契約書は婚姻届

5.選ばれた理由

 お題になった物ではなく、お題になった人を借りてくる競技。その名も借り人競争。
 初めて目にする競技に興味津々の響子と志保だったが、まさか、自分達がお題の人物として選ばれるなど、二人はまったく考えていなかった。
「えっ……私?」
 選手として借り人競争に参加した大樹。その彼から、共に来て欲しいと言われ突如腕を掴まれた事に、驚きを隠せない様子の志保。
「…………」
 そんな二人の姿を目にした響子は、何も言えずに固まっていた。
「総務部の女の子ってお題なんだよ。君、この前話した時総務部って言ってたでしょ? お願い、一緒に走って!」
「え、でも……」
 自分と一緒に走って欲しいと、必死な様子で頼み込む大樹の様子を目にし、志保は一瞬だけ視線を己の隣へ向ける。
 突然現れた友人の夫、そして彼の言動に驚愕のまま無言で佇む響子の姿が、志保の視界に映り込んだ。
 お題が総務部の女の子なら、響子を連れていけばいいじゃない。どうして私を選ぶんですか。
 心のままに言葉を紡ぎたかったが、そんな事をしては響子の立場が危うくなってしまう。
「おーっと、一番最初にパートナーを連れて戻ってきたのは……企画部のはやし君だー!」
 その時、トップで戻ってきた選手の名を叫ぶアナウンスが皆の耳に届く。
 いくらお題に合った人物を連れて戻ってきても、その後、自身が走っていたレーンをペアになった人とあと一周走らなければいけない。
 そのため、ゴールするまで誰が一位になるか予想出来ない。まだ大樹にも一位になる可能性は十分残されていた。
「と、とにかく一緒に来て。一緒に走ってくれるだけでいいから!」
「あー、もう! わかりましたからっ! 響子ごめん、ちょっと行ってくる」
 出場したからには、やはり一位を狙いたいらしい。大樹の必死な様子に、志保は仕方なく折れるしかなかった。
 そして彼女は、一言響子に断りを入れ、大樹と共に体育館中央へ向かい走り出す。
「……何なの」
 響子は、たった今自分の目の前で起こったあまりにも急な出来事に、呆然とその場に立ち尽くす事しか出来なかった。
 突然の事に、状況をよく理解出来ず混乱する気持ちと、心の奥底から湧き上がる、僅かな嫉妬心。
 二つのモヤモヤした気持ちを抱えながら、彼女は夫と友人が共に走る姿を目で追いかけた。



 志保と共に全力で走りきった大樹の順位は、惜しくも第一組の中で二位という結果だった。
「はぁ……はぁ……ゲホッ、ゲホッ。あー……普段の運動不足がここにきて……」
 両膝に手をつき、肩で息をする大樹。結果も二位だし、とぼやきながら、息を整えようと深呼吸を繰り返す。
 大樹は、運動が苦手というわけではないが、だからと言って好きというわけでも無いらしい。
 そのため、普段自分から積極的に動く事は皆無だ。
 引き籠っていた時代は、全く動かないと筋力が落ち、己の体型に影響が出るかもしれないと考え、家の周りを散歩する程度の事はやっていた。
 日頃、ウォーキングとも言い難い程度の運動しかしていない大樹が、一日中身体を酷使しているこの状況を見れば、彼の疲労が相当なものだと理解出来る。
「あんなに全力で走るからですよ。いいじゃないですか、どうせこの順位はバスケに関係ないんですから」
 すっかり息が上がっている大樹の横で、彼とペアになり走った志保が呆れ顔でその様子を見つめている。
 元々運動神経も良く、体を動かす事自体好きな彼女。大樹と共に全力で走った程度では全く疲れていない様だ。
「はぁ……はぁ……。だ、だって……出るからには、一位に、なりたいでしょ……」
 大樹の口から全力疾走の理由を聞いた志保は、その言葉に、妙に納得する部分があると感じた。
「負けず嫌いな性格。やっぱり子供だわ」
 響子から度々大樹の言動について聞いていたせいか、目の前に居る男のイメージが、彼女の中で固まりつつあった。
 そしてたった今、大樹が発した言葉により、志保の中で完全な大樹のイメージが出来上がった。
「……んー」
 志保は腕組みをしながら、ふと、自分がこれまで友人から聞いてきた、目の前に居る男についての話を思い返す。
 すっかり大樹にベタ惚れ状態の響子からすれば、大樹はかっこいい部類に入るのだろう。
 しかし、第三者の立場に居る志保からすれば、大樹はかっこいいのかと首を傾げたくなる存在だ。
 この男の妻から聞く話は、惚気話と言える部分も確かにあるが、大体が苦労話だ。
 今朝も、自分自身の目で、響子の苦労する姿を目にしている。
 まるで、駄々をこねる子供を送り出す母親のようだったな、と思いながら、志保は未だ疲れた様子を見せる大樹の肩へ手を伸ばし、そこを数回トントンと叩く。
「ん? どうしたの?」
「ちょっとこっち来てください」
「へっ? ちょ、ちょっと待ってよー!」
 肩を叩かれ顔を上げる大樹。次の瞬間、大樹の腕を突然掴んだ志保は、驚いた様子の彼など気にせず、大樹を連れゴール地点傍の人々の群れから消えた。



