契約書は婚姻届

38.名刺の持ち主

「緋野エンターテインメント……みずき?」
 大樹が拾ったのは、響子が以前みずきから貰った名刺だった。これは非情に不味い状況になってしまっと、その場から動かず口を閉ざした彼女は、心の中で様々な考えを巡らせる。
 偶然出会った事がきっかけで、嫌がらせの一件をみずきに相談した事は紛れもない事実。しかし、自分と彼はやましい関係では無い。
 ここは、友達なんですと言った方がいいのだろうか。いや、それは駄目だ。ごく普通の一般人であるOLが、芸能事務所に所属するモデルの名刺を持っている事自体可笑しすぎる。
 それに、いくらやましい関係で無いとは言え、嫌がらせの一件で悩んでいた事を、夫である大樹に相談せず、赤の他人であるみずきに相談していたとは、正直とても言いづらい。響子が、自分にでは無く他人に悩みを相談した事を知ったら、きっと大樹は少なからずショックを受けるはずだ。
「響子ちゃん、これ……」
 自分の手の中にある名刺と、座り込んだ響子の顔を見比べる彼の表情は見るからに戸惑った様子だ。
「……っ、ごめんなさい!」
 そんな彼の表情を目にした響子は、これ以上嘘を吐く事は出来ないと、謝罪の言葉と共に頭を下げた。
「実は……」
 そして彼女は、みずきと自分の関係について大樹に話した。喫茶店で偶然相席になった事や、嫌がらせを受け落ち込んでいた自分を、みずきが励ましてくれた事について。
 マンションへ帰る途中、偶然美千代と出会ってしまった事も話そうか悩んだが、自分とみずきの関係を彼女に疑われた事や、彼女と会ってしまった事を話せば、再び大樹が悲しい想いをすると考え、響子はそれ以上何も言わなかった。
「……うーん」
 再び響子の目の前に腰を下ろし話を聞いていた大樹は、彼女の説明が終わると何かを考えこむような仕草を見せる。
 やはり、みずきの事はただの友達と誤魔化した方が良かったのだろうか。もう大樹を悲しませたくない。その想いからの判断は間違っていたのだろうか。膝の上に置いた両手を握りしめ、響子は自分の判断を後悔し始める。
「……響子ちゃん」
 その時、不意に自分の名前を呼ばれ、ちょんちょんと指で肩を叩かれた事に気付いた響子は、戸惑いながら恐る恐る顔を上げる。
「その、みずきって子さ……この人だったり、しない?」
 そう言って、大樹は響子の前に自分の携帯電話を差し出す。
「えっ!?」
 それを見た瞬間、彼女は自分の目を疑った。差し出された携帯電話の画面には、一枚の写真画像が表示されていた。その写真には、とある二人が仲良さそうに酒を飲む姿が写っている。そのうちの一人は、無精ひげを生やした以前の大樹。そしてもう一人は、響子を助けてくれたあのみずきだ。
「あ……え? な、何で?」
 何で二人が一緒に写真に写っているの。驚きのあまり、手渡された携帯電話と、目の前に座る大樹の顔を、確認するように何度も繰り返し見つめる。
 そんな彼女の様子を見た大樹は、自分の中で思い浮かんだ人物と、響子が世話になったという人物が同じであると確信した。
「実はね……俺の弟なんだ、君の相談に乗ってくれたモデルのみずきって」
「えぇ!?」
 大樹の口から告げられた衝撃の事実は、更に響子を驚かせ混乱させるばかりだった。
「う、そ……だって、歳が全然違うし、顔だって似てな……っ!」
 驚きのあまり次々と疑問を口にした響子は、咄嗟に自分が言いそうになった言葉を急いで呑み込む。この言葉は言ってはならないと、慌てて自身の口を両手で塞いだ。
 みずきが、大樹の弟とは一体どういう事だろうか。大樹は今三十八歳で、みずきは二十歳。あまりにも歳が離れすぎている。それに、二人の顔は全然似ていない。
 咄嗟に己の口を両手で塞いだ彼女の姿に、大樹は苦笑しながら口を開いた。
「全然似てないよねー、俺達」
 本人の口から直接言われてしまうと、余計に気まずくなってしまう。素直にそうですね、と言えるわけもなく、響子は未だ口を塞いだまま、どうしたものかと視線をあちこち彷徨わせる。
「まぁ……似てなくて当然っていうか。みずきってね、あいつが赤ん坊の頃、俺の家の養子になったの。だから、俺とみずきは戸籍上では家族だけど、まったく血繋がってないんだ」
 本名はね、浅生あそう瑞樹みずきって言うんだよーと、そう言って笑う大樹の姿に、響子はしばし呆然とする。
 覚悟はしていたつもりだったが、この場に来てから次々と伝えられる事実に自身の理解能力が追い付いていない。お酒は一切飲んでいないのに頭が痛い。彼女は大樹に気付かれぬよう、そっと自分の中に溜まった重い空気を吐いた。



