契約書は婚姻届

1.秘密の結婚生活続行決定

「……ん」
 五月のとある日曜日。平日より少しばかり遅く目覚めた響子は、ベッドの上で閉じていた瞳をゆっくりと開いた。
 まだぼんやりとする意識の中、顔だけ横を向き、自分の隣で横たわり寝息を立てている男のを見つめる。
 入籍の手続きを終え、ようやく正式に真の夫婦となった大樹と響子。
 自分の隣で眠る大樹の姿を目にし、響子の口元にはわずかな笑みが浮かぶ。
 数年前二人は初めて出会い、今から一年と半年程前に再会を果たした。正直、響子にとっては、一年半前の出会いが初めてという認識が強いのは仕方ないのかもしれない。彼女がそう思ってしまう程、最初の出会いは本当に偶然だった。
 大樹はその偶然の出会いに心の底から感謝し、同じ会社で働く年下の新入社員の女性を、何年もの間想い続けてくれた。
 この話を初めて彼から聞いた時、響子は正直驚愕するばかりだった。それでも、自分の目の前に居る男の真っ直ぐで優しい姿に心惹かれた。
 大樹の言動一つ一つが、すべて愛する女性のためのものだと知り、そこまで自分はこの男に想われているのかと、衝撃と共に感動し僅かな照れくささを感じた響子。
 これからも、他の誰よりも優しく、少しばかり不器用な彼の傍にずっと居たい。隣に立ち、そんな彼を支えたい。そんな感情が彼女の中に芽生えたのだ。
「…………」
 寝ている大樹を起こさないよう気を付け、響子はベッドの中で身じろぎ自身の左手薬指に光るものを見つめる。
 それは、婚姻届を提出した日の前夜、夫から渡された結婚指輪だ。指に光る物を見つめながら、彼女は、本当に自分は目の前にいる男と結婚したのだと実感する。
 仕事に行く時は外してしまうものの、家に居る時や休日には、必ずこれを身につけていようと決めた。
 シンプルな甲丸のストレートなデザイン、そして中央には小さなダイヤモンドが輝いている結婚指輪。その指輪は、響子の左手薬指で自身の存在を主張している。
 ちなみに、大樹用のものは、響子のものと同じデザインだが中央のダイヤモンドが少しばかり違う。大樹の指輪は、男性用を意識してなのかブラックダイヤモンドが輝いている。
 結婚指輪をしばし見つめ、ふと自分の頬が緩んでいる事に響子は気付いた。嬉しさのあまり、指輪を見てニヤついていたなど、誰かに見られてしまっては、恥ずかしくて仕方ない。ちらりと横目で隣を確認すれば、大樹はまだ目を閉じ眠っている様だ。
 自分のニヤついた顔を夫に見られなくて良かったと一安心した彼女は、早速行動を開始しようと頭を切り替える。
 いくら休日とは言え、いつまでもパジャマ姿で居るわけにはいかない。まずは着替えをし、身支度を整え、そしていつも通り朝食を作る。その間に大樹が起床しない場合は、朝食を作り終わった後、寝室に戻り彼を起こさなければいけない。
 頭の中で朝の行動を確認し、よし、と小さな声で呟いた響子は、ベッドから降りようと体を動かす。
「……動けない」
 しかし、ベッドの上で上半身を起こそうと体に力を入れるも、何かにその動きを阻まれ彼女は再びベッドの上へ横たわる事になった。
 チラリと視線を動かし、自分の腹部周辺を見れば、そこには隣で寝ている男の腕がしっかりと巻き付いている。まるで妻を抱き枕のように抱きしめ眠る夫のせいで、今の響子はベッドから起き上がる事すら出来ない。
 このまま起きなければ時間はどんどん過ぎるばかりだ。いくら休日とは言え、ダラダラとベッドの中で過ごすわけにはいかない。
 その後、どうにか大樹の腕の中から抜け出すため、腹部に巻きついた腕を取ろうとするが、熟睡している彼を起こさないようにと気を遣うあまり、数分間頑張ったものの、未だ響子はベッドの中から出る事が出来ない。
 本気で抜け出そうとすれば、しっかりと自身の体に巻きついた腕を取る事は出来るだろう。しかし、それでは大樹を起こす事になってしまうため、彼女は一体どうすれば良いのかと迷い始める。
「……どうすればいいの」
「響子ちゃん駄目だよ、そっち行っちゃ……」
「なっ!? はぁ……」
