契約書は婚姻届

3.社員交流球技大会

「はぁ……はぁ、浅生さんっ!」
 六月の第一日曜日。この日、株式会社『With U』自社ビルから車で約二十分程離れた所にある体育館では、朝からいくつもの熱戦が繰り広げられていた。
「……っ! ったく、若いと体力有り余って羨ましいね。……よっ、と」
 同じチームになった新人社員から受け取ったボールをドリブルし、それを奪い取ろうとする敵チームの人間を二人かわした所で、大樹は数メートル離れた位置から、ゴールへシュートを打つ。
 彼が打ったボールは、一度リングの縁に当りながらも、弾かれる事無くギリギリの所でゴールネットを潜った。そして次の瞬間、試合終了を知らせるブザーが体育館内に鳴り響く。
「試合終了ー! 副社長、浅生さん率いる男子Bチーム、試合終了直前での逆転勝利です! 準決勝に勝ち進んだのは、男子Bチームでーす!」
 ギリギリの逆転劇に、実況を担当していた営業部の男性社員が興奮した様子でマイクを握り立ち上がった。そんな彼の実況に影響を受けたのか、試合を観戦していた社員達からいくつもの拍手や歓喜の声が上がる。
「……よかった」
 大樹の試合が無事に終わった事、そして彼が無事勝利した事に、響子は人気の無い体育館の隅でホッと安堵の息を吐く。
「そんなに心配なら、近くで応援しなさいよ。響子の応援があれば、大樹さんもっと張り切るよ、きっと」
「志保……応援できないの解ってて言ってる?」
「まぁね」
 意地の悪い笑みを浮かべる友人の言葉に、響子は溜息を吐きながら、改めてたった今試合の終わったコートへ視線を向ける。
 今日、響子達が訪れた体育館では、株式会社『With U』に勤めている社員達の交流を目的とした球技大会が開催されている。
 種目はバスケットボールとバレーボールの二種目。それぞれ男女別に決められたチームで試合をし、優勝を目指して皆が競い合っているのだ。
 それぞれのチームは、所属部署、勤務年数、役職など一切関係無くランダムに決められ、試合開始前に発表された。
 響子と志保は運良く同じチームとなり、二人は女子バレーボールの試合へ出場している。
 男子バスケットボールの試合に出場している大樹と誠司は、それぞれがリーダーとなり部下達と共に熱戦を繰り広げていた。
 会社設立数年後から始まり、今まで毎年のように続けられてきた社員交流会。その年によって内容は変わるため、一部社員達の間で、今年はどんな交流会になるのかと予想を立てる者も居る。
 ここ数年では、毎年交流会のために運営委員会なるものが会社内で組織されるくらいだ。
 社員達がより仲良く互いを知るために行われるこの交流会だが、もちろん社員全員が強制参加という訳ではない。
 私用等で交流会に不参加の場合、理由と共に欠席する事を事前に運営委員へ届け出ればいい事になっている。
 今年のようにスポーツを行う場合、年齢や体力面で不安がある社員は、競技に出場せず応援側として参加する事も出来る。体育館内を見回せば、応援の他に、飲み物の準備や得点集計など、裏方に回る社員も少なくない。
 皆で協力し合い、普段会話をした事の無い社員同士が話し合う機会が生まれる。その結果、新たな人脈、友人関係が出来、今後の仕事に役立つものを作り出す。
 この社員交流会を一番最初に発案した、大樹と誠司の願いを理解したかのように、毎年交流会後はいつもより社内の雰囲気が明るくなるのだ。
「……ふふっ」
 響子は、未だ体育館中央のコート内で、よく頑張ったなと、同じチームの社員達の肩を叩き楽しそうに笑っている夫の姿を見つめ、まるでそれが可笑しいとばかりに小さく笑う。
「……ん? どうしたの、響子。何か可笑しい事でもあった?」
