契約書は婚姻届

37.ごめんね

『……後で殴っていいから』
 そんな言葉と共に突然大樹に抱きしめられた響子は、現状をまったく把握出来ず混乱するばかりだった。
「……だい、き……さん?」
 彼の腕の中で恐る恐る名前を呼ぶ。すると、その声に反応するように、彼女を抱きしめる大樹の腕の力は僅かに強くなった。
「……怖かったよね。嫌だったよね。ごめんね……君を巻き込んで。本当に、ごめん」
 耳元で聞こえる彼の声は、今にも泣き出しそうな程震え、とても弱々しいものだった。
 何度も謝罪の言葉を繰り返すその様子に、ますます状況が理解出来ない。
 すると大樹は、今まで抱きしめていた響子の体を解放し、改めて目の前に座る彼女を見つめる。正座し、自分を見つめる真っ直ぐな彼の瞳から、響子は目を離さなかった。
「あの人は……君と出会う前、少しの間親しくして……いや、付き合っていた時期があるんだ」
「…………」
 薄々そうではないかと思っていた事とは言え、本人の口から付き合っていたと言葉にされるのは、やはりショックだ。しかし、今目の前に座る彼から目を離すわけにはいけない。目を離さず話を聞かなければと感じた。
「あいつは……美千代みちよが俺と付き合った本当の目的は、金目的だったんだよ。あいつが好きなのは俺じゃない。俺の肩書、そして俺の持っていた金だ」
 あの女の名前は美千代と言うらしい。過去を語る大樹の表情が、あまりにも寂しげで、今度は自分が彼を抱きしめたくなった。彼の口から語られる過去に驚きながら、響子は何度も衝動的に動きそうになる自分を抑えつける。
「最初は付き合ってるって感覚だったんだけど、もう最後の方は付き纏われてるって言った方がいい状況だった。それが我慢出来なくて、もう二度と俺に関わらないで欲しいと言って、彼女と別れたんだ。それ以降まったく連絡も無かったし、彼女の姿を見る事も無かったから安心してたんだけど……本当に俺のミスだね。まさか数年経ってマンションに来るとは思わなかった。今回の事で、響子ちゃんには本当に迷惑を掛けて申し訳ない!」
「えっ!? 大樹さん、頭上げてくださいっ!」
 自身の過去について話していた大樹が、いきなり目の前で土下座をした事に響子は驚いた。慌てて頭を上げて欲しいと頼み込むが、彼はその言葉を受け入れようとしない。
「マンションに美千代が押し掛けたのも、手紙を送ってきたのも全部俺の責任なんだ。俺がもっとしっかり注意しておけば……」
「えっ?」
 頭を畳にこすり付ける勢いで土下座をし、そのままの姿勢で謝罪を続ける大樹。彼が発した言葉に戸惑いばかりが生まれる中、響子はふとある事に疑問を感じ、思わず声を発した。
「何で……手紙の事」
 自分の中に感じた疑問が、ポロリと口から零れ落ちる。嫌がらせをされていた事は、心配を掛けてはいけないと大樹に一切相談していないはずだ。もちろん、手紙を彼に見せた記憶も無い。
 それなのに、何故目の前に居る男は手紙の事を知っているのだろうか。その疑問に、響子の心はますます混乱する。
「あはは……ごめんね。俺、謝る事にばかり気取られてて、響子ちゃんが混乱するのも当然か。……これは、順番に説明をした方がいいな」
 彼女の小さな呟きに、今まで頑なに頭を上げなかった大樹がゆっくりと顔を上げる。そして、力無く笑うと、自ら説明すると言い出した。
 そんな彼の言葉に、響子は緊張した面持ちで、お願いしますと首を縦に振った。



「俺が誠司と出掛けた日、マンションには美千代が訪ねてきた。そして彼女は響子ちゃんと会った。俺が帰ってきた時、エントランスで美千代からの書置きを受け取ったんだ。あまり気分のいい内容じゃなかったけどね」
 大樹は、美千代が初めて響子と接触した日からの事を、順序立てて話し始めた。