 どうしたものかと思わず心の声が口から漏れた瞬間、大樹の寝言が聞こえ、自身を抱きしめる彼の腕の力が更に強くなった事を感じ、響子は溜息を吐くしかなかった。
 隣で眠る夫の夢の中に自分が出演している事に恥ずかしさを感じつつ、苦笑した彼女は、こうなったら寝ている彼を起こすしかないと決断する。
「大樹さん、大樹さん」
 右腕を伸ばし、名前を呼びながら、隣に眠る大樹の肩を軽く叩いたり揺すったりを繰り返した。
「んー……どうしたの」
 名前を呼び、後半は肩を軽く揺すった事が効果的だったのか、今までずっと眠っていた大樹が、ゆっくりと目を開け声を発する。まずは第一段階成功と響子はホッと安堵の息を吐いた。
「朝ご飯の準備をしたいので、離してもらえませんか?」
 そう言って響子は、自分を抱きしめている大樹の腕をポンポンと叩いた。これでようやく行動を開始出来る。そう思った彼女は、夫の腕から抜け出そうと頑張った数分前の自分を思い出し、朝一から大きな仕事を終えた気分になった。
 さあ早く自分を解放してくれ、と響子は大樹の腕が離れるのを待っていたが、何故かいつまで経っても腕の重みが消える事は無い。
 一体どうしたのだと不思議に思いながら、起き上がるために天井を見つめていた視線を隣に居る夫へ再度向ける。そして次の瞬間、彼女は驚きのあまり大きく目を見開いた。
「だ、大樹さん! ちょっと! 寝ないでください、起きてっ!」
 なんと一度目覚めたはずの大樹が、再度目を閉じ眠ろうとしていたのだ。慌てた響子は、焦りから今までより大きな声を上げ、バシバシと夫の腕を強く叩く。
 大樹と共に暮らし始め、同じベッドで眠るようになってから、彼があまり朝に強くない事を響子自身理解していた。しかし、二度寝しようとする姿を初めて目の当たりした今、彼女は驚かない方が無理だと声を上げて主張したくなった。
「……どうせ今日は日曜日でしょう。せっかくの休みなんだから、お昼くらいまで寝てようよ……」
 そう言って、このまま起きない事を主張するように、妻の体をギュッと抱きしめ、彼女の首元に大樹は顔を摺り寄せる。
 温かい、と暢気に妻の体で暖を取る夫の姿に、響子は呆れ果てながらも、このままではいけないと、自身の気持ちを奮い立たせる。
 このまま昼頃まで寝かせたい気持ちを我慢し、ここで彼を起こさなければいけない。そんな使命感にも似た感情が彼女の中に生まれた。
「お休みだからって、いつまでもダラダラしてちゃ駄目ですよ! ほら、ご飯作りますから、一緒に食べましょう」
 精一杯の力を込め、体を拘束する腕を持ち上げようと頑張る響子だが、腕は数センチ程度上に上がるものの、それ以上は何度力を込めても無理だった。それどころか、力尽きて手を離せば、夫の腕は響子の腹部へ戻ってきてしまう。大樹が意図的に腕へ力を込めているのは明白だ。
「響子ちゃんのご飯食べたい……でも寝てたい。響子ちゃんのご飯はお昼ご飯にしよう、そうすればもうちょっと寝られる」
「そんなに長時間寝てたら、逆に疲れませんか? それに、夜寝れなくなりますよ? 明日も仕事なんですから」
 勝手な理屈を並べ、未だ起きる気ゼロの大樹。そんな彼の腕の中で身じろぎ、夫のすぐ目の前まで響子は自分の顔を近付け、声を掛けた。
「……響子ちゃん、何俺の母さんみたいな事言っちゃってるの。学生時代の母さんの台詞そのままだよ。……布団引っぺがされないだけ良かったけど」
 すると、妻の言葉を聞いた途端、大樹は今まで閉じていた瞳を大きく開け、酷く驚いた様子で彼女の顔を凝視し言葉を漏らした。
 今の言葉から想像するに、大樹の寝起きの悪さは学生時代から続いている様だ。その事に溜息を吐きそうになるも、それを我慢しつつ響子は目の前にある夫の眉間を指でグリグリと突いた。
「目が覚めたのなら、さっさと起きて欲しいんですけど」
 指を夫の顔から離し、再度起きて欲しいと響子は訴える。しかし、そんな妻の訴えを聞いても、大樹はえー、と明らかに嫌そうな声を発した。
「どうしたら起きてくれるんですか……」