 次々と告げられる自分の知らない真実に混乱しつつも、なんとかその事実を受け入れようと響子は必死になっていた。
 みずきが大樹の弟だという事実を聞かされた数分後、タイミングを見計らったように先程彼が頼んだ料理が運ばれてくる。
 料理が運び込まれる間、響子は一旦個室を離れ、崩れてしまったメイクを直しに化粧室へ向かった。
「おー、流石高級料亭。どれも手が込んでる」
 テーブルに並べられた料理の数々に、大樹は感心した様子で何度も頷いている。
 化粧室から戻った響子は、そんな彼の姿を見つめながら、ふとある事を考えていた。
 ホテルからここに来るまであんなに緊張していたのに、今は以前とほとんど変わらぬ態度で目の前に座る男と接している気がする。
 初めて知る事が多く驚いている事もあるが、一番の要因は大樹の態度がいつもとまったく変わらないからだろう。
 最初は彼も緊張した様子だったが、時間が経つにつれ、だんだんと普段通りの大樹が顔を見せ始めた。今ではすっかり元通りの、響子が知っている大樹に戻った気さえする。
「響子ちゃーん? 大丈夫?」
 考える事に集中していたせいか、不意に聞こえた声に我に返る。すると、心配そうな顔で自分を見つめる大樹の姿が目に入った。
「あ、はい。大丈夫……です」
「体調悪くなったらすぐ言ってよ? さーて、せっかく料理が運ばれてきたし、食べよっか」
 さらりと響子の体調を気遣う言葉を掛け、彼はすぐに両手を合わせると再度いただきます、と挨拶をする。
 そして響子も、大樹に倣い目の前に並んだ料理に箸をつけた。やはりまだ心から美味しいと思える余裕は無い。そう実感しながら、彼女はゆっくり箸を動かす。
「……高校二年か三年の頃だったかなー。夕食の時にいきなり言われたんだよね、児童施設に居る子を養子にしようと思うって」
 しばらくして、食事をしながら、急に大樹は自身の過去を思い出すように口を開いた。
「正直突然すぎて驚きはあったんだよ。里親になろうと思うんだけど、お前どう思う……なんて言われて。でも、嫌だって駄々こねる年でも無いし、別に嫌だとも思わなかったから、特に反対はしなかったな」
 彼が話し始めたのは、先程話題になった自身の弟であるみずきに関する事だった。
「凄いですね。……私だったら、多分すぐには頷けないかも」
 彼の過去の話を聞き、響子は目の前に居る男を素直に凄いと思った。高校時代の自分だったら、戸惑うばかりで、すぐに答えを出すなど難しくて出来なかっただろう。
「それが普通だと思うよ。いきなり血の繋がってない子と家族になれって言われたら、普通は戸惑うのは当たり前だろうし。俺が里親に賛成した一番の理由はね、母さんが嬉しそうにしてたからなんだ」
「……お母さんが?」
 大樹が両親の提案を受け入れた理由。その一番の理由が彼の母親だという言葉の意味が解らず、響子は首を傾げた。
「俺が小さい頃、母さんが病気になって……子供を産めなくなっちゃったんだ。それから俺、ずっと一人っ子でさ。大袈裟化もしれないけど……母さんが子育てを生きがいにしてた所があって。高校入った頃から、普段は全然そんな事無いんだけど、たまにね……ふとした時に母さんが、寂しそうな顔してたんだ」
 自分の息子がどんどん成長していく姿を見守っていた大樹の母親。その息子が成長するにつれ、徐々に自分の手から離れて行く。そんな感覚から、彼女は寂しさを感じてしまったのだろうか。響子の頭の中に、一瞬そんな考えが過る。
「親父も、そんな母さんの事が気になってたんだろうね。そしたらある日、いきなり里親になろうと思うって二人から言われて」
「その時、お母さんが嬉しそうな顔を?」
「うん。俺に話す前、二人でとりあえず施設に行ったらしくて。俺に説明した時には、もう二人の中で答えはほとんど決まってたんだよ。久しぶりに心から嬉しそうな顔した母さん見たら、反対なんて出来るわけないのにね」
 そう言って苦笑する大樹だが、その表情はとても優しい。彼の表情につられるように、響子の口元にも自然と笑みが浮かんだ。



