契約書は婚姻届

40.クラクションを二回

 今までずっと謎だった、大樹が自分達家族へ接触してきた理由を知った響子は、大きな驚きを感じながらも、どこか落ち着きを保っていた。
 響子にずっと黙っていた事を打ち明けた大樹は、未だ俯いたまま顔をあげようとしない。
「…………」
 そんな彼の姿をしばらく見つめていた響子だったが、突然その場から立ち上がると、ゆっくりと大樹の傍へ近付き、彼の真横に座り込む。
「……? ……って」
 俯いたままの状態でも、自分の傍に響子が来た事を気配で感じた大樹は、視線だけをそちらへ向ける。そして次の瞬間、自身の後頭部に衝撃を感じ、思わず痛いと声を漏らした。
「……そんなに強く叩いてません」
 痛そうに声を漏らす大樹の様子を不満そうに見つめながら、響子は尚もペシリペシリと彼の頭を叩き続ける。本当はもっと力いっぱい叩きたいが、そこまでしては可哀想だと、彼女の中にある良心が力を制御させていた。
「……どこまでお人好しなんですか、本当に」
 隣に居る男の頭を叩き続けながら、響子はまるで独り言でも言うように喋り出す。
「副社長なんてなっちゃうんですから、頭悪く無いんでしょ。それなのに……どうしてそんなに馬鹿なんですか。いつも皆に優しくして、人の事ばっかり考えてるから、疲れきっちゃうんですよ」
 響子は俯き続ける彼の顔を見る事なく、その頭を叩き続けながら目の前に座る人物への文句を口にする。文句と言うには少しばかり変なのかもしれない。自分の思った事を、彼女は次々言葉にしていく。
 相手は自分が勤める会社の副社長だ。そんな人の頭を叩き、こんな暴言を吐いているなんて、きっと許される事では無い。そう頭ではわかっていても、響子は自分を止める事が出来なかった。
「…………」
 そんな彼女の言動に対し、大樹は文句一つ言わずただ黙ってそれを受け入れる。響子の言葉がどれも的確すぎて、彼に反論する余地はまったく無かった。
「本当に……大樹さんは馬鹿です。たった一度会っただけの新人社員が困ってたからって、こんな事までして助けて……正真正銘の馬鹿ですよ」
「……あはは」
 馬鹿だ馬鹿だと散々言われ、彼はかわいた笑い声をあげる。
「今まで生きてきて、ここまでお人好しの人なんて初めて見ました。呆れて何も言えません」
 違う。違う……本当はこんな事が言いたいんじゃない。彼を叩きたいわけじゃない。
 本当はありがとうとお礼を言いたいのに。彼を力いっぱい抱きしめたいのに。それが出来ず、想いとは正反対の行動を取ってしまう自分が嫌になった。
「ごめんねー、本当に」
 彼の力無い謝罪の声が耳に届く。それは何に対してのごめんなのだろう。一体今何に対して彼は謝っているのだろう。
 頭の中で疑問がぐるぐると回り始める。目の前に居る男に対し、自分は心底呆れ果てこの場を去れたらどんなに良かったか。そんな想いが芽生え始める。
 それでも、もしこのまま大樹と別れていたら、未練がましく彼を思い続けて一生過ごしていたのだろうか。
 彼の優しさ、あたたかさを知ってしまった今、きっと私がこの人から離れる事は難しい。自分よりもまず他人の事を考えてしまう彼の腕の中が心地いいと知ってしまった今、これからもこの場所に居たいと思う自分が居る。
「…………」
 不意に大樹の頭を叩く事を止め、黙り込んでしまった響子。そんな彼女の様子を窺うように、大樹は心配げな表情を浮かべ、ようやく顔を上げた。
 黙り込んだ響子と心配そうな表情を浮かべる大樹。そんな二人の視線が、互いに相手を見つめる。
 数分、いや十数分ぶりに見た大樹の顔。そんな彼の表情を見た瞬間、響子はまるで吸い寄せられるように、自ら目の前に座る男の唇を自身の唇で塞いでいた。
「……っ!?」
 唐突過ぎる響子からの口付けに、大樹は目を大きく見開き、驚きのあまり体を硬直させる。その直後、数秒触れ合っていた唇が離れ、自分の目の前には頬を染め恥ずかしさに俯く響子が居る事を認識する。
「え……響子、ちゃん……何で?」
 狼狽える大樹の姿に、響子は無言で、今度は先程より少々強めに彼の頭を叩く。今の行動の意味くらい気付いてくれないか。そう願いたくなったが、目の前に居る男には難しいのだろうと、響子は小さく溜息を吐く。
「……私より年上なんですから、そういう事は気付いてくださいよ」
 そう言って、響子はその場に座り込み目の前で呆然とする男から顔を逸らす。