 ここまで断固として起きる事を拒否する夫の姿に、もう打つ手なしと両手を上げたい気分になる。
 平日なら、自分が朝食の支度をしていれば、いつも大樹は自力で起きてくる。しかし会社が休みというだけでここまで違うものなのか、と夫の態度に呆れるばかりだった。
「そこはほら、お目覚めのチューをしてくれるとか」
「なっ!?」
 どうしたら起きてくれるのか。そう問いかける妻の言葉に、満面の笑みを浮かべ大樹は自分の希望を口にする。
 予想外過ぎる夫からの要求に、響子は瞬時に顔を赤くし、その後しばらく人形のように動く事が出来なかった。
 大樹と出会ってから、既にキス以上の事を何度もした事もあるため、今更キスをする事が恥ずかしいというわけでは無い。しかし、唐突過ぎる夫の要求に彼女は反射的に顔を赤くし固まってしまう。
「ほ……本当に、キスしたら……起き、ますか?」
「うん、起きる起きる」
 にこにこと笑みを浮かべ、愛する妻を見つめる大樹。そんな彼の様子を見つめ、赤くなった顔を見られたくないと、掛布団で顔の下半分を隠すという、ささやかな抵抗を見せる響子。
 冷静に考えれば、現段階で大樹はすっかり目が覚めていると理解出来る。しかし、突然キスをして欲しいと言われ混乱する響子は、その事に未だ気付いていない。
「……っ」
 しばらく悩み抜いた末、ここは素直に彼の言葉に従った方が良いと判断した彼女は、恥ずかしさを我慢しながら、少々ぎこちなく大樹の唇に自ら口付ける。
 キスはもう何度もしているが、その大半は大樹から行動を起こす事が多い。
 そのため、自分からキスをするという行為には、いつまで経っても慣れないと、響子は恥ずかしさのあまりベッドの中へ隠れたくなった。
 しかし、自分は夫からの要求に答えた。これでようやく彼は起きてくれる。そんな達成感にも似たものを感じていた彼女は、恥ずかしさよりも早くベッドから起き上がりたいという気持ちでいっぱいだ。
「うんうん、恥ずかしがる響子ちゃんも可愛いな。それじゃおやすみー……」
「……えっ?」
 さぁ早く自分を拘束する腕を解いてくれと言わんばかりの視線を夫へ向けようとした瞬間、響子は自分の耳に届いた言葉が理解出来ず、反射的に聞き返しながら隣に居る大樹の方を向いた。
 すると、彼女の目の前には、今まで開けていた目を閉じ、再度眠る体勢に入る夫の姿があった。
「……っ! 大樹さん!」
 その直後、寝室内に響子の声が響き渡る。
 まだ寝ていたいというのは彼の本心だが、相変わらず大樹は、自分の言動に素直に反応を見せる妻をからかう事が楽しくて仕方ない様子だ。
 その後、二人の攻防戦はしばらく続き、結局彼らが遅い朝食にありつけたのはそれから一時間近く経ってからだった。



「響子ちゃんさ、今の仕事好き?」
「……はい?」
 寝室での攻防戦から約半日、大樹が口にした唐突すぎる質問に、響子は驚きのあまり、目の前に座る夫の顔を凝視した。
 それは、日中に二人で一緒に食材を買いに出掛け、今朝の罪滅ぼしとばかりに、簡単な調理作業を手伝ってくれた大樹と共に作った和風ハンバーグを美味しく食べていた夕食の最中に起きた。
 あまりにも突然すぎる問いかけに、自分の耳が変になってしまったのかと、首を傾げ聞き返してしまった響子は、右手に箸、左手にご飯茶碗を持ったまま動きを止める。
「それは……嫌い、では無いですけど」
 響子は戸惑いながらも、やっと投げ掛けられた質問に返答する。
 今の仕事が好きかと言われれば、正直胸を張って好きと言える自信は無い。だからと言って彼女は、今の仕事が嫌いだとも言えなかった。社内での人間関係は良好だし、仕事面ではそれなりにやりがいを感じている。
 営業や開発関係の仕事をしている他の社員達より、自分は割と楽なポジションに居るという事を、彼女は少なからず自覚している。
 総務部の仕事がすべて楽というわけでは無いが、会社内にある全部署の仕事量や内容を改めて考えれば自然とそんな事を思ってしまうのだろう。
「どうしたんですか、いきなり」
 大樹の質問の意図が解らず、響子は首を傾げるしかなかった。
