契約書は婚姻届

2.犬と不安

「なるほどねー。ま、私もそれが一番いい案だとは思うわ」
 とある平日の休憩時間。午前中の仕事を無事に終えた響子は、志保と共に会社近くの食堂で昼ご飯を食べている。響子達が店内に入った時は割と席が空いていたため、あまり人目につかない一番奥の席を二人はすぐに確保した。
 昼食の最中、響子は、後一年程で会社を退職する事、そして大樹と話し合った経緯を志保に説明した。人目につきにくい席を確保した理由はこのためだ。
 友人の話を聞いた志保は、最初こそ、一年後に退職するという響子の驚いていたものの、その理由を聞き、説明が終わる頃には妙に納得した様子で頷いていた。
「…………」
「何? どうしたのよ、響子」
 入社当時から親しくしている友人に退職する事を告げた響子だったが、一年先の事とは言え、自分の話を聞いた志保の様子があまりにも普通だったため、少なからず戸惑っているらしい。
 食事をする手を止め、自分の目の前に座る友人を黙って見つめていると、その視線に気付いた志保は不思議そうに首を傾げる。
「あ、いや……あんまり、驚かないんだな、と思って」
「そう? これでも結構驚いてるんだけど。多分そう見えるのは……あんた達の結論は正解だなって納得してる方が大きいから、かな」
 そう言って、志保は味噌汁の入ったお椀を手に取り、具材の豆腐を箸で摘みパクリと食べた。
 全然驚いてないじゃない、と響子は心の中で呟きながら、ご飯茶碗に入った白米を一口頬張る。
「納得って……やっぱり、志保もこれでいいと思う?」
 大樹と共に話し合い、今後の事について結論を出した響子だったが、本当にこの選択が正しかったのかと、数日経った今、不安な気持ちが彼女の中に生まれていた。
 会社内では大樹との事を秘密にするという約束だ。しかし、一番の友人であり、これまでの事を知っている志保には、どうしても話しておきたいと響子は思った。
 友人に今回の事を話すという行為で、自身の中に生まれた不安な気持ちが無くなるのでは無いか。そんな思いもあったのだろう。
 自分と大樹の選択は間違っていない。その事を再度確かめるように、響子は志保に問いかけた。
「本当に一番の方法は、響子が今すぐ会社を辞める事。そうすれば、わざわざ秘密にする事も無く堂々と出来るし、響子はのんびり出来る。そして、他の社員達から小言を言われなくて済むしね。でも……仕事を続けたいっていう気持ちも、いきなりあんな家で一日中一人で過ごす事が不安な気持ちも、それなりに理解出来る。あの家で一人なんて、時間持て余しそうで困るよね」
 苦笑しながら自分の考えを説明する志保。そんな彼女の言葉に、響子は自分の気持ちを理解してくれる存在が現れたと、嬉しさを感じていた。
 志保が響子の気持ちを少しでも理解出来るのは、実際に浅生大樹という男と接した事があり、尚且つあのマンションを訪れた事があるからだろう。
「やっぱり、辞表出した方がいいのかな」
 自分の気持ちを理解してくれる存在に喜びを感じた響子だが、自分の選択が周囲に迷惑を掛けるのでは無いかと考え込み、俯きながら自分は辞めた方が良いのではと呟く。
「……響子。前々から思ってたけど、あんたって普段は結構明るいくせに、一度マイナス思考になるとどん底まで悩み続けるよね。この前の家出騒動の時といい、今といい」
「……えっ?」
 自分の周りに居る社員達に迷惑を掛けるようなら、やはり仕事を続けたいという気持ちを我慢した方が良いのだろうか。響子の中で、グルグルと負の思考がループしかけた時、突然聞こえた志保の発言に驚きを隠せず、彼女は慌てて顔を上げた。
「え、じゃないでしょ。無自覚で落ち込んでたの? ……はぁ」
 驚いた様子を見せる友人の姿に、志保は盛大な溜息を吐き、お椀に入った味噌汁を啜る。
 友人の言葉に、響子は改めて、自分が覚えている限りの状況を思い出そうと、記憶の引出しを次々に開けていく。
 志保の言う通り、自分から大樹へ離婚を切り出した時も、今の状況も、あまりテンションが高いとは言い難いだろう。そしてどうすれば一番良いのかと悩んでいる事も事実だ。
 しかし、どん底まで悩み続けているのかと問われれば、すぐにその答えを出す事は難しい。どん底まで悩み続けるとは、一体どのくらい悩んでいるという事なのだろうと、響子の中に少々的外れとも言える疑問が生まれた。