 先程聞いた彼の話によると、どうやら大樹はあまりポジティブに物事を考えられないみたいだ。常に悪い方悪い方へと考えてしまうのは、もう彼の性格なのだろうか。
 一見明るくフレンドリーに見え、気楽に物事を考えそうな見た目をしているのに、実際の内面はとても繊細な男。見た目と中身にギャップがあり過ぎるのではと驚きを隠せそうにない。
「だって……俺の事嫌いになったから、離婚したいって言ったんでしょ?」
 頭上から聞こえてくる大樹の弱々しい問いかけ。その声に響子は、自分が彼に離婚届を渡した時の事を思い出す。
 そう言えばあの時、離婚届を見せただけで、特に離婚の理由を伝えていなかった気がする。元々彼には、美千代から嫌がらせを受けている事は言っていなかった。大樹からすれば、出張から帰ってきた途端、いきなり妻から離婚届を渡された状況だったのだろう。
「あれは……美千代さんの事で。あのまま私が居たら、大樹さんに迷惑が掛かると思って……」
 いきなり何も言わずに離婚届を渡されたのだ。それでは確かに自分が嫌われたと思って当然か。自分の言動が、大樹に誤解を与えていたと知り、響子は思わず苦笑いを浮かべる。
「それじゃ、さ。俺の事……嫌いになったわけじゃない、の?」
 尚も不安そうな声で問いかけてくる大樹。この状況でそれを聞くんですか、と口から飛び出しそうになった言葉を、彼女は慌てて呑み込んだ。
 今ここで言い返してしまっては、不安がっている大樹に更なるダメージを与えてしまうかもしれない。恥ずかしいと思いつつ、響子は大樹の問いかけに小さく首を縦に振り、自分の答えを示した。
「……?」
 だんだんと頬に熱が集まってくるのを感じながら、大樹の反応を待っていた響子だったが、いつまで経っても彼からの反応は何も無い。
 一体何かあったのかと、若干不安になりながら、彼女は恐る恐る逸らしていた視線を目の前に座る大樹の方へ向けた。
「えっ」
 そして、その顔を見た瞬間、彼女は自分の目がおかしくなったのではと疑いたくなった。
「……っ、よ、良かったぁ」
 自分は響子に嫌われたわけではなかった。それを知った大樹は、赤くなった顔を隠すように口元を手で覆い隠し、目に薄らと涙を浮かべていた。
 予想外過ぎる彼の反応に、響子はどう対応していいのか分からず、しばし無言でその姿を見つめる。今にも泣きそうな、喜んでいるのかすらよく解らない反応だ。
「大樹さん……あの、泣くほどの事、なんですか?」
 数秒前までの恥ずかしさなど吹き飛んでしまい、思わずそう問いかけてしまった。すると大樹h、彼女の言葉に慌ててスーツの袖で自分の目元を乱暴に拭く。
「こ、これはあれ! おじさんになると、涙腺弱くなるんだよ!」
 泣き顔を見られた事が恥ずかしいのか、彼は必死に言い訳をする。
 その言い訳が本当に正しいのかはわからないが、実際今目の前で泣いていた男の姿を見て、ちょっと可愛いと思ったり、抱きしめたいと思ってしまった自分は相当重症なんだろ。響子は認めたく無いと思いつつ、自分の気持ちを認めるしかないと無言で小さく頷く。
 最初は最低の印象しか無かった男に、まさか自分がここまで惚れ込むとは思わなかった。世の中不思議な事が多いものだと思っていると、ようやく落ち着きを取り戻したらしい大樹が、姿勢を正し改めて自分を見つめている事に気付く。
「水越響子さん」
「は、はい」
 突然フルネームを呼ばれた事に驚きつつ、響子はどこかぎこちなく返事をする。
「もし……君さえ良かったら、俺と……改めて、再婚を前提にお付き合いしてください!」
 そう言って勢い良く頭を下げる大樹の姿を見た彼女は、この人はどこまで他人を優先するんだろうかと、少し呆れながらクスリと笑みを零す。
 そして、それが事実とは言え、せめて再婚では無く結婚と言って欲しかった。そう文句を言いたくなる気持ちを我慢する。
「……こちらこそ、よろしくお願いします」
 改めて告白されるのは気恥ずかしいものだと、頬の熱を感じながら彼女は思わず目を伏せる。
 響子の返事を聞いた瞬間、大樹は勢い良く顔を上げ、まるで子供のような笑顔を浮かべると、目の前に座る彼女を力いっぱい抱きしめた。



「大樹さん」
「んー? なーにー?」
 響子が名前を呼ぶと、大樹は気の抜けきった声で返事を返す。
「……あの、ずっとそうやって見られてると、もの凄く食べづらいんですけど」
