契約書は婚姻届

34.立ち入り禁止の部屋

 元夫、そして元夫の親友が、自分が働いている会社の代表者達と知った響子は、未だにその現実を信じられずにいた。
「……響子は、知ってたの?」
「ううん……知らなかった」
 やっと午前中の仕事を終えた響子は、志保に連れられ彼女が乗ってきた車へ二人で乗り込んだ。そのまま、他に人気がほとんど無い駐車場でお昼を食べている。
 志保は確信していた。自分達二人の昼食時の話題は、間違い無く今朝掲示板に貼られていた通知内容だと。そして、彼女は仕事をしながら、絶対に人気の無い場所で昼食を食べようと決めた。
 自分も、もちろん響子も気になっている事は、会社の外で食事をしようと、社員食堂で食事をしようと、人目の多い場所でするには危険すぎる話題だ。
 あまり人目につかず、二人っきりで話しながら食事が出来る場所。どこかにそんな場所は無いかと悩んだ結果、志保は自分の車の車内がピッタリだと気付く。
 そして昼休みに入った瞬間、響子を強引に引っ張り、急いで自分の車へ連れてきた。
 少々窮屈ではあるが、彼女の判断は正しかったと言えるだろう。車の中という密室状況なら、二人っきりで内緒話をするにはもってこいの場所だ。
 志保の問い掛けに、響子は首を横に振り、今朝出社前にコンビニで買ったおにぎりを一口頬張る。
 知るはずなど無い。もし知っていたとしたら、こんなに驚かなくて良かったのに。
 驚きは確かに感じているが、浅生大樹という男の立場を知り、これまで自分の周囲で起こった事に納得出来る部分も出てくる。そう彼女は思った。
「前からお金持ちなんだなーとは思ってたけど……まさか、元々はここの重役で、来月からは副社長になる人だなんて。そりゃお金あるよねー」
 隣で自作の弁当を食べる友人の言葉に、響子はこくりと頷く。
 今彼女達が納得している事は二つあった。
 一つは、響子の両親が背負ってしまった三千万円という借金を、大樹があっさり肩代わりし返済してくれた事。そしてもう一つは、彼の自宅が高級マンションという事だ。
「はっ! ……私、遊びに行った時に凄い失礼な事言っちゃったかな? 後で怒られたりしないかな?」
 過去に自分が浅生家を訪れた時の事を思い出したのか、志保は突然落ち着きを無くし、慌てた様子で響子の顔を見つめる。
 まだ大樹の正体を知らない時に、自分は何か失礼な事をしてしまったのかと不安に思っている様だ。
 そんな彼女を苦笑しつつも、大丈夫だよ、と落ち着かせながら、響子は頭の片隅でずっと考え込んでいた。
 何故彼は、自分の仕事に関する事を隠していたのか。何故両親の借金を返してくれたのか。そもそも、交換条件のようなものとは言え、何故あの人は自分と結婚したのだろうか。
 次々に湧き上がる疑問の答えなど、響子がいくら考えても見つかる事は無かった。



 一日の仕事をどうにか無事に終えた響子は、急いで自分が宿泊しているホテルへ車を走らせた。
 そして出勤時の服装より少しカジュアルな服に着替えを済ませ、フロントでタクシーを呼んでもらい再び外へ飛び出す。
 それからすぐ、響子を迎えに来たタクシーは、彼女が告げた行先へ向かい走り出した。
 目的地に着くまでの間、タクシーの後部座席に座り、少しずつ暗くなり始めた窓の外を眺めながら、響子は浅生大樹という男に関し自問自答を繰り返した。
 ホテルを出てから二十分程経過した頃、彼女を乗せたタクシーはようやく目的地に到着した。彼女は運転手にお金を払い、唯一の荷物であるバックを手に取りタクシーを降りる。
「…………」
 去っていくタクシーの後ろ姿を見送った響子は、くるりと体の向きを変え、自分の目の前にある建物を見上げた。視線の先にあるのは、少し前まで自分が毎日居た場所。
「ふー。……よしっ」
 大きく息を吐き、自分の中に溜まっているものを全て出し切る。そのまま、よし、と声を出し自らに気合を入れた。
 ドクドクと激しく鼓動する心臓の音を感じながら、響子は目の前にある建物の中へゆっくり足を踏み入れた。
「……水越様」
