契約書は婚姻届

36.彼は静かに佇んで

 突然送られてきた大樹からの呼び出しメールに驚きながらも、響子は自分が乗ってきた車を運転し、宿泊しているホテルへ向かった。
 これから自分が向かおうとしているのは高級料亭だ。そんな場所に、会社から直行など出来るはずがない。
 ホテルへ戻った響子は、軽くシャワーを浴び、今自分の手元にある服の中から料亭に着て行ってもおかしくないものを選んだ。そして、着替えとメイクを済ませる。
 ここまで気合を入れる程か疑問だが、彼女にとっては、どれも重要な事だ。
 シャワーを浴びても緊張が和らぐ事は無く、着替えを済ませ、メイクをする事により、余計に緊張が増している気さえしてくる。
 自分の車で料亭へ向かう事が出来ればよかったが、生憎目的地までの詳しい道順は覚えていなかった。大人しくタクシーで向かった方がいいだろう。
 ホテルのフロントで呼んでもらったタクシーに乗り込み、響子は緊張した面持ちのまま、大樹が待っているであろう白桜亭へ向かった。



 初めて訪れる場所ではないが、やはりそこは、初回同様敷地内に入るだけで緊張が高まる場所だった。
 駐車場でタクシーから降りた響子が入り口へ向かおうとすると、店内から一人の女性従業員が外へ出てきてくれた。
 浅生大樹と待ち合わせをしている事を従業員に伝えると、彼女はすぐに頷き、彼がもう待っていると教えてくれた。
「…………」
 響子は従業員の連れられ廊下を進む。そして、とある個室の前に彼女は案内された。
「浅生様、水越様がお見えになりました」
 女性従業員はその場に膝をつき、入り口のふすま越しに中に居る大樹に声を掛ける。そして、失礼しますと言いながら、彼女はゆっくり目の前にある襖を開けた。
「……あっ」
 次の瞬間、響子は自分の目に映る光景に思わず息を呑む。
 彼女が連れて来られたのは、以前ここに来た時と同じタイプの個室だったらしく、室内中央に食事用のスペースがあり、部屋の奥から中庭へ出れるようになっている。
 個室と中庭の間にある縁側で、柱に寄りかかるように彼は立っていた。その手に持った煙草から紫煙をくゆらせ、ぼんやりと中庭を見つめる大樹がそこに居る。
 次の瞬間、自分以外の気配がある事に気付いたのか、彼はゆっくりと響子達の方を振り向く。二人の視線が絡み合った瞬間、響子同様、大樹も自分の目の前に居る彼女の姿に息を呑んだ。
「浅生様、お料理の方はどうしましょうか? それと、よろしければ灰皿をお持ちしますが」
「……えっ? あぁ、料理は持ってきてもらって大丈夫です。あと灰皿も結構です、自分のがありますから」
 女性従業員の問いかけに、大樹は慌ててスーツの胸ポケットから携帯用灰皿を取り出し、煙草の吸殻をその中へ入れ蓋をする。
 彼の言葉に従業員は小さく頷くと、それでは少々お待ちくださいませ、と言い、響子達の前から去っていった。
「…………」
 大樹と従業員が話をしている間、響子は一言も喋らず、ただ無言で彼を見つめていた。そこには、掲示板に掲載されていた写真と同じ、綺麗に無精ひげを剃った彼の姿があった。
 会うのが少し怖かった。どんな顔をして大樹に会えば良いのか分からなかった。しかし実際に会ってしまえば、自分の目の前に居る大樹の姿をただ見つめる事しか出来ない。
 久しぶりに見た彼の姿。見た目が変わっても、彼の纏う雰囲気は変わらず柔らかい。それを感じた瞬間、響子の中に、嬉しいような、恥ずかしいような、言葉では言い表せない感情がこみ上げる。
「……煙草、吸うんですね」
 このままでは、自分の中にこみ上げる感情を我慢出来ず、気を抜けば泣いてしまうと思った。それは出来ないと、彼女は慌てて口を開く。
「……止めてたんだけどね。なんか、今日は落ち着かなくってさ」
 一緒に暮らしていた時に、大樹が煙草を吸う所など一度も見なかった。そのせいか、てっきり彼は煙草を吸わない人なんだと思っていた。
 自分の中に出来上がった浅生大樹のイメージと真逆の光景を目の当たりにした衝撃は何気に大きい。