 無事互いの気持ちを確かめ合い元通りになった響子と大樹。
 その後、想いが通じ合った喜びを噛み締めながら、二人で残っていた料理を食べ始めた事は良かった。
 不安も心配も一切無くなったおかげか、ようやく目の前に並ぶ料理の美味しさを思う存分味わっていた響子。
 そして食事の最後に、デザートとして出された甘味を食べていた彼女だったが、とうとう我慢出来ず目の前に座る男に文句をぶつける。
 自分用に出された甘味に一切手をつけず、先程から彼は満面の笑みを浮かべ、甘味を食べる響子を見つめている。目尻は下がり、頬も何もかも緩みきったその笑顔は、彼が今とても幸せなんだという事を示していた。
 嬉しさを表現するのは、別に悪い事では無い。むしろとても良い事だと思う。しかし、だからと言って、食事をしている所を見つめられるのはあまり気分の良いものでは無い。
「俺の事は気にしなくていいから。あ、良かったらこっちも食べる?」
 そう言って自分の目の前にある皿を差し出す彼に、大樹さんが食べてください、と返し、響子は小さな溜息を吐いた。
 気にしなくていいと言われても、気になってしまう場合はどうすればいいのだと、目の前の男に問いかけたい。
 確かに、またこうして大樹と一緒に居られる事は、響子にとっても嬉しい展開だ。彼女自身、内心はこれ以上無いくらい喜びを感じている。
 しかし、目の前に座る男は、その嬉しさを我慢する事無く自分の中から放出している。実際に見えるわけでは無いが、響子の目には、大樹の周囲にピンク色のオーラと、いくつもの可愛らしい花が見えていた。
 そして彼女には、もう一つ気になる事があった。
「いい加減……出なくていいんですか?」
 そう言って彼女が指差した物。それは、テーブルの隅に置いてある大樹の携帯電話だ。先程から何度も着信が入っているのか、テーブルの上でマナーモード状態のそれはブルブルと震えていた。現在も電話が掛かってきているようで、大樹の携帯電話は小刻みに震えている。
 携帯電話に最初の着信が入ったのは、今から約十五分程前。最初は誰から電話が掛かってきたのかを気にしていた大樹だったが、今ではテーブルの上に置いた携帯電話を見ようともしていない。
 何度も着信があるという事は、きっと電話を掛けている相手は同じ人なのだろう。その人は大樹に用事があるからこそ、諦めずにこうやって何度も電話を掛け続けている。
「いいのいいの。大した用事じゃないから」
 そう言って軽く手を振る大樹。大した用事じゃないのなら、こんなに何度も電話をしてこないだろう。大事な用事だからこそ、この状況になっているのだと、響子は溜息を吐きたくなった。
「とにかく電話に出てください。私が居ると話しづらいんなら、どこか他の場所で待ってますから」
 このままでは、きっと大樹はずっと電話を無視し続けるだろう。それは流石に不味いと思い、響子は彼に電話に出るよう促した。仕事に関する話だった場合、自分がこの場に居るのはあまり良くないと思ったのか、彼女は個室から出るために立ち上がろうとする。
「わかったよー、出ればいいんでしょ、出れば。あ、立たなくて大丈夫だから、座ってて」
 口を尖らせ文句を言いながらも、響子に促されるまま大樹はテーブルの上に置いてあった自分の携帯電話を手に取る。
 響子は本当に自分が居ても大丈夫なのか不安に思いつつ、立ち上がろうと上げていた腰を下ろした。
「……もしもーし。一体何の用事ですかー」
 至極面倒くさいと言いたげに電話の向こうに居る相手と喋り出した大樹。そんな態度でいいのだろうかと、彼の様子に響子は不安を感じずにはいられなかった。
「……ほう、その様子だと上手くいったようだな」
 余計な音の無い個室に居るせいか、響子の耳にも電話の相手の声が聞こえる。
「そうです、なので邪魔しないでください。本当にお前は、そういう所の空気読めないよね、昔っから。俺より頭良いんだから、そういう所で気使え、馬鹿誠司」
 どうやら、先程から大樹に電話を掛けていたのは誠司らしい。響子は、電話の相手が自分も知っている人物だった事に少し安堵しつつも、親友に暴言を吐く大樹の姿に困惑する。
「誰が馬鹿だ、万年引き籠りのくせに。無事に解決したのなら、さっさとこっちに来い。主役が居ないんじゃ意味が無いんだよ」
「だからー、別にお祝いのパーティーなんてしなくていいって俺何回も言ってるでしょ? 副社長就任祝いのパーティーなんて、まったく行きたいと思わないんだけど」
