契約書は婚姻届

35.綴られた想い

『まさか、彼女が俺の出した条件をのんでくれるとは思わなかった』
 日記は、そんな一文から始まっていた。
『まさか、彼女が俺の出した条件をのんでくれるとは思わなかった。普通、名前も知らない俺みたいなおっさんに結婚しろと言われても、誰だって嫌だと言うに決まってる。そんな条件を受け入れてしまう程、彼女は窮地に陥っているんだろう。いきなり親が借金の保証人として三千万円を払わなきゃいけなくなった。そんな事言われたら誰だって驚く。そして、そんな大金を払ってくれると言う人間が現れたら、いくら怪しい奴でもちょっとは期待してしまうのかもしれない。俺がもし彼女の立場だったら、それこそ何でもやったと思う。それにしても……どうして俺、あの時水商売とか言っちゃったんだろ。あの子が怒るのも当然か。でも、あのままだと本気で、彼女は金を稼ぐために自分を犠牲にしそうだった。結果的にはあれで良かったのかな』
 そこに書かれていたのは、料亭で二人が初めて会った日の事だった。
『今日、彼女が俺の家に越してきた。まだ緊張しているようだが、少しでも早くリラックスして過ごして欲しい。今日から結婚生活がスタートすると共に、俺の部屋から出ない生活もスタートする。誠司には、今まで以上に迷惑掛ける事になるだろうな。この前結婚した事話したら、散々馬鹿だ阿呆だって罵られた。いいんだよ、どうせこれは俺の自己満足なんだから。出来るだけ彼女と接触はしない、迷惑はもちろん掛けない。彼女がこの生活に嫌そうな素振りを見せたら、すぐに離婚する。……改めて文字にすると、何気にダメージがくるな。でも決めた事だからいいんだ。もう離婚届も貰ってきてるし』
 響子が引っ越してきた日の日記を読むと、彼女にとって衝撃的な言葉がたくさん目につく。そして、衝撃と共に疑問が次々とうまれるのを感じた。
 あのマンションで生活し始めた当初、自分一人しか居ないと錯覚しそうになる程、家の中に生活感を感じなかった。日記を読む限り、あの時大樹は外出していたのでは無く、家の中に居たという事なのだろうか。
 出来るだけ接触はしない。離婚届はもう貰ってきている。たくさんの疑問を感じながらも、響子は再び、あまり綺麗とは言い難い文字で書かれた文章に目を落とす。
『今朝、響子ちゃんが出勤した時間を見計らい、いつも通り、ある物を適当に食べようとキッチンへ向かった。その途中に通ったダイニングのテーブルの上に、ラップがかけられた皿が置いてあった。書置きまであった。手に持った皿の中にあるスクランブルエッグと、メモに書かれた文字を何度も見て、三回くらい自分のほっぺた抓ったけどやっぱり痛くて……。俺、凄い感動してたのに、誠司のやつ……なんてタイミングで電話掛けてくるんだ。空気読め、あの野郎』
「……これっ!」
 響子は、ノートの隅に貼られたある物を目にし、驚きのあまり目を見開いた。そこにあったのは、自分が大樹に宛てて書いたメモ。その後のページをパラパラ捲ってみると、他にも自分が書いたメモが貼られている。
 いつの間にか無くなっていたメモ。てっきり大樹が自分の部屋のごみ箱にでも捨てたのかと思っていたが、まさかこんな所で見つかるなど、彼女はまったく想像していなかった。
 その後、大樹が書く日記には、毎回響子が書いたメモが綺麗に貼られていた。そして、メモの余白には、まるで妻の手紙に返事を書くように、その日の料理の感想が一言添えられていた。
『誠司にこのノート見られたくないな。絶対気持ち悪いって言われそう。自分でも、ちょっとやり過ぎかなって思うけど……嬉しいんだから仕方ない』
 妻の書置きのメモを日記に貼るという自分の行動を、大樹自身もどうかと思っている様子だ。その事実に、響子は呆れながらも苦笑するしかなかった。