 手に持っていた携帯灰皿をスーツの胸ポケットへ仕舞った大樹が、ゆっくりとした足取りで縁側から室内へ戻ってくる。
「そんな所に立ってないで。こっちに来て座って」
「……はい」
 座椅子に腰を下ろした大樹に促され、響子は緊張した面持ちで個室の中へ足を踏み入れた。そして、ゆっくりとテーブルを挟んで大樹とは反対側の座椅子へ腰を下ろす。
 改めて正面に座る大樹の顔を見つめる。無精ひげを剃ったせいか、以前のだらしない雰囲気はほとんど消えている。前よりきりりとした顔つきになっているのは、多分気のせいじゃない。
 今自分の目の前に座っているのは、一緒に住んでいた頃の浅生大樹では無く、自分が勤めている会社の副社長なのだと、改めて認識させられる。
「急にあんなメール送って、一方的に呼び出して悪かったね」
「……いいえ、大丈夫ですから」
 突然呼び出した事に対し謝罪をする彼の言葉に、響子は大丈夫だと答える。返答する声が緊張のせいでかすかに震えてしまった。今まで感じた事の無い緊張に、彼女は戸惑いを隠せていない。
 久しぶりに大樹に会ったから。自分の知らない事を聞くのが怖いから。会社の副社長相手に失礼な態度を取ってはいけないから。
 自分を緊張させている原因がどれなのか、それとも全部なのか。平静な態度を装うが、彼女の頭の中は混乱する一方だ。
「……だから、言いたくなかったんだよな」
「……えっ?」
 個室内に二人っきりという状況で、物音の無い静けさの中呟かれた大樹の独り言に、響子は驚いた様子で目の前に座る男の顔を見つめる。
 彼女の視線の先には、困り顔で自分の目の前に居る女性を見つめる大樹が居る。
「響子ちゃん、そんなに緊張しなくていいんだよ。って……緊張させてるのは俺か」
 はは、と自嘲的な笑い声をあげた次の瞬間、大樹はスッと目を細めた。その眼差しはとても優しいもの。彼は響子から目を離すことなく、更に言葉を続ける。
「ごめんね、今まで仕事の事黙ってて。嘘吐き続けてごめんね」
「あ、あの……何で、その……私に隠していたんですか」
 同じ会社で働いてるって事を。そう続きそうになった言葉を、響子は咄嗟に呑み込んだ。何度もごめんね、と謝罪の言葉を口にする大樹の雰囲気に、彼女は思わず口を噤む。
 自分を見つめる彼の視線が、何故かとても悲しそうに見えた。そしてそれと同時に、感じた優しい温かさのようなものに、どう対応すればよいのか分からない。
「……嫌だったんだ。自分の立場を知られるのが。……俺の立場を知ったら、きっと君は、俺と距離を置こうとするだろうし。自分の会社の役員やってる男が、君の借金払ってあげるよ、なんて言ってたら、絶対事断られると思ったからね」
 響子は黙ったまま大樹の話に耳を傾ける。実際、彼の立場を知っていたら、あの時自分は断固として首を縦に振る事は無かっただろう。
「自分の立場明かさないで、借金払ってあげるから代わりに結婚してって言ったのも……普通に考えればかなり強引だったと思うんだけどね」
 自分から提案した事に対し、苦笑しながら強引だったと言う大樹。確かにそれは正論だ。しかし、あの時の自分には、最終的に彼からの提案を受け入れる以外無かったんだと、響子は心の中で呟く。
 もしもあの時、大樹の立場を知っていたら、自分は提案を受け入れなかったのだろうか。先程は絶対受け入れないだろうと思っていたのに、ふとそんな疑問を感じた。
 しかし、彼女はすぐに考えるのを止めた。そんなもの、実際その状況に自分が置かれてみないとわからない。
 いくら考えても無駄だ。私は大樹からの提案を受け入れ、両親の借金を肩代わりしてもらった。それが事実であり現実なのだと、響子は軽く目を伏せる。
「正直に言っちゃうと、俺は自分の肩書が嫌いなんだ。役員って肩書も、副社長って肩書も。君には……何の肩書も無い、普通の俺を見て欲しかった」
 普通の俺を見て欲しかった。大樹が発したその言葉が、彼の切なる願いのように感じた。