 少し前まで自分が住んでいたマンション。そのエントランスに足を踏み入れた響子を出迎えたのは、コンシェルジュの橋本と工藤だった。彼女の姿を見た瞬間、工藤は思わずその名を口にする。
 橋本は、響子の姿を目にしても何も言わず、優しい笑みを浮かべ小さく頭を下げた。
「……お久しぶりです」
 そんな二人の様子に、響子は挨拶をしペコリと頭を下げる事しか出来なかった。
 思い返せば、自分がこのマンションを出て行く時、必要最低限の荷物とは言え、キャリーケースと大きなバッグを手にしていた。その姿は、明らかに違和感があっただろう。
『水越様、どこかにご旅行でも?』
『……あ、はい。ちょっと』
 あの時、エントランスに居たコンシェルジュは美沙と西島だった。響子の姿を見た美沙は、彼女が旅行に行くと思ったらしい。そんなコンシェルジュの問いかけに、響子は曖昧な答えを返す事しか出来なかった。
 久しぶりにマンションを訪れ、目の前に居る橋本と工藤の態度を見た彼女は、心の中でやっぱりか、と苦笑する。
 あんな大荷物と曖昧な態度で出て行き、何日もここへ戻ってこなかった。そんな人物が、コンシェルジュ達の間で噂にならない訳無いだろう。
 響子が何故ここしばらくマンションに帰って来なかったのか。彼女が感じた通り、詳しい事情は知らずとも、何か訳があるのだと橋本達は理解していた。
「あの……大樹さんは」
「浅生様はまだお仕事のようで……お戻りにはなっていませんが」
 橋本の傍へやってきた響子は、彼に大樹の居場所について尋ねる。彼女の質問に、橋本はいつもと変わらぬ態度で、まだ大樹が帰宅していないと教えてくれた。
「そうですか。有難うございます。ちょっと……忘れ物しちゃって、取りに行ってきます」
「はい、わかりました」
 橋本は、響子の言葉に何も言い返さず、一度だけ大きく頷いてくれる。
 忘れ物を取りに行くなど、半分は嘘のようなものだ。実際、あの部屋に残っている私物を取りに行きたいと思ってはいるものの、今日ここに来た目的はそうでは無い。
 響子は、浅生大樹という男について何か知る事が出来ないかと、マンションへやってきた。
 自分より、まして大樹より年上の橋本は、きっと自分の嘘などすぐに見破っているはず。しかし、それでも何も言わずにいる彼の優しさに、響子は心の中で感謝し、一人エレベーターへ乗り込んだ。



 少し前まで自分が住んでいた場所。目の前にあるドアを開けば、自分はその空間へ足を踏み入れる。
 妙な緊張に震える手にグッと力を入れ、響子は、大樹から渡されていた合鍵を使いドアを開ける。カチリと鍵の開く音が聞こえた瞬間、彼女は少しばかり安堵した。
 先程、橋本から大樹はまだ帰宅していないと聞いた。それでも、あの人ともし鉢合わせてしまったらと思うと、心臓の鼓動がどんどん速くなっていく。
「……お邪魔、します」
 響子は、小さな声を発しながら、こっそり家の中へ足を踏み入れる。玄関に靴が一足も出ていない状況を見ると、本当にまだ大樹は帰ってきていない様だ。
 家の中に入り、急いで靴を脱ぐと、彼女は出来るだけ足音を立てないように廊下を進んだ。誰も居ないと分かっていても、コソコソ行動してしまうのは、今の行動に後ろめたさがあるからだろうか。
 今日ここに来た目的は、自分の知らない事実を、浅生大樹という男を知るためだ。本当なら、大樹本人に会って、直接話を聞くのが一番なのだろう。
 しかし、あんな別れ方をしてしまった手前、どんな顔をして会えば良いのかわからない。実際彼の顔を目の前にしたら、自分がどんな行動を取るか、響子本人にも予測出来そうに無い。
 こうなったら、あの人に会わず、何か手掛かりになりそうな物でも見つかればいい。家の中を歩き回る間、響子の目標はどんどん小さくなっていった。
「残ってるのは……ここだけ、か」
 一通り家の中を見て回ったが、知りたいと思っている事の手掛かりは一切見つからなかった。
 しかし、まだ一箇所だけ調べていない場所がある。それは、マンションに越してきた日、大樹から入るなと言われたあの部屋だ。