「その夜、俺はすぐに彼女へ電話をした。それで、もう自分にも響子ちゃんにも関わらないで欲しいと念押ししたんだ。それでも……あいつのしつこさは変わらなかった。それからしばらくして、響子ちゃん宛に、封筒が届いたの覚えてる?」
「……はい」
 問いかけられた言葉に、響子は小さく頷く。忘れるはずもない。初めて自分宛に届いた嫌がらせの手紙だ。彼女は無意識に自身の左手で、あの時に怪我をした右手人差し指に触れる。
「玄関で響子ちゃんに手紙を渡した後、すぐにあの手紙の差出人が美千代だって気付いた。癖のある字が書いてあったから」
 彼の言葉に、自分宛に届いた封筒や便箋に書かれた文字には特徴があった事を響子も思い出す。
「このままじゃ不味いと思ってね……すぐに知り合いの弁護士に相談したんだ。それで、その……悪いとは思ったんだけど、響子ちゃんが留守の間に、あの手紙をちょっと借りたんだ」
 借りたって言葉は変か、と苦笑しながら自分が何をしたのかを説明する大樹。そんな彼の様子に、響子はただ呆然とするしかなかった。
「仕事の合間に、弁護士と一緒に警察へ行って相談した。響子ちゃんに送られた手紙と、俺宛の書置きを持って。本当はもっと早く解決したかったんだけど……話し合いもなかなか進まなくてね。俺が出張した時、本当は……仕事だけならもう少し早く帰って来れたんだ。出張の最後の方は、美千代の事に関して最終的な行動を起こしてた。それにしても……何であいつ、俺が居ない時に都合良く来るんだろ。出張前に、絶対マンション内に美千代を入れないでくれって橋本さん達に頼んでおいて良かった……」
「……あ」
 次々と彼の口から明らかになる事実。今まで自分が知らなかった事を聞かされ、響子はしばし驚く以外の感情を忘れていた。しかし、コンシェルジュ達に大樹が頼み事をしていたと聞かされ、彼女はふとある事を思い出す。
『だったら、どうして私が追い返されなきゃいけないのよ! 前までは……中に入れてたのに……』
 喫茶店でみずきと話をした帰り道、響子はあの女に偶然出会った。響子が大樹に告げ口をしたのではと美千代は疑っており、そんな事はしていないと言う響子の態度に、彼女は声を荒げた。
 あの時言っていた独り言の意味が今まで解らなかったが、大樹から受けた説明であの時の彼女の様子に納得がいく。
 きっとあの時、美千代はマンションへ行った帰りだったのだろう。その目的は流石に不明だが、彼女は何らかの目的を持ちマンションへ向かった。しかし、大樹が手回ししたため、彼女はコンシェルジュ達に追い出された。
 突然の事に混乱しながら歩いていた時、偶然響子と出会ってしまった事が、彼女の感情を暴走させてしまったのかもしれない。
「俺の個人的な過去に君を巻き込んでしまって本当にごめん。でも、もう大丈夫。美千代は、もう二度と俺達に接触してこようとは思わないはずだから」
「……どういう、事ですか?」
 再度自分に向かって頭を下げる大樹の姿を見つめ、彼の発した言葉の意味がよくわからず、響子は思わず聞き返した。
「さっき、知り合いの弁護士と一緒に警察に相談したって言ったでしょ? それで警察の方から、今回の事で美千代に警告が出されたんだ。信じられないって言うなら、俺が相談してた弁護士を教えるから行って話を聞いてみて。今後……もしあいつがその警告を無視するようなら、こっちも徹底的に戦う。裁判でも何でもやるよ」
 だから安心してね、そう言って優しく笑う大樹の笑顔を見た瞬間、響子の中で感情が弾けた。
「……っ……うぅ……」
 不安、恐怖、疑心、後悔、自分の中に溜め込まれた様々な感情が溢れ出し、それは涙となって彼女の頬を幾度となく濡らしていく。
 怖かった。不安だった。悔しかった。悲しかった。これまで感じていた想いを堪えきれず、流れ続ける涙を止めるすべなど無い。何度も頬を伝う涙を止めようとしても、もう響子の意思で泣き止む事は難しかった。