 まさか大樹は、自分が主役のパーティーが開かれる事を知っていながら、わざわざ料亭へ響子を呼び出すメールを送ってきたと言うのか。
 電話越しに喋る大樹達の会話を聞き、自分の立てた仮説がきっと当たっていると気付いた響子は、声を発しなかったものの、驚きを隠せず目を見開いた。
「いいからさっさと来い。お前はまだ来ないのかってさっきから爺達がうるせーんだよ、あいつらの相手出来るのお前しか居ないだろうが」
 電話越しに聞こえる誠司の声のトーンが突然に低くなり、口調も荒々しいものへ変わっていく。その様子に、彼が相当怒っているという事は、いくら響子でも理解する事が出来た。怒鳴るわけでは無く、淡々と喋るその声が、余計に恐怖を感じさせる。
「……うわ、久々に誠司がキレた」
 電話越しに怒りをぶつけられた大樹も、現状を理解し、思わず独り言を漏らす。
「はぁ……よし、それじゃこうしよう。今からこっちに来るんだったら……明日と明後日の休日出勤、俺が変わってやる。来ないのなら、土日は予定通り仕事。来るのなら、お前は休み。さぁ、どちらか選べ」
「……今すぐ行きます」
 自分にとって、究極とも言える二択を親友から突きつけられた大樹は、渋々誠司の言葉に従うしかなかった。



「あー……行きたくない」
「そんな事言わないで。ほら、誠司さん待ってますから」
 誠司からの電話が終わった後、大樹はこれから仕事へ向かうため、響子はホテルへ帰るための支度をしたが、それから数分経った今、大樹は響子を後ろから抱きしめたままダラダラとその場から動こうとしない。
 駄々をこねる彼を宥めるように、自分を抱きしめる大きな手の上に彼女は自身の手を重ねる。
「誠司に待っててもらっても、全然嬉しくない。待っててもらうなら響子ちゃんがいい」
 そう言って愛しい彼女を抱きしめる腕に僅かに力を入れる大樹。文句ばかり言う彼の姿に、どうにかして仕事へ行かせなければと、響子の中に使命感に近い感情が生まれる。
「わかりました。マンションで待ってますから、頑張って仕事してきてください。あ、でも……」
 大樹を仕事へ行かせるため、マンションで待っていると言ってしまったが、現在の自分はホテル暮らしだという事を響子は思い出した。
 自分の車や荷物はホテルに置きっぱなしの状態だ。そんな状態で大樹のマンションへ向かって良いものかと、響子の中に迷いが生じる。
 なんとか自分を抱きしめる腕の中から抜け出し、改めて大樹に向き直ると、響子は、現在自分がホテルで寝泊まりしている事を彼に告げた。
「うーん、今夜は戻らないって、後で電話しとけばいいんじゃない? それで、明日二人で車と荷物取りに行こう。そしてまた一緒に暮らそう」
 今まで仕事に行きたくないと不満ばかりを呟き、不機嫌だった大樹の顔が、これからの事について話し始めた瞬間、今までの事が嘘のように笑顔になっていく。
 次々と変わる彼の表情に、この人は本当に素直な人なんだと改めて実感する響子。そんな彼女の目の前に、大樹はズボンのポケットから取り出した鍵を差し出す。
「あの後、念には念をと思って。マンションの管理人さんに頼み込んで、部屋の鍵変えてもらったんだ。今使える鍵はこれ一つだけだから、これ使って。すぐ帰るから、待っててね」
 はい、と頷きながら差し出された鍵を受け取る響子。そんな彼女を再度抱きしめ、その小さな唇に大樹はキスをした。
「話長い爺さん達の相手してくる元気ちょうだい。合間見て逃げてくるから……後で誠司に怒られるだろうけど」
「遅くなっても待ってますから。パーティーの主役が逃げちゃ駄目ですよ」
 こんな状況にも関わらず、未だ逃げ出す事を考えている大樹に苦笑し、少しでも彼が頑張れるようにと響子は軽く背伸びをし彼の唇にキスをする。
 その後、まだ少し嫌そうな顔をする大樹の背中を押し、無理矢理彼を車へ押し込んだ響子は、外に出てきてくれた数名の女性従業員達と一緒に、大樹の乗った車を見送った。
「いってらっしゃい」
 去っていく彼の車を見送りながら、響子は小さな声でいってらっしゃいと呟く。
 駐車場を去る瞬間、彼の車から聞こえた二回のクラクション。それはまるで『いってきます』と言っているような気がした。
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