契約書は婚姻届

41.もうこの手を離さない

『……お帰りなさい』
『ただいま』
 もうすぐ日付が変わろうとしていた頃、ようやく大樹は自宅のあるマンションへ帰ってきた。
 彼が、自身の帰宅を告げるチャイムを押した瞬間、リビングで待っていたであろう響子が玄関へ走り、急いでドアを開ける。そして、少し恥ずかしそうに笑みを浮かべながら、大樹におかえりと声を掛けた。
 あの時と同じ笑顔だ。大樹は嬉しそうに笑みを浮かべ、目の前に居る愛しい女性を抱きしめた。



「大樹、さん……あの、あまり見ないでください」
「残念な事に、それは聞けないお願いだな」
 ベッドの上に一糸まとわぬ姿で横たわっている状況に、響子は、恥ずかしさのあまり顔を赤らめ、自分の上に跨る大樹を見上げる。
 以前体を重ねた時は、いつも部屋を暗くしてくれたのに、何故今日に限って、彼は明かりをつけているのだろう。
 響子は慌てて周囲を見回し、ベッドサイドテーブルの上に置いてあったリモコンを見つけた。精一杯手を伸ばしリモコンを取ろうとするが、伸ばした手はあっという間に大樹に掴まれてしまった。
 そして彼は、掴んだ響子の手を自分の顔の近くへ持って行くと、彼女の手の甲や指に舌を這わせる。指の一本一本をゆっくり丁寧に舐められ、恥ずかしさに響子は思わず目を瞑ってしまう。しかし、それが逆効果だった。
 視覚を自ら絶った事で、より自身の手を舐める大樹の舌を敏感に感じてしまう。思わず漏れる自身の甘い吐息と共に、彼女の指を舐めていた大樹の小さな笑い声が響子の耳に届いた。
「響子ちゃん、俺に指舐められて興奮しちゃった?」
 次の瞬間、大樹の声はぐっと近くなり、耳元で喋る彼の吐息と言葉に思わず響子は目を見開く。
「なっ!? ち、違います!」
「違うのー? それじゃ、これは何でなのかなー?」
 慌てて否定する彼女の言葉に、大樹は不満そうに口を尖らせる。そして次の瞬間、彼は今まで握っていた彼女の手を離し、自身の手をゆっくり移動させる。そしてその手は、既に濡れ始めた響子の茂みの中心へと触れた。
「あ……やっ……あぁ」
 その中心を優しく厭らしい手つきで何度か撫でたかと思えば、響子の中に大樹の指がゆっくりと入っていく。
 次々に自身を襲う快感に耐えられず、逃げ腰になった彼女の身体を、大樹はもう片方の腕でしっかりと捕まえた。
「ちょ、何で逃げるの! 逃げない逃げない。痛い事は絶対しないから」
 そう言って大樹は、響子の耳の後ろや首筋、胸元など様々な所に口付ける。そして、唇を重ね触れるだけの口付けを何度も交わした。その間も、彼は響子の中に入れたままにの指を時折悪戯に動かし、彼女の反応を楽しんでいる。
「なんで、今日は……ひゃ! そん、なに……意地悪、なんで……ふ……んん」
 与えられる快感に溺れそうになりながら、響子は必死に考えていた。何故、今日の大樹はこんなにも意地悪なのだろう。今までの彼は、もっと優しく接してくれていたのに。
 今までに無い彼の愛し方に戸惑うばかりの響子。そんな彼女の様子に、大樹は思わず苦笑いを浮かべた。
「だって……本当の本当に、恋人同士になれたんだもん。もっと響子ちゃんの色んな顔が見たいなって。響子ちゃんの事、気持ちよくしてあげたいからさ……これでも一応、今までは我慢してたんだよ? 俺的に色々と」
 色々って何だ、と目の前に居る男の頭を叩きたくなるものの、乳首を舐められ、乳房を吸われた響子が発したのは、怒りに満ちた単語では無く甘い声だった。
 大樹から与えられたいくつもの快感に、徐々に響子の思考力は落ちていき、全身が熱くなっていく。
 もっと大樹に触れたい。その本能のままに、響子は自ら、目の前にある自分より大きな体に抱きつき、その男の顔を見つめた。