「……ごめんね。……怖かったよね。本当に……っ、ごめ、んね」
 大樹は、泣き続ける響子へ躊躇いながら手を伸ばしたが、すぐに彼女を自分の腕で力いっぱい抱きしめた。言葉を発する事無く、ただ涙を流し続ける自分より小さな女性を落ち着かせようと、何度も彼女の頭を撫でる。
 ごめんねと、何度も彼は謝罪の言葉を言い続けた。自分の不手際のせいで響子に多大なる不安や恐怖を与えた事を、彼自身も心底後悔していた。何十回、いや何百回謝った所で、彼女が負った心の傷が消えないという事を理解しながらも、今の大樹には謝罪する以外の方法など思いつかない。
 自分より大きくて太い腕に力強く抱きしめられながら、響子はずっと泣き続けた。泣き止まなければと解っていながらも、それを実行に移せず少しばかりパニックになった彼女は最後まで気付かなかっただろう。
 自分の頬を濡らす涙。それが途中から、自分の瞳以外から溢れたものも混ざっている事に、彼女は気付く余裕すら無かった。
 まるで子供が自分の親に縋るように、響子は無意識に大樹の背中に腕を回す。互いの体を抱きしめたまま、二人は他に誰も居ない個室で泣き続けた。



「……少しは、落ち着いた?」
「……はい……グスッ」
 思いきり泣いたおかげか、響子は落ち着きを徐々に取り戻し始めた。それと同時に、つい先程まで散々泣いていた自分を思い出し、顔から火が出そうな程恥ずかしさを感じる。
 目は赤くなり、きっとメイクも崩れているであろうその顔を、大樹に見られたくないと俯いたまま自分へかけられた声に返答していた。
 しかし、ずっとこのまま俯いているわけにもいかない。どうしたものかと悩んでいると、ふと自分の頭に何かがふわりと触れる。
 一体何だと少しだけ顔を上げれば、そこにはこちらに手を伸ばす大樹の姿があった。彼の伸ばした手は、優しく何度も響子の頭を撫で続ける。
 突然の事に驚きながらも、嫌悪感はまったく感じない。それどころか、その優しい手は心地良く、少し懐かしく思ってしまう程だ。
「……あ」
 正面に座る男の顔を改めて見た響子は、ある事に気付き無意識に小さな声を漏らした。
 大樹の目が、僅かだが赤くなっている気がする。少し前まで何とも無かったはずなのに。もしかして、彼も泣いたのだろうか。一瞬そんな考えが彼女の頭を過る。
 しかし、それを本人に確認しようとは思えなかった。きっと今、目の前に居る彼は、視線の先に居る女の酷い顔を目にしているはず。それでも彼はその事に一切触れてこない。それなら、自分も彼の目が充血している事には触れないでおこう。
 大樹の何気ない優しさに改めて触れ、その優しさがとてもあたたかいと響子は再認識する。自分が泣いている間、彼が何度も謝ってくれた事を思い出し、その優し過ぎる気遣いに戸惑いすら覚えそうな気がした。
「お話し中失礼いたします。そろそろ次の料理をお持ちしてもよろしいでしょうか?」
 その時、出入り口である襖の向こうから女性従業員の声が聞こえた。どうやら、二人の食事の進み具合を確認に来た様だ。
「うわー、今この状況見られるの微妙すぎるって。響子ちゃん、顔見えないようにそらしててよ」
 従業員の声に驚きながら、響子の事を心配してか大樹は口早に小声で告げる。
「ちょ、ちょーっと待っててくださいね。今開けますから……うおっ!?」
 個室の外に居る従業員に、少し待っていて欲しいと声を掛け、出入り口へ向かうため、大樹は体の向きを変えながら立ち上がろうとする。しかし、少々前屈みになり、立ち上がるため中腰になった彼は、次の瞬間盛大にその場に倒れ込んだ。
「え……大樹さんっ!」
 大樹の指示通り、メイクが崩れた顔を隠そうとした響子だったが、目の前で盛大に転んだ彼の姿に驚き、慌ててその名を呼ぶ。
「なっ!? も、申し訳ありません。失礼します。浅生様、一体何がっ!」