 そんな友人の様子に気付き、隣に立っていた志保が不思議そうに首を傾げ声を掛ける。
 志保の言葉に、響子は周りに聞こえないよう気を遣いながら、昨夜自宅で起こった事をこっそりと友人へ耳打ちし始めた。



 球技大会前日の夜。響子は、明日行われる球技大会のため、少しでも力がつくものをと考え、夕食のメインとなるとんかつを揚げていた。
 綺麗なきつね色に揚がったとんかつをまな板の上に置くと、右手に持った包丁と左手に持った菜箸を使い、それを食べやすい大きさにカットしていく。
「……よし」
 カットしたとんかつを綺麗に皿に盛り付け、定番のとんかつ用ソースと、大根おろしの入ったポン酢、二種類のソースを準備する。
 勝負事がある前日にとんかつを食べるなど、随分と安直な発想だと響子自身思っていた。
 しかし、たまにはこういうベタな料理もいいではないかと、自分を納得させながら、彼女はダイニングルームのテーブルの上へ、準備した料理を並べていく。
 夕食に必要な物を全てテーブルに並べ終わり、何か忘れている物は無いかと最終チェックをする。
「これで大丈夫、よね。あとは、食べる時にお味噌汁とご飯を準備すれば完璧。それにしても……大樹さん、まだお風呂入ってるのかな?」
 響子は、身につけていたエプロンの紐を解きながら、ダイニングルームの壁掛け時計へ視線を向ける。
 夕食を食べる前に、先に風呂に入ってしまうと浴室へ向かった大樹。彼が響子の傍を離れてから既に三十分近く経過していた。
 普段なら、もうとっくに入浴を済ませいるはずなのに、何故今日に限って彼は戻ってこないのか。
 まさか入浴中に体調が悪くなり、浴槽の中で倒れているのではないか。そんな不吉な考えが、一瞬響子の頭の中を過る。
 不安に駆られた彼女は、近くにあった椅子の背もたれに脱いだエプロンを投げるように掛けると、その足ですぐ浴室へ向かった。
「大樹さっ……いない」
 浴室へ向かった響子は、慌てて脱衣所のドアを開ける。しかし、既に脱衣所にも浴室にも夫の姿は無かった。
 風呂上りの着替え用にと、脱衣所に準備していた大樹愛用のジャージも無くなっている。入浴を終えた夫は一体どこに向かったのかと、響子は首を傾げながら再び大樹捜索を再開した。
「……へっ、へっくしゅん!」
 大樹捜索再開から数分後、響子はようやく夫の姿を発見した。
「…………」
 しかし、夫の無事を確認出来た事に安心する暇も無く、彼女は自分の目の前で起こっている出来事に無言で首を傾げる事となる。
「うー……さ、寒い……けど我慢だ、もうちょっと……ぶぇっくしゅん!」
 夫を探し求め辿り着いたのは、正式な結婚前、立ち入りを禁止されていた大樹の書斎。二人が正式な付き合いを始めてから、響子がこの部屋を訪れる事を大樹は許可した。
 そんな書斎の中に、夫は一人震えながら立っていた。エアコンの真下を陣取り、下着一枚しか身につけず盛大なくしゃみをしている。
「……って、大樹さん、何やってるんですか!」
 突然視界に飛び込んできた光景にしばし呆然としていた響子だったが、我に返った瞬間、彼女は慌てて部屋の中へ飛び込んだ。そして、大樹の仕事机の上に置かれたリモコンを手に取ると、即エアコンのスイッチをオフにする。
「あー……響子、ちゃん……何、すんのー」
 今まで稼働していたエアコンが突然止まった事に気付き、大樹は震えながら響子に対し文句を言った。冬では無いと言え、エアコンの真下に下着一枚で陣取り、風呂上りに冷風を浴びていたのだ。寒く無いわけがない。
「一体どうしたんですか。ほら、服着てください」
 響子は、椅子の背に掛けてあったジャージを手に取り、慌てて震える夫へそれを手渡す。大樹は妻の手からジャージを受け取るが、その顔はどこか不満そうだ。