 その後、大樹が注文していた料理が運ばれ、彼に促されるまま、響子は目の前に出された料理を口に運んだ。
 普段滅多に食べる事の無い高級料亭の料理を食べているというのに、正直じっくり美味しさを堪能している余裕は無い。
 食事を始めてから、二人の間に会話は無くなった。響子も大樹も、互いに無言で箸を動かし続けている。
 時折、彼女はちらりと彼の様子を窺うために視線を向けるが、大樹は何かを考えこんでいる様子に、声を掛ける事を躊躇ってしまう。
 正直、自分から何を話せばいいのか分からない。どうして私と結婚したんですか、と質問が喉元まで出かかった時があったが、彼女がその言葉を口に出す事は無かった。
 今その質問をしていいのだろうか。そもそも自分は、彼に話し掛けていいのか。分からない事だらけの現状に、手に持った箸を動かすスピードもだんだん遅くなる。
 悩んだ結果、響子は待つことにした。
『今私が貴女に対し隠している事を、全て包み隠さず話したいと思っています』
 あのメールに書かれていた彼の言葉を信じよう。時間が掛かっても、大樹が自ら話してくれるのを待ち続ける事にしようと、彼女は迷うのを止めた。
「あれから……響子ちゃんの周りで、変な事とか、起きてない?」
「えっ?」
 ようやく大樹の口から紡がれた言葉を耳にした響子は、その内容が理解出来ず首を傾げ、目の前に座る彼の顔を見つめる。
「俺が出張から帰ってきた日から今日まで、君の周りで嫌な事は起きてない?」
「……いいえ、特には」
「そうか、良かった……本当に」
 響子から返ってきた言葉に心底安堵した様子を見せる大樹。今の質問の意味、そして何故彼が安堵しているのか分からない。不思議そうな顔をしている響子の様子に気付いたのか、大樹は慌てて言葉を続ける。
「あー、そのー。前に、さ……マンションに君の知らない女の人が、俺の事訪ねてきた……でしょ?」
「……っ!」
 彼の言葉に、響子はその言葉が示す人物が誰なのかを理解した。それと同時に、無意識に彼女の顔や身体が強張る。
『ねぇ、大樹どこに居るの?』
 間違いない。大樹が言おうとしているのは、嫌がらせをしてきたあの人だ。たった二度しか会っていないのに、彼女の顔を鮮明に思い出してしまう自分が嫌になる。
 持っていた箸をテーブルの上に置き、俯くと同時に膝の上に置いた両掌を力いっぱい握りしめる。
 力いっぱい握りしめた拳から感じるのは、自身の爪が肌に食い込む痛み。その痛みに意識を集中させ、心の中から湧き上がる嫌悪感を無視し続ける。
「…………」
 俯いたまま気持ちを落ち着けようとしている響子の耳に、不意に衣服の擦れる音と誰かが動く音が聞こえた。
 誰か動いているのか、そんな事はすぐに理解出来た。自分以外の誰かなど、この場に一人しか居ない。その音はだんだんと彼女の方へ近付いてくる。
 彼女の目の前にやってきた大樹は、ゆっくりとその場に正座する。黒の靴下とネイビーブルーのズボンを穿いた足が響子の視界に入り込んだ。
「……後で殴っていいから」
 突然大樹が目の前に座り込んだ。そう薄らと認識した瞬間、耳に届いた彼の小さな声。
「……へ? ひゃっ!?」
 言われた意味が解らず、思わず聞き返しそうになったその時、響子は驚きのあまり小さな悲鳴を上げる。
 そして、数秒遅れて彼女は理解した。今自分は、大樹の腕の中に居るのだと。強い力で抱きしめられている状況に、響子の思考は混乱する。
 左腕は腰へ、右腕は背中から頭へ回される。まるで、自身の身体に響子の身体を押し付けるように、大樹は力いっぱい彼女を抱きしめていた。
 何故自分は、大樹に抱きしめられているのだろうか。何故彼は、自分をこんなに抱きしめているのだろうか。
 そんな混乱の中、不意に頬に感じる温かさ。それは、自分の頬が、彼の胸に押し付けられているからだと、響子は気付く。
 久しぶりに感じる愛しい人のぬくもり、そして微かに聞こえる彼の心臓の音。混乱する中、その二つが、彼女の心を少しずつ落ち着かせていった。
Copyright 2014 Rin Yukimiya All rights reserved.

inserted by FC2 system