「でも、もうそこまで悩まなくていいんじゃない? 困った事があったら、一人で悩む前に旦那に相談しなさい。あの人なら、響子が落ち込みそうになっても、明るさで引っ張ってくれるでしょ」
 ニコリと笑みを浮かべ口を開いた志保の言葉を聞き、不意に響子は、結婚の真相を告げられた時の事を思い出した。
 確かに普段の大樹はとても明るく頼りになる存在だ。しかし、繊細で弱い部分を持ち合わせている彼の姿を、自分はこの目でしっかりと見ている。
『馬鹿だ、何やってんのって笑ってくれていいよ、もう。誠司にこの話した時だって、散々馬鹿にされたんだから。誰が聞いたって、お前何考えてんのって思う事はわかってるしさ。でも……でもさー。助けたかったんだもん。君が困っていて、俺が出来る事なら何だってしたかったんだよ……』
 これまで、実際に大樹に助けられた事は何度もある。その事から彼が頼りになる事は理解しているつもりだ。そう思っていても、友人の言う『明るさで引っ張ってくれる』という言葉と、いつも自分が目にしている夫の姿が、どうにも一致しない事に、響子は首を傾げるしか無い。
 この時の響子は、まだ自分と大樹が似た者夫婦だという事を自覚していなかった。それを彼女が理解するのは、今よりもずっと先の話である。



 昼食を食べ終えた響子達は、再び会社へ戻り、午後の仕事を開始するため自分達の部署へ向かおうと廊下を歩いていた。
 角を曲がった瞬間、廊下の隅で部下から渡された資料か書類と思われる紙束に目を通している大樹と、それを待っているであろう部下の姿を、二人はそれぞれの視界にとらえる。
「おー、おー。旦那様しっかり働いてるじゃないの」
「ちょ、ちょっと志保!」
 耳元で囁かれる友人の言葉に、響子は慌ててそれを咎める。咎められた志保だったが、自分の言葉に必死な表情で反応する響子の姿を見るのが楽しいらしく、彼女にあまり反省する様子は見られない。
 隣に居る友人に冷やかされた響子は、慌てて周囲を見回し、他の社員が居ない事を確認する。少し離れた場所で大樹と話をしている男も、運良く響子達には気づいていないらしい。
 安堵した彼女は、改めて数メートル先で仕事をしている大樹を見つめる。
 響子の視線の先には、紙束をめくりながら部下と話をする夫の姿があった。話している内容までは聞こえないが、二人は真剣な顔で、時折紙束を指差しながら言葉を交わしているのが口の動きで解る。
 初めて間近で目にする、大樹の仕事姿。無精ひげを剃り、髪も少しばかりではあるが整えられている。きっちりとスーツを着こなしたその姿に、彼女は、自宅で見る夫の姿とはかけ離れたもののように感じた。
 普段はだらしない恰好ばかりしている彼も、今のようにしていれば、大人の渋さを感じさせ、見ている者にかっこいいという印象を与えるのかもしれない。
 今でも大樹の事は大好きだが、真剣に仕事に取り組む彼の姿を目にし、響子はそんな彼を純粋にかっこいいと思った。
 他の皆にこの事を話したとしても、きっと理解を得る事は難しい。大好きな大好きな夫だからこそ、自分の瞳には、大樹がかっこよく見えるフィルターでも掛かっているのではと苦笑したくなる。
 そんな事を考えていると、話し合いは終わった様で、部下は廊下の奥へ向かって歩き出し、大樹は自分達の方へ歩いてくるのを響子は認識した。
「あー……肩凝った……っ!」
 己の左肩を右手で軽く揉みながら、グルグルと左腕を回し歩いていた大樹は、その視界に響子と志保の姿を捉えた瞬間、足早に二人のもとへ駆け寄る。
「こんな所で二人に会えるなんて思わなかった! 仕事頑張った俺へのご褒美かな」
 響子達の目の前までやってくると、大樹は心底嬉しそうに瞳を輝かせ、ニコニコと笑みを浮かべる。そして次の瞬間、目の前に立つ響子の手を取り、ギュッと自身の手で包み込むように握る。
「なっ!? 大樹さん、何やってるんですか!」
 いきなり夫に手を握られた事に動揺しつつ、響子は声を押えながら彼の行動を咎めた。
 自分達が今居るのは会社内の廊下だ。いつ人が通るか分からない場所で、こんな事をされては約束の意味が無い。
「んー……午後の活力補給?」
「活力って……ここ会社なんですよ? こんな所誰かに見られたら……」