「まだ夏じゃないんですよ。お風呂上りにそんな恰好でエアコンの下になんか居たら、風邪引いて大変な事になるんですから」
「……だって、風邪引きたいんだもん」
「……へ?」
 夫の突然すぎる行動の意味が理解出来ず、こんな事では風邪を引いてしまうと響子は注意する。しかし次の瞬間、彼女はたった今自身の耳に届いた言葉を全力で疑いたくなった。
「風邪、引きたい、んですか?」
「うん」
 もしかしたら今のは自分の聞き間違いかもしれない。夫の発言に驚愕しながら、響子はぎこちなく首を傾げ、目の前に居る大樹を見上げ問いかけた。
 しかし、そんな彼女の気持ちを否定するように、大樹は風邪を引きたいんだと首を縦に振り頷く。
「何で!?」
 響子は驚きのあまり、一際大きな声を発し夫に理由を尋ねる。普段大樹に対し敬語口調で喋る彼女だが、咄嗟の事になると砕けた口調で喋ってしまう様だ。
「風邪引けば……明日の球技大会休めるから」
 風呂上りの濡れた体でエアコンの前に立ち冷風を浴びる。それによって身体は冷え、風邪を引く。風邪を引いて体調を崩せば、明日の球技大会には出場する事は出来ない。
 まるで小学生が考えたようなシナリオに、怒りや驚きという感情を通り越し、響子はすっかり呆れかえってしまった。
「そんなに嫌なら、最初から欠席すればいいじゃないですか」
 大きな溜息を吐きながらフラフラと歩みを進め、彼女は書斎に唯一ある椅子へ辿り着くと、凭れかかるようにそこへ座り込んだ。
「……響子ちゃん、あの誠司がそんな事許すわけないでしょ。あの! 誠司が!」
 妻に見つかってしまった以上、もう何も出来ないと判断したのか、大樹は響子から渡されたジャージを渋々着始める。
 心底恨んでいるかのように、あの誠司と、自身の親友の名を強調しながら喋る大樹。そんな夫の様子を見つめ、響子は、己の中に生まれた疑問を口にするため声を発した。
「いくら誠司さんでも、大樹さんが本気で嫌がれば無理強いはしないんじゃ……」
「いいや、あいつは引き摺ってでも何しても俺を体育館に連れて行くよ。そして、ずる休みしようとした事がバレたりしたら……」
 自身が発した言葉のその後を想像してしまったのか、突如口を閉ざし青ざめた顔のまま大樹は固まる。
 親友である誠司の言動を想像し恐怖する夫の姿に、一体過去に二人の間でどんな事があったのかと、響子の中にある好奇心が刺激される。
 しかし知ってしまうのが怖い感じ、実際にその内容を聞こうとはしなかった。
「私も、正直言えば休みたいって思いました。運動はあまり得意じゃないので。でも、せっかくの交流会だし、参加しようと思ってます。私も頑張りますから、大樹さんも、頑張ってください」
 なんとか夫を励ませないものかと悩んだ響子は、自身の正直な気持ちを打ち明けた。そして椅子から立ち上がり大樹の傍へ近付く。
 自分も頑張るので、共に頑張ろうと大樹にエールを送ると共に、爪先立ちになって背伸びをする。そして、夫の腕に掴まりながら己の体を支え、自分より数十センチ背の高い夫の唇へ、僅かに触れるだけの口付けをした。
 応援の意味を込めた口付けの直後、その恥ずかしさに響子は慌てて大樹の傍から離れようとする。しかし、それを彼が許すはずも無く、響子はすぐに大きな腕にすっぽりと包まれた。
 逃亡に失敗した響子は、一瞬驚いたものの、この状況では自分が抵抗しても無意味だと、過去の経験を思い出し大人しくしていた。
 夫の腕の中から逃げ出さないかわりに、熱を持った頬をグリグリと大樹の胸へ押し付ける。すっかり冷えきった大樹の体が、熱くなった頬には丁度よく、気持ちいいとさえ思えた。
