契約書は婚姻届

39.彼が私と結婚した理由

 自分は以前響子に救われた。そう話す、目の前に座る男の言葉が俄かに信じられない。
 大樹の顔を無意識に凝視し、彼女は自分の中にある過去の記憶を必死に呼び起こした。
 借金返済の肩代わりをする交換条件に、結婚を迫られたあの日以前に、自分と大樹は出会っている。そんな事を突然言われても、あの日以前に彼と出会った記憶は響子の中に存在しない。
 自分が忘れているだけだろうか。いや、どちらかと言えば印象に残りやすい大樹の顔を忘れる事は無いはずだ。
 目の前に居る男が嘘を吐いているとも思えない。それなら、自分はいつ、どこでこの人と出会ったと言うのだろう。
 先程彼が言っていた『救われた』という言葉も気になる。生まれてからこれまで、人を救うという行為はした事が無い。困っている人の手伝いは何度かした事はあるが、彼が言おうとしているのはそういう事では無いのだろう。
「うーん」
 眉間に皺を寄せ、何度も自分の中にある記憶の引出しを探すが、一向に思い出せる気配すら無い。
「響子ちゃん……そんなに、悩まなくていいよ」
 自身の記憶の中に存在するかもしれない彼を探す事に集中してしまった響子に、大樹は遠慮がちに声を掛ける。
「ごめんなさい。頑張って思い出そうとしてるんですけど……なかなか」
「一生懸命になってくれるのは嬉しいけど、思い出せなくて当然かもしれない。しっかり顔を見て話したかって聞かれたら、そうだって言いづらい状況だったからね」
 なかなか目的の記憶を思い出す事が出来ず謝る響子に、大樹は思わず苦笑いを浮かべる。
「あれは……そうだな。今から、四、五年前くらいになるのかな」
 そして彼は、たくさんの料理が並ぶテーブルの上に頬杖をつき、当時を懐かしむように語りだした。
「その頃なんだよ。美千代に付き纏われてたって時期。その頃は、まだ俺もちゃんと会社行ってたんだ。でもね……俺の周りに寄ってくる人間ってのが、男も女も、みーんな俺の肩書や金にしか興味無いの。他の会社の人間や、会社内に居る部下達。どう俺に接すれば自分にとってプラスな事が起きるか。皆そんな事ばっかり考えてるのバレバレでさ。新米社会人じゃあるまいし、それが会社の中で生きるって事くらいはちゃんと理解してた。わかってたんだけど……俺が精神的にまだまだ未熟なせいで、色々マイナス方向に考えちゃってさ。必要とされてるのは俺自身じゃない。俺の肩書なんだ……って思ったら、美味しいはずの酒がどんどん不味くなって……」
 彼が話し始めたのは、響子と出会ったと当時を振り返るもの。その話に、響子は黙って耳を傾ける。
「精神的に色々参っちゃって……美千代とどうにか別れてから、俺、出来る限り外に出ないで家の中に引き籠ってたの。仕事は電話やメールで対応したり、パソコンのカメラ機能使って会議に出たりね。病院に行って、薬を貰ってた時期もあった。その当時から……誠司には迷惑掛けっぱなしでさ。それからしばらくして、どうしても俺がその場に居なきゃいけない会議と商談があって、無理言って同じ日にしてもらったんだ。そして当日になって、午後まで会社とか嫌だなー、早く家帰りたいなーとか思いながら、久々に出社したの。久々の会社の空気吸って、実際はそんな事無いのに、周りに居る奴らが全員俺の事見てる気さえしてきた。その場から逃げ出したくなった。でもそんな事出来ないから、一刻も早く会議室に行こうと思ってね。エレベーターに乗ったら運良く誰も居なくて、そこで少し気分が落ち着いた。そして、誠司から来るように指定されてた会議室のある階に到着して、フロアに出て会議室を目指して歩き出したら、急いで走ってきた誰かとぶつかって。俺は大丈夫だったけど、そのぶつかった子が、持ってた資料を床にばら撒いちゃって……凄い焦った顔してさ。まだ入社したての新人だったんだろうね。凄い急いでたみたいで、俺にすみませんって謝りながら散らばった資料拾い出して。俺も慌てて集めるの手伝ったんだ」
 当時の事を思い出しているのか、彼は優しい笑みを浮かべ話し続ける。
「資料を拾い終わって、その子にどうぞって渡したの。そしたら、今までずっと下向いてたその子が顔を上げて、俺の方を向いてありがとうございましたってお礼言ってさ。……その時だよ、響子ちゃんが俺と本当に初めて会ったの」
 そう言って大樹はにこりと笑みを浮かべ、自分の目の前に座る女性を見つめる。そんな彼の笑顔を、響子は困惑するばかりだった。
 大学を卒業して無事今の会社に就職が決まり、新人として仕事に追われていた頃。ミスをしないように、ミスをしないようにと頑張っていたものの、些細なミスを繰り返しては上司に怒られる事が多かった。