 突然大樹を人気の無い体育館隅へ連れ出した志保。そんな彼女の行動の意味が分からず、大樹は不思議そうに首を傾げていた。
『よし、ここなら大丈夫。大樹さん、質問があります。お題の紙に、総務部の女の子って書いてあったというのは本当ですか?』
『へっ? あ、うん。本当だよ。総務部の女性社員って書いてたもん。あ、さっきは他人行儀でごめんね』
 自分を見上げ、真剣な顔つきで疑問をぶつけてくるその姿に、大樹は偽り無く封筒に入っていたお題の事を話す。
『あ、あれは別にいいです。逆に良かったですよ。私達が普通に喋ってたら怪しまれますし。それにしても……お題が言ってた通りなら、別に私じゃなくてもいいですよね? 総務部の、女性社員、なんですから』
 満面の笑みで小首を傾げながら、総務部の女性社員という言葉を強調する志保。
 彼女の様子に一瞬不思議そうな顔をした大樹だったが、その数秒後、目の前に居る女性の言おうとしている事に彼は気付いた。
『あー、まー……うん。それは……さぁ』
『お題通りの人を連れていけばいいんですから、堂々と行けばよかったじゃないですか』
『だから、それは……えっと』
 何故自分を選んだという疑問が盛大に含まれた志保の言葉に、大樹はすぐに答えようとせず、何やら口籠る。
 志保自身、大樹に選ばれ共に走った事に関し、別に嫌なわけでも怒っているわけでも無かった。
 大樹が言った通り『総務部の女性社員』と共に走るお題なら、何故彼は、妻である響子ではなく、妻の友人である志保を選んだのか。
 彼女はただ、その疑問に対する大樹の答えが知りたかった。
 もし自分が響子の立場だったら、いくら友人とは言え、夫が自分以外の女性の手を取って共に走る光景を目にすれば、決していい気分とは言い難いはずだ。
 響子とまだ数年しか付き合いの無い志保だが、自身の友人が、あまり精神的に強い女性で無い事くらい理解している。
 そんな彼女の目の前で、その旦那に手を取られた自分。その様子を見た響子は、一体どんな気持ちだったのだろう。そう考えるだけで、志保の心にモヤモヤとした霧が広がっていた。
『だって、さー……』
 志保の疑問を理解しながら、ずっとその答えを口にする事を躊躇していた大樹。しかし、大きな溜息と共に、彼は志保と走った理由を喋り始めた。
「だってさー、響子ちゃんと手繋いで走っちゃったりしたら、俺嬉しくて、走る所じゃなくなると思うんだよね。そしたら、今までの努力が水の泡っていうか……下手すりゃバレちゃうだろうし。本音を言えば、響子ちゃんと走りたかったけどさー……。と、何でか分からないけど、最後にはめっちゃ拗ねてたんだよね」
「…………」
 響子の元へ戻った志保は、大樹と話した内容を彼女へ耳打ちしながら伝えた。
 大樹と志保のやりとり、そして大樹が志保と共に走った理由を聞き、響子は驚きのあまり言葉を失う。
 志保の手を取り走り去る大樹の姿を目にし、モヤモヤと黒い感情が姿を現し始め、友人と夫相手にそんな感情を抱くなどと、志保が戻ってくるまでの間、軽く自己嫌悪していた響子。
 しかし、大樹が志保を選んだ理由を知った今、つい先程まで心の中に居座っていた感情は無くなり、嬉しさと恥ずかしさ、そして友人に対しあんな感情を抱いてしまった事への罪悪感が彼女の心を支配していた。
「まぁ、あれよね。あんだけデレッデレに惚れられてるんなら、浮気とか心配しないで良さそうで安心したわ」
 ケラケラと笑いながら、ポンポンと響子の肩を軽く志保。友人の言葉に、響子の頬は更に赤みを増し、穴があったら今すぐ隠れたい衝動に駆られる。
「……ごめん、志保」
「ん? 謝んなくていいって、気にしてないから」
 大丈夫大丈夫、と響子の肩を笑顔で叩き続ける志保。そんな彼女に対し、響子は心の中で謝罪を繰り返す。
 大樹さんのわがままに付き合わせてごめんなさい。友達だと解っているのに、勝手に嫉妬してごめんなさい。
 声に出す事は出来なかったが、響子はしばらくの間、何度も何度も大切な友人へ謝り続けた。