 慌てて周囲へ視線を走らせる響子とは正反対に、大樹は終始ニコニコと笑みを浮かべ握った妻の手を離す様子は無い。
 会社内で自分達が結婚している事は秘密にする。そう言い出したのは大樹だ。彼との約束を守るため、社内で夫の姿を見かけても、極力接触しないようにと、響子は自分の中で一つのルールを作った。
 しかし、そんな彼女の努力も、数日経った今、一瞬にして無駄になろうとしている。
「大丈夫、他に誰も居ないから。本当は抱きしめたいのを、手を握る事で我慢してるんだから……逆に褒めて欲しいな」
 現状に戸惑う妻とは違い、大樹はいつもの緩みきった笑みを浮かべたかと思えば、己の欲望と闘っているこの状況を褒めて欲しいと急に真剣な顔つきになる。
 そしてまた、響子ちゃんに会えて良かった、会議ばかりで頭が痛くなるなど、へらへらと緩い笑みを浮かべ、どこか嬉しそうに妻へ自分の気持ちを伝える大樹。
「……犬だ」
 その時、突然真横から、志保の小さな呟きが響子の耳に届いた。
 友人の言葉に改めて目の前に立つ男を見つめる。妻の手を握り、にこにこと心底嬉しそうな顔をしている大樹の姿は、まさに、飼い主を目の前にし、嬉しさのあまり力いっぱい尻尾を振る犬の様だ。
 本当に耳と尻尾が生えているのではと錯覚しそうになりながら、響子は再度夫へ注意するため口を開こうとした。
「いで、いでででっ!」
 その時、突然大樹の顔の真横から誰かの手が飛び出したと思った瞬間、その手は彼の耳を掴み、力いっぱい引っ張り始める。
「一体どこに居るのかと思えば……人様に迷惑を掛けるな」
 そして耳を引っ張る手の主は、大樹の背後から現れ心底呆れた様子で口を開いた。
「誠司さん」
 言葉を発しようとした瞬間、突然目の前に立つ大樹の耳を引っ張る第三者が現れたせいで、響子は中途半端に口を開いた状態でしばし立ち尽くしていた。
 そして、大樹の耳を引っ張る人物を認識した瞬間、反射的にその名を口にする。突然大樹の耳を引っ張った人物は、彼の友人でもあり響子も知っている誠司だったのだ。
「どうも。こいつは放っておいていいですから、お二人は仕事に戻ってください。大樹、さっさと響子さんから手を離せ」
 誠司は響子と志保に向かってそれぞれ軽く頭を下げると、親友に握っている手を離せと注意する。
「午前中頑張ったご褒美くらいいいでしょうが。それに、午後も会議か書類とにらめっこばっかりで、頭フル回転させなきゃ……いででで! 耳、耳取れる!」
「大丈夫だ。次俺達が見るのは、二週間後の週末に行われる社内親睦球技大会の資料だから、そこら辺は気楽にやれる。さっさと手を離さないのなら……球技大会で休む暇無くお前を試合に出すよう調整するが?」
「何でそこで変に職権乱用しちゃう!? 俺なんかより、若い奴ら活躍させてやってよ!」
 突然現れた社長である誠司と大樹のやり取りに、響子と志保は一瞬互いの顔を見つめ、現状に困惑するしか無くその場から動く事が出来なかった。



「それでは、二人共。午後もよろしくお願いします」
「は、はいっ!」
「わかりました」
 その後、誠司の手によってようやく響子の手は大樹から引き離された。
 誠司は大樹が逃亡しないように彼の腕をしっかり掴み、響子達に午後も仕事を頑張って欲しいと伝えると、親友の身体を引きずるようにして去っていった。
 親友に引きずられながらも、大樹はその姿が見えなくなるまで響子に向かって何度も手を振った。
 夫の姿に苦笑しながら、響子は自身の胸の前で小さく手を振り返し、二人を見送る。
「響子」
「何?」
 大樹達の姿が見えなくなった瞬間、志保は不意に響子の名を呼んだ。その声に、響子は隣に立つ友人の方へ顔を向ける。
「……本当に、これから一年大丈夫? アレで」
 響子の視線の先には、もの凄く不安だと顔に文字が書かれているのではと錯覚してしまうくらい顔の頬を引き攣らせ、大樹達が去った方向を指差す志保の姿があった。
「……大丈夫、だと……いい、な」
 友人の言葉に、響子は途切れ途切れに自分の願いにも似た言葉を口にする。
 これから一年、退社まで無事仕事を続けられますように。彼女はそう願わずにはいられなかった。
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