 先輩に頼まれた資料のコピーを手にし、廊下を駆け足で移動した事も少なくない。今の大樹の話が本当なら、そんな状況だった自分は、エレベーターから降りた大樹にぶつかり、資料を落としてしまったという事だろうか。
「集めた資料を大事そうに抱えて、ありがとうございましたってお礼を言う君を見て。……頬を薄ら赤らめてはにかむ君の笑顔を見て、こんなにも純粋に感謝を伝えられる子も居るんだって驚いた。君のその純粋な笑顔が、弱りきった俺には眩しすぎるくらいだった。その後すぐに、君はエレベーターに乗って行ってしまったけど、俺は凄い元気を貰えたんだ。本当に……ありがとう」
 大樹からありがとうと感謝の言葉を伝えられ、響子は慌てて首を横に振る。
「そ、そんなっ! 私は何もお礼を言われる事はしてないじゃないですか。それに、話を聞く限りじゃ、私……大樹さんにぶつかって資料拾うの手伝って貰ったって……迷惑しか掛けてません」
「全然迷惑だなんて思ってないよ。本当に俺は嬉しかったんだ。その日の会議も商談も、ずっと君の笑顔思い浮かべて乗り切ったんだから」
 迷惑では無かったと彼は言っていたが、他人からすれば、その全員が響子が言った言葉に同意するだろう。
 そんな状況でも、まったく迷惑なんて思っておらず、逆に響子の笑顔に元気を貰えたと笑顔で言う大樹の言葉に、彼女は言い返す言葉を見つけられなかった。
「君の笑顔を見て、勇気を貰って……俺は次の日から出社して働き始めたんだよって……言えたら良かったんだけど、そんな都合のいい話にはならなくってさ。それからまぁ、何年も同じような生活続けてたんだ。ろくに出社もしないんなら解雇した方がいいって意見も何回も出てさ。その度に誠司がフォローしてくれて。お前の我が侭聞いてやってるんだから、その分以上の仕事で結果を残せってのが、ここ数年のあいつの口癖で。俺自身、誠司にも会社にも迷惑掛けてるって自覚は十分にあったから、プライベート時間や睡眠時間なんて関係無しに、毎日夜中まで仕事に没頭してたんだ」
 そう言って彼は大きく息を吐いた。その様子を見る限り、本当に彼の毎日は、仕事ばかりだったのかもしれない。自分の自由な時間を犠牲にし仕事に勤しむ毎日を、この男は何年も続けていたのだろう。
「あの……会社に行けない症状は、その間良くなってきたんですか?」
 大樹から聞かされた話に対し、響子は自分の中に感じた疑問を口にする。
「ちょっとずつ、はね。会社に行こうとして、今日は駄目だって思って帰った事もあるし。調子良く会社で仕事をする日もあった。この歳になって、俺何やってるんだろ……って落ち込んだ時には、響子ちゃんの顔思い出してたんだよ? それでもここ数年で、少しずつ、少しずつ良くなっていって。それから……響子ちゃんとここで会う三ヶ月くらい前かな。加藤さんの工場の話を聞いたんだ。以前小さな仕事だったけど、とても一生懸命になってくれた方だったから、正直心配してたんだよ。だけど、彼が夜逃げして、借金は保証人の人が払う事になったって、小耳に挟んで。その保証人になった人の娘が、俺達と同じ会社の社員だって噂を誠司がどこかから聞きつけたらしい。その事が妙に気になって調べてみたら……その子は数年前、俺に元気をくれた子だったんだ」



 大樹の話を、響子はまるで昔話を聞いているような感覚で聞いていた。どこか他人事のように聞いていた彼女だったが、自身の知り合いでもある加藤や両親の話題が出ると、それは一気に身近な話題となり、思わずゴクリと唾を飲み込む。
「響子ちゃん、さっき言ってたよね。どうして俺が借金の肩代わりを申し出たのかって」
「……はい」
 自分へ向けられた大樹からの問いかけに、響子は一度だけはっきりと頷く。
 大樹と結婚してから、ずっと疑問だった事。それは、何故彼が借金の肩代わりを申し出て、交換条件とは言え自分と結婚したのか。
 自分がいくら考えても分からなかった答えを、きっとこの人は持っている。響子はそう確信に近いものを感じていた。
「恩返しがしたかったんだ。俺に元気をくれた君が困っているなら……俺は、君の力になりたかった」
「……はい?」
 きっと今、自分が求めていた答えを、彼は教えてくれたのだろう。しかし、それがあまりにも突飛な理由だったせいか、響子は思わず聞き返してしまった。
「あの……すみません、もう一回、言ってもらえませんか?」
「え、もう一回言うの? うわー、恥ずかしい」
 再度理由を教えて欲しいと言う響子の言葉に、大樹は一瞬頭を抱えそうになる。しかし、彼は一度大きく深呼吸をし、気持ちを落ち着かせると、再度口を開いた。
「響子ちゃんは、あの時、あまり意識しないでありがとうってお礼を言ったんだと思う。でも、俺にとってそれは凄い意味のある事だった。君の笑顔に元気を貰って、何度も挫けそうになった時、その笑顔を思い出して乗り越えた。君に出会ってなければ、俺は今もまだどん底に居たと思う。そんな俺を支え続けてくれた君が困っていると知った。だから、今度は俺が力になりたいって……思ったんだ」