 そんな彼女の様子に、大樹は咀嚼したハンバーグを飲み込み再度口を開く。
「ちゃんと婚姻届も出して、俺達は正式な夫婦になったわけでしょ? だから、ね……もし響子ちゃんが今の仕事が大変だって言うんなら、無理に働かなくてもいいと思ってさ」
 夫から告げられた言葉を、響子は黙って受け止める。
「俺も、まぁ……そこそこのお給料貰ってるから、ここの家賃とか、二人分の生活費とか、今後の生活に必要なお金は確保出来る。だから、響子ちゃんは仕事を辞めて、のんびりしててもいいんじゃないかな……って、俺的にちょっと考えたりしてね」
 つまり大樹は、響子に仕事を辞め、今後は専業主婦になる道もあるのだと提案しているらしい。
 確かに彼の言う通り、彼女が仕事を辞めても金銭面で困る事は無いのだろう。
 実際、同居を始めてから再婚するまでの期間、ここに住む家賃として大樹へ支払っていた響子の金はまったく使われる事無く、大樹がすべて銀行に預けていた。
 再婚前提の交際が決まった後、その金は今後何かあった時のために使おうと二人で話し合い、名義を大樹から響子へと変更し、今も銀行に預けてある。
 大樹からの突然の提案に響子は驚愕するばかりだったが、夫は夫なりに自分の事を気遣ってくれているという事は彼女にも理解出来た。
 響子は、実際自分が今の仕事を辞め、専業主婦として過ごす未来を少しばかり想像する。
 のんびりしていても良いと言われても、日中はこの家に一人きりになり、掃除や洗濯をする毎日が続く事になるのだ。慣れないうちはその忙しさで気が紛れるかもしれないが、やはりこの広い家に一人というのは寂しさを感じるのではないだろうか。
 余った時間を活用し、何か自分の好きな事でも始められれば良いのかもしれないとも考えたが、響子自身これといった趣味を持っていないため、どうしても時間を持て余しそうだ。
「あの……このまま仕事を続けるのじゃ、駄目……ですか?」
 考え抜いた結果、やはり今と同じ生活を続ける事が、今の自分には一番合っているのでは無いかと結論を出した響子。せっかくの夫の気持ちに申し訳無さを感じながら、彼女は躊躇いがちに言葉を発する。
「いやいや、響子ちゃんが仕事続けたいって言うんなら、全然続けてくれて構わないんだ。でも……」
 夫の様子を窺うような妻の反応に、大樹は慌てて持っていた箸をテーブルの上へ置き、右手を横に数回振ると仕事をするのは構わないと口を開く。しかし、彼はその直後何故か言葉を詰まらせ、数秒何かを考え込むように黙ってしまった。
「……大樹さん?」
 突然黙り込んだ彼の様子が気になり、響子は恐る恐る夫の名前を呼ぶ。
「仕事するのはいいんだけど……そうなると、今までのように俺達が結婚してるって事を秘密にしなきゃいけないな、と思ってさ」
 響子が仕事を続けるには自分達の結婚を秘密にしなければならない。そんな彼の言葉に、響子は不思議そうに首を傾げる。
 借金返済のための結婚は既に終了し、正真正銘互いの気持ちが通じ合っているからこそ、今こうして一緒に生活をしている。相思相愛で結婚した今、それを隠す理由があるのかと、彼女には夫の言葉が不思議に思えて仕方なかった。
「まだ……隠してないといけませんか?」
「普通にする分には、別に隠さなくていいと思うけど……仕事続けるのなら、会社内では隠した方がいいと思うよ? 響子ちゃんの立場的にバレると大変になるだろうから。だってさ、俺一応副社長でしょ? そんな人と結婚してるのに、まだ会社で働き続けるのかって絶対嫌味言われると思うんだ」
 先程からずっと夫が懸念していた事を伝えられ、その意味を理解した響子は、確かにそうだ、と頷く事しか出来なかった。
 自分が現在勤めている会社の副社長と結婚したというのに、更にこのまま働き続けるという状況は、他の社員達から見れば印象は良く無いだろう。
 今の仕事を辞めれば、そんな事を気にせず知人達に大樹が自分の夫なのだと、堂々と紹介出来る。