『この部屋には入らないようにしてほしいんだ。他の場所はどこでも使っていいし入っていいけど、ここだけは遠慮して欲しい』
 あの日以来、彼の言いつけを守り近付かなかった部屋。大樹の自室のようなものだと考え、今まで避け続けていた場所だが、もしかしたらこの部屋に、自分の求めている答えがあるのでは無いだろうか。
「……大樹さん、ごめんなさい」
 のんびりしていれば、あの人が帰ってきてしまうかもしれない。響子は一度その場で大きく深呼吸をし、この場に居ない人物へ謝りながら、掴んだドアノブを回す。
 あれだけ入るなと念押ししていたくらいだ。もしかしたら、鍵が掛かっているかもしれない。しかし、そんな彼女の予想を裏切るように、次の瞬間、あっさりと目の前のドアは開いた。
「う、わぁ……」
 ドアを開き、恐る恐る初めて目にする室内へ足を踏み入れる。そして響子は、目の前に広がる光景に、驚きのあまり数秒言葉を失った。
 それは、初めて入る浅生大樹という男のプライベートな空間に驚いたからでは無い。もっと純粋に、目の前の光景に直感的な驚きを感じたからである。
「き、汚い……」
 初めて足を踏み入れた部屋の中は、想像以上の散らかり様だった。
 室内の一番奥にある壁一面には大きな本棚が並び、ドアのすぐ横のスペースには仕事用と思われる机と椅子。そして、その反対側には、折り畳まれた簡易ベッドが壁に立てかけてあった。
 それ以外に大きなものは無い。どちらかと言えばシンプルな印象の室内だ。しかし、そんな印象を響子が素直に感じる事は無かった。
 彼女の目が最初に行ったのは、床のあらゆる場所に積み上げられるように置かれた大量の本。そして、所々床の上に置かれた、いや放り投げられたと思われる紙の束。
 そんな目の前の現状に、もう少しでこの部屋には足の踏み場も無くなるかもしれないと、彼女は感じていた。
 視線を床から机の上へ向ければ、そこは更に酷い状態だった。開きっぱなしの本や、これまた資料や書類と思わしき紙束の数々。そして、それらに埋もれるようにノートパソコンの一部が、自分はここにいると主張していた。
 思わず片付けたいという衝動を感じながらも、そこはグッと我慢する。
 そんな事をしては、自分が部屋に入った事がバレてしまう。必死に心を落ち着かせ、響子は床の上に散らばった物を踏みつけないように、慎重な足取りで室内に入っていく。
 部屋の奥にある壁一面の黒い本棚には、様々なジャンルの本が並んでいた。
 タイトルを見ただけで頭を抱えそうになる本もいくつかあり、本当にあの人がこんな本を読んでいるんだろうか、と疑問しか湧いてこない。
「やっぱり、漫画好きなんだ」
 そんな本棚の約半分のスペースを占領している漫画本の多さに驚きつつ、次は一番情報がありそうな机の上を探すため、響子はくるりと体の向きを変えた。そして、床の上に散らばる物を踏まないよう、再び慎重に移動を始める。
「……これも資料。これはメモ……うーん」
 机の上に散乱した物を出来るだけ動かさず、あまり内容を見ないで手掛かりを探すというのは、想像以上に難しかった。
 いつ大樹が帰ってくるかわからないこの状況。一刻も早くこの場から立ち去った方が良いだろう。
 実際に彼の部屋を捜索しても、何が自分の知りたい情報の手掛かりになるのかすら分からない状況だ。今日の所は諦めて、また何か別の方法を考えた方がいいのかもしれない。
「……ん? 何だろ、これ」
 そう思った時、自分の手がこれまで触れていた本や紙とは違う何かに触れた事に彼女は気付いた。数秒悩んだ後、彼女は自分の触れている物をしっかり掴み、目の前に掲げる。
「ノート? 違う……これ、日記なんだ」
 それはどこにでも売っている一冊のノートだった。表紙に大樹が書いたであろう『Diary』の文字が目に入る。そして、表紙の下部には日付が書かれていた。
「この日付は……あの日の……」
 表紙に書かれた日付は、響子達が料亭で初めて会った日を示している。どうやらあの日から大樹は日記を書いているらしい。