 喋り続ける大樹の顔は、今までに見た事の無い程どんどん赤くなっていった。そして喋り終えたと思えば、いきなりテーブルの上へ倒れ込むように自ら顔を押し付ける。
「あー、もう……恥ずかしくて死ぬ」
 恥ずかしくて死ぬと言った、小さな小さな彼の独り言は、残念な事にしっかりと響子の耳へ届いた。酒は一滴も飲んでいないというのに、耳まで真っ赤になった大樹。彼は顔を上げようとせず、そのままブツブツと何かを呟き始める。
「馬鹿だ、何やってんのって笑ってくれていいよ、もう。誠司にこの話した時だって、散々馬鹿にされたんだから。誰が聞いたって、お前何考えてんのって思う事はわかってるしさ。でも……でもさー。助けたかったんだもん。君が困っていて、俺が出来る事なら何だってしたかったんだよ……」
 そう言った彼は、時折、うー、あー、と小さく奇声を発し、テーブルに押し付けた顔を上げる様子はまったく無い。
「そ、それじゃ……私と結婚したの、は……」
 突然すぎる大樹からの衝撃的な告白に戸惑いながらも、響子は必死に自身の心を落ち着かせようとしていた。そして、更にもう一つ自分の中で疑問だった事を彼へ問い掛ける。
「あー、それは……なんて言うか、ちょっとだけ俺の我が侭、っていうか願望……なのかな。男はねー、自分が好ましく思ってる子とは一緒に居たいものなのよ。それだけで仕事頑張れちゃうものなんですよ。それに……ただお金あげるって言っても、絶対頷いてくれると思ってなかったからさ。何も言わないでお金をあげる怪しい人になるよりは、交換条件って方がいいのかなーって思って。あ、忘れる所だった……どこ入れたっけ」
 今までテーブルに顔を押し付け喋り続けていた大樹が、ふと何かを思い出した様子で少しばかり顔を上げる。しかし、それはほんの僅かで、彼が今どんな表情を浮かべているのか見る事は出来ない。
「あ、あったあった。はい、これ返すね」
 自分が持ってきた鞄の中をしばし探していたと思えば、彼はそこから何かを取り出し響子の方へ差し出す。
 反射的に差し出された物を受け取った響子は、自分の手の中にある物を見て首を傾げる。
 たった今手渡された物は、大樹名義の預金通帳だ。大樹名義の通帳なのに、何故それを返すと言って彼は自分に差し出したのだろう。
 戸惑いを隠せず、視線を、手の中にある預金通帳から、未だ俯いたままの大樹へ向ける。そんな響子の視線に答えるかのように、彼はゆっくりと口を開いた。
「響子ちゃんから毎月貰ってたお金……そこに全部入ってるから。君が一生懸命働いて稼いだお金なんだから、大切に使うんだよ」
「え……っ!?」
 大樹の言葉に驚き、響子は慌てて渡された預金通帳を開く。するとそこには、毎月決まった額の入金が記載されていた。その額は、確かに彼女が大樹に渡していた金額と一致している。
「…………」
 響子は唖然として声も出さず、ゆっくりと顔を上げ、未だ恥ずかしそうに俯く大樹の姿を見つめる。
 今彼の言った事はすべて真実なのだろうか。もし本当に真実だと言うのなら、この男はたった一度自分に対しお礼を言った女のために、ここまでやってくれたと言うのだろうか。
『いいんだよ、どうせこれは俺の自己満足なんだから。出来るだけ彼女と接触はしない、迷惑はもちろん掛けない。彼女がこの生活に嫌そうな素振りを見せたら、すぐに離婚する』
 不意に彼女は、ホテルで読んだ大樹の日記の内容を思い出す。
 本当に彼は、私が嫌がったら離婚したのだろうか。自分に一切得な事など無く、たった一度会った女を助けるためにと金を出した大樹。
 彼と出会い、今日まで過ごしてきた日々を思い出す。彼はとても優しかった。いつも自分を気にかけ、困っていればすぐに助けてくれた。最初は最低な男だと思っていたのに、だんだんと彼の優しさに惹かれていった。
 俯いたままの大樹を見つめ、響子の心の中に、様々な想いが溢れてくる。
 この人はなんて馬鹿な人なんだろう。この人は何故こんなにも優し過ぎるのだろう。この人は何故こんなにも純粋なんだろう。
『何故私は……そんな彼を、今とても愛おしいと思っているのだろう』
 響子が感じたこの想いは、決して大樹が自分を助けてくれたからでは無い。
 自分より他人を優先し、自分の心が参ってしまうまで頑張り続ける。そして、自分にたった一言お礼を言った女のために、こんな事までしてしまう。そんな馬鹿で純粋過ぎる目の前の男を、心から愛している自分が居る事に、彼女は今改めて気付かされた。
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