼の声と行動に反応するように、ずっと俯いたままだった大樹が顔を上げた。
「……んで。……なんで響子ちゃんの名前がお題の中にあるんだー!」
 今まで落ち込んでいた様子が嘘のように、その場で勢いよく立ち上がった大樹は、己の中に溜まった怒りを発散させようと、その場で地団駄を踏む。
「ねぇ誠司! 八って……八って何? 響子ちゃんの名前の横にあった八って何?」
 男子社員へのお題一覧表に書かれていた最愛の妻の名前、そしてその横にあった数字を思い出し、怒りがおさまらないまま、大樹は友人である誠司に詰め寄る。
「うちの男性社員の中で、響子さんは八番目に人気があるという事だ。一部で取ったアンケートだから、正確さには欠ける……って、聞いてないか」
 怒りを露にする友人の問いに、冷静な態度で返答するも、大樹がその言葉を聞いているのかさえ怪しい現状に、誠司は溜息を吐くしかない。
「確かに響子ちゃんは、優しくて可愛くて、すごいいい子だけど……人気なんか出なくていいんだよー!」
 怒りで妙な奇声を発しながら、ぐしゃぐしゃと己の髪を掻きむしる大樹。
「女子社員だって、百人以上居るだろうに……なのに、なのに……何で響子ちゃんがー……」
 両手、両膝を床につき、現実を受け入れられないとばかりに、大樹は本格的に落ち込み始める。
 その姿を眺めつつ、俺だって必死に止めたんだぞ、とぼやいた誠司は、数分前の部下とのやりとりを思い返す。
『佐野、いくらなんでもこれは……止めさせた方がいい。社内の人気投票で上位になった社員がお題になるなんて、下手をすれば問題になるぞ』
『いやいやいや。社長、これが意外と好評なんですよ。皆結構乗り気だし、このくらいのサプライズが無いと、借り人競争も盛り上がりませんから。大丈夫です、お題の内容はアナウンスなんてしません!』
 響子の名前がお題にあったのは事実だが、もし響子の名前が無かったとしても、このサプライズはすぐに止めさせるべきだと誠司は判断した。
 社員交流を目的とした球技大会の中で、ちょっとした息抜きとして企画された借り人競争。その事に関し、誠司も大樹も異論は無かった。
 しかし、人気投票で上位になった社員を名指しでお題にしてしまうなど、どんな状況でも頷ける事では無い。
『と、とにかく! 今すぐ個人名が書かれたお題が入った封筒は全て破棄するんだ。それ以外のお題で十分だろう』
『結構皆楽しみにしてるんですよ? 人気投票のお題が無しになったら、逆に社員達が不満に思うだろうし……それに他にもたくさんお題はありますから。封筒の中身とか、置く場所とか全部ランダムなんで、投票のお題が出る事も稀ですって』
 大丈夫だと佐野は言っていたが、やはり今からでも個人名の書かれた封筒は破棄した方が良いのではないか。
 しかし、かなりの量がある封筒の中から、男女それぞれ十人、合計二十人の個人名が書かれた封筒を、競技開始まで残り僅かなこの時間ですべて探し出す事が出来るのだろうか。
 このサプライズを知っているのは、参加者の中でもまだ一部の人間だけだろう。あからさまに封筒を探して、状況を知らない社員達に疑問を持たれては元も子もない。
「俺、今から響子ちゃんの封筒探してくるっ!」
「っ! 待て大樹、落ち着け!」
 妻の名が書かれたお題入り封筒を破棄するため、今にも更衣室を飛び出しそうな勢いの大樹の腕を、誠司は咄嗟に掴み彼の行動を阻止した。
「落ち着けるわけないでしょ!」
「今から行って封筒を漁っていたら、それこそ時間がかかって怪しまれる確率が上がる。この事を知らない人間まで……響子さんまで何かあったかと不安になるぞ!」
「……っ」
 咄嗟に誠司の口から出た妻の名を耳にしたためか、今にも走り出しそうだった勢いは弱まり、大樹は複雑な表情を浮かべる。
「佐野も言ってただろう。お題は全てランダムだ。必ずしも、人気投票のお題が使われるとは限らない」
「もし使われたらどうすんの。響子ちゃんが他の男と走るとか俺嫌だよ? 妥協しまくって、誠司が響子ちゃんと走るって言うならいいけど」
 複雑な表情を浮かべたまま、ボソボソと呟く大樹の言葉を耳にした誠司は、ふと彼の言葉に疑問を感じ口を開いた。
「あ、いや……俺も参加はするが、妥協して俺がオッケーって……。自分がお題を引き当てて、響子さんを守るという事は思いつかないのか?」
「本当はそうしたいよ! でも……でも……俺響子ちゃんの事になると、自制心がどっか消えるから!」
 自分がこんなに我慢出来ない人間だったなんて、と遠くを見つめ呟く友人の姿に、何故そんな堂々と言い切るんだと、誠司はただ呆れ果てるしかなかった。
 不意に、先程の自分と佐野の会話に大樹がまったく入って来なかった事を思い出し、あれも友人なりの防衛策なんだろう、と誠司は思った。
『ねえ、佐野ちゃん。一つ質問してもいい?』
『は、はい! なんですか?』
『色んなお題があっていいと思うんだけど。なんできょ……じゃなかった。なんで、所々に女子社員の名前がフルネームで載ってるの?』
 佐野に問いかけた時、お題に妻の名前があった事に衝撃を受けていた大樹は、咄嗟に響子の名前を口にしようとし、慌ててそれを回避した。
『俺の名前あ……』
『ない』
 人気社員上位十名に自分の名前があるか尋ねた時も、即友人に切り捨てられた大樹。その後、そのダメージのせいで落ち込み、誠司と佐野の会話に彼は一切入ろうとしなかった。
 長年友人関係を続けている誠司には、それが大樹の自己防衛であるとすぐに分かった。
 浅生大樹という男は、自分に人気が無かったからと言って落ち込むような人間では無い。
 落ち込んだふりをして、わざと大樹はしばらくの間言葉を発しなかったのだ。それは、己を、否、愛する妻を守るための行動だった。
 お題に妻の名があった事に動揺してしまっている今、下手に口を開き、自分と響子が結婚している事や、響子の立場が悪くなるような言葉を発してしまってはいけない。
 その咄嗟の判断が、大樹に、友人の言葉に落ち込み無言になるという手段を取らせた。
「とにかく行くぞ。あっちに行ってから何か策を考える。ほら、早く荷物を持て」
「うう……響子ちゃんがけがされるー」
 まだ実際に響子が誰かと手を繋いだわけでも無いのに、既に泣きそうな声で妻が穢されると喚く大樹。
 大袈裟すぎだ、と溜息を吐きながら、誠司は時間が惜しいと大樹を急かし、落ち込む彼を引き連れ男子更衣室を後にする。
 妻の事になると自制心が消えると騒いでいた友人。本当に自制心が消えているなら、今響子はこの場に居らず、自宅マンションで夫の帰りを待っているだろう。
 お前が必死に自制しているおかげで、響子さんはこの場に居る事が出来るんだぞ、と決して口には出さない言葉を心の中で発し、誠司は大樹の背を押し体育館へ向かった。
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