 それからしばらくの間、大樹は自分とみずきの過去についていくつか話をしてくれた。時々自分はみずきの兄というより、父親になったように感じる事があると彼は笑っていた。
「…………」
 今まで楽しく笑い合いなら食事をしていた二人の会話がふとした拍子に途切れる。不意に訪れた静寂に、響子も大樹も戸惑いを感じているのか、お互いに口を開く様子は無い。
 久々の再会に不安しか無かったが、今ではマンションに居た頃のように笑い合いながら話が出来ている。このままこの時間が続けばいいのに。響子はそう思わずにはいられなかった。
 しかし、この時間が永遠では無い事も、彼女は気付いている。そして、もう大樹とは元の関係には戻れない事も。
 自分から離婚して欲しいと言い出したのに、もっと一緒に居たいなんて、そんな都合の良い願いなど出来ない。この食事が終わってしまえば、もう彼とは二度と会う事は無いのだろう。
 元々、大樹と結婚した事も、普通では有り得ない出来事だった。そう言えば、どうして彼は自分なんかと結婚したのだろうか。そもそも、何故彼は両親の借金を肩代わりしてくれたのだろうか。
 もう少しで終わってしまう愛しい人との楽しい時間。その寂しさを感じていた響子は、ふとまだ彼から聞かされていない事があると気付いた。
「あの、大樹さん」
「ん?」
 響子が、しっかりと目の前に座る男の目を見て名前を呼べば、大樹は彼女の声に反応し首を傾げる。
「私、ずっと疑問だった事があるんです」
 今までたくさんあった謎の中で、この二つは結婚当初から何度も彼女が悩み、いくら考えても答えの出ない疑問だった。
「どうして……大樹さんは、見ず知らずの私の両親の借金を返すなんて言ってくれたんですか。それに……その条件が結婚って。どうして……」
『貴方は私と結婚したんですか』
 これまでずっと疑問だった事を、ついに響子は自分の口から大樹へ問いかけた。
 今日まで、この問いを彼へぶつけられる機会は何度もあったはずだ。それなのに、何故今までそれをしなかったのか。
 それはもしかしたら、響子の心の奥底に真実を知るのが怖いという想いがあったからかもしれない。
「…………」
 響子の口から発せられた問いを聞き、大樹は目を逸らし、しばし黙り込む。そして彼は、意を決したように、今まで逸らしていた瞳を真っ直ぐ響子へ向けた。
「俺は……この料亭で初めて会った日よりずっと前に、君に救ってもらったんだ」
 彼の口から紡がれた言葉は、再び響子を驚かせるものだった。
Copyright 2014 Rin Yukimiya All rights reserved.

inserted by FC2 system