「…………」
 無言のまま、しばし互いを見つめ合う二人。そして、どちらともなく相手との距離を縮め、唇を重ねる。
 一体今日は何度彼と口付けを交わしただろう。ぼんやりと考えていた響子の様子に気付いたのか、まるでその事を咎めるように、大樹は彼女の口内に自身の舌を無理矢理割り入れた。
「んん! ん……ふ……」
「ん……は……」
 大樹の舌は、響子の口内を隅々まで舐め回し、時折彼女の舌を自身の舌先でツンツンと悪戯に突く。しかし大樹は、それ以上の事は何もしてこない。
 彼の舌から伝わる熱に浮かされ、響子は自分より大きな背中に回した腕に力を入れると、我慢出来ないとばかりに、自ら舌を動かし大樹のそれに絡めた。
 静かな寝室に、クチュクチュと舌を絡めあう水音が響く。
 自分を求める響子の姿が可愛い、愛おしくてしょうがない。大樹は、頬を染めながら懸命に舌を絡めようとする響子の姿に、無意識に目を細めながら笑う。
 しばらくすると、響子へのお仕置きは終わりとばかりに、大樹は唇を離した。離れていく二人の唇の間に糸引く唾液を彼はペロリと舐めとる。
「はぁ……あぁ!」
 次の瞬間、大樹は響子の中に入れる指を一気に三本に増やした。激しい口付けが終わり、呼吸を整えようとしていた響子だが、あまりにも突然すぎる強い衝撃に軽く達してしまう。
 達した瞬間、彼女は弓なりに体を反らせ、飲み込んだ大樹の指を離すまいと締め付ける。
 強張った力が抜け、ベッドシーツの上へ響子の体はゆっくりと沈んでいく。そして、大樹が入れていた指を抜いた瞬間、そこから愛液が溢れると共に、彼女の口から甘い声が漏れた。
「響子ちゃん……いい?」
 思考能力がだいぶ落ちた響子の耳元で、大樹は彼女に問いかける。彼が何を言いたいのか、数秒遅れながらも理解した彼女は、頬を染めながらこくりと頷いた。
 羞恥心は未だあるものの、大樹を受け入れたいという気持ちは確かに彼女の中に存在している。
 いつの間に用意していたのか、大樹は手早く避妊の準備を済ませると、再びベッドに横たわる響子の上に跨った。
「頑張って抑えるけど……ごめん、多分優しく出来ないと思う」
「……いい、ですよ。大丈夫ですから」
 そう言って力無くふにゃりと笑みを浮かべ、自分を見上げる響子の健気な姿を見た瞬間、大樹は反射的に彼女の体を抱きしめていた。
「あー、何でそうやって煽るの! ……本気で辛かったら言ってよ」
 最後の忠告をする大樹だったが、我慢出来ず、最後まで言い終わる前に、己の熱を響子の中へゆっくり沈めていく。
 久しぶりに感じる互いの熱は、二人にとって今日一番の快感に違いない。
「ひゃっ! あ、あっ……はぁ……」
「はぁ……う、……んっ」
 最初は響子の身体を労わるように、ゆっくりと腰を動かしていた大樹も、己の本能に負け動きが徐々に激しくなっていく。
「大樹さん、大樹、さ……あぁ!」
「響子ちゃん……はぁ……好きだ、響子……っ」
 互いを求めるように名前を呼び、力強くその体を抱きしめ、二人は今までに無い幸せを感じながら果てた。



「響子ちゃん、大丈夫?」
「……はい」
 自分を心配する大樹の声を、微睡みながら聞いていた響子は、小さな声で返事をする。
 日付がすっかり変わってしまった深夜、響子は大樹の腕の中で幸せを感じていた。自分の体を気遣う彼の優しさが嬉しいと、甘えるようにその首元へ顔を埋め、ピッタリと抱きつく。
 気を抜けば閉じてしまいそうになる瞼を必死に持ち上げながら、響子は睡魔と懸命に闘っていた。
 このあたたかく心地良い幸せをもっと味わっていたい。その一心で、ウトウトと今にも眠ってしまいそうになりながらも、気怠い体に力を入れ、響子は隣に横たわる大樹の顔を見上げる。