 襖の向こうから聞こえた大きな物音に驚き、何か大変な事が起きたと思ったのか、女性従業員は断りを入れつつ、慌てた様子で襖を開け大樹へ声を掛けた。
「あ、あはは。大丈夫、大丈夫です。ただ……ちょっと、足が痺れてつまづいただけですから……あはは」
 そんな従業員の様子に、大樹は随分と情けない声で、足が痺れ躓いたと自分の状況を説明する。それと同時に、両手をついて上半身を起こし、その場に座り直した。
 その流れの中、一瞬だけ彼は後ろに居る響子の位置を確認し、咄嗟に彼女の姿を、従業員から見えないように自分の体で隠した。
「無理に立たなくてもよろしかったのに……どこかお怪我はありますか?」
「大丈夫大丈夫。怪我なんてしてませんから。あ、それと料理なんですけど。これからちょっと二人だけで話したい事があるんで……もし可能なら、残ってる料理全部持ってきてもらっていいですか?」
 数秒前、足が痺れたため盛大に転んだと言うのに、まるで何事も無かったかのように料理について注文を付ける大樹の姿に、響子は呆然とするしかなかった。



「あー……焦った」
 確認をしてくると去っていった従業員を見送った大樹は、襖が閉ってから数秒後、妙に疲れた様子で息を吐いた。
「あの……大樹さん、本当に大丈夫ですか?」
 あれだけ盛大に転んだのだ。どこか怪我をしていないかと、心配になった響子は声を掛ける。
「あぁ、うん。本当に大丈夫。ずっと正座してたせいで足痺れたって言うのは本当だし。立てると思ったら全然足に力入らなくってさ……参っちゃうよね、本当に」
 情けなさそうに力無く笑うその姿に、本当に怪我はしていないのだろうと、響子は安堵した。
「それより……ごめん、俺が躓いたせいでバッグ倒しちゃったね」
「えっ? ……あ」
 直後、突然大樹から謝られた事に驚きつつ、彼の見つめる先へ視線を向けた響子は、その状況を理解した。
 彼の言う通り、響子が自分の傍に置いてあったはずのバッグは、その場から少し移動した所に倒れている。チャックを閉め忘れていたらしく、運の悪い事にバッグの中身は周辺に散らばるように飛び出していた。
「大丈夫ですよ、これくらい。大樹さんに怪我が無くて良かったです」
 心からの言葉を口にし、響子は自身が座っていた場所からバッグの傍へ移動すると、散らばった中身を片付け始める。元々は自分がチャックを閉め忘れたのが原因なのに、律儀に謝ってくれる大樹の姿が少しだけ可笑しかった。
 散らばったバッグの中身を二人で協力して集めると、数分もしないうちに散らばっていた物は綺麗に片付いた。
「これでいいかな。何か他に無い物はある?」
「えっと……大丈夫です。全部ありま……」
「あ、あんな所にも落ちてる!」
 バッグの中身を再度確認し、拾い忘れた物は無いと伝えようとした響子の言葉を遮り、大樹は部屋の隅へ小走りで移動する。
「えっと……これは名刺だね。紙だからあんな所にまで飛ばされちゃったのか」
 見つけた物を拾い上げると、彼は発見した物が名刺だと言った。確かに、紙で出来ている軽い名刺なら、風圧で他の物より遠くへ飛ばされても不思議ではない。
 もしかしたら、スケジュール帳に挟んだまま忘れていた名刺が飛ばされたのかもしれない。
 わざわざ拾ってくれてありがとうと、お礼を伝えるために顔を上げた口を開こうとする響子。しかし、彼女の口から感謝の言葉が伝えられる前に、大樹は首を傾げながら口を開いた。
緋野ひのエンターテインメント……みずき?」
「っ!?」
 名刺に書かれた文字を大樹が読み上げた瞬間、響子はその場から動けなくなった。
 大樹が拾った名刺。それは、偶然喫茶店で知り合い、嫌がらせの事で相談に乗ってもらった、モデルのみずきから貰った物だった。
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