 自分と出会った日から書かれた日記帳。何の変哲も無いノートを使ったそれに、何故か響子の心は強く惹かれた。
 お世辞にも上手とは言い難い字で書かれた表紙を何度も撫でる。この日記帳に惹かれる自分が確かに居る。しかし、その理由は何故か響子にも分からない。
「……っ!?」
 その時、突然彼女の耳に、バッグの中に入れていた携帯電話の着信音が聞こえた。音はそれ程大きくなかったが、他に物音のしない室内で聞こえた音に、響子は驚きのあまり肩を震わせる。
 慌ててバッグの中から携帯電話を取り出し確認すれば、それはレンタルビデオショップからのダイレクトメールだった。
「……はぁ、脅かさないでよ」
 携帯電話とノートを手に持ったまま、彼女は大きな溜息を吐く。再度携帯電話を開き、現在の時間を確認すれば、既にこの家に来て十五分近くが経過していた。流石にそろそろ帰った方がいいだろう。
「…………」
 急いで部屋を出ようとした響子は、自身が手に持ったままのノートの存在を思い出した。そして彼女は、迷いながらも、そっとそれを自分が持っていたバッグの中へ仕舞った。



「お帰りなさいませ、浅生様」
「お帰りなさいませ」
 仕事を終え帰宅した大樹を、コンシェルジュである橋本と工藤が出迎える。
「あぁ、二人共お疲れ様。そろそろ終わりの時間だっけ?」
「はい、あともう少しで私達の勤務時間は終わりでございます」
 凝り固まった肩をぐるぐると回しながら、橋本に話しかける大樹。そんな彼の問いに、橋本は嫌な顔一つせず丁寧に返答した。
「そっかそっか。二人共、今日も一日ご苦労様。帰ったらゆっくり休んでね」
 コンシェルジュ達が元気な事を確認し満足したのか、大樹は二人にまたね、と手を振りエレベーターへ向かい歩き出す。
「浅生様っ!」
 大樹が、数歩歩みを進めた時、突然工藤が大樹の名前を呼んだ。
「んー? どしたの、豊君」
 突然自分の名前を呼ばれた事に不思議そうな顔をしながら、大樹は一旦足を止め工藤の方を振り返る。
「あ、えっと……きょ、今日九時からやる二時間サスペンスがあるんですけど。あのシリーズ凄い面白いので、もしお時間があったらぜひ見てみてください」
「へー、そうなんだ。ありがとう、それじゃ豊君のおすすめを見るために、今日は早めに風呂に入る事にするよ」
 テレビ番組の情報を教えてくれた工藤に礼を言い、再度コンシェルジュ二人に手を振ると、大樹はそのままエレベーターに乗り込んだ。
「……豊君、よく我慢しましたね。まぁ……誤魔化し方が少々無理矢理な気もしましたが、なんとかなったでしょう」
 大樹が乗ったエレベーターが上の階へ移動し始めたのを確認し、橋本は視線をエレベーターへ向けたまま、自分の隣に立つ工藤へ声を掛ける。
「う……すみません。でも……橋本さんだって、本当は水越様が来たって言いたかったですよね?」
「そう、ですねー。ですが……これが水越様の願いですから」
『今日私がここに来た事、大樹さんに言わないでもらえますか? お願いします!』
 響子がマンションを去る直前、彼女から頭を下げられた事を二人は思い出す。
 先程、彼女がここを訪ねてきたと言いそうになった工藤だったが、必死に頼み込む響子の姿を思い出し、結局大樹には何も言えなかった。
「住人の皆さんの個人的な問題に、私達が口出しする事は出来ませんから。しかし……早くお二人には、前みたいに笑ってもらいたいですね。もう少しタイミングが合えば、お会いする事が出来たでしょうに」
 そう呟く橋本は、エレベーターを見つめていた視線を、そのままマンション入り口へ向ける。
 もう少し響子の帰る時間が遅かったら。もう少し大樹が早く帰ってきたら。既に叶う事の無い願いを心の中で呟き、橋本は小さく息を吐いた。
 響子がマンションを去ってから五分後に帰宅した大樹。これは神様の悪戯なのかもしれない。仕事が終わるまでの間、橋本も工藤も、言葉には出さずとも心の中で考える事は同じだった。
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