 その時、彼女はふとある事に気付いた。夜中のせいか、少しばかり髭が伸びているものの、間近で髭を剃った大樹を見るのは初めてかもしれない。
「…………」
 思わずその顔にゆっくりと手を伸ばし、髭の生え始めた彼の頬を何度か撫でる。
「どうしたの、何かある?」
 突然頬を撫でられた事に驚きつつ、大樹は目を細めながら優しい声で彼女に問いかけた。
「髭……剃っちゃったんですね」
「えっ? あぁ……これね。副社長として人前に出るんだから、そんな髭さっさと剃れって誠司が言うからさー。毎朝仕事前に剃るの面倒なんだよね」
 前は楽で良かったのに、とブツブツ文句を言う大樹。響子はその説明を聞きながらも尚、彼の頬をずっと撫で続けていた。
「どうして……副社長になったんですか」
 大樹の答えを聞き、また新たに生まれた疑問を目の前に居る彼へ問いかける。
 肩書をあまり好いていない様子の大樹が、何故副社長というポジションへ就任したのか。そんな疑問が響子の中に生まれた。
「今まで、会社にも誠司にも散々迷惑掛けてきたからね。もう仕事も普通に出来そうだし、これは……俺の個人的な恩返し。って、響子ちゃん……いつまでほっぺた触ってるの? そんなに楽しい?」
「あ、いえ……なんか、まだ大樹さんのその顔は見慣れない、と思って」
 副社長就任の理由を話していた大樹だったが、ずっと自分の頬を触り続ける響子の姿に、彼は可笑しそうにクスクスと笑いだした。
 ずっと頬を触っていた事を指摘され、思わず手を離した響子は、恥ずかしそうに言い訳を口にする。
 見慣れないと思ったのは本当だ。響子の中で既に出来上がった大樹のイメージ。無精ひげ姿の彼を見慣れたせいで、どうも髭を剃った大樹を見ると違和感を感じてしまう。
「響子ちゃん的には、髭あった方がいい? 一応、髭剃ったらちょっと若く見えるかなって思ってるんだけど」
「ふぁ……私は、どっちの大樹さんも……好き、ですから……」
 とうとう限界に達したのか、響子は小さく欠伸をし、大樹からの問いに答えている途中で眠りに落ちてしまった。
「……何で最後の最後で巨大爆弾落としてくんだ、この子は」
 すやすやと寝息を立てる響子の頬を、遠慮がちに軽く突きながら、大樹はポツリポツリと悔しそうに呟く。暗くなった室内では分かりにくいが、その顔は薄ら赤くなっている。
「ますます誰にも渡したくなくなるでしょうが。はぁ……さて、俺も寝るか。明日はホテルに行って荷物持ちしなきゃいけないし」
 大樹は、響子が寒くないようにと、少し乱れていた掛布団を直し、ちゅ、と隣で眠る彼女の額に口付ける。
「おやすみ、響子ちゃん。ありがとね、こんなダメなおじさん好きになってくれて」
 寝息を立てる響子を見つめ、そう小さく呟いた大樹は、自分の腕の中で眠る愛しい彼女を優しく抱きしめ、ゆっくりと目を閉じた。



 二人の再婚前提の交際が始まってから約二ヶ月。五月のある晴れやかなこの日、響子と大樹は二人揃ってある場所を訪れていた。
「……はい、確かに受理いたしました」
 そう告げる役所の男性職員の言葉に、二人は思わず揃って笑みを浮かべる。対応してくれた男性職員にありがとうと礼を言い、二人は互いの手を取り合い外へ向かう。
「再婚するのって、禁止期間があるって聞いてたんですけど……違うんですね」
「あー、それは女の人の場合ね。違う人と再婚する場合は、何か月か禁止期間があるらしいよ。でも、今回みたいに同じ相手と再婚する場合は、別に禁止期間は無いんだってさ」
 大樹の分かりやすい説明に、おー、と感心した様子を見せる響子。
 二人はこの日、揃って役所を訪れていた。理由は、婚姻届を提出するため。