 いつも自身の言動で妻を翻弄し、その反応を見ては楽しんでいる大樹も、予想外すぎる妻の行動に驚きを隠せず、響子を腕の中に閉じ込めただけで何もする事が出来ない。
 大樹は響子を抱きしめ、響子は大樹の胸へ顔を押し付け、互いに無言のまま、時間ばかりが経過する。
 しばらくして、夫の胸から顔を離し、ゆっくりと上を見上げる響子の視線と、珍しく薄ら恥ずかしそうに頬を染めた大樹の視線が絡み合う。
 そのまま、まるで互いに吸い込まれように、二人は顔を近付けた。大樹は身体を少し曲げながら妻の腰をしっかり支え、響子は腕を夫の首へ絡める。
「大樹さんの身体、すっかり冷えちゃってますよ」
「それじゃ響子ちゃんがあたためてよ。風邪引かないように」
 互いの耳元で囁くように小さな声を発し、二人は熱を共有しあうように幾度も口付けを交わす。
「ん、はぁ……大樹さ……ご飯、食べないと……んんっ」
「ん……ちゅ。後でちゃんと食べるよ。クスッ……響子ちゃんのご飯残すわけないでしょ。それより、今はこっち」
 本来夫を探していた目的を口にする響子の耳を甘噛みし、彼女の首、胸元へ舌を這わす大樹。愛しい妻からあんな応援をされてしまった今、彼の意識は、自身の食事より、目の前にいる妻を愛でる事へ向けられている。
「そんなに舐めちゃ……ひゃっ! お、お風呂まだ入ってないのに……」
「それじゃ、ご飯の前に一緒に入る? いいよ、俺は二回お風呂入っても」
「一緒は、はずかし……んっ!」
 響子の主張など聞かないとばかりに、再び大樹は彼女に口付け、すぐにその口内を己の舌で何度も隅々まで愛撫する。
 夕食が出来たと伝えるために大樹を呼びに来ただけのはずが、何故こんな事になってしまったのだろう。
 そんな事を頭の片隅でぼんやりと考えながら、響子は自身の体が倒れないよう、震える足で必死に踏ん張り、大樹にしがみつく勢いで、首に回した両腕に力を入れる。
 いつも最終的には自分のペースに妻を巻き込む夫。彼のペースに流されてはいけないと理解しつつ、その意思を最後まで貫き通せない自分。
 そんな事では駄目だと十分理解している。
 しかし、夫から与えられる愛情が、まるでドロドロに溶けた砂糖のように身体と心に絡みつく。その感覚を嫌悪せず、寧ろ欲している自分では、まだ大樹には到底勝てない事も、響子は知っている。
 その頃、書斎に居る二人の様子など知らず、ダイニングルームのテーブルの上に並んだ料理は、二人の到着を今か今かと待ちわびていた。自分達の役目が果たされるのは、出来たてを主張する湯気すら立たなくなった頃だとも知らずに。



「小学生かっ!」
 昨夜の大樹の行動を聞き終わった志保は、間髪入れずこの場に居ない男に対し、小さな声でツッコミを入れる。
 夫の行動を咎めていたはずが、いつの間にか二人でイチャついていた事実については、流石に友人である志保にも言えなかったため、響子は苦笑いを浮かべ、大樹のずる休み作戦に関する事のみを話した。
 話し終わった瞬間の鋭い志保のツッコミに、響子はあはは、とぎこちなく笑う。
「前日はそんな状況だったのに、いざ試合始まったら結構熱心にやったりして……響子、今あの人何歳?」
 体育館の壁に背を預け、腕を組んで大樹の年齢はいくつかと響子に問いかける志保。
「えっと……三十、八?」
 友人の言葉に、響子は、自分が大樹と見合いした時の年齢から指折りつつ数え、夫の現在の年齢を少々自信無く口にする。
「よくやってるわ、あんたは」
 偉い偉い、と何故か響子の頭を撫で始める志保。そんな友人の様子に、響子は返す言葉が見つからず、ただ苦笑するしかなかった。
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