『響子ちゃんがどこかへ出掛ける様子だったので、日頃の運動不足解消のために、俺も久しぶりに少し遠くへ行ってみようと出掛けてた。本当に、出掛けて良かった。電車に乗って良かった。俺が乗った電車の車両に偶然彼女も乗った事に気付いて、偶然って凄いなーなんて感心してたら……あのおっさん、響子ちゃんのお尻触りやがった。俺だってまだ触った事無いのに! ……一生触る事なんて出来ないだろうけど。自分で彼女には接触しないって決めてたけど、今回の事は仕方ない。咄嗟に助けちゃったし……助けなきゃ駄目でしょ、男として。響子ちゃん、凄い泣いてたな。そりゃ怖かったよね。あのおっさん、うちの会社の社員だったら、職権乱用でも何でもしてクビにしてやりたいくらいだったし。痴漢したって事は、勤め先にもバレるだろうし……最悪職失うか……大丈夫だとしても会社での立場最悪だろうな、あのおっさん。あの場で殴りたいの必死に我慢したんだから、そのくらいじゃないと困る。響子ちゃん、ちゃんと眠れるかな。泣いてた時、抱きしめて大丈夫だよって声掛けたかったけど……流石にそれは出来なかった。あんな事があった後だし、好きでも無い男にそんな事言われても、困っちゃうだけだろうし。今日の事は最悪だったけど……少しだけ、響子ちゃんとの距離が縮まった気がする。そこの所は、あのおっさんに感謝だな。でもやっぱりお尻触ったのは許せない』
「……どれだけ根に持ってるのよ」
 電車内で痴漢に遭った日の日記を読み、この場に居ない大樹の顔を思い浮かべながら、恥ずかしさに頬を染める響子。この場に彼が居たら、間違いなく平手打ちをしていただろう。恥ずかしさと怒りの入り交じった感情に、頬を膨らませながら、日記のページをめくった。
 その後も、毎日のように大樹は日記を書いていた。一ページ以上書いている日もあれば、数行で終わってしまう日もある。しかし、彼は一日も休まず日記を書き続けていた。
「…………」
 一冊分の日記をすべて読み終えた頃には、既に深夜になっていた。響子はノートをテーブルの上に置くと、座っていた椅子から立ち上がり部屋の窓へ近付く。
 日記に綴られた言葉からは、いつも大樹の優しさが溢れていた。いつも響子の事を心配している記述があり、どれだけ彼が自分を大切にしてくれていたかが伝わってきた。
 あんなに優しくしてもらっていたのに、自分は大樹を裏切ってしまった。あんなに優しくされていたのに、自分は大樹に何も返せていない。
 閉めていたカーテンを開けると、そこには夜中だというのに都会特有の明るさがあった。少しばかり遠くに光るネオンの色鮮やかな光に、響子はわずかに目を細める。
 しばらくの間、自分が宿泊しているホテルの部屋から見える景色を、彼女は黙って見つめていた。
 未だに自分の中に残っている浅生大樹という男に対する様々な感情に、響子はホテルの部屋で一人物思いにふけった。



 それから数日、響子はもうミスをしないように、仕事中はいつも以上に集中するよう心掛けた。
 周囲の状況をよく確認し、自分が作成した書類は、印刷する前に何度もミスが無いかをチェックする。まるで入社したての新人のような念の入れっぷりだ。
 仕事に集中した方が余計な事は考えないで済むと、響子は自ら率先して雑用でも何でもこなした。
「水越さん、最近凄い頑張ってるよね。どうしたの?」
「あはは……この前、私色々ミスしちゃったから、少しでも頑張って皆の役に立てればって」
「あんなミス気にしなくても大丈夫って言ったじゃない。それに、もう十分挽回してると思うよ。それじゃ、お疲れ様」
「お疲れ様」
 一日の仕事を終え、声を掛けてきた同僚の女性社員の問いかけに響子は苦笑しながら答えた。先に更衣室へ向かう彼女を見送り、自分も着替えをして帰ろうと椅子から立ち上がる。
 そろそろ本気で新居探しをしなくてはいけない。明日は丁度土曜日で会社は休みだし、不動産屋巡りでもしてみようか。
 その前に、つい大樹の部屋からこっそり持ち出してしまったノートはどうするべきかも問題だ。
 いくらあの部屋が散らかっていたからと言っても、このままでは絶対ノートが無いと大樹に気付かれてしまう。また彼の居ない時を見計らって、こっそりと部屋に入りノートを置いてきてしまおうか。
「んー……ん?」
 今後に関する問題が山積みだ。まずはどれから片付けようかと悩みながら、響子はデスクの上に置きっぱなしだった携帯電話へ視線を向ける。すると、ランプが光っている事に気付き、慌ててそれを手に取った。