 大樹が走り終わった後も、借り人競争は男女交互にレースが続いていた。
 自分の所属する部署の上司と共に走れと指示されたり、社員の応援に来ている子供を連れて走ったり、そのバラエティに富んだお題に、観客となった社員達も楽しそうにレースを見守った。
 そして出場選手達も、自分へのお題に一喜一憂しながら、皆真剣に競技へ参加していた。
「あ、そうだ。忘れてた。響子に伝言があるんだよ」
 その様子を、すっかり観客気分で眺めていた志保が、ふと何か思い出したように口を開く。
「伝言?」
 自分への伝言という友人の言葉に、響子はきょとりと首を傾げる。
「うん、伝言。もし誰かがここに来て、一緒に走ってって言ってきても、何か理由つけて断れって。特に男の人」
「断る、の? え、それって大丈夫なのかな?」
 志保から伝えられた伝言。それを響子へ伝えるよう指示を出したのは、おそらく大樹だ。
 しかし、何故彼が自分に対しそんな事を言うのか、その理由がいまいち解らず響子は首を傾げる。
 社員達の親睦を深めるための交流会とは言え、勝負事となれば皆やはり真剣になるものだ。皆自分の精一杯の力を発揮して参加している。
 今行われている借り人競争でも、それは変わらない。
 最初はレースの様子をただ見ているつもりだった響子。
 しかし、志保が大樹と共に走っている光景を目にし、確率はとても低いと思いながらも、自分にも共に走って欲しいと頼む人が居るかもしれないと考えた。
 皆真剣にレースへ参加しているのだから、自分もその気持ちに応えたい。そう思う反面、運動が苦手で走りも遅いと自覚しているため、そこで差し出された手を取っていいものかとも考えた。
 大樹からの伝言を聞き、素直にその言葉を受け入れられれば、精神的にかなり楽だという事は分かる。しかし、もし万が一にも誰かに手を差し出されたら。
「断って、いい……のかな。うーん」
「そこはあっちの気持ち考えて断ろうよ……はぁ、これだから真面目っ子は」
 自分の元へ誰かが来た場合、それを断って良いものかどうか。真剣に悩む響子の耳には、志保の溜息交じりの呟きなど届かなかった。
「おーっと、皆お題の封筒を手に取ったのはほぼ同時! さぁ、封筒の中にはどんなお題が入っているのかー!」
 悩み続ける響子の気持ちなど知らぬとばかりに、借り人競争は着々と進んでいた。実況アナウンスをする社員の声にも熱が入っている。
 現在のレースに出場しているのは、皆二十代の男性社員だ。走りだけなら特に差は無い。ほぼ互角な戦いの鍵となるお題に、選手達だけではなく見守る人々も注目している。
「ったく……ほら、そんな悩んでないでレース見よう? こんだけ人居るんだから、もう私達の所に来る人なんか居ないって」
「う、うん。そうだよね」
 このままでは、レースが終わるまでずっと響子が悩み続けてしまう。そう判断した志保は、響子に声を掛け、無駄に悩むより楽しむべきだと言葉を掛ける。
 響子は志保の言葉に頷き、そのまま悩むのを止め顔を上げる。
 そうだ、今この体育館内には百人以上の人達が居る。その中で自分が選ばれる確率等ほんの僅かだ。無駄な心配をして過ごすより、競技を見て楽しんだ方が有意義に決まっている。
 思考を切り替え、純粋に借り人競争の様子を見て楽しもう。そう心に決めた響子だったが、そんな彼女の気持ちは、数秒後見事に打ち砕かれる事となった。
「はぁ……はぁっ。水越さん、ちょっとごめん。俺と一緒に走ってくれない?」
 封筒を持った男性社員達が、一気に体育館内の様々な方向へ散らばるように走り出す。その数秒後、一人の男性社員が響子の目の前へやってきた。
 その男の名は池田いけだ聡史さとし。仕事中に何度か接した事があったため、営業部で働く彼の名前と顔を、響子達は覚えていた。
 もう誰も来ないって言ったじゃない、と響子は恨めしそうな視線を一瞬だけ横に居る志保へ向ける。
 まさかこんな事が起こると思っていなかった志保は、そんな友人の視線に、声を上げず情けない表情を浮かべぎこちなく笑った。
「えっと。わ、私足が遅いので、走るなら他の人と走った方がいいと思います」
 池田に対して申し訳ない気持ちになったが、実際自分と一緒に走れば彼の順位を下げてしまうかもしれないと考え、響子は咄嗟に首を横に振った。
「他の人じゃ駄目なんだ。水越さんとじゃなきゃ、ゴール出来ないんだよ!」
 しかし、一度断られたにも関わらず、彼はめげずに響子と共に走りたいと口にする。そんな池田の発言は、響子や志保だけではなく、彼女達の周囲に居る人々にまで衝撃を与えた。
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