 現在、響子達の結婚を知っている人々はごく僅かだ。その中で響子が接する機会があるのは、自分の両親、一番仲の良い友人である志保、大樹の親友である誠司、大樹の弟であるみずき、そしてコンシェルジュ達と限られたメンバーのみ。
『響子様、お仕事お疲れ様です!』
 ふと、数日前帰宅した時に見た、コンシェルジュである工藤の顔を思い出す。
 大樹と再婚前提の付き合いを始め、またこのマンションに住むと決めた時、普段から何かと自分達を気に掛けてくれるコンシェルジュ達には、仲直りした事と時期は未定だが入籍する事を伝えた。
 流石に、借金返済のための結婚や、離婚した事までは言えなかったが、それでもコンシェルジュ達は皆嬉しそうに祝福してくれた。
 彼らの中では、恋人同士として同棲していた二人が、突然の喧嘩で少しの間離れていたものの、再び一緒に暮らす事を選び結婚を決めた、という一連の流れが出来ているのかもしれない。
 響子達が結婚してから、今まで『水越様』と響子の事を呼んでいたコンシェルジュ達は皆『響子様』と彼女を呼んでいる。
 結婚したのだからいつまでも水越様と呼ぶわけにもいかず、かといって浅生様と呼んでは大樹と区別がつきにくい。それなら響子様と呼んではどうか。そう提案したのは橋本だった。
 まだ少しばかり気恥ずかしさを感じながらも、響子は橋本達に下の名前で呼んでもらえる事で、大樹と結婚した事をより実感出来ると嬉しく思っている。
「……それじゃ響子ちゃん、こういうのはどう?」
「え? あ、はい?」
 しばし自分の世界に浸っていた響子を大樹の声が現実へ引き戻す。咄嗟の事に疑問形で返事をしてしまったが、大樹はそんな妻の様子を特に気にする事無く口を開いた。
「私実は結婚したので会社辞めますで、すぐに辞められるわけでも無いしさ。響子ちゃんも、今の仕事しばらくは続けたいのなら……今年度、来年の三月までの約一年間。そこまで仕事をして、三月いっぱいで退職っていうのは、どうかな?」
「え、でも……いいんですか? それって」
 大樹からの提案は、今の響子にとってかなり魅力的なものだ。しかし、そんな事をしてしまって良いのかと、彼女は戸惑いを見せる。
「大丈夫だと思うよ。だって、今までと何も変わらないじゃない。響子ちゃんは今まで通り、水越響子として仕事をすればいい。結婚してるのは秘密だけど……今までも隠し通せたし。それにほら、旦那が居るじゃなくて、彼氏が居るとかなら言っても大丈夫じゃないかな」
 そう言って、笑顔で仕事を続けてはどうかと妻に提案する夫の姿に、響子は自分の心がじんわりとあたたかくなるのを感じた。
 自分より他人を優先する人だと理解し始めた夫の性格。それをこんな形で改めて認識させられるなど、予想外の展開だった。しかし、自分のためにこんなにも一生懸命考えてくれる大樹の気持ちがとても嬉しかった。
「大樹さんは……それでいいんですか?」
「うん、全然。だって響子ちゃん、今の仕事すぐに辞めたいわけじゃないでしょ? だったら、無理してすぐに辞めることはないよ」
 どこまでも優しい大樹の言葉に、響子は有難うございますと頭を下げる事しか出来ない。
「それじゃ、今まで通りの生活を続けつつ、頑張っていこうか」
 大樹はそう言うと、突然スッと響子の目の前に自身の右手を差し出した。一瞬戸惑いを見せる響子だったが、すぐにその意味を理解しその手を握る。
「こうしてると……料亭で握手した時の事を思い出しますね」
「そうだね、あの時も握手したっけ。それじゃ、これから一年、頑張ってお仕事してね。……俺の奥さん」
「頑張って会社のために精一杯働きます。……旦那様」
 互いに言葉を交わし、しっかりと握手をする二人。しかし次の瞬間、ダイニングルームには今のやりとりが可笑しいとばかりに、彼らの笑い声が響き渡った。
 これから約一年間、響子と大樹は互いに結婚している事を会社に明かさず仕事を続ける。
 二人が握手を交わした瞬間、再び、二人の秘密の結婚生活の幕が上がったのだった。
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