「え……」
 どうせまた、自分が会員登録をしているサイトのダイレクトメールだろう。そんな気持ちで、受信フォルダにあった未開封メールを開いた彼女の目に飛び込んできたのは、意外な人物からのメールだった。
 新しく受信したそのメールのタイトルには、『水越響子様』と、自分の名前が書かれていた。
『御無沙汰しています。あれから、体調などお変りありませんでしょうか。先日、社内全フロアの掲示板にて告知した人事に関する通知を、きっと貴女も御覧になった事でしょう。貴女と同じ会社で働いていたという事実を、今まで黙っていて申し訳ありませんでした。それだけではありません。他にも、私はまだ貴女に話していない事がたくさんあります。このまま嘘を吐き続けるわけにはいきません。今私が貴女に対し隠している事を、全て包み隠さず話したいと思っています。もしお話を聞いて頂けると言うのなら、今夜、白桜亭にお越し頂けないでしょうか。本当は、もっと早くお話したいと思っていたのですが、仕事が忙しく、ようやく今日一段落したため、メールをお送りました。突然このようなメールを送り、貴女を困らせてしまって申し訳ありません。もし叶うというのなら、貴女の顔を見てすべてを話したいと思っています』
 畏まった文面の最後には、『浅生大樹』とメールの送り主の名前が書かれていた。
 大樹から送られてきたメールは、一言で言ってしまえば彼らしくないメールという印象を受ける。自分が接した浅生大樹という男は、こんな畏まったメールを送るような人物だとは到底思えない。
 しかし、彼女の中で、メールの差出人は大樹本人からだと考える以外選択肢は無かった。それは、メールの差出人が今夜来て欲しいと指定してきた場所。その場所は、二人が出会ったあの料亭に間違いない。
 隠している事をすべて話すから会って欲しい。そうメールで伝えてきた大樹の想いを、響子は即座に受け入れる事が出来なかった。
 未だ自分の中で大樹に関する謎が多い事は事実だ。その謎について、すべて彼が説明してくれると言うのなら、正直聞きたいという気持ちが強い。
 大樹とあんな別れ方をしてしまったが故に、どんな顔をして彼に会いに行けばいいのか分からない。そんな感情が彼女の判断を邪魔する。
 それに、たった今読んだこのメールが、二人の距離を更に遠いものにしている。そんな気がした。
「……まだ、何かある?」
 その時、響子は、大樹から送られてきたメールが、まだ続いている事に気付いた。一体どんな内容が書かれているのか。緊張で震える指を動かすと、まだ続きがあると思っていた部分は空白ばかりだった。
 もしかしたら、自分の勘違いだったのだろうか。そう思った時、その一文は突然彼女の視界に飛び込んできた。
「……慣れない事しなくていいのに」
 視界に入った一文の内容を理解した瞬間、響子は思わず笑いそうになるのを堪えながら小さく呟く。
 畏まった文章のずっと下にあった一文。そこには、『敬語って難しい』という言葉と、その横に困り顔の顔文字が添えられていた。
「よし、行こう」
 今まで迷いに迷っていた響子の心は、最後の一文を見た瞬間決まった。
 やはり大樹に会おう。未だ不安は消えないし、正直彼に会うのも怖い。しかし、この大樹からの誘いを無視したら、一生その事を後悔しそうな気がする。
 何故あの時行かなかったのかと後悔するよりは、どんな事が待ち受けていようと行った方がいいに決まってる。
 響子は再度、メールが表示されている携帯電話の画面へ視線を向けると、『敬語って難しい』と書かれたあの部分を見つめた。
『響子ちゃん、大好きだよ』
 思い出すのは大好きな人の笑顔。大丈夫だ。私が知っている大樹さんが居なくなったわけじゃない。
 彼女は心の中で、何度もそう自分に言い聞かせながら、メール画面が表示されたままの携帯電話を握りしめ、自分の荷物を持ち更衣室へ向かった。
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