 交際をスタートさせた二人は、何度も時間を作り、今回の騒動に関し、心配を掛けてしまった皆に対し改めて謝罪した。響子の両親、友人である志保や誠司、コンシェルジュの皆、そして大樹の弟という事が判明したみずきにまで。
『これから、兄さんに関して嫌な事があったら、いつでも相談に乗るからね。兄さん、今日から僕は響子さんの味方だから』
 まだ新人とは言え、流石人気モデル。輝くような笑顔を浮かべ、困ったら自分を頼って欲しいと言われた響子は、不覚にも顔を赤らめてしまった。
 そんな彼女の姿に気付いた大樹は不満そうな様子だったが、響子さんを追い詰めたのは元々兄さんでしょ、と弟であるみずきに言われてしまい、何も言い返せない現実に彼は酷く落ち込んでいた。
「さって、これからどうしよっか。せっかくの休みなんだし……響子ちゃんは、どこか行きたい所とかある?」
 駐車場に止めておいた車へ二人で乗り込むと、助手席に座る響子へ大樹は声を掛ける。
 再び同居を始めてすぐの頃、美千代の一件を気にしてか、響子がこのマンションに住む事が嫌なら別の所へ引っ越そうと、突然大樹が言い出した事がある。しかし、響子はそんな彼の提案をすぐに断った。
 確かに、美千代が訪ねてきた事や、嫌がらせを受けた事は怖かった。しかし、それはこのマンションに住んでいる事が原因では無いと理解している。
 それに、ここで働くコンシェルジュ達とかなり親しくなった今、響子はここからどこか別の所へ引っ越す気にはなれなかった。
 自分は引っ越す気は無いと伝えると、大樹は響子の意見を尊重してくれた。今も二人は、相変わらずあのマンションで暮らしている。
 そして、これから心機一転するためにと、大樹は自身の車と携帯電話を新しい物へ変えた。折り畳み式だった携帯電話から、最新のスマートフォンへ変えたため、最近は、休日になると、二人で一緒に使い方の研究をしている。
「そう、ですね……うーん」
 どこか行きたい場所はあるかと尋ねられ、何かいい場所は無いかと悩む響子。しかし、すぐに候補地を上げるのはなかなか難しかった。
「何か映画でも見に行って。その後は……ちょっと奮発して、夜はどこかホテルで食事でもしてく?」
 大樹から提案されたプランも魅力的だと思いつつ、しばし悩んだ響子は、ふとある場所を思い出す。しかし、今この状況でそこに行きたいと言って良いものかと、悩んでしまったのか彼女は無言になった。
「……? どこか行きたい場所思い付いた?」
 黙り込んでしまった彼女の様子が気になり、首を傾げながら大樹は問いかける。
「……前に、大樹さんがシュークリーム買ったケーキ屋さんに、行ってみたくて」
 そんな彼の問いかけに答えるように、響子は、蚊の鳴くような声でたった今思い付いた場所を呟く。
 彼女が行きたいと思った場所。それは、以前一度だけ大樹と共に行ったケーキ店だった。あの時は商品の値段に驚いて買えなかったが、一度でいいからそこのケーキを食べてみたいと、響子はずっと思っていた。
 これからのデート先について考えていたはずなのに、何故今この状況で思い付いたのがケーキ店なのだと、響子は自分の思考回路にガックリと肩を落とす。
 その時、俯いていた彼女の耳に車のエンジン音が聞こえた。驚いた響子は、思わず顔を上げ、運転席に座る大樹を見つめる。
「あそこ、お店の中でも食べられるから行ってみようか」
 そう言って笑みを浮かべる優しい彼の姿を見た瞬間、大樹の笑みにつられるように響子の顔からも笑みが零れる。
 そして大樹は、響子が待ち望んだケーキ店を目指し車を発進させた。
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